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追放先は廃旅館でした——前世は旅館コンサルの令嬢、今度は自分の手で王国一の名宿を作ります  作者: 歩人


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第24話: 逆転の朝

 嵐が去った翌朝は、いつも空が綺麗だ。


 銀泉楼の屋根の上で、私は朝日を見た。谷が金色に染まっていた。




 屋根に上がったのは、眠れなかったからだ。


 昨日の疲れは骨の髄まで染みている。徹夜明けの体に、さらに半日分の緊張を詰め込んだ。普通なら泥のように眠れるはずなのに——目が冴えてしまった。


 だから屋根に出た。二号室の窓から庇に足をかけ、瓦を伝って大屋根の棟まで登った。前世ではやったことがない。コンサルタントは旅館の屋根には登らない。でも今世の私は——女将だから。自分の旅館の屋根くらい、登る。


 ガルドが見たら怒鳴られるだろうな、と思った。


 東の稜線が白く光り始めた。霧が薄い。いつもは谷底を満たしている朝霧が、今朝は山腹にだけ残って、まるで山が帯を巻いているみたいだった。


 空気が冷たくて、甘い。霧杉の匂い。源泉の微かな硫黄。それから——土の匂い。


 この町の匂いだ。


 朝日が稜線を越えた。光が谷を走る。銀泉楼の屋根瓦が金色に変わり、庭の木々が影を伸ばし、遠くの棚田が一瞬だけ鏡のように光った。


 「……綺麗」


 何度見ても、この景色には慣れない。前世で二百軒以上の旅館を見てきたけれど、こんな朝を独り占めできる場所は——なかった。


 いや、違う。今は独り占めじゃない。


 階下から物音が聞こえた。厨房だ。ユーディットがもう起きている。包丁を研ぐ音。リュカの寝ぼけた声。ハンナさんの「角を拭きなさい」。マリカさんの静かな足音。ガルドの咳払い。ノアのページをめくる音——は、さすがにここまでは聞こえないか。


 みんなが、いる。


 この旅館に。この町に。


 昨日の戦いを、一緒に越えた人たちが。




 屋根から降りて厨房に顔を出すと、リュカが握り飯を作っていた。


 「あ、セラさん! おはようっす。昨日の残りの地脈米で握ったんすけど、食べます?」


 「ありがとう。いただくわ」


 リュカの握り飯は少しいびつだけれど、塩加減が絶妙だ。味覚の天才は、握り飯ひとつにもその才能が出る。


 ユーディットが横目でリュカの手元を見て、何も言わなかった。言わないということは、合格ということだ。


 ハンナさんが漬物を小皿に盛って出してくれた。朝の光が差し込む厨房で、全員がもそもそと朝食を食べた。誰も昨日のことを口にしなかった。話す必要がなかった。ここにいるということが、全てだった。


 マリカさんが帳場の掃除を始めた音が聞こえた。いつも通りの朝だ。




 異変に気づいたのは、朝の九時頃だった。


 銀泉楼の前の道を——人が歩いてくる。


 一人じゃない。二人、三人。荷物を抱えている人もいる。


 最初に来たのは、南の畑で野菜を作っている初老の男性だった。名前は確か——クルト。町の説明会でも後ろの方に座っていた人。


 「あんた、旅館の嬢ちゃんだろう」


 「はい。セラフィーナです」


 「これ、うちの畑のカブだ。地脈水で育てたやつ。小さいが味はいい。——使ってくれ」


 木箱を差し出された。中には白くて丸いかぶが十個ほど、土がついたまま並んでいた。


 「え——いいんですか?」


 「昨日の話を聞いてな。監査官を追い返したって」


 「追い返したわけでは……」


 「正面から書類で叩き返したんだろう。エミール町長が走ったんだろう。——二十年、この町で誰もやらなかったことだ」


 クルトが無骨な手で後頭部を掻いた。


 「あんたの旅館が頑張ってるのは知ってた。知ってたが——俺たちは何もしなかった。恥ずかしい話だ。だから、これくらいは」


 蕪を受け取った。土の匂いがした。


 「ありがとうございます」


 頭を下げた。深く。




 クルトの後から、人が来た。次々と。


 「うちの鶏の卵、持ってきたよ。旅館の朝食に使っておくれ」


 エルダという中年の女性。籠に卵が二十個。藁に包まれている。


 「道の補修をしようと思うんだが、旅館の前の石畳、ガタガタだろう。直していいか」


 若い男が二人。名前はまだ知らない。でもガルドの弟子に顔が似ている——親戚だろうか。


 「洗い物くらいなら手伝えるよ。あたしら暇だからさ」


 主婦が三人、連れ立って来た。


 「花を持ってきた。玄関に飾ったらいいんじゃないかと思って」


 少女が一人。野の花を束にして。


 私は玄関先に立って、一人一人に頭を下げた。


 何度も。何度も。


 ノアが帳場の奥から出てきて、訪問者の顔を無言で見つめていた。驚いている——あの目は、驚いている。


 ハンナさんが私の隣に来た。


 「お嬢。こういうのをね——」


 声がかすれた。


 「旅館が町に根づくっていうのさ」




 昼前には、銀泉楼の前は人でいっぱいになっていた。


 正確に数えたわけではないけれど、町の人口が八十七人だとすれば、その半分以上が来たのではないか。持ち寄った食材が帳場に並び、手伝いの申し出が次々と入り、マリカさんが対応に追われていた。


 ガルドが腕組みをしたまま、玄関の柱にもたれて人の流れを見ていた。


 「……しょうがねぇな」


 一言だけ呟いて、道の石畳を直しに来た若者たちのところに歩いていった。「おい、そこの石はそうじゃねぇ。こうだ」と怒鳴りながら。


 エミールさんも来ていた。昨日とは打って変わって——いや、昨日の覚悟がまだ体に残っているのだろう。背筋が少しだけ伸びていた。相変わらず眼鏡を直す癖はあるけれど、目が違う。


 「セラフィーナさん、何かお手伝いできることは——」


 「エミールさん。今日は——お祝いしませんか」


 「お祝い?」


 「はい。この旅館が営業を続けられることの。みんなが来てくれたことの。——ちょうど食材もたくさんあるし」


 エミールさんが目を丸くした。それから——少しだけ笑った。泣きそうな笑顔だったけれど、確かに笑っていた。




 庭にテーブルを出した。といっても、修復中の端材を並べてガルドが即席で組み上げたものだ。弟子の二人が椅子代わりの丸太を運んできた。


 ユーディットとリュカが厨房に飛び込んだ。


 「小僧、地脈米を炊け。大鍋で。全員分だ」


 「了解っす! 何合炊きます?」


 「知るか。あるだけ炊け」


 ユーディットの目が輝いていた。大量調理は王都のレストランで鍛えた腕の見せ所だ。町の人が持ち寄った食材を次々と捌いていく。クルトの蕪を薄切りにして源泉蒸しにかける。エルダの卵を割って温泉卵を仕込む。誰かが持ってきた猪の燻製を厚めに切り分ける。


 「この蕪、いい」


 ユーディットが一切れ口に入れて目を閉じた。


 「地脈の水で育ったやつだな。甘みが深い。——蒸したら化けるぞ」


 リュカが谷鱒を炭火にかけた。ガルドが持ってきた霧杉炭の上で、皮がぱちぱちと爆ぜる。脂が炭に落ちて香りが立ち上った。


 ハンナさんの漬物が大皿に盛られた。ハンナさんの漬物は、銀泉楼の全盛期から変わらない味だと、古くからの町の住民は知っている。


 庭に匂いが広がった。


 「うまそうな匂いだなぁ」


 「こっちの鱒、もう焼けた?」


 「もう一個くれ!」


 地脈米のおにぎり。谷鱒の塩焼き。蕪の源泉蒸し。猪の燻製。ハンナさんの漬物。温泉卵。それから——エルダが急いで焼いてきた素朴なパンと、少女が持ってきた野の花を浮かべた湧水。


 旅館の料理じゃない。寄せ集めの、即興の、不格好な食事だった。


 でも——笑い声が、溢れていた。


 テーブルを囲む人たちの顔が明るい。二十年ぶりに、この町に——こんな顔が集まった。ハンナさんがそう言った。




 ノアは、輪の端にいた。


 庭の隅の木の下。自分の皿を膝の上に置いて、一人で食べている。いつも通りだ。人混みが苦手なのは知っている。


 でも、今日くらいは。


 「ノア」


 私は握り飯を二つ持って歩いていった。


 「こっちに来なさいよ」


 「……騒がしい」


 「騒がしいのがお祝いってものでしょう。ほら」


 握り飯を一つ差し出した。ノアが受け取った。指が一瞬、私の手に触れた。


 「嫌なら帰っていいけど」


 「……別に嫌とは言っていない」


 立ち上がった。背が高いから、木の枝に頭をぶつけそうになった。


 テーブルの端——本当に端の端——だけど、輪の中に座った。リュカが「ノアさん、鱒もう一切れどうっすか」と皿を差し出して、ノアが無言で受け取った。ユーディットが「学者先生、もう三杯目じゃないか」と呆れた声を上げたが、目が笑っていた。


 ガルドが反対側の端に座っていた。二人は対角線上にいて、目を合わせなかった。でもガルドが「蕪の蒸し具合、悪くねぇ」と呟いたとき、ノアが「源泉の温度が安定しているからだ」と返した。会話のような、そうでないような。二人の距離感は相変わらずだった。


 マリカさんは立ったまま、お茶を配っていた。仲居の仕事をしている。座ったらいいのに、と声をかけたら、「……私はこちらの方が落ち着きます」と微かに笑った。


 あの笑顔は——本物だった。




 食事が一段落したころ、エミールさんが立ち上がった。


 「あ、あの——皆さん、少しだけ」


 声が裏返った。何度目だ、とハンナさんが小さく笑った。


 エミールさんは眼鏡を直した。手が震えている。テーブルの端に手をついて、何度か息を整えてから——話し始めた。


 「き、今日は——ありがとうございます。えっと、この町は——」


 噛んだ。


 リュカが「がんばれ町長!」と叫んだ。笑い声が起きた。エミールさんの顔が赤くなった。でも——笑った。自分でも笑った。


 「す、すみません。改めまして——」


 深呼吸。


 「この町はもう——死にかけの町じゃありません」


 声が、少しだけ太くなった。


 「二十年間、私たちは……諦めていました。街道が移って、源泉が弱まって、人が出ていって。もう何をしても無駄だと。私自身が——一番、そう思っていました」


 眼鏡の奥の目が潤んでいた。もう潤み始めている。泣き虫町長。


 「でも、銀泉楼が——セラフィーナさんが——この町にもう一度、火を灯してくれました。旅館に灯りが灯って。お客様が笑って。厨房から匂いがして。——昨日は、みんなで書類を作って、監査官の前に立って」


 声が震えた。


 「私は十五年間、町長の椅子に座って、何もしませんでした。怖かったんです。決断して、失敗するのが。でも——昨日、走りました。初めて。人生で初めて、町長として走りました」


 涙が落ちた。眼鏡を通って、頬を伝って。


 「町長として……いえ、この町に住む一人として——感謝します。セラフィーナさん。ノアさん。ガルドさん。ユーディットさん。リュカくん。ハンナさん。マリカさん。そして——今日ここに来てくださった、皆さん」


 頭を下げた。深く。


 拍手が起きた。


 最初は誰かが一人。それが広がって——庭全体を包んだ。


 エミールさんが顔を上げた。涙と鼻水でぐちゃぐちゃの、あの顔だった。でも——昨日と同じだ。昨日の「町長の顔」と同じだ。


 ハンナさんが呟いた。


 「また泣いてるよ、あの子は」


 声が——温かかった。




 午後になると、人は少しずつ帰っていった。


 でも帰り際に、みんな同じことを言った。


 「また来るよ」


 「何かあったら言ってくれ」


 「旅館、応援してるからな」


 私は玄関先で、一人一人を見送った。暖簾の下に立って。マリカさんが染めた藍色の暖簾の下で、何度も頭を下げた。


 全員が帰った後、庭に残った食器をみんなで片づけた。リュカが鍋を洗い、ユーディットが炭を始末し、ガルドが即席テーブルを解体した。マリカさんが花を花瓶に移し、ハンナさんが箒で庭を掃いた。


 ノアは——黙って椅子代わりの丸太を運んでいた。


 日常が戻ってきた。でも——昨日までとは違う日常だった。




 夜。


 全員が寝静まった後、私は一人で帳場に座った。


 魔導灯の柔らかい光の中で、手帳を開く。


 使い込んだ革の手帳。前世から——いや、今世で新しく買い直したものだけど、癖は同じだ。何でもメモする。計画を書く。数字を並べる。前世コンサルの職業病。


 ページをめくった。最初のページには、ミストヴァレーに着いた日の走り書きがある。


 『銀泉楼。全30室。大浴場3。源泉あり(微弱)。建物の骨格は健全。修復可能。——最高の物件』


 あの日の興奮を思い出す。廃墟を見て目を輝かせた自分を。


 その下に、後から書き足した計画がある。


 フェーズ1「証明」——この旅館に可能性があることを証明する。


 一室を直した。最初の客を迎えた。銀貨三十枚の売上。それは——証明だった。


 赤ペンで線を引く。達成。


 フェーズ2「基盤」——旅館として成立する土台を作る。


 仲間が集まった。十室が直った。大浴場に湯が満ちた。暖簾を掲げた。看板料理ができた。監査官の壁を越えた。


 赤ペンで線を引く。達成。


 フェーズ3「拡張」——宿泊客を増やし、経営を安定させる。


 口コミが広がり始めている。リピーターが出始めている。まだ道半ばだけれど——進行中。


 その下の行。


 フェーズ4——


 ペンが止まった。


 フェーズ4の欄は空白だった。前から書こうと思っていたのに、書けなかった。言葉にすると大きすぎて。


 「町」


 一文字だけ、書いた。


 ペンを置いて、手帳を見つめた。


 今日、町の人たちが来てくれた。野菜を持って。卵を持って。「手伝う」と言って。


 あれは——旅館じゃない。旅館だけでは、あの光景は生まれない。


 棚田がある。川がある。森がある。牧場の跡がある。この谷全体が——かつては一つの「もてなし」だったのだ。


 旅館は、その中心にすぎない。


 「旅館だけじゃ、足りない」


 声に出してみた。静かな帳場に、自分の声が響いた。


 「この谷全体を——」


 ペンを取り直した。でも——書かなかった。まだ。


 まだ言葉にならない。でも——景色は見えている。朝、屋根の上から見た景色。金色に染まる谷。棚田が光り、川が走り、森が霧を纏い、その真ん中に銀泉楼の屋根がある。


 全部が、繋がっている。


 手帳を閉じた。


 窓の外を見た。夜の谷は暗い。でも——銀泉楼の窓からは灯りが漏れている。厨房の灯り。帳場の灯り。二号室のノアの部屋の灯り(まだ起きているのだ、あの人は)。


 今日、町の人たちの目が変わった。「よそ者の令嬢」を見る目ではなかった。「うちの旅館の女将」を見る目だった。


 ——いや。「うちの町の女将」だったかもしれない。


 「旅館の次は——町だ」


 今度は——笑って言えた。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


 第24話「逆転の朝」、そして第2章「銀泉楼、再始動」の完結回です。


 嵐が去った翌朝、町の人々が自ら銀泉楼に集まってくる。野菜を持って、卵を持って、「手伝うよ」と言って。これが書きたかった。セラが町を変えたのではなく、セラの行動を見て、町の人たち自身が動き出した。その転換点が、この第24話です。


 エミールさんの噛み噛みスピーチ。書きながら筆者も笑い、そして泣きました。泣き虫町長は、きっとこれからも泣くでしょう。でもそれは弱さではなく、この人の誠実さだと思っています。


 第1章では廃墟に夢を見た一人の令嬢が、第2章では仲間を得て旅館を蘇らせました。修復、料理、温泉、そして権力との戦い。銀泉楼は「本物の旅館」になりました。


 でも、セラの手帳にはまだ空白があります。フェーズ4「町」。旅館の次は——この谷全体を、一つの「もてなし」にすること。第3章「大地を拓く」では、棚田、養魚場、牧場、森林——ミストヴァレーの一次産業の復興に挑みます。


 ここまでお付き合いくださった皆さまに、心から感謝します。ブックマーク・評価・感想をいただけると、執筆の大きな励みになります。第2章で一番好きな話は何でしたか。ぜひ感想で教えてください。第3章でもよろしくお願いいたします。

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