第37話 妖精の鍵
「じゃあ先生は」
笑いをおさめたところで、ぼくは先生に尋ねた。
「その鍵をどうするんですか」
「返すさ。いずれね。あれはもともと我らのものじゃない。皇帝のものは皇帝に、妖精のものは妖精に」
芝居がかった口調で先生はそう言った。先生の正しさを認めながらも、ぼくはちょっとだけ惜しくもあった。なぜって、妖精の鍵を返すということは、先生のあの見事な幻術をもう見られなくなることを意味していたから。
「不服かな、ルカ君」
からかうような笑みを先生がよこす。
「それとも、きみが欲しい?」
「そんなことは……」
まったくない、とは言い切れなかった。当然だ。光り輝く幻影を自在にあやつる力を見せつけられて、そんなもの欲しくないと言える人間がどこにいるだろう。
言いよどむぼくを見て、先生は小さく笑った。
「惜しむ気持ちはよくわかるがね、鍵は返す。最初から、そう決めているんだ。ダリルなんかは自分によこせと、一時期それはうるさかったけどね」
ダリルさんか、とぼくは大柄な紳士の姿を思い浮かべた。たしかに、あの人だったら鍵を引き継ぐにふさわしいだろう。先生の従弟で、すばらしく綺麗な赤をまとう、洒落者で面倒見の良いあの人なら。
「ダリルさんから返してもらうのは?」
「だめだよ」
先生は苦笑してゆるく頭をふった。
「ダリルには渡せない。ダリルだけじゃない、他の誰にも……」
要らないんだよ、と。つぶやくように発せられた言葉には覚えがあった。ぼくが先生に弟子入りした日、午後の陽光おどる居間で、先生は同じ台詞を口にしていた。この先に世界に、あの力は必要ない、と。
「とにかく、ダリルだけはごめんだね。あの男に師匠呼ばわりされるほど、わたしは悪いことをしてきたつもりはない」
冗談めかして、だけど本気で嫌そうに先生はあごをなでた。ぼくは仏頂面で先生にかしずくダリルさんを想像してしまい、我慢できずに噴き出してしまった。
「さて」
それを合図にしたかのように、先生は立ち上がった。いつの間にか日はすっかり傾き、茜色の夕陽が床に先生の影を長く伸ばしていた。
「そろそろお腹が空かないかい、ルカ君」
言われてみれば、とぼくはうなずいて身を起こした。
「少し早いが夕飯にしようか。たしかキャリガン夫人がスープを作ってくれていたはずだ」
「じゃあ、ぼく用意しますね」
いそいそとベッドから降りようとしたぼくだったが、すかさず先生に止められた。
「病み上がりはおとなしくしてなさい」
「平気です。スープを温めるだけですし」
「そのくらいだったらわたしにもできるよ」
「先生」
余計なお世話だということは重々承知しつつ、それでもぼくは先生に確かめずにはいられなかった。
「爆発させないって約束してくれます?」
「……善処しよう」
この日、先生と交わした言葉を、ぼくは後にくりかえし思い返すことになる。舌が火傷するくらい熱いスープと、苦い後悔の味とともに。
夕闇に沈む屋根裏で、先生はさまざまなことを語ってくれた。だけど、いちばん大事なことは、そこに含まれていなかった。先生はじつに巧妙にぼくの目をそらし、先生が見せたい景色だけをぼくの前に広げてみせたのだ。それくらい、先生には造作もないことだったろう。当代一の幻術師にとっては。
誤解しないでほしいのだが、ぼくは先生を責めているわけじゃない。先生は最初から正直に明かしてくれていたのだから。自分は正直な人間ではない、と。
責められるべきはぼくの方だった。あの日、ぼくはもっと注意深く先生の言葉を拾うべきだった。先生の何気ない一言、ふとした拍子に見せた表情にもっと気を配り、別の問いを投げかけるべきだった。そうしたらあるいは、別の未来がひらけていたかもしれないのに。
くりかえし、それもう嫌になるほど、ぼくはこの日の記憶を掘り返すことになる。先生の言葉を、仕草を、表情を、どんな欠片も余さずかき集め、その一つ一つを手にとり目を凝らす。その行為に意味はないとわかっていながら、何度も何度も、くりかえし。
そんな出口のない迷路に、ぼくが閉じこもることになるのは、もう少し先のことだ。今はとにかく、つづきを語ろう。ぼくと先生の、それからの日々を。




