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ペクトラ  作者: KEN
断章 エマ・キルシュバウム ~泉下~
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教会の夜

 夜も更け、短針が真上を過ぎた頃。

 ウィルは単身、教会にいた。


 入り口は固く閉ざされていた。しかしいい塩梅に崩れている外壁の窪み、窓枠、排水パイプを利用し、ウィルは壁伝いに梯子のある小部屋の窓まで登った。予め用意した小石を投げ込み、窓にガラスがはまっていないことを確認すると、ウィルは腕の力と壁を蹴った反動を利用し、ひらりと内側へ飛び込んだ。受け身をとった際の床への衝撃が鈍く響いたが、皆が寝静まっている真夜中にその音に気付く者などいる筈がなかった。

 ウィルは服についた埃を払い、周りを見回しながらゆっくり立ち上がった。蒼い月明かりを頼りに梯子へ近づぎ、ウィルは一歩一歩踏みしめるように重い足取りで登り始めた。


 ウィルが梯子を登り切ると、一人の女性の後ろ姿がそこにはあった。薄蒼い月明かりを受けたその後ろ姿は暗く、しかしはっきりとしていた。踝までの丈はあろうかという白いワンピースと束ねられていない焦茶色の長髪が、微かに吹く風にたなびいた。


 その後ろ姿がエマのものだと、ウィルは一目で確信した。


 女は此方を振り向かず、黙って佇んでいた。足元をよく見ると爪先が床の外側に出ているのが分かった。一歩間違えれば真っ逆さまに転落してしまいそうな立ち位置だ。辺りに厳かな緊張感が漂っているようにウィルには思えた。

 ウィルは敢えて人影には近付かず、梯子の側からわざと軽口を叩くように話しかけた。


「……よお、こんな時間にどうしたよ?」


 その問いに、人影は振り返らず、歌うようにゆっくり聞き返した。


「……貴方の方こそ。こんな遅い時間にどうしたの?」


 ウィルは悲しそうに眉を寄せ、それでも軽い口調を崩さぬよう言葉を紡いだ。


「あんたに会いたかったんだよ……昼は会えないみたいだからな、アンジェリーナ」

「……やっぱり分かるんだね」


 エマと同じ姿のその女性はウィルの言葉を訂正しなかった。思っていた通りだった。ウィルの眼前にいる女性はエマのエクストラ、アンジェリーナだったのだ。


「初めてエマに会った時から違和感はあったよ。ここの街では誰も共用語を使ってないのに、エマだけは共用語で話しかけてきたからな。……そして、夜な夜な聞こえると言う歌声も、共用語だった」


 アンジェリーナが逃亡や抵抗を図った場合に備え、ウィルは油断なく彼女の後ろ姿を見つめ話し続けた。


「……一瞬エマの仕業かとも思ったが、それはあり得ないんだ。歌っていたのはアンジェリーナ、あんただ」


 少しの間をおいて。


「私を捕まえにきたの?」


 意外にも楽しそうに呟くアンジェリーナにウィルはかぶりを振った。


「いや……昨晩聞いた、あんたの歌……それを歌う意味を、教えてくれないか」

「歌う意味? 歌自体の意味ではなく?」


 アンジェリーナは首を傾げた。


「そっちは残念ながらわかってる。この街の人間には悲しそうな歌としか伝わらなかったみたいだけど」


 ウィルの頬を冷たく湿った風が撫でた。通常、湖からの風は昼に吹くことが多い筈だ。雨雲が近づいているのかもしれないと考えながらウィルは言葉を続けた。


「……あれは水の下に沈んだ村の歌。あんたはエクストラになる前、ダム建設で沈められた村の人間だったんだ」


 アンジェリーナは無言で頷いた。月を仰ぎながら昔を懐かしむように訥々と言葉を奏でた。


「いずれ過疎化が進んで廃村になっていただろうし、特別恨みがあるわけじゃないわ。でも……そっか。貴方は『ダム』がわかる人なのね」

「ダムならこの世界にもある。鎖国してる国の建造物だから、大衆的に知られたものじゃないけどな。それに、この世界では村を潰すような作り方はしない」

「そうなんだ……」


 ウィルの説明にアンジェリーナは艶やかな声で答え、そして漸く、ゆっくりとウィルの方へと振り返った。


「もっと早く、貴方に会いたかったわ……」


 彼女の顔には、酷く哀しく、酷く穏やかな微笑みが浮かんでいた。

 今回ウィルが受けた依頼は、町長の娘からのものだった。夜な夜な、悲しそうに歌う女性の声を街の人々が聴くようになった。言葉の意味も歌う目的もわからない。特に害がある訳ではないのだが、街の人間は気味悪がっているので原因を探し出し、出来ることならば排除して欲しい――そんな依頼だった。


   *


 ウィルが自分の隣に腰かけたのを見届けると、アンジェリーナは静かに語り始めた。


「……エマが死んだのは半年位前だったかな……」


 オリジナルのエマは生まれた時から重い病を患っており、長くは生きられないと宣告されていた。同じ年頃の友達と遊ぶこともままならないエマを不憫に思っていたアンジェリーナは、エマの周囲の人間に気づかれないよう気を配り、度々エマの話し相手になっていた。


「生前、何か特殊な能力があったりしなかったか?」


 ウィルの問いかけにアンジェリーナは黙って首を横に振った。


「……ただ、強いて言うなら、死後はずっと普通じゃなかったわね。もしかしたらそれが私達の力だったのかもね」


 それはエマが他界し遺体が火葬された日の夜の事だった。二人は自分の部屋で意識を取り戻した。いや、姿が人に認識されない事を除けばそれは「蘇った」と表現すべき現象だった。床の肌触り、ひんやりとした空気、窓の外から微かに聴こえる虫の声、それら全てが二人の存在を明確に証明していた。身体を失った後も二つの人格が分離せずにいたのは非常に奇妙だったが、二人は生前と変わらぬ感覚で過ごすことができていた。


 二人は暫く元の村で過ごしていた。しかし暫くたった頃、数少ない友達の一人がエマの姿を認識した事があった。何か特殊な条件があったのかはわからなかったが、彼女は始め驚愕し、次に怯えた表情を見せた。それは無理もない行動だった。しかしエマにとっては非常に悲しい、辛い反応だった。


 二人は村を出ることにした。


 二人は幾つもの村や街を転々とし続け、最終的にこの街に辿り着いた。この街の澄んだ空気と閉塞的な地形が元の村を思い出させた事と、街の中央にそびえる教会に奇妙な居心地の良さを感じた事から、二人はこの街で過ごすことにした。

 二人は暫く気ままに暮らしていたが、そのうち困った事になった。二人の行動が段々ずれ始めたのだ。昼はエマ、夜はアンジェリーナとして行動するようになり、そのうち意思疎通がとれなくなった。互いにどうすることも出来ず、また相談出来る者もいなかったため、不安感だけが募っていた。ウィルを見つけたのはそんな時だった。自分を認識してくれたウィルならば現状を何とかしてくれると思った。そうアンジェリーナは語った。


「……でも、もう大丈夫みたい」


 アンジェリーナはそよ風にたなびく髪をかきあげ言った。


「そろそろお暇する時みたいだから」

「……いいのか?」


 ウィルは月を仰いで尋ねた。こういう意識だけがのこる現象というのは、だいたい死者の心残りがある場合が多い。それを解決してやることを生業とする生者もいると聞いたことがある。しかし、俺は二人のために何も出来ていない――そうウィルは感じていた。そんなウィルの心を見透かすように、アンジェリーナはくすりと微笑んだ。

「……うん。だって、エマはこの数日間、幸せだったのだもの」

「あんたは?」


 やはり月を見上げたまま尋ねるウィルに、アンジェリーナは足元の町並みを見下ろしながら静かに答えた。


「私は歌うのが好きなの。最近好きなだけ歌ってたし、特に何もないわ。でもそうね……」


 立てた人差し指の先を下唇に添え、ふと思いついたようにアンジェリーナは言った。


「もしよければ、あなたの中の人と話がしたいかも」


 ウィルは黙って眼を閉じ、そしておもむろに左ポケットからコンパクトを取り出すと鏡を見つめた。

 鏡にきらりと月光が反射した後。


「……私に何の用?」


 リリィは名乗りもせず、コンパクトをしまいながらぶっきらぼうに尋ねた。

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