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追放先は廃旅館でした——前世は旅館コンサルの令嬢、今度は自分の手で王国一の名宿を作ります  作者: 歩人


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第23話: 町長の背中

 エミール・ホフマンは、十五年間、逃げ続けてきた。


 町長の椅子に座りながら、何一つ変えられなかった自分を——今日、初めて恥じた。




 町長室の窓から、銀泉楼の屋根が見える。


 昨夜、あの帳場の灯りは一晩中消えなかった。窓に映る人影を——エミールはずっと見ていた。自分の執務室から。帰れと言われたのに。帰ったふりをして、ここに戻ってきた。


 セラフィーナさんが法典を開いていた。マリカが書類を書いていた。ガルドが図面を引いていた。ノアが論文を広げていた。リュカは途中で眠ってしまったが、目を覚まして握り飯を配っていた。ハンナさんが、みんなの肩にそっと手を置いていた。


 戦っていた。全員が。


 ——俺は何をしている。


 机の引き出しに手を伸ばした。一番奥。書類の下。十五年間、一度も開けなかった封筒がある。


 埃をかぶった茶封筒を取り出す。封蝋が固くなっている。爪で引っかいて、ようやく開いた。


 中から一枚の羊皮紙。


 『東部辺境州包括承認状』。辺境総督アルベルト・フォン・ヴァイデンブルクの署名。重厚な朱印。日付は十五年前——エミールが町長に就任した年だ。


 あの日、辺境総督が巡回に来た。新任の町長に、形式的に渡されたもの。


 「この包括承認状があれば、辺境自治区の行政判断について、上位行政区の個別承認を省略できます。町長殿の裁量で、迅速な行政運営を」


 総督はそう言った。ミストヴァレーはもう衰退が始まっていて、総督の視察も義務的なものだった。


 エミールは受け取って、引き出しにしまって——それきりだった。


 使えなかった。使うような決断を、一度もしなかったからだ。


 営業許可の申請が来ても、ディートリヒに「手続きが」と言われれば引き下がった。新しい商店を開きたいという住民がいても、「中央の認可が下りるまで待ちましょう」と先延ばしにした。


 この承認状を使えば、町長の判断で即座に行政手続きを進められた。十五年間、いつでも使えた。


 使わなかったのは——怖かったからだ。


 自分が決断して、失敗したら。この町がもっと悪くなったら。あの監査官に睨まれて、もっとひどいことになったら。


 だから何もしなかった。何もしないことが、最も安全だと思った。


 ——違った。


 何もしないことが、この町を殺していた。


 あの子たちが徹夜で書類を作っている間、自分は帳場の隅に座って、膝の上で手を握り締めているだけだった。何の役にも立てなかった。


 エミールは承認状を両手で持ち上げた。手が震えている。


 正午まで——あと三時間。




 ディートリヒ・ハイネは、時間通りに現れた。


 正午の鐘が鳴り終わらないうちに、銀泉楼の暖簾をくぐった。暖簾に触れる手が丁寧で、それがかえって恐ろしい。穏やかな笑みを浮かべ、革の書類鞄を携えている。灰色の制服に皺一つない。


 「おはようございます。——いえ、もう正午ですね。お約束の時間です」


 私は玄関に立っていた。背後にノア、マリカさん、ガルドが控えている。リュカとユーディットは厨房から顔を出し、ハンナさんは帳場の奥で腕を組んでいる。


 全員が、眠れなかった目をしていた。でも——負ける気はしなかった。


 「書類をお持ちしました」


 マリカさんが差し出した書類の束を受け取り、私がディートリヒに手渡す。十二通の認証書類。茶色い表紙に赤い紐で綴じてある。マリカさんが仕上げに表紙をつけ、目録まで整えていた。


 ディートリヒが書類を受け取った。薄い灰色の目が、最初の一枚に落ちる。


 めくる。


 指が止まった。


 一瞬——ほんの一瞬だけ、目が見開かれた。すぐに表情を戻したが、見逃さなかった。驚いている。書式が完璧であることに。


 一通ずつ、丁寧にページをめくっていく。沈黙が長い。帳場の柱時計が秒を刻む音だけが聞こえる。


 五通目を読み終えたあたりで、ディートリヒが口を開いた。


 「……辺境自治区特例措置、第三十四条の援用ですか」


 声に感情はない。事実を確認するだけの口調。


 「よく調べましたね、セラフィーナ嬢。この条文を知っている辺境の住民は、私の巡回範囲でも三人といません」


 「法は法です。ハイネ監査官殿がおっしゃった通りに」


 視線が交差した。私は逸らさなかった。ディートリヒの方が先に目を落とした。次の書類をめくる。


 七通目。八通目。


 指が速くなっている。最初の慎重さが、焦りに変わりつつある。粗を探しているのだ。書式の不備を。条文の引用ミスを。添付データの矛盾を。


 ——ない。マリカさんの仕事に隙はなかった。


 十二通目を読み終えた。ディートリヒが書類の束を閉じ——一度、息を吐いた。


 「書式は適正。条文の引用も正確です。添付データの整合性にも問題はない」


 私の胸が跳ねた。認められた——


 「しかし」


 ディートリヒの声が、静かに私を止めた。


 「第三十四条の但し書き、第二項をご確認ください。地方行政官の認証が中央の証明書に代替するためには——上位行政区の承認印が必要です」


 血の気が引いた。


 但し書き。第二項。——読んだ。確かに読んだ。手帳のメモにも書いてあった。でも承認印の具体的な取得手段までは——


 「上位行政区とは、この場合、東部辺境州総督府です。総督府の承認印がなければ、町長認証の効力は——残念ながら、生じません」


 ディートリヒが書類を丁寧にテーブルに置いた。


 「総督府は王都から馬車で五日。往復で十日。……物理的に、本日正午の期限には間に合いませんね」


 穏やかな声。穏やかな笑み。完璧な論理。


 書類は完璧だった。法的根拠も正しかった。でも——もう一段、壁があった。


 ノアが私の横に来た。低い声で囁く。


 「……総督府の承認か。この期限では不可能だ」


 ガルドが舌打ちした。マリカさんは目を伏せている。ハンナさんの肩が落ちた。


 リュカが拳を握り締めた。「そんなの、ずるいっすよ……」


 ディートリヒが書類鞄を開き、別の書類を取り出した。営業停止命令書。もう用意してあった。最初から——こうなることを見越していたのだ。


 「セラフィーナ嬢。あなたのご準備には敬意を表します。しかし、規則は——」


 そのとき。


 玄関の暖簾が揺れた。


 駆け込んできたのは——エミールさんだった。




 息を切らしていた。


 額に汗が浮き、眼鏡が曇っている。くたびれたフォーマル服の襟が歪んで、普段以上にみっともない格好だった。


 でも——目が、違った。


 いつもの怯えた光ではなかった。薄い青色の瞳に、覚悟が灯っていた。


 「し、失礼します——ハイネ監査官殿」


 声が裏返った。でも止まらなかった。


 「上位行政区の承認なら——あります」


 帳場が静まり返った。ディートリヒの目が細くなった。


 「……町長殿。何を——」


 エミールさんが、震える手で茶封筒を差し出した。中から取り出したのは、古びた一枚の羊皮紙。


 「十五年前に、辺境総督から預かった包括承認状です」


 私は息を呑んだ。包括承認状。辺境総督が地方行政官に対して発行する、上位承認の包括的委任状。これがあれば——個別案件ごとに総督府の承認を取る必要がない。町長の判断が、そのまま上位承認済みの効力を持つ。


 前世で見たことがある。自治体の首長が国の包括的な委任を受けて、独自に許認可を行う制度——アセットマネジメントの分権化と同じ構造だ。


 ……いけない。今それを口にしたら台無しだ。


 「一度も使わなかった」


 エミールさんの声が震えた。


 「使う勇気がなかった。十五年間——この引き出しの一番奥に、しまったままでした」


 ディートリヒがエミールさんを見た。灰色の目に、初めて読み取れない色が浮かんだ。


 「昨夜、あの子たちが——セラフィーナさんたちが、徹夜で書類を作っているのを見ていました。窓の外から。帳場の灯りが、一晩中消えなかった」


 涙が——流れていた。眼鏡の奥から。拭おうともしない。


 「あの人たちは戦っている。この町のために。銀泉楼のために。私は十五年間、この町の町長でした。なのに——何もしなかった。何も決めなかった。怖かったから」


 声が大きくなった。エミール・ホフマンが、初めて声を張っていた。


 「でも今日——今日だけは、町長でいさせてください」


 包括承認状をディートリヒに差し出した。手が震えている。でも——引っ込めなかった。




 ディートリヒが包括承認状を受け取った。


 羊皮紙を開く。辺境総督アルベルト・フォン・ヴァイデンブルクの署名。重厚な朱印。発行日付は十五年前——だが有効期限の記載がない。包括承認状に期限はない。町長の任期中、効力を持ち続ける。


 ディートリヒの指が、署名の上を滑った。


 長い沈黙。


 帳場の空気が凍りついていた。誰も呼吸すら忘れたように、監査官の灰色の目を見つめている。


 ディートリヒが、もう一度、十二通の認証書類に目を通した。今度は——粗を探す目ではなかった。確認する目だった。


 耐震性認証。温泉成分認証。衛生基準認証。それぞれの添付資料。条文の引用。書式。印章の位置。


 そして——包括承認状。


 すべてが、繋がった。


 法的根拠。正式な書式の書類。町長の認証印。上位行政区の承認。


 一つも、欠けていない。


 ディートリヒが書類を閉じた。


 「……問題ありません」


 静かな声だった。


 「全書類、法的に有効です」


 営業停止命令書を——鞄にしまった。


 「営業停止命令は、発出いたしません」


 リュカが「やった!」と叫んだ。ユーディットが「騒ぐな、小僧」と言ったが、声が震えている。ガルドが壁にもたれたまま天井を見上げ、大きく息を吐いた。ハンナさんが両手で口を覆い、目を真っ赤にしていた。


 マリカさんは——何も言わなかった。ただ、静かに目を閉じた。


 ノアが私の隣に立った。何も言わない。でも——肩が触れた。それだけで十分だった。


 ディートリヒが書類鞄の留め金を閉じた。革の音が帳場に響く。


 「セラフィーナ嬢」


 私を見た。薄い灰色の目。——そこに何が映っているのか、読めなかった。敗北。安堵。苛立ち。あるいは——その全部。


 「お見事でした。法を盾に、人を集め、時間内に——全てを揃えた。私の巡回歴で、ここまでの対応は初めてです」


 慇懃に頭を下げ——踵を返した。暖簾をくぐり、銀泉楼を出ていく。


 背中を見送った。灰色の制服が、午後の陽光の中に消えていく。




 ディートリヒが去った後、全員の力が抜けた。


 文字通り——崩れ落ちた。


 ガルドが床にどっかと座り込み、腕を組んだまま目を閉じた。ユーディットが厨房の壁にもたれて天を仰いだ。リュカはその場に大の字に転がった。ハンナさんだけが柱に手をついて立っていたが、膝が震えていた。


 ノアは窓辺に背をつけ、長い息を吐いている。マリカさんは帳場の椅子に静かに座り、インクに染まった指先を見つめていた。


 そして、エミールさんは——泣いていた。


 しゃがみこんで、両手で顔を覆って。嗚咽が漏れていた。


 「すみません……すみません……」


 何度も繰り返した。


 「もっと早くに——もっと早くに、あの承認状を使っていれば。十五年も——十五年も、この町を——」


 「エミールさん」


 私はしゃがんで、エミールさんの肩に手を置いた。温かかった。震えていた。


 「あなたが来てくれなかったら、負けてました」


 エミールさんが顔を上げた。涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔。


 「あの包括承認状がなければ、法的な根拠は成立しなかった。書類も、法律も、全部揃えたのに——最後の一枚がなければ、全部無駄でした。あの一枚を持ってきてくれたのは、エミールさんです」


 「で、でも——十五年も——」


 「十五年間、使わなかったから今日がある。——あの承認状は、今日のためにあったんです」


 ハンナさんがゆっくり歩み寄った。


 「エミール」


 幼馴染の名前を、静かに呼んだ。


 「あんた——今日、初めて町長の顔をしてたよ」


 エミールさんの嗚咽が、一瞬止まった。


 「駆け込んできた時のあんたの顔——あたしは忘れないよ。あれが町長の顔だ。十五年かかったけどね。……遅くなんかないさ」


 ガルドが目を開けた。床に座ったまま、ぼそりと言った。


 「……俺もだ。二十年、大工を辞めてた。それが今ここにいる。遅ぇも何もあるか」


 エミールさんが、ゆっくりと立ち上がった。眼鏡を外し、袖で涙を拭いた。何度も。何度も拭いてから——かけ直した。


 「もう逃げません」


 声が——変わっていた。弱々しさが、まだ残っている。消えたわけじゃない。でもその奥に、一本の芯が通っていた。


 「この町の町長として——やれることを、やります」


 私は、手を差し出した。


 「一緒にやりましょう。町長さん」


 エミールさんが——初めて、迷わずにその手を握った。




 馬車が銀泉楼を離れていく。


 御者台の隣に座ったディートリヒ・ハイネは、窓から遠ざかる旅館の屋根を見つめていた。


 藍色の暖簾が、午後の風に揺れている。あの美しい筆字——あれを書いたのは、あの寡黙な仲居だろう。行政文書の書体と同じ手だ。


 書類は完璧だった。法的に瑕疵がない。どの条項を突いても崩せない。


 ——包括承認状。


 あの臆病な町長が、走ってきた。汗だくで、眼鏡を曇らせて、声を裏返しながら。あの男が——十五年間逃げ続けたあの男が。


 懐から手紙を取り出した。ヴィクトール卿の書簡。「宿を潰せ」。短く、明瞭な命令。


 手紙を見つめた。


 それから——ミストヴァレーの方角を振り返った。谷に午後の霧が降り始めている。その霧の向こうに、銀泉楼の屋根がある。灯りがともる窓がある。あの女将の声が、あの徹夜の帳場の光が。


 ディートリヒは手紙を畳み、鞄にしまった。


 「……面白い女だ」


 馬車の揺れに声が溶ける。独り言。誰にも聞こえない。


 「だが、次はこうはいかん」


 馬車は霧の中へ消えていった。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


 第23話「町長の背中」。エミール・ホフマン、覚醒回です。


 十五年間、町長の椅子に座りながら何一つ決断できなかった男が、初めて走った。汗だくで、涙だらけで、声は裏返っていたけれど——あの瞬間、彼は間違いなく「町長」でした。


 包括承認状という一枚の紙は、十五年間引き出しの奥で眠っていました。使う勇気がなかったのではなく、使うべき瞬間が来なかった——のかもしれません。セラフィーナたちが命がけで書類を揃える姿を見て、エミールの中で何かが動いた。「今日だけは、町長でいさせてください」。この一言を書くとき、筆者の手も震えました。


 一方、去りゆくディートリヒ。あの男は単純な悪役ではありません。セラの戦い方に驚き、エミールの覚悟に動揺し——それでも命令を畳んで鞄にしまう。彼の物語は、まだ始まったばかりです。


 次回、第24話「逆転の朝」。嵐が去った翌朝、ミストヴァレーの空気が変わります。町の人々が初めてセラに近づいてくる。「みんなの旅館」が、本当の意味で動き出す回です。


 ブックマーク・評価・感想をいただけると、執筆の大きな励みになります。エミールの涙とディートリヒの呟き、どちらが心に残りましたか。ぜひ感想で教えてください。よろしくお願いいたします。

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