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追放先は廃旅館でした——前世は旅館コンサルの令嬢、今度は自分の手で王国一の名宿を作ります  作者: 歩人


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第21話: 監査官の影

 その男は、微笑みながら入ってきた。


 書類鞄を片手に、もう片手で暖簾を丁寧にくぐり——


 「素晴らしい旅館ですね。……営業許可証を拝見してもよろしいですか」




 三日は、あっという間だった。


 グランドオープンからの一週間は怒涛だった。ヘルマンさんが街道中で触れ回ってくれたおかげで、二組、三組と新しいお客様が訪ねてきた。冒険者の傷が治ったという話はギルドの掲示板に貼り出されたらしく、「温泉の治癒効果を確認したい」という冒険者パーティまで現れた。


 リュカの料理は日ごとに安定し、ユーディットが「まあ、六十点だ」と言った。あの人の六十点は世間の九十点だと、もうみんなわかっている。


 手帳に書き込む数字が増えていく。宿泊客の延べ人数、売上、客室稼働率。グラフを描けば右肩上がりだ。このまま行けば——そんなことを考え始めた矢先だった。


 エミールさんの通達どおり、その日は来た。




 午前十時。私は帳場で仕入れ台帳を整理していた。


 暖簾がふわりと揺れ、涼しい風とともに一人の男が入ってきた。


 痩身。姿勢がよい。砂色の短髪をきっちりと分け、灰色の上着に銀のバッジ。革の書類鞄を片手に提げている。そして——笑顔。穏やかで、礼儀正しく、一分の隙もない笑顔。


 「お邪魔いたします。巡回商務監査官のハイネと申します。東部辺境州の定期監査でして」


 名乗る声まで穏やかだった。物腰が柔らかく、声量も控えめで、まるで旅館に泊まりに来た紳士のようだ。


 でも——目が笑っていない。


 前世で何百人もの行政官、銀行の審査担当、保健所の検査員と向き合ってきた。その経験が、背筋に冷たいものを走らせた。この人は——危険だ。


 「ようこそ、銀泉楼へ。女将のセラフィーナ・ルヴェールと申します。監査のご連絡は町長から伺っております」


 笑顔で迎えた。相手が笑顔なら、こちらも笑顔だ。これは——戦いの合図だ。


 「それはそれは。では早速——営業許可証を拝見しても?」




 ディートリヒ・ハイネの監査は、丁寧だった。


 おそろしく、丁寧だった。


 帳場の宿泊台帳を一ページずつ確認する。宿泊客の記名が正しいか。日付に漏れがないか。料金の記載が適正か。ページをめくる指は淀みなく、時折ペンで何かを書き留める。


 「記帳は正確ですね。素晴らしい」


 褒められた。でも嬉しくない。


 次に客室を回った。私が案内し、ハイネ氏が後ろを歩く。一号室。窓を開け、外壁を確認し、柱を指先で叩いた。


 「この建物は建築魔法で補強されていますね」


 「はい。地脈学者のノア・ヴェステルンドが建築魔法で構造強化を施しています」


 「ヴェステルンド氏、王立学院の出身ですか。優秀な方だ」


 笑顔。穏やかな笑顔。


 「ところで——魔法建築の場合、耐震性証明書は特別認証が必要になります。王国建築協会の発行する第二種認証ですね。お持ちでしょうか」


 心臓が跳ねた。


 王国建築協会。王都グランシュタットに本部がある機関だ。そこが発行する第二種認証。——辺境から取り寄せるには、最低でも一ヶ月はかかる。


 「現在、取得手続きの準備中です」


 「そうですか。残念ながら、魔法建築の営業施設には認証の提示が義務付けられておりまして」


 書類鞄からくるりと巻物を取り出し、該当条項を指差す。確かに——書いてある。


 嫌な汗が背中を伝った。




 浴場。


 ディートリヒ・ハイネは靴を脱ぎ、丁寧に揃えてから脱衣所に入った。浴槽の縁に手を置き、湯の温度を確かめ、壁の石組みを見上げた。


 「見事な浴場ですね。泉質も素晴らしい。……湯の温度は何度ですか」


 「四十二度前後です。地脈の魔力による加温で安定しています」


 「温泉成分の分析証明書はお持ちですか。公認機関——王国温泉分析局の発行するものです」


 王国温泉分析局。これもまた王都の機関だ。辺境の温泉を分析してもらうには、検体を王都に送り、結果が戻るまで二ヶ月以上。


 「現在——」


 「取得中、でしょうか」


 微笑んだ。こちらの答えがわかっていて聞いている。


 「ハイネ様。この温泉の泉質は、地脈学者の計測で上位三パーセントと確認されています。学術的なデータは——」


 「お気持ちはわかります。しかし、学術データと公認証明書は別のものでして。規則は規則です」


 穏やかに。丁寧に。だが——動かない。




 厨房。


 ユーディットが腕を組んで立ち、リュカが背筋を伸ばした。


 ディートリヒ・ハイネは調理台の隅を指先でなぞり、換気窓の位置を確認し、食材の保管棚を一つずつ開けた。


 「清潔ですね。管理が行き届いている。料理長はどちらで修業を?」


 「王都の厨房で三十年」


 ユーディットが短く答えた。表情が険しい。この老料理人は、人を見る目が鋭い。ハイネ氏の笑顔の裏にあるものを、最初から嗅ぎ取っている。


 「素晴らしい。——では、調理場の衛生基準検査証明書をお願いいたします。これは東部辺境州の保健局が発行するものですが」


 ユーディットの眉が跳ね上がった。


 「辺境に保健局の検査官が来たのは、いつの話だ」


 「申し訳ありません。制度上は、申請すれば検査官の派遣を要請できます。ただ、派遣までには——」


 「どれくらいだ」


 「三ヶ月ほどでしょうか。予算の関係で」


 三ヶ月。ユーディットが鼻を鳴らした。


 書類鞄からまた巻物が出てくる。該当条項を示される。確かに——書いてある。




 全ての巡回が終わった。


 帳場に戻り、ディートリヒ・ハイネは書類鞄を机に置いて、きちんと姿勢を正した。


 「セラフィーナ嬢。率直に申し上げます」


 穏やかな笑顔が——少しだけ冷たくなった。


 「現時点で、銀泉楼には以下の三点の書類が不足しています。第一に、魔法建築の耐震性証明書、第二種認証。第二に、温泉成分の公認分析証明書。第三に、調理場の衛生基準検査証明書」


 三つ。全て、辺境では即日入手が不可能な書類。


 「これらの書類が揃わない場合——」


 間を置いた。その間の取り方すら計算されている。


 「——営業停止命令を発出せざるを得ません」


 帳場の空気が張り詰めた。


 廊下の奥でハンナさんが息を呑むのが聞こえた。リュカが拳を握りしめる気配。マリカさんは無表情のまま、微かに唇を引き結んでいた。


 「提出期限はいつですか」


 声が震えないように気をつけた。コンサルタント時代に叩き込まれた鉄則——感情を見せるな。数字と法律で戦え。


 「明日の正午まで」


 空気が——凍った。


 明日の正午。今から二十六時間。王都の機関に申請して、認証を受けて、書類を揃える——物理的に不可能な期限。


 わかっている。彼もわかっている。これは監査じゃない。これは——潰しだ。


 「ハイネ様」


 私は手帳を机に置いた。震える手を、膝の上で握った。


 「辺境の旅館に対して、王都の中央機関の証明書を求めることの合理性について——」


 「規則ですので」


 遮られた。笑顔のまま。


 「法は法です。私個人の裁量でどうにかできる問題ではありません。ご理解いただけますか」


 ノアが書斎の入り口に立っていた。腕を組み、深い緑の目でディートリヒ・ハイネを見つめている。視線が鋭い。


 「……規則を武器にするのは、それ自体は合法だ。だが——」


 「ヴェステルンド氏。学者であれば、法の重要性はご理解いただけるかと」


 ディートリヒ・ハイネが立ち上がった。書類鞄を手に取り、丁寧に頭を下げる。


 「明日の正午に、改めてお伺いいたします。書類のご準備をお願いいたします。——良い旅館ですね。こちらのお湯は、大変素晴らしかった」


 暖簾をくぐって出ていく。丁寧に、暖簾を手で押さえて。


 足音が石段を降りていく。


 静寂。




 エミールさんが崩れるように椅子に座った。


 「終わりだ……」


 「終わりじゃありません」


 私の声が、自分でも驚くほど硬かった。


 「エミールさん。あの監査官は、前にもミストヴァレーに来たことがありますか」


 「は、はい。四半期ごとに……もう何年も。あの人が来るたびに、何かが潰されるんです。酒場が税務の再査定で赤字になったのも、鍛冶屋の営業時間が制限されたのも——」


 やはり。ディートリヒ・ハイネは「定期的に来る脅威」だ。前世で見たことがある——特定の地域を意図的に衰退させるために、行政の権限を恣意的に使う手口。


 ノアが低い声で言った。


 「タイミングが出来すぎている。グランドオープンの直後に急な巡回通知。裏に誰かいる」


 「ヴィクトール卿」


 私が名前を出すと、エミールさんの顔から血の気が引いた。


 「あ、アシュフォード侯爵……でも、証拠は——」


 「今は証拠の話じゃない。今は——書類の話よ」


 手帳を開いた。白紙のページに、素早くリストを書き出す。


 「耐震性証明書。温泉成分分析証明書。衛生基準検査証明書。この三つを、明日の正午までに——あるいは、それに代わるものを揃える」


 「不可能です……王都の機関に申請して——」


 「中央の機関に頼る必要は、本当にないの?」


 全員の目が私に集まった。


 「修復工事をやっていた頃、ノアの書棚から王国法典を借りて読んだの。エミールさんの書庫で辺境自治区の特例法にも目を通した。あの時は予防策のつもりだったけれど——まさか、こんなに早く必要になるとは」


 ノアの眉が僅かに動いた。


 「お前——法典を読んでいたのか」


 「先回りして調べるのが当たり前——営業許可で揉めたくなかったから」


 咄嗟に取り繕った。前世の癖が、こういう場面でつい顔を出す。


 「とにかく。辺境には辺境の法体系があるはず。中央の基準を丸ごと適用しなくてもいい抜け道が——」


 ノアが書斎から分厚い本を持ってきた。王国法典の第七章。ページに挟んだ栞が、私が以前読んだ箇所を示していた。


 「第三十四条。辺境自治区における営業許可の特例措置。——お前が印をつけた箇所だ」


 「覚えてたの?」


 「俺の本に勝手に印をつけるな。——だが、役に立つ」


 読み上げた。辺境自治区では、中央の証明書に代えて、地方行政官の認証で代替できる規定。


 「つまり、エミールさんが町長として認証すれば、法的には有効——」


 光が見えた。だが——。


 「認証書類を作成する必要がある。行政文書の正式な書式で。しかも三種類」


 エミールさんが青い顔で手を振った。


 「わ、私には書式がわかりません。中央の行政文書なんて書いたことが——」


 「行政文書の書式。宛名の書き方。印章の位置。文体——」


 そこまで呟いたとき。


 廊下の奥から、静かな足音がした。


 マリカさんが帳場に入ってきた。両手を前で組み、いつもの寡黙な表情。でも——その目に、微かな決意が宿っていた。


 「……私が、お手伝いできるかもしれません」


 「マリカさん?」


 「行政文書の書式は——多少、心得があります」


 多少、では済まない能力を持っていることは、もうわかっている。宮廷書記の書体。完璧な帳簿管理。この人は——何者なんだろう。


 でも今は。


 「お願いします。——助けてください、マリカさん」


 マリカさんが小さく頷いた。


 「それから、建物のデータが要る」


 ガルドが腕を組んだまま壁から背を離した。いつの間にか帳場に来ていた。


 「柱の寸法、壁の厚さ、石組みの配置——全部頭に入ってる。書き出すのに三時間くれ」


 「俺は建築魔法の数値記録を出す」


 ノアが言った。


 「魔法建築の強度データ。構造解析。地脈による補強効果の計測値。——学術的に反論できないレベルで揃える」


 「衛生記録なら、俺が毎日つけてるっす」


 リュカが手帳を掲げた。厨房の温度管理記録、食材の入荷日、保存状態——ユーディットに命じられて毎日書き込んでいたものだ。


 「小僧の帳面が役に立つ日が来るとはな」


 ユーディットが苦笑した。


 「あたしは温泉の効能データをまとめるよ。二十年分の記憶が——まだ、この頭に残ってる」


 ハンナさんが額を指先で叩いた。


 全員の目が、私に集まった。


 時計を見た。正午まであと——十八時間。


 手帳を開いた。白紙のページにペンを走らせる。作業分担。タイムライン。必要な書類のリスト。誰が何を担当するか。


 「正午まで十八時間。全員、集合して。——夜通しやるわよ」




 馬車の中は、暗かった。


 ディートリヒ・ハイネは揺れる座席に背を預け、膝の上に広げた書簡を見つめていた。


 封蝋はアシュフォード家の紋章。深い紫の蝋に押された、鷲と盾の印。


 『ミストヴァレーの宿を潰せ。営業停止に追い込め。手段は任せる。ただし、証拠を残すな』


 ヴィクトール卿の筆跡は、いつも端正だった。美しい字で、冷酷な命令を書く男だ。


 書簡を畳み、鞄にしまった。


 窓の外に目をやる。ミストヴァレーの谷が遠ざかっていく。霧が山肌を包み、夕暮れの光が谷底に金色の筋を描いている。


 あの旅館のことを考えた。


 藍色の暖簾。磨き上げられた帳場。湯気の立つ浴場。廊下の木の艶。客室の窓から見えた谷の景色。


 そして——あの女将の目。


 琥珀色の瞳が、真っ直ぐにこちらを見ていた。怯えてはいなかった。怒ってもいなかった。ただ——戦う意志だけが、静かに燃えていた。


 「……綺麗な宿だった」


 呟いた声は、馬車の軋みに紛れて消えた。


 ディートリヒは自分の手を見下ろした。書類鞄を握る手。十年間、この手で書類を武器にしてきた。正しいことをしている人間を、規則という名の刃で切りつけてきた。


 かつては違った。下級官僚として、法を正しく運用することに誇りを持っていた時代があった。横領の濡れ衣を着せられ、ヴィクトール卿に「協力すれば不問にする」と囁かれたあの日から——手は、汚れた。


 あの女将が法典の条文を引いた時、胸の奥が痛んだ。法を武器にする自分と、法を盾にして正面から戦おうとする彼女。同じ法律を、まるで違う使い方で。


 「辺境自治区の特例措置、か」


 知っている。あの条文の存在を。だから敢えて触れなかった。教えなかった。辺境の小さな旅館の女将が、あの条項に辿り着けるはずがない——そう思っていた。


 だが、あの目は。


 馬車が揺れた。書簡が鞄の中で音を立てた。


 ディートリヒは窓の覆いを下ろした。谷の景色が見えなくなった。


 「……明日の正午か」


 間に合うはずがない。そう思った。そう——思いたかった。


 間に合わなければ、自分のせいではない。規則に従っただけだ。いつもそうやって、良心に蓋をしてきた。


 だが今夜、あの旅館では灯りが灯っているのだろう。あの女将が、仲間を集めて、夜通し書類を準備しているのだろう。


 わかっていた。


 目を閉じた。眠れないことも、わかっていた。



最後まで読んでいただきありがとうございました。


 銀泉楼にとって、最初の「書類の敵」が現れました。剣も魔法も振るわない男。武器は書類鞄と規則の条文だけ。けれど、現実の旅館経営においても、行政の監査や許認可は経営者にとって最大の脅威のひとつです。セラが前世で身につけた「行政と戦う力」が、ようやく試される時が来ました。


 ディートリヒの恐ろしさは、引用する条文がすべて実在し、要求する書類がすべて法的に必要なもの——という点にあります。穏やかな笑顔の裏で、重箱の隅をつつく丁寧な監査。「規則ですので」という一言が、どれほどの暴力になり得るか。


 馬車の中のディートリヒの独白は、特に大切に書いた場面です。「綺麗な宿だった」という呟き。完全な悪に染まり切れない男の、揺れる輪郭が伝われば嬉しいです。


 次回、一晩で揃えた書類を携えたセラが、正面から挑みます。そしてマリカの異常な有能さが、さらに波紋を広げていきます。


 ブックマーク・評価・感想をいただけると、執筆の大きな励みになります。銀泉楼を応援してくださる皆さまの声が、次を書く力になっています。よろしくお願いいたします。

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