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数日後、画材を買い足すために駅前へ出た。逃げ込むように駅ビルの書店へ入ると、冷えた空気が火照った身体を包む。美術書のコーナーへ向かおうと通路を歩いていたとき、平台に積まれた女性誌の束が視界の端を掠めた。
『今季大ブレイク女優 成瀬雫』
見出しを認識するより先に、足が止まっていた。壊れ物を扱うみたいに、そっとその雑誌を手に取る。レジへ持っていくことはどうしてもできなくて、戻した。別の本を見るふりをして数分をやり過ごし、周りに人がいないことを確認してから、もう一度手に取る。
中盤に特集が組まれていた。誌面には、僕の知らない「成瀬雫」の言葉が行儀よく並んでいる。
『最近お気に入りの場所は?』
──昔ながらの喫茶店。静かなところが好きです。
その一文を読んだ瞬間、記憶の蓋が開いた。背伸びをして頼んだブラックコーヒーの苦さに撃沈していた彼女。青いラムネフロート。伝票を取って歩いていった背中。そして、そんな個人的な記憶を全国誌のインタビューと勝手に結びつけたことを、すぐに後悔した。
別の喫茶店かもしれないのに。別の誰かと行っているかもしれないのに。ふと、一つの質問に目が止まった。
『最近、ハマっていることは?』
──和歌です。古典の授業で見て、素敵だなって思ってハマりました。恋愛漫画より好きです。
『一番好きな和歌は?』
──小野小町の詠んだ、「思ひつつ 寝ればや人の 見えつらむ 夢と知りせば 覚めざらましを」です!
古典の授業で見た、と言っている。彼女も同じ高校の生徒だ。同じ時期に、同じ教科書でその歌に触れたはずだった。家に帰って、机の上に投げ出したままの古典の教科書をめくった。あった。線も引かれていないページの隅に、その歌は載っている。思ひつつ 寝ればや人の 見えつらむ 夢と知りせば 覚めざらましを脚注に訳がある。あの人のことを思いながら眠ったから、夢に出てきたのだろうか。夢だと知っていたなら、目を覚まさなかったのに。
訳を読んで、僕はしばらく動けなかった。六月に習った歌だ。あの頃、彼女は僕の隣に座って台本を読んでいた。同じ校舎の、別の教室で、同じページを開いていたはずだ。僕はその歌に、線一本引かなかった。彼女は、線を引いたのだろう。どういう気持ちで選んだのかを、僕は考えようとして、途中でやめた。
考えたところで、僕の解釈は僕に都合がいいものにしかならない。教科書を閉じて、机の端へ押しやった。結局、雑誌は買わなかった。買ったところで、そこにいるのは成瀬雫だ。僕が話したかったのは、そっちじゃない。
♢♢♢
夏休み最終日。あれほど鬱陶しかった蝉の声は、いつの間にか秋の虫のものへ変わりつつあった。夕暮れの自室。開け放った窓から、昼の熱をまだ僅かに孕んだ生ぬるい風が流れ込んでくる。机の上のスマホが震えた。美術部のグループだった。
『県コンクール、先生が部から一人出せって言ってます』
室井先輩からのメッセージに続いて、安田さんたちが次々とスタンプや短い言葉を投下していく。
『神崎しかいないじゃん』
『だね。神崎よろしく〜』
『頑張れ!次期部長!』
『私は受験生なので』
『先輩、受験勉強してるとこ見たことないです』
『心の中でしています』
通知が軽快な音を立てて増えていく。僕が選ばれることは最初から決まっていたようなものだ。それなのに、喜びもプレッシャーも湧いてこない。了解です、と打とうとして指が止まった。結局何も打ち込めないまま、返信欄を閉じる。部屋の壁際には、この夏に描いたキャンバスが立てかけてある。
橋。商店街。路地。全部、人のいない場所だ。どれを出しても、たぶん審査員は困らない。上手いですね、と言われて終わる。室井先輩も安田さんも誰かを描くだろう。二人とも、人を描く。僕には、その選択肢が最初からない。スマホをもう一度手に取った。
そのまま画面をスリープさせようとした指先が、また止まる。トーク一覧に、中原さんの名前がある。表示されている日付は、夏が始まる前のままだった。
『大丈夫だよ お疲れ』
最後に僕が送った言葉だ。彼女がファンに囲まれて、それが終わって、肩の力が抜けた、あの日のものだった。大丈夫だよ。何が大丈夫だったんだろう。あの日、彼女は駅ビルの日陰で、人が去った後に一人でつま先を見ていた。僕はそれを離れたところから見ていた。
こんなふうに距離が開くなんて、想像もしていなかった。いや、本当は少しずつ開いていくのに気づきながら、見ないふりをしていただけかもしれない。トークルームを開く勇気はなかった。今の僕から彼女にかける言葉なんて、何一つ見つからない。
明日から二学期が始まる。同じ校舎に、彼女がいる。それは救いのはずなのに、僕はその事実を、これから毎日確認しなければならないのだと思った。窓の外で、虫の音が一段高くなった。僕たちは同じ街にいるはずだ。それなのに、彼女はどうしようもなく遠い場所にいる。




