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追放先は廃旅館でした——前世は旅館コンサルの令嬢、今度は自分の手で王国一の名宿を作ります  作者: 歩人


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第20話: 暖簾を掲げる

 新しい暖簾を染めてくれたのは、マリカさんだった。


 藍色の布に白い文字——「銀泉楼」。


 その字が、あまりにも美しくて、私は息を飲んだ。




 グランドオープン当日の朝。空は雲ひとつなく晴れていた。


 暖簾は前夜のうちにマリカさんが仕上げていた。藍染の布に白抜きの三文字。筆の運びに迷いがなく、どこか気品がある。前世の日本で見てきた老舗旅館の暖簾を思い出す——いや、それ以上かもしれない。


 「マリカさん、この字……」


 「……お気に召さなければ、書き直します」


 「違う。綺麗すぎて驚いてるの。どこで書道を?」


 マリカさんが一瞬だけ目を伏せた。いつもの間——何かを飲み込む間。


 「幼い頃に、少し」


 嘘ではないのだろう。でも、全部でもない。ノアが横目で暖簾の文字を見つめ、眉を僅かに上げたのがわかった。宮廷書記の書体。彼はそれを見抜いている。


 でも今は、聞かない。


 「最高の暖簾よ。ありがとう」


 マリカさんの唇が、ほんの少しだけ緩んだ。笑顔とは言えない。でも——凍りついた湖面に、最初のひびが入るような、小さな変化だった。




 玄関前に全員が集まった。


 ガルドが腕を組んで柱にもたれている。ユーディットが前掛けの紐を結び直している。リュカが落ち着かない様子で爪先を踏んでいる。ハンナさんが割烹着の襟を正して背筋を伸ばしている。マリカさんは少し離れた場所に立ち、ノアはさらにその後ろにいた。


 私は暖簾を両手で持った。


 藍色の布が朝の風に揺れる。白い文字が日差しを受けて光った。


 前世で二百軒以上の旅館の暖簾を見てきた。掲げる瞬間に立ち会ったことも、何度もある。でもそれは——いつも、他人の旅館の暖簾だった。


 「銀泉楼、本日より——」


 声が震えた。深呼吸を一つ。


 「——営業再開いたします」


 暖簾を掛けた。竿を通し、玄関の横木に吊るす。藍色の布が、ふわりと広がった。


 風が吹いた。暖簾が翻り、白い文字が朝日に照らされる。


 静寂。


 最初に動いたのはハンナさんだった。袖で目元を押さえ、小さく鼻を啜った。


 「……ローザ様。見えますか。暖簾が、戻りましたよ」


 ガルドが鼻を鳴らした。何か言おうとして、結局何も言わず、暖簾の柱を手のひらで軽く叩いた。「悪くねぇ」——その手つきが、そう言っていた。


 リュカが目を赤くして、慌てて袖で擦った。「泣いてねぇっす」と誰にともなく呟く。


 ノアは暖簾を見上げて、一つ頷いた。それだけ。でも、それで十分だった。




 最初のお客様が来たのは、昼過ぎだった。


 石段を上がってくる足音が四つ。先頭の大柄な男が、暖簾を見て破顔した。


 「おおっ! 見ろ、暖簾が掛かってる! 言ったろう、いい宿ができるって!」


 ヘルマンさんだった。


 雨に濡れてたどり着いたあの夜から、数ヶ月。約束通り——戻ってきてくれた。しかも、一人ではなく。


 「仲間を連れてきた。こいつらに、あの飯と湯を味わわせてやりたくてな!」


 ヘルマンさんの後ろに三人の姿があった。


 同じ行商人仲間らしい恰幅のいい男性。老夫婦。それから、革鎧に剣を帯びた若い男女の二人組——冒険者だろう。


 「ヘルマンがうるさくてな。『俺が見つけた宿は最高だ、開業したら絶対行け』って街道で触れ回ってるんだ」


 行商人仲間が苦笑する。


 老夫婦の奥さんが谷を見渡して、目を丸くした。


 「まあ……なんて綺麗な谷」


 冒険者の女性が大浴場の看板を見つけて、連れの男の肩を叩いた。


 「見て! 温泉だって! 傷に効くかも!」


 私は深く頭を下げた。


 「ようこそ、銀泉楼へ。お待ちしておりました」


 フロントラインの対応が最初の印象を決める——そんな前世のセオリーが頭を過ぎった。いや、今はそういうのはいい。ただ、目の前のお客様を精一杯もてなすだけだ。




 チェックインはマリカさんが担当した。


 「ヘルマン様、お帰りなさいませ。前回と同じ一号室をご用意しております。お連れの皆様には、谷が見えるお部屋をそれぞれ——三号室が老夫婦様、五号室がお二人のお部屋でございます」


 所作に無駄がない。お客様の荷物を預かるタイミング、部屋への案内の歩速、振り返って微笑むタイミング——全てが計算されている。いや、計算ではない。体に染みついた動きだ。


 三号室の引き戸をマリカさんが開けた。


 老夫婦が一歩、部屋に踏み入れて——足が止まった。


 窓の向こうに、谷の景色が広がっていた。午後の日差しが霧を透かし、棚田が緑の段々になって山裾まで続いている。遠くに銀霧川の水面がきらめく。


 「おじいさん……」


 奥さんが旦那さんの袖を引いた。


 「こんな景色、王都でも見たことないわ」


 「ああ……」


 旦那さんは窓辺に歩み寄り、しばらく黙って谷を眺めていた。




 夕刻。大浴場に湯気が立ちこめる時間。


 最初に風呂に向かったのは冒険者の二人だった。


 脱衣所で荷を解き、引き戸を開ける。白い蒸気が迎える。内湯の御影石の浴槽が銀色の湯で満たされ、天井の檜板が湯気を吸って甘い香りを放っている。


 「うわあ……」


 女性の冒険者が声を上げた。


 二人が浴槽に足を沈めた。連れの男性の左腕に、魔物の爪痕が残っている。治りかけの、赤黒い傷跡。


 湯に浸かって数分。男性が自分の左腕を見つめた。


 「……おい。傷が」


 「え?」


 「傷口が——塞がりかけてる。昨日まで赤かったのに」


 銀泉楼の湯。泉質上位三パーセント。治癒効果はノアが数値で保証している。でも数値と、実際に自分の体で感じるのは違う。


 「嘘でしょ……すごい。なにこのお湯」


 二人の驚く声が、浴場の天井に反響した。


 ——脱衣所の外で、ハンナさんが小さく笑っていた。


 「お嬢。あの声、聞こえたかい」


 「聞こえました」


 「銀泉楼の湯は昔から『三日浸かれば刀傷が消える』と言われてたんだよ。……ずっと聞きたかったね、あの声」




 夕食。


 帳場に隣接する食事処に、四組のお客様が揃った。ヘルマンさんと行商人仲間、老夫婦、冒険者の二人。


 ユーディットとリュカが厨房に立っている。


 「小僧。先付から出すぞ。盛り付けを崩すな」


 「了解っす!」


 最初に運ばれたのは、銀泉草の白和え。小鉢に盛られた白い和え物の上に、銀色の葉が一枚、清涼な香りを漂わせている。


 次に椀物。蓋を開ける——。


 老夫婦の奥さんが、手を止めた。


 霧茸の源泉蒸し吸い物。蓋を取った瞬間に立ち上る湯気と香り。地脈の霧が育てた銀色の茸の旨味が、源泉の蒸気で凝縮されている。


 「……なんて香り」


 声が震えていた。旦那さんが一口、汁を啜った。目を閉じた。


 「……これは」


 それ以上、言葉が続かなかった。二口目は無言で。三口目も無言で。椀を両手で包み込むように持って、最後の一滴まで飲み干した。


 「若い頃、王都の一番高い料亭で食事をしたことがある」


 旦那さんが静かに言った。


 「あの時よりも——旨い」


 厨房から覗いていたリュカが、拳を握りしめていた。ユーディットがリュカの頭を軽く叩いた。


 「泣くな。まだ焼物がある」


 「泣いてないっす……!」


 谷鱒の霧杉炭火焼き。焼き上がりの皮はぱりぱりと香ばしく、身はほろりとほどける。リュカが焼いた。火加減を見極めるあの目が、父親譲りの真剣さで炎を見つめていた。


 地脈米の源泉水炊きご飯。蓋を開けると甘い湯気が立つ。ヘルマンさんが一口食べて、にやりと笑った。


 「うまくなったな! 前に来たときも旨かったが、段違いだ」


 「料理長が来たんです。天才が二人になりました」


 「二人?」


 「厨房に天才の味覚を持った少年と、王都で腕を鳴らした料理人がいるんです」


 ヘルマンさんがご飯をもう一杯おかわりした。行商人仲間も。老夫婦も。冒険者も。




 食後、各部屋を回った。


 「何かご不便はございませんか」


 前世で「女将の巡回」と呼んでいた習慣。お客様が部屋に戻った後、必ず一度顔を出す。不満があれば聞き、満足していれば安心させる。それが——客のリピート率を二割上げる、と前世のデータが示していた。


 いや。今はそんな数字じゃなくて。


 ヘルマンさんの部屋を訪ねた。


 「あんた——本物の女将になったな」


 ヘルマンさんが笑った。初めて来たあの雨の夜、「いい宿だ」と言ってくれた人だ。


 「あの夜はシーツも斜めだったし、料理は少年が一人で必死に作ってたし、部屋は一室しかなかった。それが今じゃ——大浴場に部屋が六つ、料理は王都の料亭を超えてる」


 「ヘルマンさんが最初のお客様だったから。あの銀貨三十枚が、全ての始まりでした」


 「はは。行商人の嗅覚は正しかったってわけだ。——次はもっと仲間を連れてくるぞ。覚悟しとけ」


 老夫婦の部屋では、奥さんが窓辺に座って夕焼けを見ていた。


 「ねえ、お嬢さん。この宿は——帰ってきたくなる場所ね」


 胸が詰まった。


 旅館は建物じゃない。お客様が「帰ってきた」と思える場所。ハンナさんの言葉が、お客様の口から聞けた。




 夜。


 お客様が全員部屋に戻り、銀泉楼は静かになった。


 私は下駄を引っかけて庭に出た。


 振り返って、建物を見上げた。


 灯りが——灯っていた。


 一号室に灯り。三号室に灯り。五号室に灯り。ヘルマンさんたち行商人の部屋にも灯り。六つの窓に、暖かい光が灯っている。


 窓の向こうに、人の気配がある。笑い声。湯上がりの足音。布団に入る衣擦れの音。


 大浴場の方角から、微かに湯気が立ち上っている。夜風に乗って、源泉の香りが漂ってきた。


 「……旅館だ」


 呟いた。


 前世で二百軒の旅館を見てきた。灯りが灯った旅館を、何度も外から見上げた。コンサルタントは裏方だ。あの灯りの中には——入れなかった。


 今、あの灯りは、私の旅館の灯りだ。


 私が直した屋根の下で、私が敷いた布団の上で、お客様が眠ろうとしている。私の旅館の料理を食べて、私の旅館の湯に浸かって。


 足音がした。


 振り返ると、ノアが縁側に立っていた。外套を羽織っておらず、書斎から出てきたばかりの格好だ。


 「客が寝てから騒ぐな。声が聞こえたぞ」


 「独り言よ。聞いてないで出てきなさいよ」


 「聞こえたから出てきた」


 ノアが縁側から降りて、私の隣に来た。一緒に建物を見上げた。


 「灯りが六つ。全室稼働まではまだ遠い」


 「わかってる。でも今日は——今日だけは、数字の話はしたくない」


 「……そうだな」


 沈黙が落ちた。夜風が暖簾を揺らす音だけが聞こえる。庭の虫の声。遠くで銀霧川のせせらぎ。


 ノアが呟いた。


 「……いい宿だ」


 短い言葉だった。


 ノアの言葉はいつも短い。でも、嘘は言わない。お世辞も言えない。「悪くない」が最大級の賛辞だったあの男が——「いい宿だ」と言った。


 私は何も答えなかった。答えられなかった。


 涙が、勝手に落ちた。


 声を出さずに泣いた。一度目の涙は——銀泉楼に初めて来た日、屋根に穴の空いた廃墟を見て、「ここが私の旅館だ」と震えた夜だった。あの涙は決意の涙だった。


 今日の涙は、違う。


 嬉しくて。ただ、嬉しくて。


 灯りが見えて。湯の匂いがして。お客様の笑い声が聞こえて。隣に、一緒にここまで来た人がいて。


 「……泣くな。客に聞こえる」


 「泣いてない」


 「泣いてるだろう」


 「泣いてるけど——笑ってる」


 涙を拭って、笑った。泣きながら笑うのは、たぶん初めてだった。


 ノアが目を逸らした。月明かりの下で、耳が赤いのが見えた。


 「……明日も早い。寝ろ」


 「うん。——ノア」


 「何だ」


 「ありがとう。あなたがいなかったら、この旅館は——」


 「俺は地脈のデータが欲しかっただけだ」


 まだ、そう言う。でも、もういい。今はそれでいい。


 灯りが一つ消えた。ヘルマンさんの部屋だ。眠りについたのだろう。


 「おやすみなさい、お客様」


 小さく呟いて、私も建物に戻った。




 翌朝。


 朝食は銀泉草の粥と温泉卵と浅漬け。ヘルマンさんが「やっぱりこの粥は最高だ」と言い、老夫婦が「毎日食べたい」と微笑み、冒険者の女性が「傷がほとんど消えてる!」と驚いた。


 チェックアウトの時間。


 ヘルマンさんが銀貨を数え始めた。


 「前回は三十枚だったな。今回は——四人分で百五十枚。これでも安すぎるくらいだが」


 「ヘルマンさん。正規の料金表をお渡しします。次からはこちらで」


 手帳から料金表の紙を抜いて渡した。一泊二食の宿泊料。ノアと一緒に算出した損益分岐点そんえきぶんきてん——いや、採算ラインから逆算した数字だ。


 ヘルマンさんが紙を見て、口笛を吹いた。


 「良心的だな。王都の中級旅館と同じか、もう少し安い。この質でこの価格なら——口コミはすぐ広がるぞ」


 石段の下で、四人が手を振った。


 「また来る!」


 「次は春がいいな。桜は咲くのかい?」


 「山桜が咲きます。谷が薄桃色になりますよ」


 お客様が霧の中に消えていくのを、全員で見送った。


 私は手帳を開いて、今朝の数字を書き込んだ。


 『グランドオープン初日——宿泊客4名、改修済み6室中3室稼働。売上: 銀貨150枚。稼働率50%(改修済み客室ベース)。顧客満足度: 全組リピート意向あり。』


 その下に、数字ではない言葉を書いた。


 『全室に灯りが灯った。お客様が「帰ってきたくなる」と言ってくれた。——ここが、私の旅館だ。』




 午前中。片付けと翌日以降の仕込みを終えて、帳場で書類を整理していたときだった。


 玄関の引き戸が勢いよく開いた。


 暖簾を跳ね上げるようにして、エミールさんが転がり込んできた。息が上がっている。額に汗。顔が——青い。


 「せ、セラフィーナさん!」


 「エミールさん? どうしたんですか」


 「巡回監査官が——来ます!」


 帳場の空気が凍った。


 ハンナさんの手が止まった。ノアが書斎から顔を出した。マリカさんが廊下の奥で足を止めた。


 「来週——いえ、三日後です! 今朝、早馬で通達が届いて——定期巡回だと書いてありますが、こんな急な通達は初めてで——」


 三日後。定期巡回。


 嫌な予感がした。前世のコンサル時代の勘だ。「定期巡回」という名目で、営業を潰しに来る行政指導——何度も見てきた。


 「エミールさん。落ち着いて。——その通達、見せてもらえますか」


 エミールさんが震える手で書状を差し出した。


 受け取って、目を通す。


 『巡回商務監査官ディートリヒ・ハイネ——』


 聞いたことのない名前。だが、この通達のタイミングが偶然とは思えない。グランドオープンの翌日に、急な巡回通知。


 ノアが私の横に来て、書状を覗き込んだ。


 目が合った。ノアも同じことを考えている。


 「——来たか」


 ノアが低く呟いた。


 私は手帳を閉じた。グランドオープンの余韻に浸っている時間は——終わった。


 「全員、集合してください。対策を立てます」



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