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追放先は廃旅館でした——前世は旅館コンサルの令嬢、今度は自分の手で王国一の名宿を作ります  作者: 歩人


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第38話: 手から手へ

 「ねえセラちゃん、チーズって生き物なのよ。温度を変えれば機嫌が変わるし、時間が経てば性格が変わる」


 イルゼさんの手の中で、真っ白なカード《凝乳》が形を変えていく。


 ——まるで魔法だった。いや、これは魔法より温かい。




 朝露に光る牧草地を、私はイルゼさんの後について歩いた。


 東の丘陵の緩やかな斜面に広がる牧場。三ヶ月前、野生化した霧山羊が散らばっていただけの丘が、今は柵で区切られた立派な放牧地になっている。


 ガルドが建てた木の柵。ノアが選定した牧草。フリッツさんが均した土。——みんなの手が入った場所だ。


 山羊は二十頭に増えていた。


 白い体に銀色の毛先。霧山羊の特徴だ。朝日を浴びて、銀色の毛がきらきらと光っている。何頭かが私たちに気づいて、首を上げた。


 「おはよう、みんな。今日もよろしくね」


 イルゼさんが声をかけると、一頭が駆け寄ってきて鼻面を押しつけた。イルゼさんがその首筋を掻いてやる。山羊が目を細める。


 「この子はメーテ。一番の甘えん坊。搾乳の時に一番おとなしいのもこの子」


 搾乳用の低い椅子に腰を下ろす。桶を膝に挟んで、メーテの乳房にそっと手を当てた。


 指が動いた。上から順に、絞り込むように。


 シュッ、シュッ——。


 温かいミルクが桶の底を叩く音。最初は金属に当たる高い音で、量が増えると柔らかな水音に変わる。


 「セラちゃんもやってみる?」


 「え、いいんですか」


 イルゼさんと交代して椅子に座った。メーテの体温が手のひらに伝わる。乳房は思ったより柔らかくて、温かい。


 見よう見まねで指を動かす。


 ——出ない。


 「力じゃないのよ。上からじゅわっと押す感じ。握るんじゃなくて、送り出すの」


 イルゼさんが私の手に自分の手を重ねて、動きを教えてくれた。


 その手は——塩で荒れた、職人の手だった。


 指先が動く。ぎゅっ、じゅわ。


 シュッ。


 ミルクが一筋、桶に落ちた。


 「出た!」


 「上手上手。その調子」


 搾りたてのミルクは、甘い匂いがした。牧草と朝露と、ほんのりと温泉の硫黄が混じった、この丘だけの匂い。


 桶の底に溜まっていくミルクは真っ白で、朝日を受けて金色に光っている。




 搾乳を終えて牧場の隅にある小屋に入った。イルゼさんがチーズ工房にしている場所だ。


 石造りの壁。清潔に磨かれた作業台。壁に掛かった温度計と、いくつかのモールド。そして——隅に飾られた、一つだけ古い型。


 お母さんの型。


 イルゼさんは毎朝、あの型に手を合わせてから仕事を始めるのだと、前にリュカが教えてくれた。


 「さて、体験コンテンツのリハーサルよ。セラちゃんとリュカくんはお客さん役ね」


 リュカが「よろしくっす!」と手を上げた。朝早くから棟梁に叩き起こされて来たらしく、髪に寝癖がついている。


 搾りたてのミルクを大鍋に移す。竈に火を入れて、ゆっくりと温める。


 「温度は三十八度。これが大事。高すぎると硬くなるし、低すぎると固まらない。チーズは温度に正直だから」


 温度計をじっと見つめるイルゼさんの横顔は、真剣そのものだった。


 三十八度。凝固剤をミルクに加える。


 「ここから十五分。触っちゃだめ。じっと待つの」


 ミルクが静かに変わっていく。液体が——少しずつ、固体になっていく。白い水面がぷるんと揺れて、やがて全体がゆるい豆腐のような塊になった。


 「できた。これがカードよ。ここからナイフで切って、水分を抜くの」


 長いナイフを取り出す。カードに縦横の筋を入れていく。白い塊が賽の目に切れて、隙間から黄色味を帯びた透明な水——ホエイが滲み出す。


 「はい、セラちゃんの番」


 ナイフを受け取った。


 カードにそっと刃を入れる。柔らかい。想像以上に柔らかい。力を入れた瞬間、端が崩れた。


 「あ……難しい。崩れる」


 「力を入れすぎ。赤ちゃんを抱くように」


 イルゼさんが笑った。


 もう一度。今度はナイフの重さだけで切る。ゆっくり、ゆっくり。白いカードがすうっと切れた。


 「そうそう、それでいいのよ」


 リュカの番になった。


 ——この子は、上手い。


 ナイフの動きが正確で、迷いがない。切り口が均一で、カードが崩れない。


 「リュカくん、上手ね。料理人の手だわ」


 「えへへ。包丁は毎日握ってるんで」


 イルゼさんが目を細めた。「この子、筋がいいわ。チーズ職人にもなれるんじゃない?」


 「俺はあくまで料理人っす! でもチーズのこと知ってたら、料理にも活かせるっすよね」


 カードから水分を絞り、型に入れる。押し固める。この工程も力加減が全てだった。強すぎると水分が抜けすぎて硬くなる。弱すぎると形が崩れる。


 イルゼさんが型を引き抜くと、ころんとした白いチーズが姿を現した。


 「フレッシュチーズの完成。——ここまでが体験コンテンツの範囲ね。お客さんは自分で作ったチーズを持って帰れるの」


 「持ち帰り! それはいい。お土産として完璧じゃないですか」


 私の中のコンサルタントが反応した。体験の記憶を物として持ち帰れる。これは強い。前世でも、体験型観光の中で「持ち帰れるもの」があるコンテンツはリピート率が高かった。


 手帳にメモする。「チーズ体験:所要時間約二時間。持ち帰りフレッシュチーズ一個付き。価格——銀貨八枚」




 「さて。本番はこっちよ」


 イルゼさんが工房の奥、温度管理された棚に案内してくれた。


 薄暗い棚の上に、円盤型のチーズが並んでいる。


 あのフレッシュチーズ——イルゼさんが牧場を再開して最初に作ったもの。あの日から二ヶ月の熟成を経ていた。


 外皮が変わっていた。真っ白だったはずの表面が、淡い黄金色になっている。手に取ると、フレッシュの時より硬い。ずっしりと重い。


 「切るわよ」


 イルゼさんがナイフを入れた。


 断面が現れた瞬間——香りが広がった。


 ミルクの甘い匂いの奥に、花のような芳香。それから、かすかにナッツを炒ったような香ばしさ。フレッシュの時にはなかった、複雑で深い香り。


 「……すごい。全然違う」


 「二ヶ月でこんなに変わるの。時間がね、チーズに味をくれるのよ」


 薄く切って口に運んだ。


 ——とろり、と溶けた。


 最初に来たのは、優しいミルクの甘み。舌の上でチーズが溶けていくにつれて、花のような香りが鼻に抜ける。そして最後に——微かなナッツの余韻が、口の中にいつまでも残った。


 甘み。香り。余韻。三つの層が、時間差で押し寄せてくる。


 「イルゼさん……」


 言葉を探した。


 「これ、王都の高級チーズに勝ってる」


 大げさじゃない。前世で食べた数百種類のチーズの記憶と比較しても、この味は上位に入る。しかも原料は霧山羊のミルクだけ。添加物もない。この土地の草を食べた山羊の乳を、この土地の空気で熟成させた——純粋な谷の味。


 リュカが目を丸くしていた。「うっま……これ、やばくないっすか?」


 イルゼさんは——笑っていた。


 でも目が潤んでいた。


 「お母さんが言ってたの。『チーズは時間が味方してくれる』って。焦らなくていいんだって。ちゃんと仕込んで、ちゃんと待てば、時間がいい仕事をしてくれるって」


 声が震えた。笑っているのに、涙が頬を伝っていた。イルゼさんらしい泣き方だった。


 「お母さん……あたし、やれてるかな」


 ——やれてますよ。


 そう言おうとして、喉が詰まった。


 代わりにイルゼさんの手を握った。塩で荒れた、温かい手。チーズを作る手。お母さんから受け継いだ手。


 「やれてます。絶対に」


 イルゼさんが泣き笑いの顔で、ぎゅっと握り返してきた。


 「……よし」


 小さく。いつもの一言。


 「よし。もっと作るわ。もっといいもの、作る」




 銀泉楼に戻ったのは昼過ぎだった。


 厨房に入ると、石臼の前にヴァルターさんが立っていた。


 ——珍しい光景だった。あの寡黙な老農夫が、銀泉楼の厨房にいる。


 石臼にごろごろと蕎麦の実が入っている。ヴァルターさんが取っ手を回すと、挽きたての粉がふわりと下に落ちた。


 「ヴァルターさん、ありがとうございます。わざわざ挽いてくださったんですね」


 「嬢ちゃんに頼まれたからな」


 それだけ言って、石臼を回し続けた。秋に実った銀泉蕎麦。あの傾斜地に蒔いた種が——もう粉になっている。


 挽きたての蕎麦粉は薄い灰緑色で、手に取ると驚くほど細かい。鼻を近づけると、青くて野趣のある香りが立ち昇った。穀物の香りなのに、どこか草原の匂いがする。


 「いい粉だ」


 ヴァルターさんが短く言った。その一言の情報密度の高さを、私はもう知っている。




 リュカが手帳を開いた。


 あの手帳——父ヨハンのレシピ帳だ。年季の入った革表紙。ページの端が擦り切れて、所々にインクの染みがある。


 「蕎麦打ちの項……あった。親父のメモ」


 リュカの指が、ヨハンさんの文字をなぞった。


 癖のある筆跡。リュカでも読みにくい箇所があるらしく、眉を寄せながら一行ずつ追っていく。


 「『水回しで八割決まる。粉に水を入れたら、指先だけで混ぜろ。掌は使うな。粉の一粒一粒に水を行き渡らせるつもりで——急ぐな』」


 リュカが読み上げた声が、少し震えていた。


 蕎麦粉を鉢に入れる。水を計る。


 「いくっす」


 水を少しずつ回し入れて、指先で粉に馴染ませていく。


 蕎麦の香りが一気に立った。


 粉が水を吸って、色が変わっていく。灰緑色の粉が、深い翠色に。乾いていた粒が湿り気を帯びて、指の間でぽろぽろとした塊になる。


 「水が足りないか……もう少し」


 水を数滴。また混ぜる。指先だけで。


 粉が少しずつまとまっていく。リュカの額に汗が浮かんでいた。


 「……ここだ」


 全体がしっとりとした一つの塊になった瞬間を、リュカの指が捉えた。味覚だけじゃない。この子は手の感覚も鋭い。


 練り。


 体重を乗せて押す。折り返す。また押す。生地がだんだん滑らかになっていく。最初はごつごつしていた塊が、練るたびに艶を帯びてくる。


 延ばし。


 打ち粉を振って、麺棒で薄く延ばす。リュカの手が大きいから、麺棒の動きに力がある。丸い生地が——長い楕円に変わっていく。


 畳んで、切る。


 蕎麦切り包丁を握る手が、一瞬だけ止まった。


 「親父は……これを毎朝やってたんだ。すげぇな……」


 呟いてから、包丁を下ろした。


 トン、トン、トン。


 細く均一な蕎麦が、包丁の下から生まれていく。切り口から蕎麦の甘い香りが立ち昇る。


 茹でる。鍋に投入した瞬間、湯が白く濁る。一分。冷水で締める。


 器に盛った。


 薄い翠色の蕎麦が、水を纏ってつやつやと光っている。


 つけ汁はユーディットが用意していた。源泉水で取った鰹と昆布——この世界の干魚と海藻だが——の出汁に、霧茸の旨味を加えたもの。黄金色の汁から、深く落ち着いた香りが漂う。


 蕎麦を箸で持ち上げて、つけ汁にさっと浸す。


 啜った。


 ——歯切れがいい。噛んだ瞬間、ぷつりと切れる。そこから蕎麦の甘みがじわりと広がる。噛むほどに味が濃くなる。出汁の旨味と蕎麦の甘みが絡み合って、最後に蕎麦の野趣ある香りが鼻に抜けた。


 「……リュカ」


 箸を置いた。


 「これ、体験コンテンツどころじゃない。看板メニューにもなるわ」


 リュカが目を見開いた。「マジっすか!?」


 ユーディットが腕を組んだまま、蕎麦を一口啜った。二口目。三口目——止まらない。


 箸を置いて、リュカを見た。


 「あたしが保証する。この蕎麦は本物だ」


 リュカの目が——赤くなった。


 「師匠がそう言ってくれるなら……」


 「泣くな、小僧。蕎麦が塩辛くなる」


 「泣いてないっす! 目にゴミが入っただけっす!」


 嘘だ。明らかに泣いていた。エプロンの袖で顔を拭いている。父のエプロン——大きすぎるあのエプロンの袖で。


 ユーディットが背を向けた。「……悪くない日だ」


 小声だった。でも聞こえた。




 片付けをしながら、私は手帳に書いた。


 「体験コンテンツ三種、完成——」


 渓流釣り体験。チーズ作り体験。蕎麦打ち体験。


 一次産業の「獲る・育てる」を、「体験する・味わう」に変換するコンテンツ。前世の用語で言えば六次産業化の第三段階——加工と体験の掛け算。


 三つが揃った。


 これで、この谷でしかできない「一日」を設計できる。朝は牧場で搾乳とチーズ作り、昼は渓流で釣りと炭火焼き、午後は厨房で蕎麦打ち。そして夜は銀泉楼の温泉と谷の恵み膳——


 「セラさん」


 声がした。低く、落ち着いた声。


 マリカさんだった。


 厨房の入口に立っている。いつもの完璧な姿勢。でも——目が、少しだけ違った。


 「少し、お時間をいただけますか」


 リュカとユーディットが厨房にいる。マリカさんが目線で外を示した。


 廊下に出た。


 マリカさんが声を落とした。


 「町に見慣れない人物がいます」


 「見慣れない?」


 「商人風の男性です。ですが、宿にも店にも寄っていない。昨日から町の外れにいて——棚田と養魚場を遠くから眺めていたと、フリッツさんが言っていました」


 私の背中を、冷たいものが走った。


 「……監視?」


 「断定はできません。ただ——」


 マリカさんが言い淀んだ。目が泳いだ。あの目だ。翡翠殿の過去に触れるときの、怯えと決意が入り混じった目。


 「翡翠殿にいた頃にも、似たような……」


 途中で言葉を切った。


 私は頷いた。


 「わかった。泳がせておいて。こちらからは動かない」


 マリカさんが小さく頷き返した。


 「はい。引き続き注意しておきます」


 足音もなく去っていくマリカさんの背中を見送りながら、手帳を開いた。


 「不審人物——商人風、棚田・養魚場を偵察。ヴィクトール側?」


 ペンが止まった。


 収穫祭の前に、町の実態を偵察しに来たのだろうか。だとすれば——向こうも動き始めている。


 手帳を閉じた。


 今は泳がせる。こちらの手の内を見せない。でも——目は離さない。




 夕方。テラスに出ると、秋の風が頬を撫でた。


 眼下に棚田が広がっている。稲穂が重たく頭を垂れて、夕陽を浴びて黄金色に輝いていた。あの傾斜地では蕎麦の白い花が揺れているはずだ。丘の向こうではイルゼさんの山羊が草を食んでいる。


 全部が——繋がっている。


 棚田の米が銀泉楼の食卓を彩り、山羊のミルクがチーズになり、蕎麦が打ちたての麺になり、川の鱒が炭火で焼かれる。一つ一つの点が、線になり、面になり——この谷全体が一つの「体験」になる。


 手帳に書いた。


 「三つの体験コンテンツが揃った。あとは——全部を見せる"舞台"が必要ね」


 収穫祭。


 この谷のすべてを、一日に凝縮して見せるイベント。来た人が「また来たい」と思うような——いや、「ここに住みたい」と思うような一日。


 ペンを走らせた。集客見込み。価格設定。動線。タイムテーブル。


 頭の中で数字が回る。前世のコンサルタントの血が騒ぐ。


 でも——今日感じたのは、数字だけじゃなかった。


 イルゼさんの手。お母さんから受け継いだ、チーズを作る手。


 リュカの手。父のレシピを追いかける、大きくて不器用で、でも真っ直ぐな手。


 手から手へ——技が受け継がれていく。時間を超えて。世代を超えて。


 その「手渡し」の瞬間を、体験コンテンツという形にしたい。


 お客さんがイルゼさんの手を見て、リュカの手を見て、「ここには本物がある」と感じてくれたら——それが、この谷の一番の価値だ。


 数字では測れない価値。でも、数字に必ず繋がる価値。


 テラスに夕風が吹いた。稲穂がさわさわと揺れる音が、谷に響いていた。




  あとがき


 最後まで読んでいただきありがとうございました。


 今話ではチーズ作りと蕎麦打ち、二つの体験コンテンツのリハーサルを描きました。


 イルゼさんにとってチーズは「お母さんの記憶」そのものです。搾乳の手つき、温度管理の勘、カードを扱う指先——全部、お母さんから手渡されたもの。それを今度はお客さんに教える。「受け継ぐ」ことが「伝える」に変わる瞬間が、彼女の成長です。


 リュカもまた、父のレシピ帳を通じて「手渡し」を受けています。ヨハンさんの「水回しで八割決まる」というメモは、生前に直接教わることが叶わなかった技の断片。それを自分の手で再現したとき、文字が技になる。その感動を書きたいと思いました。


 手から手へ。時間を超えて伝わるもの。それがこの谷の「体験コンテンツ」の本当の強みなのだと、セラは気づき始めています。


 さて、体験の準備が整った一方で、不穏な影もちらつき始めました。次話以降、物語はいよいよ動き出します。


 引き続きお付き合いいただければ幸いです。

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