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追放先は廃旅館でした——前世は旅館コンサルの令嬢、今度は自分の手で王国一の名宿を作ります  作者: 歩人


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第65話: 法廷の朝

 法廷の扉は、旅館の扉より重かった。


 両手で押し開けた。樫の一枚板に鉄の装飾——その向こうに、高い天井と灰色の石壁が広がった。


 王都中央法院、第二審理室。


 天窓から差し込む冬の朝の光が、石の床に四角い影を落としている。正面に法官席。三脚の高い椅子が壁面に沿って並び、中央の椅子の背後に王家の紋章が掲げられている。左右に原告席と被告席。傍聴席は十列。石壁に吸い込まれるように、足音が消える。


 そして——正面の原告代理人席に、銀灰色の髪の男が座っていた。


 ヴィクトール・アシュフォード侯爵。


 初めて、この距離で目が合った。


 ——笑っている。目以外は。




 三時間前。王都の安宿の二階で、ノアが広げた紙束を見つめていた。


 昨夜、夜更けに扉を叩いたのはノアだった。学術都市エルデンハイムから馬を飛ばして丸一日。外套に泥が跳ねていた。


 「検証結果の速報が出た。東脈のアンカー、現物確認済み。学会の検証委員三名が署名した報告書だ」


 テーブルの上に紙束を広げた。グリンデル副会長の署名と、地脈学会の印章。


 「これで学術的な証拠は完璧だ。法廷に出せる」


 ノアの深い緑の瞳に、疲労と確信が同居していた。二年間、ミストヴァレーの地下でデータを積み上げてきた男の目だった。


 「検証委員三名も、今朝の審理に間に合うように王都に来ている。傍聴席にいる」


 私は手帳を開いて、最後のページに書き加えた。


 『ノア、学会検証結果到着。東脈アンカー現物確認。検証委員三名署名。法廷提出可能。全ての矢が揃った』


 ペンを置いた。


 手帳を閉じた。


 「——行きましょう」




 法廷に戻る。


 被告席に着いた。隣に代理人の席がある。空席だ。


 代理人を雇う資金はなかった。銀泉楼の収益は全て営業資金に回している。法律家を雇えば金貨数百枚。ミストヴァレーの一年分の町税に匹敵する。


 だが、問題ない。


 前世で旅館コンサルタントをしていた頃、契約紛争の訴訟に巻き込まれたことがある。三件。うち二件は自分で対応した。弁護士費用を払えないクライアントの代わりに、法廷に立ったこともある。理屈と数字で動く場所なら、戦い方の記憶はある。


 傍聴席を確認した。


 三列目にマリカさん。背筋を伸ばし、正面を見ている。その隣にエミールさん。眼鏡を何度も直している。緊張している。


 四列目にハイネ殿。穏やかな表情で座っているが、目だけが鋭い。十年間、ヴィクトール卿の下で書類仕事をしてきた男が、今日は反対側の席にいる。


 五列目に、見慣れない三人。白い上着に地脈学会の徽章きしょう。検証委員だ。ノアが手配した学者たち。彼らの存在が、この法廷に学術の重みを加える。


 ノアは傍聴席にはいなかった。法廷の外の廊下で待機している。証人として呼ばれる可能性があるため、審理が始まる前の傍聴は避けたほうがいいと判断した。


 原告席。ヴィクトール卿の隣に代理人が座っている。クラウス・ヴァイデンフェルト。五十代半ば、灰色の顎髭を蓄えた大柄な男。王都随一の法律家と呼ばれ、貴族間訴訟での勝率は九割を超えるという。


 ヴァイデンフェルトが、空席の代理人席を見て眉を上げた。


 こちらを見た。目が笑っている。嘲りだ。




 法官三名が入廷した。中央の首席法官が着席を命じ、審理の開始を宣言した。


 「王都中央法院、名誉毀損訴訟第四三二七号。原告アシュフォード侯爵対被告セラフィーナ・ルヴェール。本件の審理を開始します」


 首席法官は六十代の女性だった。白い法服に銀の縁取り。厳しい目をしている。残りの二名は男性。一人は四十代、もう一人は五十代後半。三人とも、感情を読ませない顔だ。


 ヴァイデンフェルトが立ち上がった。


 「裁判長。原告代理人ヴァイデンフェルトでございます。被告が代理人なしで出廷されているようですが、本件は貴族に対する重大な名誉毀損であり、被告本人が弁護に立つのは極めて異例です」


 視線がこちらに向いた。法官三名の目が、空席の代理人席を見る。


 「被告。代理人は」


 首席法官が事務的に尋ねた。


 立ち上がった。


 「裁判長。被告セラフィーナ・ルヴェールは、本人訴訟にて弁護いたします」


 傍聴席がざわついた。エミールさんが眼鏡を直す手を止めた。ヴァイデンフェルトの口元に、かすかな笑みが浮かぶ。


 首席法官が頷いた。「認めます。——原告代理人、訴状の要旨を」


 ヴァイデンフェルトが書面を広げた。


 「原告アシュフォード侯爵は、被告セラフィーナ・ルヴェールが流布した虚偽の情報——すなわち『地脈操作』なる荒唐無稽な主張——により、名誉を著しく毀損されたと訴えるものであります」


 朗々とした声が石壁に反響した。法廷の空気を支配する声だった。


 「被告は辺境の小さな旅館の経営者に過ぎません。わずか一年の経営実績しか持たない人物が、二十年にわたり王国の発展に貢献してきたアシュフォード侯爵閣下に対し、根拠なき誹謗を行ったことは——」


 ヴァイデンフェルトが言葉を切り、法官席を正面から見据えた。


 「——法が許す範囲をはるかに超えております」


 沈黙が落ちた。傍聴席が静まり返っている。


 ヴァイデンフェルトの視線が、被告席に移った。


 「被告本人が弁護とは。……勇敢ですね、ルヴェール嬢」


 挑発だった。法廷を掌握するための、計算された一言。


 深呼吸した。手帳の角に指を当てた。冷たい革の感触が、思考を落ち着かせる。


 「裁判長」


 立ち上がった。声が安定していることを確認した。


 「被告は、真実性の抗弁を主張いたします」


 法廷の空気が変わった。


 ヴァイデンフェルトの眉がわずかに動いた。首席法官が身を乗り出した。


 「私がアシュフォード侯爵閣下について述べたことは——全て、事実です」


 一拍、間を置いた。重要な発言の前後に挟む沈黙が、聞き手の意識を引き寄せる。


 「そしてそれを証明するために、本法廷に四つの証拠を提出いたします」


 傍聴席がざわめいた。ヴァイデンフェルトの笑みが消えた。ヴィクトール卿の目が——初めて、わずかに細くなった。




 証拠を順に示した。


 「第一の証拠」


 鞄から革表紙の束を取り出し、法官席に差し出した。


 「東部辺境州巡回商務監査官ディートリヒ・ハイネ氏が十年間にわたり保管してきた指示書の原本です。アシュフォード侯爵閣下が直筆で署名した文書が、四十七通含まれています」


 法官が受け取り、ページをめくる。首席法官の目が、署名の箇所で止まった。


 ヴァイデンフェルトが立ち上がった。「異議あり。その文書の真正性は——」


 「原本です」


 遮った。


 「写しではなく原本。ディートリヒ・ハイネ氏が十年間にわたり、自身の手元に保管していた文書です。筆跡鑑定にも応じます。ハイネ氏は傍聴席におります」


 ハイネ殿の方を示した。ハイネ殿が穏やかに頷いた。ヴィクトール卿が、傍聴席のハイネ殿を見た。視線が交差した瞬間、ハイネ殿は目を逸らさなかった。


 ヴィクトール卿の指が、一瞬だけ膝の上で強張った。


 「第二の証拠」


 次の紙束を出した。


 「王立学院卒・地脈学者ノア・ヴェステルンド氏による学術論文『ミストヴァレー地脈異変に関する実証的研究』、および地脈学会検証委員会の検証報告書です。東脈に現存する維持装置——アンカー——の現物確認結果が含まれます。検証委員三名の署名入りです」


 検証委員たちの方を示した。白い上着の三人が無言で頷いた。


 首席法官が報告書を受け取り、数値の記載されたページを注視した。


 「第三の証拠」


 「元翡翠殿仲居マリカ・オルテンシア氏の証言です。マリカ氏は碧泉宮併設の翡翠殿に十一年間勤務し、その間に目撃した情報収集活動の全貌を証言する用意があります。マリカ氏も傍聴席におります」


 マリカさんが座ったまま一礼した。翡翠殿で磨いた完璧な所作だった。


 「第四の証拠」


 最後の束を取り出した。一番古い紙だ。端が変色し、インクが薄れている箇所もある。


 「銀泉楼三代目女将、故ローザ・ベルクヴィスト氏の日記です。二十年前の記録が含まれています。地下に埋められた装置の記録、王都の方角に引かれる魔力の観察、三本の地脈のアンカー位置のスケッチ——ローザ女将は二十年前の時点で、地脈操作に気づいていました」


 沈黙が法廷を満たした。


 法官三名が顔を見合わせた。首席法官が原告席を見た。


 ヴァイデンフェルトの顔が、硬くなっていた。顎髭の下の唇が薄く引き結ばれている。隣のヴィクトール卿が、代理人の耳元に何か囁いた。短く、低く。ヴァイデンフェルトの顔が——さらに硬くなった。


 この距離では声は聞こえない。だが、表情は読める。クライアントの顔色を読むのは、前世から染み付いた癖だ。


 ヴィクトール卿は動揺していない。ヴァイデンフェルトに何か指示を出している。戦略の修正。「四つも揃えてきた」という事実を受け入れた上で、次の手を打とうとしている。


 この人は、私と同じ言葉を話す人だ。数字と戦略の言語を。だからこそ、同じ土俵で勝てる。




 首席法官が発言した。


 「被告の提出した証拠四点を受理します。原告代理人、証拠に対する意見を」


 ヴァイデンフェルトが立ち上がった。先ほどの余裕は消えている。だが、崩れてはいない。経験がそうさせるのだろう。声は依然として朗々としていた。


 「裁判長。原告は、被告の提出した証拠の真正性について精査を求めます。特に第一の証拠——指示書の原本と称するものについては、筆跡鑑定を実施するべきと考えます」


 想定内だった。


 「被告は筆跡鑑定に同意いたします」


 即答した。ヴァイデンフェルトが一瞬、言葉を詰まらせた。拒否を予想していたのかもしれない。


 「また、第二の証拠についても——地脈学会の検証報告は学術論文に過ぎず、法的証拠としての重みには疑問が——」


 「裁判長」


 割り込んだ。法廷のリズムを、相手に渡さない。


 「地脈学会の検証は、維持装置の現物を確認した実地調査に基づくものです。学会の副会長であるルートヴィヒ・グリンデル教授が緊急審査を決裁し、検証委員三名が署名しています。学術的信頼性は最高水準です」


 首席法官が頷いた。


 「証拠の精査は認めます。ただし、本件の規模と証拠の分量を鑑み、次回期日を設け、証人尋問を実施します」


 法官が日程を確認した。


 「次回期日は一週間後。証人尋問の対象者は、両当事者から三日以内に申請してください」




 閉廷が宣言された。


 傍聴席が動き出す。法官が退廷し、書記官が記録を整理している。


 立ち上がろうとした瞬間——目の前に影が差した。


 ヴィクトール・アシュフォード侯爵が、被告席の前に立っていた。


 銀灰色の髪。穏やかな微笑。外見は完璧に整っている。しかし——目だけが笑っていない。灰色の瞳に、計算が回っているのが見える。


 「セラフィーナ嬢」


 低く、穏やかな声。


 「見事な布陣です。代理人なしで——よくあれだけの証拠を整理されましたね」


 褒めている。いや、値踏みしている。


 「恐れ入ります、侯爵閣下」


 立ち上がった。視線を合わせた。この距離は——旅館の帳場で客と向かい合う距離と同じだ。


 「しかし、法廷は証拠だけでは勝てないことを——ご存知ですか?」


 ヴィクトール卿が微笑んだ。その笑みの裏に、何があるのか。成功した経営者ほど、追い詰められたときに笑う。前世で覚えた、ひとつの法則だった。


 「存じています」


 答えた。


 「だから、真実で勝ちます。侯爵閣下」


 ヴィクトール卿の微笑が、一瞬だけ止まった。灰色の目が——私の目を真正面から捉えた。


 沈黙。


 法廷の石壁が、二人の間の空気を冷やしている。


 「……楽しみにしています」


 ヴィクトール卿が踵を返した。外套の裾が石の床を掃いた。代理人のヴァイデンフェルトが足早に追った。


 その背中を見送りながら——手帳の角を指で押さえた。


 楽しみにしている。そう言った顔は、笑っていなかった。




 法廷を出た。


 廊下でノアが壁に寄りかかって待っていた。外套のポケットに手帳を差し込んだまま、天窓からの光の中に立っている。


 「終わったか」


 「初日は。証拠は全て受理されました」


 「次は証人尋問か」


 「一週間後。証人の申請期限は三日後です」


 ノアが頷いた。深い緑の瞳が、法廷の扉を見ている。


 「あの男は、どうだった」


 ヴィクトール卿のことだ。


 「……強い。余裕を失っていない。四つの証拠を見ても、崩れなかった」


 「だろうな。二十年間、王国の政治を動かしてきた男だ。証拠を見て崩れるようなら、とっくに誰かに倒されている」


 ノアの言う通りだ。ヴィクトール卿は証拠だけでは倒れない。証拠を法廷で生かすには、証人の力がいる。


 マリカさんとエミールさんが廊下に出てきた。ハイネ殿がその後に続く。


 「次回期日の証人申請を出します」


 全員の顔を見た。


 「証人は三名。マリカさん、ハイネ殿——そして」


 手帳を開いた。最後のページに、昨夜書いた名前がある。ゲルハルトから今朝届いた伝書の内容。たった一行。


 『証言する。——ゲルハルト・ヴェーバー』


 「——翡翠殿支配人、ゲルハルト・ヴェーバー」


 マリカさんの目が光った。エミールさんが息を呑んだ。


 ハイネ殿が、静かに頷いた。


 「これで、碧泉宮の金の流れを法廷で証明できます」


 法廷の廊下に、冬の光が差し込んでいた。石の床に伸びる影が、五つ並んでいる。


 次回期日。証人台に立つのは、ディートリヒ・ハイネ。


 十年間、ヴィクトール卿に従い続けた男が、初めて自分の声で語る日。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


樫の一枚板に鉄の装飾。冷えた石壁。天窓から落ちる冬の光。法廷という場所を描く時、なにより重みを感じたのは扉そのものでした。慣れた帳場の引き戸とは違う、押すのに両手のいる扉。それでもセラにとって、その向こうは決して未知の世界ではない——理屈と数字で動く場所なら、彼女には戦い方の記憶がある。そう信じて筆を進めました。


ヴィクトール卿の余裕は、二十年かけて磨き上げてきた仮面でもあります。証拠を突きつけられても表情を変えない。むしろ静かに次の手を考えている。追い詰められて笑える人間こそが、もっとも危ういのかもしれません。


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