第19話 闇色の紳士
白い霧の裏側で、深く暗い「色」をまとった紳士。劇場の裏口に立つその人を前にして、ぼくの心臓はうるさいくらいに脈打っていた。だけど、少なくとも怯えてはいなかった。なぜってぼくのすぐ隣には、先生がいてくれたのだから。
「わたしに何かご用でも」
チェンバース卿、と先生が呼びかけたその人は、立ち枯れの木を思わせる痩せた身体に黒いコートをまとい、握り部分が銀色に光るステッキをついていた。
シルクハットの下の顔はよく見えなかったが、きれいに整えられた灰色の口髭のまわりには、深いしわが幾筋も刻まれていた。
「馬車を待たせてある」
初めて聞いた紳士の声に、ぼくはおやと思った。およそ温かみというものがまるで感じられないその声を、どこかで耳にしたことがあるような気がしたからだ。
「屋敷に来い。おまえに話がある」
「お断りします」
間髪入れずに先生は答えた。
「わたしはあなたに話などありませんので」
いつになく硬い先生の声に、ぼくは先ほどの既知感の正体に思い当たった。チェンバース卿と呼ばれた紳士の声は、先生の声とよく似ていたのだ。
もちろん、普段の先生の声はもっと柔らかかったけれど、声の質だけなら目の前の紳士とほとんど同じと言ってもいいくらいだった。まるで血のつながった親子のように。
「おまえになくとも、わたしにはある。いいから早く来い。私も暇な身ではない」
「相変わらず勝手な方だ。呼びもしないのに押しかけて、人の都合も聞かずに今から来いなどと。礼節というものを一から学ばれたほうがよろしいのでは?」
挑発的な物言いをする先生は、まるで見知らぬ他人のようだった。おそるおそる先生の顔をうかがったぼくに、先生はすばやい一瞥をくれた。何も心配することはない、と言うように。
「それが新しい“鍵番”か」
「今夜はわたしの助手です」
思わず後ずさりしかけたぼくの肩を、先生が後ろから腕をまわして支えてくれた。
「もうよろしいですか。これ以上あなたの前にいると、この子だけでなくわたしも気分が悪くなりそうだ。あなたのその──」
疎ましいものを示すように、先生は白手袋につつまれた左手をチェンバース卿に向けた。
「お姿は見るに堪えない。ご自分ではお気づきでないかもしれませんが」
紳士をとりまく濃い霧が、いっそう重さを増したようだった。もしも眼鏡をはずしたら、そこにどす黒く渦巻く闇が見えたことだろう。
「では失礼を。わたしも馬車を待たせていますので。話があるというなら、事前に招待状でもよこしてください。招きに応じる保証はいたしませんが」
一方的に話を打ち切り、先生はぼくの肩を抱いたまま歩きだした。
「アーサー」
すれちがいざまに、チェンバース卿は先生の名を呼んだ。
「あのくだらん見世物は今日限りにしろ」
「あなたに指図されるいわれはない」
ふりむいた先生は、チェンバース卿と同じ声で応じた。
「二度とわたしの舞台の邪魔はなさいませんよう。お客としてなら歓迎しますが」
見上げたぼくの背筋が寒くなるような笑顔で告げると、先生はふたたび歩きだした。
それからキャリガン氏の馬車が待つ表通りに出るまで、先生はひと言も口をきかなかった。




