研究室のひととき
「……まあ、ウィルには結構世話になってるから、」
パサリ。
「協力するに吝かではないんだけど、」
パサリ。
「言葉を聞いただけでは判らないわけで」
パサリ。
「でも、割と最近聞いた気がするのよねぇ」
パタン、ドサッ。
アンネは天井に届きそうなほど大きな脚立の一段に座り、うず高く積まれた段ボール内の資料を読んでは箱ごと投げ捨てる動作を繰り返していた。
アンネに案内されてきたここは『研究室』という名の物置小屋だった。実状は資料を段ボールに詰めて収めた倉庫だが、その構造は地下シェルターのようなものだった。部屋の中は薄暗かったが、空調だけは良いらしく(以前、家主が酸欠寸前になったために取り付けたのだそうだ)思った程には埃臭さを感じはしなかった。その部屋で二人はアンネの落とす段ボールや舞い上がる埃の被害に遭わないよう、やや距離をとって座っていた。他にやれることがなかった。ウィルに至ってはリュックをつっかえにして船をこいでいた。
全世界の言語を調べつくしているアンネだったが、全言語を即座に翻訳できるわけではなかった。元々そういう能力持ちのウィルと違い、独学で各言語を習得してきたアンネにとっては前準備が必要なのだ。
イメージではこうだ。まず、文法、単語等の特徴をもとに記憶の図書館から大まかなジャンルを推定し、その本棚へ移動する。本棚にはそれぞれ逆引き辞典のような役割の記憶があり、その辞典から数カ国語に目星をつけ各国語辞典を片っ端から読み漁り本命を絞る。絞った後は簡単だ。記憶の引き出しの一部を必要な言語で埋め尽くせばいい。アンネはそうやって言語を使用できる状態にするのだ。
だが今回の場合、逆引き辞典の段階で困難を極めた。どうもアンネのメモリーのジャンル分けから漏れてしまっていたようだ。つまり、ただ積み上げられた無数の本の山から虱潰しに探し出すも同然の状態になっていたのだった。
(最近色々あったから、記憶の整理が不十分だったわね)
アンネは己の未熟さを反省した。
「貴方達、資料見つけたら持っていくから、」
パサリ。
「外で待ってたらどうかしら」
パサリ。
「どうせ、それまでできることはないんだから」
パタン、ドサッ。
返事が返ってこないので二人の方を見やり、そこでアンネはウィルがうたた寝していることに初めて気が付いた。怒鳴りつけて起こしてやろうと脚立を数段降りたところでフィンが視界に割り込んだ。 冷や汗かきかき身振り手振りをしているさまに一度は首を傾げたものの、多分「寝かせてあげてくれ」と言いたい仕草なのだろうとアンネは理解した。それに気付いたフィンは大真面目な顔でアンネの瞳を見つめた。
――俺にできることがあったらなんでも言ってください。
フィンの真剣な眼は、はっきりそう言っていた。アンネはその眼にすっかり毒気を抜かれてしまった。アンネは肩の力を抜くと脚立から降りフィンを手招きした。フィンの眼が輝いた。
アンネはジェスチャーで自分の放り捨てた箱を隅に積み直す作業を教えた。それはすぐ通じたらしく、フィンはいそいそと作業にとりかかり始めた。初めてのおもちゃを与えられた三歳児ね――アンネはほほえましく思いながら自分の作業に戻った。
*
「あったわ!」
アンネの大声にうたた寝中のウィルはリュックからずり落ちそうになり、フィンは箱を取り落した。脚立から降りたアンネは紙束をフィンに見せた。紙束を見たフィンの顔が明るくなった。当たりだった。
「もう少し時間を頂戴! あとはこの言葉を使えるようにするだけよ」
アンネはそういうと資料解読に没頭し始めた。そして十五分後にはもう不自由なくフィンの言語、トキリア語を話せるようになっていた。
『この言語は共用語との共通点が少ないから難しいのよね。そもそも資料が少なくて研究も一苦労だったのよ』
しみじみと語り出すアンネをフィンは目を丸くして見つめた。
『たった十五分読んでただけでもう会話できるなんて……』
『それがこいつの取り柄だからな。これでも時間かかった方だよ』
アンネの代わりに答えるウィルにアンネは冷ややかな視線をぶつけた。
『あんたは今回寝てただけでしょうに、偉そうに語るんじゃないのっ』
『まあまあ』
フィンは慌ててとりなした。
『資料が少ない中、流暢に話せるくらい調べ上げたのは驚きですよ。一体どうやったんですか?』
『大したことじゃないわ。実際に国に行ったもの。そこで資料も揃えて、現地人とも話したわ』
アンネの返答に二人の顔が凍りついた。ウィルはアンネに食いつかんばかりに身を乗り出した。
『おまっ……もっと早く言え! どう行けばいいんだその国には⁉︎ それが知りたくて来たんだよっ‼︎」
詰め寄るウィルへアンネは少し困ったように言い淀んだ。
『うーん……今は多分出来ないわ。結構国内ごたついてたし……』
『何で? お前は入れたんだろ?』
『だって私、密入国したから』
アンネは満面の笑みで悪びれもせず答えた。その言葉で場の空気が一気に凍りついた。
『ち、ちょっと待った……ごめん、俺、意味がちょっとわからない……』
頭を押さえ混乱するフィンにウィルは呆れ顔で溜息をつき答えた。
『……つまりこのバカは、言語への飽くなき探究心を満たすためだけに犯罪に手を染めたってこと!マジかよ全く……』
『待ってよ! 完全に鎖国してる国だから、合法的に入るためには何年も申請積まなきゃいけなくて、それでやっと数日滞在できるかどうか。研究にはとても日数が足りないわ!』
聞き捨てならぬとばかりにアンネは必死に抗議した。その目は涙で潤んでいた。
『……別に国家機密を漏らした訳じゃないし、向こうの国には何も悪いことしてないんだから、別に良いじゃない!』
『良かねえだろ!』
ウィルはピシャリとはねつけた。
『どんな理由であれ、入ってくれるなって言ってる国にずかずか上がり込むなんて泥棒とかわらねぇよ!』
『……まあ少し落ち着けって』
フィンは懸命にウィルを宥めた。
『確かに悪いことかもしれないけどさ、おかげで俺は国の事を知るきっかけが出来たんだ。それにはとても感謝してる。そんなにアンネを責めないでくれよ』
『そんな悠長な事を……。こいつと一緒にいたら、俺達も濡れ衣着せられるかもしれないってのに……』
時間経過と共にウィルの怒りが少しだけ鎮まったその時だった。
頭上から爆音が響いた。
『これは何の音だ……?』
収まりかけていたウィルの怒りが再燃した。
『多分、石扉の爆弾が爆発した音。誰かが不用意に開けたんでしょうね』
アンネは特に驚いている風でもなくさらりと言った。フィンは青ざめた。
『石扉て……さっきのあれ?』
一歩間違えたら自分が吹き飛ばされていただろう。背筋に悪寒が走った。
『……何で、扉に爆弾なんか……?』
『あら、私一応女性だし。一人暮らしって結構物騒でしょう? 防犯よ、防犯』
――朗らかに無茶苦茶な返答をするアンネが一番物騒だ。
ウィルは余計な一言を呑み込んだ。代わりにフィンの耳元へ近づくと声をひそめて言った。
『……フィン、俺、一つ言ってなかったことがあるんだ』
『今になって、何だ?』
嫌な予感しかしなかったがフィンは律儀に聞き返した。
『アンネのこと、俺、黒色火薬って言ったろ?』
『そうだな』
『あのアホはな、言語の研究の為なら、どんな行動も厭わない。それが罪に問われるとしても、だ』
『……それは割と理解した』
『更にあいつはぶっ飛んでるから、セキュリティと称して自宅に地雷や爆弾を沢山設置してる。彼奴の不審行動に目をつけた他国の警察がたまに事情聴取にきて、その爆発に巻き込まれたりする訳だ。それが原因で戦争になりかけた事もあるらしい。この平和な小国の不安要素を挙げるとすれば、迷うことなく此奴だろう』
フィンの頬を一筋の汗が伝った。目の前で無邪気に微笑んでいるアンネに目眩を覚えた。
『……まあその、つまりだ。あいつの行動は予想以上に強力な爆発を引き起こす黒色火薬みたいなもんなんだ。黒色火薬って二つ名は、そういう意味だ……』