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追放先は廃旅館でした——前世は旅館コンサルの令嬢、今度は自分の手で王国一の名宿を作ります  作者: 歩人


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72/87

第72話: 世界で一番あたたかい宿

 朝。

 追放の日と同じ——早朝に目が覚めた。


 まだ薄暗い部屋の中で、天井の木目をぼんやり見つめる。ガルドの漆喰。ノアの地脈が通った壁。指先で触れると、微かに温かい。

 窓を開けた。

 冷たい空気が頬を撫で、同時に、源泉の湯気が白く、温かく、谷を包んでいるのが見えた。


 1年前のあの朝も、こうやって窓を開けた。

 あの時は、ルヴェール邸の寝室。白梅の香り。吐く息が白くて、荷物は着替えが三着と手帳だけ。誰も見送りには来なかった。正面玄関すら使わせてもらえなかった。

 振り返らなかった。前だけを見た。手帳を握りしめて、ただ前だけを。


 今、窓の外に広がるのは、銀泉桜ぎんせんざくらだった。


 淡い銀色の花弁が、朝風に乗ってゆっくりと舞い上がる。棚田の水面に散った花弁が銀の波紋を描き、源泉の湯気が花弁を巻き上げて、谷底から光が滲むように広がっていく。遠くの銀嶺連山が朝焼けに染まり、稜線が淡い紅色に輝いている。

 棚田には40枚全てに水が張られ、一枚一枚が山を映す鏡になっていた。あぜ道に銀泉桜が並び、町の煙突から細い煙が上がり始めている。渓流沿いにトビアスの釣り教室の看板が朝日を受けて白く光っていた。


 1年前、ここに来た時は何もなかった。

 廃墟と、枯れかけた源泉と、諦めた顔をした人々と——


 背後で、かすかな足音がした。


 「……起きてたのか」


 ノアが寝癖のついた藍色の髪をそのままに、廊下から顔を出した。手に湯気の立つ陶器を二つ持っている。銀泉草の朝茶。いつの間にれたのか。

 差し出された器を受け取ると、指先に温もりが移った。


 「うん。目が覚めて——1年前のことを、考えてた」


 ノアが隣に立ち、窓の外を見た。源泉の湯気が朝日に透けて、黄金色に輝いている。


 「今は?」


 短い問い。ノアはいつもそうだ。端的に、必要なことだけ。でも、その一言に——全部が詰まっている。


 「今は——全部ある」


 声が少し震えた。笑ったのか、泣きそうになったのか、自分でもわからなかった。

 ノアが何も言わずに、隣にいた。朝茶の湯気が二人の間をゆるく漂い、銀泉桜の花弁が窓から一枚、部屋に舞い込んできた。


 今日は——新しい暖簾を掲げる日。




 昼を過ぎると、銀泉楼は戦場になった。


 ガルドが最後の点検で全館を駆け回っている。三階の廊下の板がわずかにきしむのを見つけて、その場で道具を広げて直し始めた。

 「こんなもん客に踏ませられるか。おい学者先生、ここの地脈管の接続が甘い。やり直せ」

 ノアが無言で手をかざし、廊下の板の下に走る地脈管を調整する。藍色の微光が一瞬だけ廊下に走り、板鳴りが消えた。

 「……よし。まあ、悪くねぇ」

 ガルドの最大級の賛辞を、ノアは小さく頷いて受け取った。


 厨房では、ユーディットとリュカが腕まくりをしていた。


 今夜の食卓のために。全員分の料理。銀泉楼の全てを詰め込んだ一席。

 源泉蒸し室から立ちのぼる硫黄と銀泉草の香りが、廊下にまで漂っている。リュカが谷鱒たにますの仕込みに入り、ユーディットが出汁の火加減を見つめている。二人の間に言葉はほとんどない。包丁がまな板を叩くリズムと、鍋が煮立つ低い唸りだけが、厨房を満たしていた。


 マリカがロビーの花を活け替えている。山野草の配置を何度も微調整し、窓からの光の角度に合わせて花の向きを変えた。客が最初に目にする景色を、一ミリの妥協もなく仕上げていく。


 全員が、この日のために動いている。




 夕暮れ。


 私は一階のロビーに立っていた。手に魔導灯の点火棒を持って。


 全館灯入れ。

 全30室に、一つずつ灯りを点けていく。


 一号室の扉を開けた。

 最初に修復した部屋だ。あの雨の日に、ずぶ濡れの行商人が一人、飛び込んできた部屋。ヘルマン。銀泉楼の最初のお客様。

 まだ壁に染みがあって、床板が少し傾いていて、それでもガルドの手で丁寧に直された柱が部屋を支えていた。ノアの地脈管が壁の中を走り、触れると微かに温かい。

 点火棒を魔導灯にかざした。

 淡い橙色の光が灯る。部屋が——息を吹き返すように、温かく照らされた。


 一つずつ扉を開け、一つずつ灯りを点けていく。どの部屋にもガルドの仕事がある。ノアの魔法がある。ハンナが選んだ調度品がある。マリカが活けた一輪の花がある。

 六号室。ここまでが最初のグランドオープンで開いた部屋。あの夜、ディートリヒの営業停止命令が来て、エミールが震える手で包括承認状を出してくれた。


 階段を上がる。二階。足の裏に伝わる廊下の木のぬくもり。ガルドの祖父が据えた柱。父が改修した壁。ガルドが仕上げた天井。三代の職人の手が、この建物のあらゆる場所に刻まれている。

 点火棒をかざすたび、窓に橙色の四角が生まれる。十一号室、十五号室、二十号室——一つずつ灯りが増えていく。


 三階に上がった。


 最後の一室の前で、足を止めた。


 三十号室。昨日、ガルドとノアが並んで仕上げた部屋。三代の棟梁の最高傑作。魔法と職人技が一つになった壁。

 扉を開けた。真新しい漆喰の匂い。窓の向こうに谷が広がっている。棚田の水面が夕焼けの色に染まり、銀嶺連山の稜線が暗い紫に沈みかけている。


 点火棒を——最後の魔導灯に、かざした。


 灯りが、灯った。


 その瞬間——窓の外から、歓声が上がった。


 駆け寄って窓を開けると、坂の下に人々が集まっていた。エミール夫妻、ヴァルターとフリッツ、アンナを肩車したフリッツの妻、トビアス、イルゼ——町の人たちが、見上げている。


 銀泉楼を。


 全30室の窓に、橙色の灯りが灯っている。一階から三階まで、一つも欠けることなく。源泉の湯気が建物を包み、灯りが湯気に滲んで、銀泉楼全体が——暗がりの中に浮かび上がる宝石のように、温かく輝いていた。


 階段を駆け下りた。三階から一階まで、30室分の灯りの中を走り抜けて、玄関に飛び出した。




 玄関にハンナが立っていた。


 割烹着姿。背筋はまっすぐ。白髪を後ろで一つにまとめた、いつものハンナ。左手の薬指の銀の指輪が、灯りを受けて光っている。ローザから譲られた指輪。

 その横に——藍染めの暖簾が、畳まれて置いてあった。


 「銀泉楼」の三文字。ローザの時代と同じ書体で、新しい布に染め直したもの。藍の匂いが、春の夕暮れの空気に混じった。


 私の左手には、ローザの鍵があった。あの夜、ハンナが「これはローザ様の鍵だよ」と握らせてくれた鍵。銀泉楼の金庫の鍵であり、先代の女将が託した想いそのもの。

 1年間、ずっと持ち歩いていた。ポケットの中で、何百回も指先で確かめた。


 ハンナが暖簾を持ち上げ、私に手渡した。両手で受け取る。藍染めの布は、思ったより重かった。あるいは——この布に込められたものの重さかもしれない。


 「お嬢。掛けな」


 ハンナの声は、いつもと変わらなかった。ぶっきらぼうで、温かくて、有無を言わせない強さがあって。

 けれど、目だけが、微かに潤んでいた。


 暖簾掛けに手を伸ばした。背が少し足りない。爪先立ちになって——棒に布を通す。指が震える。1年間の全部がここに来ている。追放の朝。廃墟との出会い。ノアとの衝突。ハンナの「旅館ってのはね、建物じゃないんだよ」。ガルドの「しょうがねぇな」。リュカの味噌汁。ユーディットの「あたしの厨房だ」。マリカの完璧なお辞儀。エミールの震える判子。ヴァルターの無言の笑顔。トビアスの涙。イルゼの「お母さん」。ディートリヒの手紙。ノアの「俺は——お前を守りたい」——


 暖簾が、掛かった。


 春風が吹いた。


 藍染めの暖簾が——ゆらり、と揺れた。「銀泉楼」の三文字が、夕暮れの光の中で柔らかくひるがえる。源泉の湯気が暖簾の裾を撫で、銀泉桜の花弁が一枚、風に乗って暖簾の前を横切った。


 ハンナが、目を細めた。


 皺の奥に、20年分の——涙と、笑顔が、同居していた。


 「……ローザ様。見てますか」


 声が震えている。72歳の、小さな体の、でもこの20年間ずっとこの町を支え続けた女性の声が。


 「あなたの宿が——帰ってきましたよ」


 私の目から涙がこぼれた。止まらなかった。それでも、頬を濡らしながら、私は笑っていた。




 大広間。


 長テーブルに白い布が敷かれ、銀泉草の小さな束が席ごとに添えられている。マリカの仕事だ。窓から差し込む夕暮れの最後の光と、魔導灯の柔らかな橙色が混じり合って、大広間を温かい色に染めている。

 源泉の湯気が窓の外をゆっくりと流れていく。


 全員が、席についていた。


 ノアが私の隣。ハンナがローザの席——上座の隣に。ガルドが腕を組んでどっかり座り、ユーディットが厨房から最後の皿を運んできたところにリュカが「師匠、俺がやるっす」と割って入る。マリカが静かに全員の湯呑みに茶を注いでいる。

 エミールが眼鏡を拭きながら席を探し、妻に「こっちよ」と袖を引かれている。ヴァルターが腕を組んで黙って座り、フリッツが隣で姿勢を正している。トビアスが「膝が痛ぇ」とぼやきながら座布団を二枚重ね、イルゼが「トビアスさん、それ私のですよ」と笑っている。


 テーブルの上に、料理が並んでいた。


 先付——銀泉草ぎんせんそうの白和え。初めてこの源泉に手を浸した日、湯気の中に混じっていたあの銀色の草。ユーディットの手で、白胡麻と練り合わされ、銀泉草の清涼感が春の夜に透き通るような一皿になっている。

 椀物——全盛期の源泉蒸し。ローザの時代の味を超えた、新しい銀泉楼の味。霧茸きりたけを源泉の蒸気で蒸し上げ、出汁は谷鱒の骨からひいたもの。蓋を開けると、湯気と一緒にこの谷の匂いが立ちのぼる。

 造り——谷鱒たにますの薄造り。トビアスの養殖の中から、最高の一匹を選んだ。紅い身が皿の上で花弁のように開いている。霧蜜きりみつを一滴垂らした醤油を添えて。

 焼物——棚田米の焼きおにぎり。ヴァルターの米を、ハンナの塩加減で握り、炭火で焼いた。香ばしい匂いが大広間に漂っている。地脈米の甘みと塩のバランスが——これだけでご馳走だった。

 蕎麦——リュカの新蕎麦。父ヨハンのレシピ手帳から始まり、桂剥き五百十二回の地獄を越え、ユーディットに「あたしには作れない」と言わしめた一杯。リュカ自身の舌と、この谷の風と、父の血が作った蕎麦。

 甘味——イルゼの霧山羊チーズと霧蜜。母のチーズモールドで仕込み、丘の風で熟成させた。霧蜜を一匙かけると、甘さの中にチーズの塩気が追いかけてきて、最後に花の香りが鼻に抜ける。


 これが——銀泉楼の食卓。この谷の全てが、一つのテーブルの上に集まっている。


 ガルドが杯を掲げた。


 「嬢ちゃん」


 声が大きい。この人はいつも声が大きい。でも、今日の声には——少しだけ、違う響きがあった。


 「——いや」


 言い直した。


 「女将殿。乾杯の音頭は、あんたが取れ」


 全員の視線が、私に集まった。


 立ち上がった。杯を持つ手が少し震えている。テーブルを見渡す。一人ひとりの顔を見る。

 ノア。ハンナ。ガルド。ユーディット。リュカ。マリカ。エミール。ヴァルター。フリッツ。トビアス。イルゼ。

 この1年間、一緒に走ってくれた人たち。


 「1年前、私はこの町に追放されてきました」


 声が——思ったより、通った。


 「何も持っていなかった。廃墟の旅館と、枯れかけた源泉と——前世の夢だけ」


 ノアが少し目を伏せた。あの日のことを、覚えている顔だ。


 「でも、この町には全てがありました」


 一人ずつ、見た。


 「腕のいい棟梁がいて」


 ガルドが鼻を鳴らした。でも口角は上がっている。


 「天才の料理人がいて」


 ユーディットが腕を組んだまま、微かに顎を引いた。リュカが目を潤ませている。


 「最高の接客のプロがいて」


 マリカが一瞬、唇を噛んだ。それから——微笑んだ。翡翠殿ひすいでんで身につけた技術ではない、自分だけの笑顔で。


 「地脈を読む学者がいて」


 ノアが黙って私を見ていた。深い緑の瞳に、魔導灯の灯りが映っている。


 「米を守るお爺さんがいて」


 ヴァルターが腕を組んだまま微動だにしない。だが、目尻の皺だけが、深くなった。フリッツが隣で小さく息を呑んだ。


 「魚を知る漁師がいて」


 トビアスが「じいさんって言うな」とぼやいた。鼻をすすっている。


 「チーズを作る職人がいて」


 イルゼが目頭を押さえた。「やだ、泣かないって決めてたのに」


 「背筋の伸びた町長がいて」


 エミールが眼鏡を外した。拭いている。妻が隣でそっと肩に手を置いた。


 「何より——この町を守りたいと思う、強い人たちがいた」


 ハンナを見た。白髪を後ろで一つにまとめた、小さな体。左手の銀の指輪。20年間、たった一人でこの町の記憶を守り続けた人。


 「私は、繋いだだけ。皆さんの力を」


 テーブルの上の料理を見た。銀泉草の白和え。源泉蒸し。谷鱒。焼きおにぎり。新蕎麦。チーズと霧蜜。


 「——この食卓が、その証拠です」


 沈黙が落ちた。源泉の湯気が窓の外を流れていく音だけが聞こえた。


 ハンナが——鼻をすすった。割烹着の袖で乱暴に目元を拭い、それから言った。


 「大風呂敷は相変わらず」


 涙声だ。でも、口角は上がっている。


 「……でも今回は、広げたぶんだけ中身がある」


 全員が笑った。涙混じりの笑いが、大広間に広がった。


 ノアが——小さく言った。


 「……いい宿だ」


 静かな声。端的で、素朴で、それだけの言葉。

 でもその短い言葉が——私の胸の真ん中を、真っ直ぐに射抜いた。


 「ノア。あなたが最初にそう言ってくれたの、覚えてる? あの雨漏りだらけの夜に」


 ノアが一瞬、目を逸らした。


 「……覚えてない」


 「嘘。覚えてるくせに」


 ノアの耳が赤い。この人は昔からそうだ。照れると目を逸らして、耳だけが正直になる。


 全員が笑った。温かい笑い声が、銀泉楼の大広間に満ちた。源泉の湯気が窓を白く曇らせ、魔導灯の灯りが笑顔を橙色に照らしている。


 「——乾杯」


 杯が、鳴った。




 食事が終わり、片付けが始まった。


 リュカが皿を下げ、マリカが布巾でテーブルを拭いている。ガルドが「俺は洗い物は専門外だ」と言いながら結局袖をまくって洗い場に立っている。ユーディットが残った食材を明日の朝食に回す段取りを組んでいる。


 そのとき——玄関の鈴が鳴った。


 鈴の音は、銀泉楼の玄関に吊るしてある銀の鈴。客が暖簾をくぐると揺れて鳴る。ガルドが取り付けた鈴だ。


 マリカが振り向いた。


 「お客様……? こんな時間に」


 全員の手が止まった。まだグランドリニューアルの予約受付は明日からのはずだ。


 私は割烹着のまま、玄関に向かった。新しい暖簾が春の夜風にゆらりと揺れている。暖簾をくぐった。


 玄関に立っていたのは——


 大柄な男だった。旅装の外套に、使い込まれた革の鞄。日に焼けた顔に、人懐こい笑み。


 ヘルマン。


 最初の客。あの雨の日に、ずぶ濡れで、「泊めてくれ」と飛び込んできた行商人。一号室に泊まり、翌朝「温泉が最高だった」と笑って帰った、銀泉楼のたった一人目のお客様。


 そして——その後ろに。


 大勢の人が、列を作っていた。


 行商人仲間。家族連れ。若い旅人。杖をついた老夫婦。見たことのない顔がいくつも並んでいる。数えきれない。十人、二十人、いや、もっとか。


 「セラフィーナ嬢!」


 ヘルマンが両手を広げた。


 「聞いたぞ、全30室が完成したって! 一番乗りで来たぞ! 仲間も全員連れてきた!」


 後ろの客たちが口々に声を上げた。「ヘルマンから話を聞いて」「あの温泉に入りたくて」「遠くから来ました」。


 「あんたが一号室に泊まった時の話をしてくれてさ」と、ヘルマンの隣の女性が言った。「雨の日に、たった一人で旅館を守ってる女将さんがいるって。温泉が信じられないくらい良くて、朝ごはんが涙が出るほど旨くて——帰る時に深々と頭を下げてくれたって」

 「あの話を聞いたら、行かないわけにいかないだろう?」とヘルマンが笑った。


 言葉が出なかった。


 喉の奥が熱くて、視界が滲んで、何を言えばいいのかわからなかった。

 前世で何百回と聞いた言葉がある。コンサルタントとして二百軒の旅館を回る中で、女将さんたちが客を迎える時に必ず言っていた言葉。あの言葉を、いつか自分の宿で——自分の声で——言いたいと、ずっと思っていた。


 深く——深く、頭を下げた。


 前世で一度も言えなかった言葉を。

 今、初めて——自分の宿で、自分の言葉として。


 「——いらっしゃいませ」


 声が震えた。


 「お帰りなさい、銀泉楼へ」


 頬を伝うのに、止められなかった。それでも口元はほどけていた。


 顔を上げると、後ろにみんながいた。いつの間にか玄関に出てきていた。ハンナが暖簾の横で目を細めている。ガルドが腕を組んで頷いている。ユーディットが「客が来たなら厨房に戻るぞ」とリュカの襟首を掴んでいる。マリカが完璧な姿勢でお辞儀の準備をしている。ノアが——静かに、微笑んでいた。


 「さあ、お部屋にご案内します。銀泉楼の全30室——今夜、全てお使いいただけます」


 マリカが前に出た。「いらっしゃいませ。お荷物をお預かりします」

 リュカが厨房に走った。「師匠、追加の蕎麦打つっす!」

 ユーディットが袖をまくった。「小僧、先に湯を沸かせ。蕎麦は後だ」

 ガルドが鼻を鳴らした。「しょうがねぇな。風呂の温度を見てくる」

 ハンナが帳場に立った。「はいはい、お名前の確認からだよ。こっちに並んでおくれ」


 銀泉楼が——動き出した。




 夜が更けた。


 全ての客が部屋に入り、温泉に浸かり、布団に包まれた頃——私は三階のテラスに立っていた。


 全30室の窓から、温かい光が漏れている。


 一号室。二号室。三号室。一つずつ、灯りを数えた。十号室。二十号室。三十号室。全部、灯っている。全部の部屋に、お客様がいる。

 源泉の湯気が銀泉楼を包み、灯りが湯気に滲んで、建物全体が柔らかく発光しているように見えた。遠くの棚田に月光が映り、水面が銀色に光っている。町の家々にも灯りが点いている。フリッツの家。イルゼの工房。トビアスの小屋。エミールの町長室。

 谷全体が——一つの大きな宿のように、温かく光っている。


 隣に、足音。


 ノアが来た。白いシャツの袖をまくったまま。風呂の地脈管の最終調整をしてきたのだろう。髪が少し湿っている。


 二人で並んで、谷を見下ろした。


 「……綺麗だな」


 「うん」


 風が吹いた。銀泉桜の花弁が夜空に舞い上がり、月光に照らされて銀色の粒になった。源泉の湯気が花弁を巻き上げ、銀泉楼の灯りが湯気の中に溶けていく。


 ノアの手が、私の手に触れた。

 冷たい指先が、繋いだ瞬間に、温かくなった。


 「ここが——」


 ノアが言いかけて、止まった。

 私が続けた。


 「うん。世界で一番あたたかい宿」


 ノアが何も言わなかった。ただ、手を——少しだけ強く、握った。


 二人で、黙って、谷を見ていた。全30室の灯り。源泉の湯気。棚田の月光。銀泉桜の花弁。この谷の全てが——今夜だけは——世界で一番あたたかい場所に見えた。


 テラスに戻り、手帳を開いた。

 革表紙の手帳。1年前、追放の朝に唯一持ち出した武器。前世の知識を詰め込んだページ。「プロジェクト名:銀泉楼再建」と書いた最初のページ。「——今度こそ、自分の手で」と添えた文字。

 そこから数えて、何百ページ。数字と戦略と、途中から——人の言葉が増えたページ。


 最後のページを開いた。


 炭筆で、書いた。


 『銀泉楼。全30室。満室』


 その下に——小さく。


 『——前世の夢、叶いました』


 手帳を閉じた。


 泣いていた。笑っていた。どっちでもよかった。


 宮原咲良が三十四年かけて見た夢の続きに、セラフィーナ・ルヴェールが一年かけて辿り着いた——そんな夜だった。二つの人生分の、全部が、この灯りの中にある。


 ノアが隣で、何も言わずに、ただそこにいた。

 手を繋いだまま。

 銀泉楼の灯りを、見ていた。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


「追放先は廃旅館でした」、これにて完結です。


追放の朝、手帳だけを握りしめて馬車に乗ったセラが、全室に灯りの灯った宿の前に静かに立つまで。振り返ると、ずいぶん遠くまで来たような気がします。


銀泉楼は、最初から最後まで「帰る場所」の物語でした。セラにとっての帰る場所。ノアにとっての帰る場所。ハンナにとっての帰る場所。ヘルマンにとっての帰る場所。そして——読んでくださった皆さんにとって、少しでも「ここに来るとほっとする」と感じてもらえる場所になっていたなら、作者としてこれ以上嬉しいことはありません。


長い旅にお付き合いいただき、本当にありがとうございました。ブックマーク、評価、感想——そのすべてが、執筆の夜を灯し続けてくれた灯りでした。


各キャラクターのその後を綴った番外編も、これから少しずつ届けていけたらと思っています。ヘルマンの旅の話、ディートリヒの小さな窓口の話、リュカが初めて「師匠」と呼ばれる日の話——書きたい余韻がたくさん残っています。


それでは、またお会いしましょう。

銀泉楼は、いつでも皆さんをお待ちしています。


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