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追放先は廃旅館でした——前世は旅館コンサルの令嬢、今度は自分の手で王国一の名宿を作ります  作者: 歩人


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第66話: 証言台

 証言台に立った男の手は、震えていなかった。

 ——いや、震えていた。それを、意志の力で止めていた。

 ディートリヒ・ハイネは正面の原告席を見た。銀灰色の髪。穏やかな微笑。十年間、一度も見返せなかった瞳が、そこにある。

 王都中央法院、第二審理室。前回の期日から一週間。灰色の石壁に囲まれた法廷は、先週より傍聴人が増えていた。辺境の旅館が王国有数の貴族を訴えた——そんな噂が、王都に広まり始めているのだろう。

 ディートリヒは証言台の縁に手を置いた。革紐で束ねた書簡の束が、その横にある。六十七通。十年分の証拠。一通目を受け取った日の夜、これを捨てるか保管するか、一晩中迷った。

 捨てなかった。いつか——と思っていた。「いつか」が、今日だ。


 「証人。氏名と職業を」


 判事の声が石壁に響いた。天窓から冬の陽が差し、証言台の書類を白く照らしている。


 「ディートリヒ・ハイネ。東部辺境州の巡回商務監査官です」


 声は平坦だった。十年間、報告書を読み上げてきた声。ただ、今日読み上げるのは報告書ではない。証言台の上には、革紐で束ねた六十七通の書簡がある。


 「十年前、私は横領の嫌疑をかけられました」


 傍聴席がざわめいた。判事が視線で制する。


 「嫌疑は事実無根でした。しかし証拠を捏造され、追い詰められました。——その時、アシュフォード侯爵閣下が取引を持ちかけてきました」


 被告側席で、エミールが眼鏡を押さえる手を止めた。その隣でセラフィーナが背筋を伸ばし、マリカが静かに目を細めている。


 「『協力すれば不問にする』と」


 ディートリヒは原告席のヴィクトールを見た。ヴィクトールは微笑んだまま動かない。目だけが、笑っていなかった。


 十年間、あの微笑みの裏側を知りながら逆らえなかった。指示書が届くたびに従い、「承知しました」と応え続けた。

 今日が、最後の報告だ。


 「以来十年間、私は侯爵閣下の指示の下、ミストヴァレーの復興を妨害してきました」


 声を落とさなかった。法廷の全員に届くように。


 「営業許可の遅延。税務査定の不正操作。領地再査定の捏造。——全て、ここに指示書があります」


 革紐を解いた。六十七通の書簡が証言台に広がる。日付順。全てに侯爵家の蝋印と、見覚えのある筆跡。


 「異議あり」


 ヴァイデンフェルトが立ち上がった。灰色の顎髭を撫でながら、冷静な声で告げる。


 「裁判長。これらの書簡が本物である証拠は。偽造の可能性を排除できません」


 「筆跡鑑定を受ける用意があります」


 ディートリヒは即座に応じた。声を荒げるつもりはない。事実を述べるだけだ。


 「侯爵邸の便箋は特注品です。紙質、透かし模様、蝋印の組成——全て鑑定可能です。書簡の内容と、私が実際に行った行政措置の日付は、一通の例外もなく一致します」


 ヴァイデンフェルトの薄笑いが消えた。判事が書簡を受け取り、記録官に写しを命じた。

 原告席で、ヴィクトールだけが動かない。微笑んだまま、指一本動かさず、まるで自分とは無関係の話を聞いているかのように。

 だがディートリヒは知っている。あの微笑みが消える瞬間が、もうすぐ来ることを。


 「——裁判長。もう一点、補足をお許しください」


 ここからが本題だ。十年間、胸の奥に封じてきた真実。


 「私がかけられた横領の嫌疑。それ自体が——侯爵閣下の工作でした」


 法廷がどよめいた。判事が木槌を打つ。


 「静粛に」


 ディートリヒは一拍、間を置いた。


 「当時の私は、辺境の行政監査で地脈の不自然な変化に気づいていました。ミストヴァレー周辺の温泉が急速に枯渇し始め、自然現象では説明がつかないことを。報告書を上げようとした矢先に——嫌疑をかけられました」


 傍聴席の全員が息を止めている。


 「つまり私は——口封じのために、濡れ衣を着せられたのです」


 判事の表情が硬くなった。書記官の羽ペンが止まっている。


 「裁判長」


 ヴァイデンフェルトが再び立ち上がった。今度は声に苛立ちが滲んでいる。


 「この証人は自身の犯罪行為——十年間にわたる行政不正を告白しているに過ぎません。侯爵閣下との関連は、この者の一方的な主張であり——」


 「無関係ではありません」


 ディートリヒは遮った。


 「ここに、十年間の全ての指示書があります。日付、内容、署名——全て残しました」


 一拍。法廷を見渡した。


 「いつか——この日のために」


 静寂が降りた。


 原告席で——動きがあった。


 ヴァイデンフェルトの肩を押しのけるようにして、ヴィクトール・アシュフォードが立ち上がった。代理人が小声で制止するが、手を振って退ける。


 「ハイネ君」


 穏やかな声だった。劇場の幕間に知人に声をかけるような口調。


 「……残念だよ。私は君を信頼していたのだが」


 ディートリヒの体が、一瞬、竦んだ。


 十年間、この声を聞くたびに凍りついた。「残念だ」と言われるたびに、自分の中の何かが死んでいった。

 今日も声は変わらない。穏やかで、丁寧で、どこまでも冷たい。

 けれど、もう、凍えない。


 「侯爵閣下」


 ディートリヒは真っ直ぐにヴィクトールを見た。十年ぶりだった。

 見返す、ということ。たったそれだけのことが、十年かかった。ミストヴァレーの荒れた街道を、営業停止命令を手に歩いた日。町長の顔から光が消えるのを見た日。エミールの眼鏡の奥の目が、諦めに染まっていくのを知りながら、「規則ですので」と繰り返した日。

 全て——今日、終わらせる。


 「私は十年間、間違ったことをしてきました。あなたへの恐怖で、人の暮らしを壊してきました」


 声が震えた。今度は、止めなかった。


 「——今日、それを終わりにします」


 傍聴席で、エミールが知らず知らず拳を握っていた。眼鏡の奥の目が光っている——十五年前に町長になった日以来、失い続けてきた光が。マリカが静かに目を伏せ、ノアが前を見据えている。


 ヴィクトールの笑顔が、消えた。ほんの一瞬。瞬きの間に取り繕ったが、セラフィーナは見逃さなかった。


 十年の支配が、崩れ始めている。


 「裁判長」


 セラフィーナが立ち上がった。


 「横領の濡れ衣について、当時の捜査記録の再検証を申請いたします。十年前の真実を、この法廷で明らかにすべきです」


 判事が、重々しく頷いた。


 「……認めます」


 ヴィクトールの顔から、完全に余裕が消えた。ヴァイデンフェルトが耳元で何か囁いているが、ヴィクトールは聞いていない。灰色の瞳が、証言台のディートリヒを射貫いている。

 セラフィーナは手帳を開いた。次の一手を書き込む。法廷の外で、ディートリヒが小さく息を吐いた。十年分の重荷を下ろした男の背中が、少しだけ、伸びていた。




 碧泉宮の執務室に、硝子の砕ける音が響いた。


 ワイングラスの破片が机上に散る。赤い液体が白い手袋に染み、テーブルクロスに滴り落ちた。ヴィクトール・アシュフォードは手の痛みに顔色一つ変えなかった。


 「ハイネが十年分の指示書を出した。横領の再捜査も認められた」


 声は低い。法廷での穏やかさとは、別人だった。


 ゲルハルト・ヴェーバーは手帳を開いたまま立っている。主人が法廷から戻ってすぐ、この荒れようだ。二十年仕えて、初めて見る顔だった。


 「東脈のアンカーの防護術式を増強しろ。あの装置だけは、物証として押さえられるわけにはいかない」


 ペンが走る。二十年間、同じ動作を繰り返してきた。


 「それから、あの地脈学者の論文を潰す。学会に圧力をかけられる人間がいたはずだ。ヴェステルンドの研究を検証した委員会のメンバーを洗え」


 ゲルハルトのペンが、一瞬、止まった。


 「……承知いたしました」


 窓の外で、碧泉宮の噴水が冬の空に水柱を上げている。二十年前、この温泉が「奇跡の湯」と呼ばれ始めた頃——その裏側で何が行われたか、ゲルハルトは全て知っていた。


 「明日は地脈学者の証言だ。論文を潰せなくとも、証言の信頼性を崩す手はある。学者は法廷で弁が立たない」


 穏やかな声が戻っていた。だが白い手袋に染みた赤い液体を、拭おうともしない。


 ゲルハルトは一礼して退室した。

 扉を閉める瞬間、執務室の中でもう一つ、何かが砕ける音がした。


 廊下を歩きながら、手帳を懐にしまう。主人が語ったディートリヒの証言が、頭の中で繰り返されている。


 「今日、それを終わりにします」


 あの男は、十年分の書類を、全て残していたのだ。いつか、この日のために。


 もう遅いのではありませんか、閣下。


 ゲルハルトの懐には、もう一通の手紙がある。先日マリカから届いた封書。まだ——開けていない。




 法院の廊下に、冬の光が長く伸びていた。


 「明日は、ノアの番だ」


 セラフィーナは隣を歩くノアに言った。


 「ああ。二十年分の嘘を——科学で暴く」


 ノアの短い答え。手には学会の検証結果報告書が握られている。


 だがヴィクトールも動く。法廷でのあの一瞬の表情を、セラフィーナは忘れていない。


 追い詰められた獣は——最も危険だ。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


ディートリヒが証言台に立つ場面を書いている時、こちらまで手が震えました(比喩ではなく、物理的に)。十年ぶりに相手の目を見る——たったそれだけのことが、彼にとってどれほど遠い行為だったか。営業停止命令を手にミストヴァレーを訪れた頃の彼から、ここまでの道のりを思うと、胸が静かに痛みます。


そしてヴィクトール。穏やかな仮面を一度も外してこなかった男が、自分の執務室で初めて物を壊す。白い手袋に滲んでいく赤ワインの色。その染みを拭おうともしない指先に、二十年間の歪みが集まっている気がしました。


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