第39話 グレンシャムへ
翌日、ぼくと先生はグラウベンの家を後にした。どうやら先生は、本当に思いつきでグレンシャム行きを決めたらしい。キャリガン夫人ですら、当日までその計画を知らされていなかったのだから。
いつものごとく朗らかに玄関の扉を開けたキャリガン夫人は、ぼくらの旅支度を見て仰天し、さらに先生から「しばらく留守を頼むよ」と告げられて、ほとんど失神しそうになっていた。この件に関しては、さすがのぼくも先生を擁護しきれない。
「なんてことでしょう! いくらなんでも急すぎですわ!」
反論の余地もない悲鳴をあげながら、それでも夫人は大急ぎでお弁当をこしらえてくれた。次にやってきたのはダリルさんだ。つくづく面倒見のいいこの紳士は、荷物が多いぼくらのために、停車場まで馬車を出してくれることになっていたのだ。
ちなみに、前日の買い物でスケッチブックだけでなく、頑丈な山歩き用の靴、雨用の長靴とコート、その他こまごまとした日用品、さらにはそれらを収める立派な鞄まで買い与えられたぼくは、感謝するより費やされた金額を思って空恐ろしくなってしまったのだが、それについてはダリルさんも先生も口をそろえて「子どもが気にすることじゃない」と取り合ってくれなかった。
お気をつけて、というキャリガン夫人の声に送られて、ぼくらはダリルさんの馬車に乗り込み、停車場で蒸気をあげている汽車に乗り換えた。
ぼくが汽車に乗ったのは、イヴォンリーからグラウベンにやってきた時を入れて二度目のことだったが、あれを同じ汽車の旅と一括りにすることはとてもできない。不安と空腹を道連れに固い座席で身を縮めていた最初の旅と、ゆったりした一等車の個室で先生と過ごすひと時を、どうして同列に語れようか。
飛ぶように過ぎていく窓の外の景色にいちいち歓声をあげるぼくに、先生は広げた新聞の向こうから呆れまじりの微笑をよこしたものだ。途中駅で売り子から買い求めたレモネードと林檎酒の瓶がよく冷えていたこと、キャリガン夫人が持たせてくれたサンドイッチがすばらしく美味しかったことは、今でも昨日のことのように覚えている。
汽車は緑の林を抜け、トンネルをくぐり、荒野を横切り、陽もだいぶ西に傾いた頃、ようやく目的地のグレンシャムにたどりついた。
「ヘレン」
駅の前では小さな荷馬車がぼくらを待っていた。その御者席で頬杖をついていた人に、先生は親しげな声をかけた。
「出迎えありがとう。世話をかけるね」
「まったくだよ」
ぶっきらぼうに応じて、その人は荷馬車から降りた。鮮やかな刺繍をほどこしたスカーフで髪を覆ったその人は、先生と同じくらいの年齢の女性だった。
女性にしては背が高く、痩せた身体つきのその人を見て、ぼくの胸に浮かんだのは、なんて綺麗な人だろうという感嘆の念だった。
何に誓ってもいいが、これは断じてお世辞なんかじゃない。よく日に焼け、そばかすの散ったその顔は全体的に鋭く、荒々しい印象で、たしかに一般的な美人の基準からは外れていたかもしれない。だけど代わりに、その人には鋼のような力強い美しさが備わっていたのだ。くわえてあの「色」ときたら!
そのとき、ぼくが例の眼鏡をかけていなかったのはまったくの偶然で、そしてじつに幸運だった。おかげであんなに素敵なものを見ることができたのだから。
裸の目に映ったその「色」は、ダリルさんと同じ華やかな赤だった。だけど、躍る炎のようなダリルさんの「色」とは異なり、その人がまとうのは美しい翳りを帯びた茜色、空をやさしく染める夕陽のような輝きだった。
「今度はまた何しにきたんだい」
「避暑だよ」
「そりゃ結構だねえ」
唇をゆがめてそう言うと、その人は髪をつつんでいたスカーフをとった。とたんに見事な銅色の髪がこぼれ、ぼくはその艶やかさにふたたび目を奪われた。
「そっちの坊やは?」
ヘレンさんの声でぼくは我に返り、あわてて帽子をとった。
「ルカ・クルスです。はじめまして……」
「ああ」
ぎこちない挨拶を口にしたぼくを、ヘレンさんは豊かな森を思わせる深緑の瞳で眺めおろし、無造作にその言葉を放った。
「オリヴァの息子か」




