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追放先は廃旅館でした——前世は旅館コンサルの令嬢、今度は自分の手で王国一の名宿を作ります  作者: 歩人


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第39話: 砂色の影

 秋の陽射しが窓から差す穏やかな午後だった。


 帳場の机に手帳を広げて、体験コンテンツの価格表を書き出していた。渓流釣り体験、半日コースで銀貨二十枚。チーズ作り体験、三時間で銀貨十五枚。蕎麦打ち体験——


 足音が聞こえた。走っている。


 エミールさんだ、と思った。あの人は走ると足音がばらばらになる。靴が大きいのか、歩き方が悪いのか。


 帳場の戸が勢いよく開いた。


 「セラフィーナさん……来ました。ハイネ殿が——来ました」


 手帳を持つ私の指先が、一瞬だけ止まった。




 エミールさんの顔は蒼かった。


 額に汗が浮いて、眼鏡がずれている。直す余裕もなく、息を切らしたまま帳場の入口に立っていた。


 「落ち着いて、エミールさん。座ってください」


 「い、いえ、それどころでは——ハイネ殿が、馬車で、今朝方エルデン峠を越えて——」


 「座って」


 声を少し強くした。エミールさんがびくりとして、帳場の椅子に腰を落とした。


 ——この人は、十五年間ずっとこうだったのだろう。何かが起きるたびに蒼くなって、誰かに報告して、判断を仰いで。でも今日のエミールさんには、怯えだけではない何かが混じっていた。走ってきたのだ。蒼い顔で、息を切らしてでも——自分の足で、ここまで。


 私はペンを置いた。手帳を閉じて、指を組む。


 ——来たか。


 半年。以前、営業停止命令を叩きつけてきたあの男が、半年の沈黙を破って戻ってきた。あの時は法的に反撃して跳ね返した。完全な勝利だった。


 でも——あの手の人間は、一度で諦めない。負けた理由を分析して、別の角度から来る。


 前世の経験が教えてくれる。行政の妨害は、手を変え品を変え繰り返される。潰された旅館を何軒も見てきた。


 「エミールさん。ハイネ殿は今どこに?」


 「町の広場の宿屋に入ったと……フリッツが見たと」


 「一人ですか?」


 「は、はい。馬車に御者と二人きりで。でも書類鞄が——あの革鞄が、パンパンに膨らんでいたと」


 書類鞄。あの男の武器だ。


 「わかりました。向こうから来るまで待ちましょう。——こちらから出向く必要はない」


 「で、でも……」


 「大丈夫です。前回も乗り越えたでしょう?」


 エミールさんが、少しだけ背筋を伸ばした。まだ怯えている。でも、半年前よりは——ほんの少しだけ、目に力がある。




 ディートリヒ・ハイネが銀泉楼を訪れたのは、午後三時だった。


 秋の陽が西に傾き始めた頃。帳場の窓から見える街道に、灰色の上着と銀のバッジが見えた。姿勢が良い。痩せた体をまっすぐに保って、革の書類鞄を右手に提げている。


 ——砂色の髪。薄い灰色の目。半年ぶりでも、その印象は変わらない。


 いや。


 少しだけ、変わっていた。


 目の下にかげがある。頬がこけて、以前より顔色が悪い。半年前はもう少し余裕のある顔をしていた。今は——追い詰められた人間の顔だ。


 帳場で待ち受けた。隣にエミールさん。後ろにノアが壁に寄りかかって立っている。


 「失礼いたします」


 ディートリヒが帳場に入ってきた。靴音が正確に等間隔で鳴る。


 「お久しぶりです、セラフィーナ嬢。半年ぶりでしょうか」


 丁寧な声。微笑み。——目が笑っていない。いつも通りだ。


 「ようこそ、ハイネ殿。銀泉楼も秋になりました。お茶でもいかがですか?」


 「お気遣い感謝いたします。しかし今日は——公務で参りました」


 書類鞄を帳場の机に置いた。金具をぱちりと外す。


 中から取り出されたのは、分厚い書類の束だった。商務省の紋章が押された封書。朱色の蝋印。


 「商務省令第四十七条に基づく、辺境特別税務査察の通知書です」


 ディートリヒが封書をテーブルに滑らせた。


 「ミストヴァレーの商業活動が急激に拡大していると報告がございまして。銀泉楼の旅館業はもちろん、農業、漁業、畜産業、林業——これだけの事業を運営されているのですから、当然、全ての税務記録を提出していただかなければなりません」


 エミールさんが隣で息を呑んだ。


 私は封書を手に取り、封を切った。目を通す。


 ——商務省令第四十七条。辺境地域における急激な商業活動拡大に対し、当局は特別税務査察を実施する権限を有する。


 条文は知っている。前世で何度も見た類のものだ。法的には正当。だからこそ厄介。


 「期限はいつですか?」


 「二週間です」


 声に力を込めて言い切った。


 「全事業の税務記録——収入、支出、仕入れ、販売、雇用、許認可——全てを整理して提出していただきます。記録に不備があれば……残念ながら、全事業の一時停止命令を出さざるを得ません」


 「残念ながら」。


 この男の口癖だ。残念でも何でもないくせに。


 「二週間ですか」


 私は封書をテーブルに戻した。


 「承知しました。正当な手続きに基づく査察であれば、もちろん協力いたします」


 ディートリヒの薄い灰色の目が、一瞬だけ揺れた。——もっと動揺すると思っていたのだろうか。


 「ありがたく存じます。では、二週間後に改めて伺います。記録の不備がないことを、祈っておりますよ」


 最後の一言に棘があった。


 立ち上がり、一礼して帳場を出ていく。靴音が廊下に遠ざかっていく。




 足音が完全に消えてから、私は手帳を開いた。


 ペンを走らせる。


 「税務特別査察。期限二週間。対象:旅館業、農業、漁業、畜産業、林業——全事業」


 書き出しながら、頭の中で分析が回る。


 前回は「許認可」で攻めてきた。営業停止命令。あのときは法的な抜け穴を突いて反撃できた。正面からの書類戦争で、こちらに理があった。


 今度は「税務」だ。


 許認可よりずっと広い。全事業の全記録を要求するということは、帳簿の一冊でも欠けていたら言いがかりをつけられる。しかも二週間という短い期限を切ってきた。


 「……狙いは収穫祭だ」


 呟いた。


 エミールさんが顔を上げた。「え?」


 「収穫祭の準備が本格化するタイミングを狙ってきてる。二週間で全事業の税務記録を整えさせて、人手と時間を削る。収穫祭の準備と二正面作戦を強いて、どちらかを——あるいは両方を——潰すつもりだ」


 手帳にペンが走る。


 「逆に言えば、収穫祭が脅威だってことだ。この谷が外部に認知されて、人が集まることを、あの男の——いや、あの男の後ろにいる誰かが恐れている」


 ノアが壁から背を離した。


 「セラ」


 「何?」


 「あの男、前回より顔色が悪い」


 ノアの言葉は端的だった。でも、見ていた。あの短い面会の間に、ディートリヒの顔色を観察していた。


 「追い詰められているのは、向こうかもしれない」


 「……どういう意味?」


 「前回失敗した。半年間、この町は成長を止めなかった。あの男は結果を出せなかった——命じた側にとっては、使えない駒だ」


 ノアの緑色の目が、窓の外を見ている。ディートリヒが去った街道の方角を。


 「使えない駒がどうなるか。——追い詰められて、余裕をなくす。だから今回は、前回より攻撃が広い」


 「追い詰められた人間は危険だけどね」


 「ああ。だが——崩れやすくもある」


 ノアの分析はいつも冷静だ。でも今日は、少しだけ声に熱があった。この町を——この食卓を守ろうとしている声。


 私は手帳に書いた。


 「二正面作戦。税務記録の整理と収穫祭の準備を同時に進める」

 「記録は完璧に整える。付け入る隙を与えない」

 「収穫祭は予定通り実行。むしろ——記録が完璧であることを、外部に示す場にする」


 ペンが止まった。


 二週間。棚田の米、養魚場の鱒、牧場の乳製品、炭焼き窯の出荷分、精油の試作販売、薬草園の苗——全ての帳簿を揃える。


 できなくはない。でも——一人では無理だ。




 ——その日の夕刻。


 東部辺境州へと続く街道を、一台の馬車が戻っていった。


 御者台の後ろの客室で、ディートリヒ・ハイネは書類鞄を膝に載せたまま、窓の外を見ていた。


 ミストヴァレーの谷が、夕陽に照らされて金色に染まっている。


 棚田があった。


 半年前に通ったとき、あの斜面は草に埋もれた荒地だった。今は——稲穂が重く垂れて、黄金色の海になっている。棚田の水路を水が流れ、あぜ道に人の影が動いている。


 川からは煙が上がっていた。養魚場だ。前は埋まっていたはずの池に水が張られ、網が干してある。川沿いに、小さな小屋が建っている。炭焼き窯の煙かもしれない。


 丘の上から、山羊の鳴き声が聞こえた。メエ、メエ、と。穏やかで、のんきな声。


 ディートリヒは書類鞄の留め金に指を走らせた。


 「……変わっている」


 呟いた。声が自分の耳に届いて、驚いた。声に出すつもりはなかった。


 「この町が、変わっている」


 半年前に来たとき、この町は死にかけていた。人通りのない街道、戸板の閉まった商店、曇った窓の宿屋。町長は震え、住民は諦めていた。


 今——窓の外に見える町は、息をしている。


 馬車が街道の分岐点を過ぎた。谷が見えなくなる。


 ディートリヒは目を閉じた。


 瞼の裏に、書簡の文面が浮かぶ。


 ——ミストヴァレーの復興が進んでいると聞く。碧泉宮へきせんきゅうにとって不都合だ。対処せよ。


 ヴィクトール・アシュフォード侯爵の筆跡。几帳面で、冷たい。以前の書簡は「ハイネ君、状況を確認してほしい」だった。「お願いする」という体裁は保っていた。


 今回は違った。命令口調。「対処せよ」の四文字。


 前回の報告——営業停止命令が法的に覆されたことを書いた報告——を読んだとき、侯爵は笑っていたという。人づてに聞いた話だ。あの穏やかな微笑み。目だけが笑わない、あの。


 あの笑顔が一番怖いのだ。


 ディートリヒは書類鞄を握りしめた。


 仕事をしなければ。


 仕事をしなければ——十年前の「あれ」が持ち出される。横領の濡れ衣。自分が不正を行ったという偽の証拠。「協力すれば不問にする」という侯爵の声。


 あの日から、全てが変わった。


 書類鞄の中には、セラフィーナ嬢に突きつけたものと同じ査察通知の控えが入っている。正式な書類。法的に問題ない手続き。


 ——法的に問題ない。


 その七文字が、十年間、ディートリヒの免罪符だった。全て合法の範囲内。手続きに従っているだけ。自分は規則を執行しているだけだ。


 馬車が揺れた。街道の石畳が途切れて、土の道に変わったのだ。


 窓の外を見た。もう谷は見えない。枯れかけた草原と、灰色の空が広がっている。


 ——あの嬢ちゃんの目。


 帳場で封書を渡したとき、セラフィーナ嬢の琥珀色の目が、真っ直ぐにこちらを見ていた。


 怯えていなかった。怒ってもいなかった。


 分析していた。こちらの手札を、目の奥で冷静に読んでいた。


 「……あの娘は、強い」


 十年間、辺境の町を回って書類で人を追い詰めてきた。何人もの町長が震え、何人もの商人が事業を畳み、何人もの住民が町を出ていった。


 一人として、あんな目でこちらを見返してきた人間はいなかった。


 馬車の窓に、自分の顔が映っている。


 疲れた顔だった。


 ——いつから、こんな顔になった。




 夜。


 銀泉楼の帳場に、マリカさんを呼んだ。


 「マリカさん。お願いがあります」


 「何でしょうか、セラさん」


 マリカさんはいつもの通り、背筋を伸ばして立っている。黒髪を低い位置でまとめた仲居姿。完璧な所作。完璧な微笑み。


 「税務記録の整理を手伝ってほしいんです」


 帳場の棚から、帳簿の束を引き出した。銀泉楼の宿泊記録、仕入れ台帳、経費明細。それから棚田の収穫量、養魚場の出荷記録、牧場の乳量と飼料費——半年分の記録が木箱二つ分ある。


 「これを二週間で、税務査察に耐えられる形に整理しないといけない。全事業分」


 マリカさんの目が、帳簿の束を見て微かに変わった。


 仲居の顔ではない。帳簿を見定める——経理の人間の目。


 私は少し間を置いてから、言った。


 「あなた、翡翠殿ひすいでんで経理も見てたでしょう?」


 マリカさんの手が止まった。


 微笑みが、凍りついた。


 「……なぜ、それを」


 声が硬い。いつもの穏やかなマリカさんとは違う。


 「勘です」


 嘘だ。勘じゃない。


 マリカさんの帳簿の付け方を、私はずっと見ていた。霧亭の仕入れ帳を手伝ったとき、数字の並べ方が異常に正確だった。複式簿記の構造を理解している書き方。税法の知識がなければ書けない備考欄の注記。


 「少し習っていた」で済むレベルではない。翡翠殿——王都随一の高級旅館。あの規模の経理を担当していた人間の仕事だ。


 でも、今は追及しない。


 「あなたの帳簿の付け方、素人じゃない。——それだけです」


 マリカさんは私を見つめた。


 濃紺の目に、幾つもの感情が行き交っている。怯え。戸惑い。そして——ほんの微かに、安堵。


 隠していた荷物を、誰かに気づいてもらえたときの顔。


 「……わかりました」


 マリカさんが目を伏せた。一瞬の間。それからもう一度顔を上げたとき、仲居の微笑みは消えていた。代わりにあったのは、仕事人の顔だった。


 「手伝います。全事業の帳簿を拝見させてください」


 「お願いします」


 マリカさんが帳場の椅子に座り、最初の帳簿を開いた。ページを捲る指の動きが速い。数字を追う目が鋭い。


 ——やっぱり。この人は、ただの仲居じゃない。


 でも今は、それでいい。


 マリカさんの過去に何があったのか。翡翠殿で何を見て、何から逃げてきたのか。——聞きたいことは山ほどある。


 でも、今は。


 今は、目の前の書類を片付ける。


 「セラさん」


 マリカさんがペンを手に取りながら言った。


 「棚田の帳簿に、税目の区分が抜けています。農業所得の計上方法を統一する必要がありますね」


 「やっぱりプロだ」


 「……つい、出てしまいます」


 小さな声。でも——口元がほんの少しだけ、緩んでいた。




 深夜。


 マリカさんが帰った後、帳場に一人残った。


 二箱の帳簿のうち、一箱はマリカさんが整理の方針を立ててくれた。棚田と養魚場の分は明日ヴァルターさんとトビアスさんに確認する。イルゼさんのチーズ関連はマリカさんが直接聞き取りに行く。


 ノアが茶を持ってきた。


 「まだやってるのか」


 「もう少しだけ」


 銀泉草の茶を受け取った。温かい。秋の夜は冷える。帳場の窓から、月明かりに照らされた棚田が見えた。刈り入れ前の稲穂が、風に揺れている。


 「ノア。二週間で税務書類を整えて、収穫祭も成功させる」


 「……無茶だ」


 「無茶じゃない。マリカさんがいる」


 「それでも、お前の体は一つだ」


 ノアが帳場の柱に肩を預けた。腕を組んで、こちらを見ている。


 「倒れたら意味がない」


 「倒れないよ。前世で鍛えた体力——じゃなかった。前世で過労死してるから、その辺は気をつけます」


 冗談のつもりだったのに、ノアが笑わなかった。


 緑色の目が、じっとこちらを見ている。


 ……前世では、締め切り前に倒れても翌朝には机に戻っていた。心配してくれる人は、いなかった。


 「……寝ろ。明日も早い」


 「うん」


 茶を飲み干して、手帳を閉じた。


 最後のページに、一行だけ書き足した。


 「二週間で税務書類を整えて、収穫祭も成功させる。——やるしかない」


 ペンを置いた。


 窓の外で、秋の風が棚田の稲穂を揺らしている。この黄金色の海が、無事に刈り取られる日まで。


 ——守る。全部、守る。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


 第四章「谷の恵み」、三話目にしてサスペンスが本格始動です。


 ディートリヒ・ハイネ。この物語における「敵」は、魔物でも魔王でもありません。書類鞄を提げた官僚です。剣ではなく条文で、魔法ではなく手続きで攻めてくる。ある意味、一番リアルで一番厄介な敵かもしれません。


 しかしディートリヒは完全な悪人ではありません。かつては真面目な官僚だった男が、権力に屈し、書類で町を潰す側に回ってしまった。変わりゆくミストヴァレーを前に、その目に何が映るのか。彼自身が「仕組みに飲まれた側」の人間であることが、今後の物語の鍵になります。


 そしてマリカの過去にも、少しずつ光が当たり始めました。


 次回、第四十話「翡翠殿の影」。税務記録の整理の中で、マリカの秘密がついに明かされます。


 引き続き、セラと谷の仲間たちの物語にお付き合いいただければ幸いです。

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