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「……神崎くんのことが好きです。私と、付き合ってください」
目の前に立っている女子生徒が、震える声でそう言った。
誰なのか、分からなかった。
目があるはずの場所も、鼻も、口も、黒く塗り潰されている。濡れた筆で一度だけ撫でたみたいに、そこだけが世界から抜け落ちていた。僕にとって、人の顔とはそういうものだ。
『放課後、校舎裏に来てください』
下駄箱に入っていたのは、それだけが書かれた紙切れだった。ノートを切り取ったらしい端がぎざぎざになっていて、薄い罫線の間に丁寧な字が並んでいる。何度も書き直したのか、線がところどころ震えていた。
名前は、書かれていない。
いたずらかもしれないとは思った。呼び出された先で笑いものにされる可能性だってある。それでも行かないという選択は、あの震えた線を踏みにじるようで取れなかった。
校舎裏には、大きな桜の木が一本あるだけだ。誰かがここで待ち合わせをしているところを、これまで見たことがない。地面には花びらが厚く積もっていて、踏むたびに湿った土の匂いが立った。
彼女はブレザーの裾を両手で握りしめている。紺色の生地に深い皺が寄っていた。
「神崎くんのこと、ずっと前から、気になってて」
ずっと前から。その時間がどこにあるのか、僕には見当がつかない。
声を探した。頭の中に溜めてある声を、片端から並べていく。教室で聞いた声。廊下ですれ違った声。部活の帰りに背中から聞こえた声。
どれとも合わなかった。合わないのに、どこかで一度だけ聞いた気がする。その一度がいつなのかを掴もうとすると、指の間からこぼれ落ちていった。
絵ばかり描いて人とあまり話さない僕にとって、初対面の相手はそれだけで苦手だ。何か返さなければいけないと頭では分かっているのに、言葉がぶつかり合ってまとまらない。「ありがとう」は喉まで来て砕けた。「少し待って」も、形にならないまま溶けた。
沈黙が長くなる。
「……あ、ごめん。名前」
彼女が慌てたように言った。
「言ってなかったよね。中原です。三組の、中原雫」
名乗られて、名前という手がかりだけが増えた。僕は僕にできることをする。声の高さを覚える。少し高い。背は僕の肩より少し下。ブレザーの袖から出ている手首が細い。髪は肩より下まである。そうやって集めたものを、頭の中で束ねていく。
束ねたところで、真ん中は空いたままだ。真ん中がなければ、束ねたものは一晩ももたない。明日にはまた、ばらばらになっている。
上を見ると、桜が風に揺れていた。枝の隙間から光と花びらがゆっくり落ちてくる。ひとひらが彼女の肩を掠めて地面に落ちる。それが土に触れるより先に、また次の欠片が落ちる。
顔があるはずの場所には何もない。だから僕は、その無意味な反復ばかりを目で追っていた。
「……迷惑、だったかな」
沈黙に耐えかねたのか、彼女の声に不安が滲んだ。違う。迷惑なんかじゃない。でも、正しい嬉しさの返し方も、傷つけない断り方も、僕は持ち合わせていない。
僕は一度だけ、顔があるはずの場所へ視線を上げた。何も見えないと分かっていて、それでも上げた。答えを急かすように、一際強い風が吹く。花びらが舞い上がって、視界が薄桃色に霞んだ。
「ごめん。……付き合えない」
言い終えた瞬間に分かった。これは正しい言葉ではなかった、と。
「……理由、聞いてもいい?」
言ってしまえば、気味悪がられるかもしれない。嘘をつけば、もっと傷つける。黙れば、それはそれで最低な男になる。
「その……中原さんのこと、あまり知らないからさ」
自分の声が、他人のもののように聞こえた。
「……そっか。そうだよね。いきなり、ごめんね」
華奢な肩が落ちるのが見えた。
「だから、友達から――」
言い終える前に、地面を蹴る乾いた音が響いた。一歩、二歩と足音が遠ざかる。スカートと黒髪が激しく揺れる。呼び止める言葉は肺の奥に張り付いたままで、伸ばしかけた手が空を切った。
追いかける勇気はなかった。残されたのは僕と、枝の揺れる音だけだ。足元では、踏まれて汚れた花びらが土に混ざっていく。
電車を一本、見送った。ホームのベンチに座って、線路の向こうの住宅街を眺める。屋根の勾配。電線の垂れ方。アンテナの傾き。数えられるものを数えているうちに、次の電車が来た。
家に着いたのは、いつもより遅い時間だった。玄関の鍵を回すと、中から換気扇の音がする。
「あら、おかえり。今日は遅かったのね」
台所から梓さんの声がした。まな板を叩く音が続いていた。ふと止まり、また始まる。
この家の音は、全部覚えている。洗濯機は終わる少し前から音が高くなる。廊下の三枚目の床板が鳴る。梓さんはスリッパの踵を鳴らさない。爪先だけで滑るように歩く。顔が見えなくても、目を閉じていても、この家の中でなら僕は迷わない。
「ただいま」
「ごはん、もう少しかかるから。手洗ってらっしゃい」
洗面所で手を洗って、台所を覗いた。梓さんは背中を向けたまま、キャベツを刻んでいる。エプロンの紐が背中で蝶結びになっていて、片方だけ長く垂れていた。
この人の手なら、よく知っている。指の関節が太くて、水仕事で荒れていて、爪はいつも短く切ってある。指輪もマニキュアも、一度も見たことがない。顔は分からない。それなのに、この手が何のために動いてきたのかは分かってしまう。
「何かあった?」
包丁の音は止まらないまま、背中越しに聞かれた。
「……いや、別に」
「そう」
梓さんはいつもそうだ。一度だけ聞いて、それ以上は聞かない。そんな距離の取り方に、僕はずっと助けられてきた。助けられてきた分を、まだ一度も返せていない。
夕飯は千切りのキャベツと生姜焼きと味噌汁だった。生姜焼きは玉ねぎが多めで、汁が皿の端に溜まる。それをキャベツで拭って食べるのが、この家のやり方だ。
「そういえば、怜奈から電話があったのよ」
味噌汁をよそいながら梓さんが言う。
「来月、こっちで撮影があるんですって。泊まるかもって」
「かもって何」
「ふふっ……。あの子がそう言ったのよ。かも、って」
姉らしい返事だと思った。高校を出てすぐ家を出た怜奈は、連絡もなく帰ってきて、連絡もなく消えていく。
「部屋、片付けとかないとね」
「あの部屋、いつも梓さんが掃除してるじゃん」
「そうだったかしら」
この人はいつのまにか全部やっている。やったとは、自分からは言わない。
テレビでは、どこかの局のバラエティが流れていた。笑い声が起きて、静まって、また起きる。画面の中の人たちは、当然のように全員、同じ黒い靄をしていた。僕はそれを、ずっと見てきた。見てきたのに、一度も見ていない。
部屋に戻って、電気をつけないままベッドに転がった。天井を見上げて、何度もあの声を再生する。震えていた語尾。名前を言い直したときの慌て方。走り去る足音。それだけの材料で、僕は彼女を組み立てようとした。背の高さも、肩の位置も、髪の長さも取れる。
顔だけが、どれだけ探しても出てこない。
スマホの画面をつけて、消した。連絡先は知らない。名前で調べることはできる気がしたけれど、それは違う気がしてやめた。
♢♢♢
次の日の朝は、いつもと同じ電車に乗って、いつもと同じ時間に昇降口をくぐった。
何かが変わったのは、教室に入ってからだ。扉を開けた瞬間、話し声の音量がひとつ下がった。二人組、三人組。あちこちで塊になっていた声が、僕が通り過ぎるあいだだけ薄くなって、席に着くとまた元の厚みに戻る。
気のせいかもしれない。誰も僕の名前を呼んでいないし、誰もこちらを指差していない。それでも、教室の音の作りが昨日と違うことだけは分かった。
僕の席は窓側の、後ろから二番目だ。そこへ辿り着くまでに、机の列を三つ横切る。一つ目の列を過ぎるとき、話していた二人が黙った。二つ目で、椅子の脚が床を擦る音がした。三つ目を過ぎたところで、後ろから小さな笑い声が上がって、すぐに引っ込んだ。
笑ったのが誰なのかも、何を笑ったのかも、僕には掴めない。掴めるのは、その笑いが引っ込んだという一点だけだ。放っておかれるより、引っ込まれるほうがずっと居心地が悪い。顔が見えないぶん、僕はこういうものにばかり敏感になった。想像だけが際限なく膨らんでいく。
鞄を掛けて、椅子を引いて、座る。机に伏せてしまえば、僕は誰の視界にも入らない背中になる。そのことに少しほっとしている自分がいて、そのことに、少しうんざりした。
一時間目から四時間目まで、授業は何ひとつ頭に入らなかった。
「ねえ、神崎君」
昼休み、席を立ってすぐに声をかけられた。振り返ると、女子が二人立っている。一人は腕を組み、もう一人は細長い水筒を握っていた。腕を組んでいるほうは声が低くて、語尾を短く切る。水筒のほうは早口で、語尾が上がる。どちらも、記憶にはない声だった。
「なんで雫のこと振ったの」
「昨日、ずっと泣いてたんだけど」
クラスメイトの何人かがこちらを向く。昨日の出来事はもう僕の手を離れて、他人の娯楽になっている。
「……ごめん」
喉が固まって、不明瞭な声しか出せない。
「いや、そういうんじゃなくて」
「理由、聞いてんの。呼び出されて、ちゃんと来たんでしょ。じゃあ話くらい聞いてあげてよ」
「顔も見ないで返事したって聞いたけど」
水筒が机に置かれる硬い音がした。顔を見なかったんじゃない。見ても分からなかっただけだ。そう言ったところで、この場の何ひとつ変わらない。
「ねえ、聞いてんの」
聞いている。聞こえすぎるくらい聞こえている。僕だって、あんなふうに傷つけたかったわけじゃない。頭の中でだけ言葉が溢れて、口の外へは何も出ていかない。
いつの間にか教室のざわめきが止んでいた。空気全体がこちらを向いて、僕を責め立てている。呼吸が浅くなって、脳の奥が熱を持ち始めた。
「おい、朔。何ボーッとしてんだよ、早く飯行こうぜ」
後ろから、場違いに軽い声が差し込んだ。聞き間違えることのない声だ。幼馴染の杉本奏多。黒髪の緩いパーマに、両耳のピアスが揺れている。長身の彼が前に出ると、息巻いていた二人が反射的に一歩下がった。
「マジで腹減ったわ。早く行かねえと焼きそばパン売り切れる」
「ちょっと、今それどころじゃ」
「わりぃな。俺らの飯のほうが大事なんで」
奏多は二人の声を上から雑に塗り潰した。行くぞ、と有無を言わせず肩を組んでくる。
「は? 逃げんの?」
「最低」
背中に刺さる声を置き去りにして、僕たちは教室を出た。角をひとつ曲がり、階段の踊り場まで来たところで、奏多がその場に崩れ落ちる。
「あーーー! クッソ怖かったわ! あの女子ども! なんだよあれ、貫禄ありすぎだろ。般若かよ」
さっきまでの余裕はどこへやら、大げさに胸を叩いている。それを見て、ようやく自分が息を止めていたことに気づいた。吸い込む空気が冷たくて痛い。
「ありがとう。奏多がいなかったら多分八つ裂きにされてた」
「気にすんな。……にしても、昨日どうしたんだよ。結構噂になってるけど」
「……」
奏多は少し黙り込んでから、僕の肩を軽く叩いた。
「まあ、後でゆっくり聞くわ。今は無理そうな顔してるし」
「ごめん」
「謝んなって。絵描いてる時以外、基本ポンコツなんだから仕方ねーよ」
「……それ、慰めてる?」
「おうよ。親友特製の最高級のやつだ。ウジウジしてないで行くぞ」




