幼い少年
〈引き続きロシェリート視点〉
このお屋敷は自宅に比べるとぐっと小さいし、1階の調理場から2階の執務室までもそこまで遠くないのに、なんだかすごく遠いような気がしてしまう。
クッキーの甘い匂いが体に染み付いているのか、僕が動くたびに甘い匂いがする。
僕は甘ったるい匂いを纏ったまま、ドキドキする心臓を堪えて執務室の扉をノックした。
返事は戻らないとわかっているので、ゆっくり3つ数えてから僕は「失礼します」と断って扉を開ける。
執務机に座っているアル様が顔を上げる。
青い瞳が僕を見た。
「アル様、あの、お茶をお持ちしました。良ければクッキーも一緒に……いかがですか?」
僕の言葉はちょっとだけ情けなく震えてしまったけど、アル様はこくりと頷いてくれた。
よかった……。
少なくとも食べてはもらえそうだ。
アル様が立ち上がってこちらに歩いてくる。
どうやら執務机じゃなくて応接セットで食べるつもりのようだ。
食事ですら執務机で済ませがちなアル様が、珍しいなと思う。
僕は毒味も兼ねて調理場で食べてしまうし、侍女のレナさんも自室で食べるので、このお屋敷の食堂は、誰にも使われていないんだよね。
僕は毒味が済んでいる事を伝えて、トレイをソファ前のテーブルに下ろすとお茶を淹れる。
アル様の前にソーサーに乗ったカップを出すと、こくりと頷かれた。
アル様は僕が食事を出したり、書類を手渡したりすると、こうやって小さく頷いてくれる。
これは軽いお礼のようなものなのかな、と僕は解釈していた。
アル様の前に、僕が何度も並べ直したクッキーを出す。
一応、一番美しくなるように盛ったつもりなんだけど……どうだろうか。
僕は今回散々並べ方に悩んだので、今度から、クッキーを出されたらどう盛られているのかよく見ておこうと思ったりした。
横に控えていると、お茶をひとくち飲んだアル様の手がクッキーに伸びる。
いよいよ……。
僕の作っ……いや、リツマが作って僕が並べたクッキーが……っ。
アル様はクッキーを手に取ると、丸いクッキーの裏表を眺めてから口に入れた。
リツマの作ったクッキーは全部丸くて平たい。
僕はクッキーといえば色んな形があるイメージだったんだけど、リツマは「悪ぃな、抜き型が見つかんなかったから全部丸にしちまった。どっかもっと探せばありそーな気がすんだけどな」と言っていた。
だから、もしアル様が喜んでくださったら、僕はリツマの言う抜き型というものを調理場で探してみようと思う。
サクサクと良い音がアル様の口から聞こえる。
アル様はいつもと変わらない無表情のままでひとつ瞬いて、クッキーをもうひとつ口に入れた。
そのまま、3つ、4つとクッキーが次々に消えてゆく。
5つ目に手を伸ばしかけて、口が渇いたのかお茶を飲んだアル様が、ようやく僕を見上げる。
「お口に……合うでしょうか……?」
ドキドキしながら尋ねると、アル様は無表情のままこくこくこくと3度頷いた。
これは初めての反応だ。
とっても美味しかったと受け取っていいんだろうか。
そっか……喜んで、もらえたんだ……っ。
求めていた結果に、全身が歓喜に震えてしまう。
「よかったです……っ」
嬉しくて満面の笑顔になってしまった僕を見て、アル様がひとつ瞬いた。
顔色の変わらないアル様の、金髪に隠れがちな耳がチラリと見える。
それがなぜか真っ赤に見えた気がして、僕は思わず目を擦った。
***〈アルシオン視点〉
ロシェが庭でルイエクリスという花の名を口にしたあの時、ずっと昔に一度だけ言葉を交わした幼い少年が彼だったのだと気付いた。
あの日は私の7歳の誕生会を兼ねた披露会で、私と年の近い貴族の子ども達は顔見せという形で全員集められていた。
庭園での立食パーティーは子ども達には長すぎたが、大人達はまだ誰もが話に夢中だった。
そんな中で、集まった子達の中でもひときわ小柄な少年が庭の隅に蹲っているのを見つけた私は、具合でも悪いのかと思わず駆け寄った。
「どうした、具合が悪いのか?」
尋ねた私にその子はふわふわとしたプラチナブロンドを揺らして言った。
こちらを見る事もなく。
「青いお花があったのです、とっても綺麗です」
なんだ、花を見ていただけか、心配をして損をした。
父のところへ戻ろうとした私に、鈴の鳴るような高い声が問いかける。
「このお花は何という名前なのでしょうか……」
それは、ともすれば独り言だったのかもしれない。
だが、私はその答えを知っていた、だから答えただけだった。
「それはルイエクリスという花だ」
「ルイエクリス……わぁ……名前までも美しいのですね……。ルイエクリス、ルイエクリス、ルイエクリス……うん。覚えました」
噛み締めるように口にして、心に刻むように唱えたその声があまりに愛らしくて、私は思わず彼の服装をもう一度確認する。
ドレスではない。どう見ても男子の礼装だ。
なのに、舌ったらずな甘い声はそこらで大人に負けじと扇子を振りかざす少女よりもずっと少女めいて聞こえた。
「お前は花が好きなのか?」
「はいっ、……ぁ、ちがい、ます……」
元気に答えた明るい声が、一瞬で小さく萎んでしまう。
その理由は自分にも十分理解できた。
私も美しい草花は好きだ。
だが、王子であるならばそう答えるべきではないと理解している。
私よりもずっと幼く見えるこの子も、貴族子息としてそれを意識したのだろう。
私は周囲に人がいない事を確認すると、背を丸めたままのその子の耳元でそっと囁いた。
「これは秘密なんだが……私も本当は花が好きだ」
好きだと言う事は出来なくても、好きだと思う事は自由だと、この幼い子に教えてやりたかった。
「ぇっ」
小さく肩を揺らして、少年が初めて振り返る。
こちらを見上げた瞳は大きく輝いていて、ほんのりと上気した頬がたまらなく可愛かった。
どこの家の子だろうか。
思わずそんな事を考えてしまう。
白金の瞳に白金の髪だなんて、まるで絵画の中の天使のようだ。
思わず彼に見惚れていると、まだあどけない小さな唇が、私の目の前で柔らかな弧を描いた。
「わぁ、お兄さんのおめめの色は、ルイエクリスと同じ色なんですね」
これまで私の顔など見ていなかったと言わんばかりの言葉につい苦笑してしまう。
この子は今まで、誰かもわからない私と話をしていたのか。
「教えてくれてありがとうございます、お兄さん」
さらには、私の顔を見てもピンと来ていないようだ。
これは、先程の披露の場でもこの子は何か他の物に気を取られてよそ見をしていたに違いないな。
ふわりと笑った笑顔がとても可愛い子だと思った。
名前を聞こうとした途端「おいノロマ早く来い、置いて帰られたいのか」と棘のある言葉が耳に入った。
途端、目の前の少年はビクリと肩を跳ねさせて、私に頭を下げて駆け去ってしまった。
視線で追えば、声をかけてきたのは彼の兄のようだ。
義兄弟だろうかと思うほどに、意地の悪そうな少年の横顔は、天使のような彼とは似ていない気がした。
……名を聞きそびれてしまったな。
まあいい、歳の近い貴族同士ならば、この先の茶会で会う事もあるだろう。
けれど、彼の姿はそれ以降、一度も見る事はなかった。
第二王子とは言え、披露会を終えた私には兄を支えるための基礎教育が山のように待ち構えていた。
目が回るほどの忙しさの中で、特別何かを話したわけでもないその少年の事は、いつの間にか思い出さなくなっていた。
……だが、人というのは案外、印象的な出来事をいつまでも覚えているものなんだな。




