第38話 いつかの約束
「ルカ君、きみ泳ぐのは得意かな」
先生が唐突にそう尋ねてきたのは、六月も終わりの、雨の日の午後だった。いつものように先生と差し向かいでお茶を飲んでいたぼくは、ビスケットにのばしかけた手をとめて首をかしげた。
「得意……でもないですけど」
イヴォンリーの村で川遊びをした経験はあれど、それだけで泳ぎが得意だと胸を張れるはずもなく、煮え切らない回答をするしかなかったぼくに、先生は「ああ」と笑って手をふった。
「質問が悪かった。きみ、泳ぐのは好きかい」
「好きです」
これには自信をもって答えることができた。陽をあびてきらきら輝く水面に飛び込むときの爽快感。あれは何物にも代えがたい。
「それはよかった」
何がいいのかさっぱりわからなかったが、謎かけのような先生の言動には慣れっこになっていたぼくは、あわてず騒がず、半分に割ったビスケットに林檎のジャムをたっぷり盛りつけた。
「じゃあ、これを飲んだらすぐに支度するとしよう」
「出かけるんですか」
窓の外は、どしゃぶりの雨だった。こんな中を出かけたら、あっという間にずぶ濡れになること請け合いだろう。それこそ川でひと泳ぎするのと変わらないくらいに。そんなことを考えていたぼくだったが、先生の次の台詞はぼくの予想をはるかに超えていた。
「そう。しばらくこの街を離れようと思ってね」
ぼくはあやうくビスケットを喉につまらせるところだった。盛大に咳き込むぼくに、先生は「大丈夫かい」とお茶のカップを手渡してくれた。
「……先生」
ビスケットのかけらをお茶で流し込んで、ぼくはそろりと問いかけた。
「お一人で?」
「まさか」
即座に否定されて、ぼくはほっとした。街を離れてどこへ行くにせよ、ぼくが置き去りにされる心配はなさそうだと。
「北のグレンシャムというところに、わたしの持ち家があってね。夏はそこで過ごそうと思うんだ。ほら、この街は最近雨ばかりでいい加減うんざりだろう? おまけに、これからどんどん暑くなることだし」
だから避暑としゃれこむのだと、先生はつづけた。
「田舎だけど、いいところだよ。海はないけど、大きな湖も川もあるから、これからの季節は毎日泳げる。魚釣りや山歩きもいいだろうね。ああ、だけどきみには」
先生はそこで言葉をきって、意味ありげな笑みをぼくに向けた。
「スケッチをする場所には事欠かないと言ったほうがいいかな」
ぼくはカップを両手でつつんだまま赤面した。
「……ご存じだったんですか」
「まあね」
先生はすました顔でうなずいた。
「未来の画伯がわたしの弟子だと思うと、鼻が高いよ」
「やめてください」
蚊の鳴くような声でぼくは抗議した。ぼくが何をそんなに恥ずかしがっていたのか、もうおわかりだろう。そう、ぼくはこの頃から絵を描いていたのだ。
ずっと描くことから遠ざかっていたぼくが、ふたたび絵に向かうようになったのは、明らかに先生の影響だった。
夜の舞台に踊る美しい光。そのひとかけらでも写しとれたら。ぼくの父と同じように、いちばん大事な思い出を、紙に描いて残しておけたら。そんな思いに突き動かされ、ぼくは古びた旅行鞄の底におさめていたスケッチブックをひっぱりだし、暇を見つけては余白に木炭を走らせるようになったのだ。
「気を悪くしたなら謝るよ。でも、いつかきみの絵を見せてもらいたいものだな」
お茶のカップを優雅に掲げ、先生は言った。
「きみはきっといい絵を描くんだろう」
そんなことないです、とぼくは赤い顔のまま応じ、恥ずかしさをまぎらわすためにビスケットを口に押しこんだ。
ほんのりバターの香るビスケットは、キャリガン夫人に教わってぼくが作ったものだった。見た目はまずまずで、夫人も「上出来ですよ」とほめてくれたのだが、軽さというか、口に入れたときのざっくりとした食感の妙は、夫人がいつもこしらえてくれるものに今三歩くらい及ばなかった。
夫人の教えに従って、なるべく手早く、そして──夫人いわく「これがいちばんのコツ」なのだそうだが──なるべく適当に作ってみたのだけれど、悲しいかな、経験と技量の差は圧倒的だった。
「ぼくなんて全然……下手で……」
「そんなこと」
先生は笑ってビスケットをひとつ取り上げた。
「関係ないよ。きみが描くなら、きっといい絵だ」
関係ない。先生はよくその台詞を口にしていた。時と場合、相手によって、声の温度と色を自在に使い分けて。ねえルカ君、いったい誰がそんなことを気にするんだい?
「だったら」
先生の言葉に勇気づけられて、ぼくはかねてから温めていた願いを打ち明けた。
「先生を描いてもいいですか」
意表を突かれたように先生は目を見張り、ぼくはちょっと得意な気持ちになった。先生を驚かせるなんて、滅多にないことだったから。逆はしょっちゅうだったけど。
「わたしを?」
「だめですか?」
「だめではないけどね」
先生は首をかしげてビスケットをかじった。
「対象としては面白みに欠けるんじゃないかい」
「そんなことないです」
「じっとしているのはあまり好きじゃないんだが」
「寝ているところでもいいんですけど」
「いや、それはだめだろう」
真顔で言い返した先生の様子がおかしくて、ぼくはつい噴き出してしまった。笑いの発作に襲われているぼくを呆れたような目で見やって、先生は「いつかね」と言った。
「いつか描いてもらうとしよう。偉大なる画家に、わたしの肖像画を」
「はい、当代一の幻術師の肖像画を」
お互い真面目くさった顔でうなずいて、それから同時に笑い出したところで、からんと玄関の呼び鈴が鳴った。
「よう、ルカ坊」
勝手知ったるといったふうに居間に現れたのは、先生の従弟のダリルさんだった。いつものように華やかな「色」をまとうダリルさんが加わると、湿っぽい空間にぱっと明るい炎が躍るような気がしたものだ。
「こんな天気で退屈しているだろうと思って、遊びにきてやったぞ」
「退屈しているのはきみだろう」
先生のぼやきを聞き流し、ダリルさんは椅子のひとつを占領すると、早速ビスケットの攻略にとりかかった。
「いまお茶をいれますね」
「おう、悪いな」
「もてなさなくていいよ、ルカ君」
腰を浮かしかけたぼくを、先生が止めた。
「すぐに帰るそうだから」
「つれないな、アーサー」
「あいにく、われわれはきみほど暇じゃないんでね。これから荷造りもしなきゃならないし」
「なんだ、夜逃げか?」
「旅行だよ」
憮然とした面持ちで、先生はグレンシャム行きの件を説明した。
「そりゃいいな。ルカ坊、おまえ釣りは好きか? あそこはでかい鱒が釣れるぞ。おれが前に釣り上げたのは、このくらいもあってな……」
ダリルさんが楽しそうなことを次から次へと話してくれたおかげで、ぼくはグレンシャムを訪れる前から、すっかりその土地のことが好きになってしまった。
「で、いつ行くんだ?」
ひとしきりグレンシャムの魅力について語った後で、ダリルさんは先生に訊ねた。
「明日」
「明日⁉」
これにはダリルさんだけでなく、ぼくも仰天した。
「明日って、おまえ、だったらなんでもっと早く言わないんだ!」
「先生、ぼく何を持っていけばいいんですか」
憤慨するダリルさんとおろおろするぼくを順番に眺めやり、先生はお茶をひと口飲んだ。
「落ち着きなさい、ルカ君。なにも海を渡ろうって話じゃないんだから」
「おまえはまたそういう……」
赤毛をかきまわしてダリルさんは立ち上がり、ぼくの腕をつかんだ。
「こうしちゃいられない。行くぞ、ルカ坊」
なんだか前にもこういうことがあったな、と思いながら、ぼくはダリルさんに引きずられるように居間を出た。
「ああ、ダリル」
ぼくたちの背中に先生がのんびりと声をかけた。
「買い物に行くなら、ついでに頼みたいものがあるんだが」
「かまわんが、何を買ってこいって?」
めずらしいと言いたげな顔でふりむいたダリルさんに、先生は微笑んで依頼の内容を告げた。
「スケッチブックを一ダース」




