塔の上にて
梯子の終着点は教会の最上階だった。つい先ほど正午の礼拝で鳴らされた鐘の真下に寝そべり、ウィルは眼下の景色を楽しんだ。
〈この眺望のために、こんな馬鹿げたことをしたの?〉
リリィは心底呆れていた。こういう場所の鐘は大抵下の階から鳴らせる構造になっており、整備の時でもなければこんな危険な場所に上る人間はいるはずがなかった。
「まぁ良いじゃん。ほら、何だっけ……チチュウカイ? セトナイカイだっけ? こんないい感じの景色なんじゃねぇの?」
日光を反射し輝く湖面を指差しながら能天気に言うウィルに、リリィはますます呆れた。
〈強いて言うなら琵琶湖かしらね、この眺めは〉
「皮肉を込めてウィルの認識を修正したリリィだったが、正直のところその眺望の美しさは素直に認めざるを得なかった。
〈確かに眺めは良いけれど……てっぺんに着いたら突然洪水で流される、なんてオチはないでしょうね〉
リリィは時折答えにかなり困る小ネタを振る事があった。今回は魔物討伐のために塔の最上階を目指す勇者の話だろうとウィルは気付いた。リリィは自分の知識から何の気なしに言っているだけなのだが、ウィルの方はリリィと共有する膨大な知識の中から自力で検索する必要があった。その作業は一苦労なんて簡単な言葉で片付けることはできなかった。
「大丈夫だろうよ。その辺は」
それでも無視せず「自力検索」しているあたり、自分も相当な物好きだとウィルは心底思っていた。
「それより、ここなら気兼ねなく存分に声で話せるだろ? 周りの目も気にしなくていいしさ」
景色をひとしきり眺めて満足すると今度は仰向けに寝転び、ウィルはリュックから取り出したメロンパンをほおばり始めた。列車に揺られたこの数日間、一人になれる時間がなかったためリリィには窮屈な思いをさせたとウィルは気にしていた。あえて教会の最上階へ登ったのも、少しでも開放感のある場所で寛ごうと考えた結果だった。
しかし。
「……銅鐸の呪い」
そんな清々しい場所でのリリィの第一声はとんでもなく不吉なものだった。
「鐘の下敷きになれと言いたいのか」
本気でないとわかっていてもウィルの背中に冷や汗が滲んだ。それを誤魔化そうとウィルはネタ元を探した。
「IQ180の太眉高校生探偵を連れて来なきゃならないな」
ため息を漏らしたウィルにリリィはふっと小さく笑い声をあげた。
「……気を遣ってくれて、ありがとうね」
珍しく素直に感謝を表現するリリィにウィルは当惑した。気恥ずかしさに背中がむず痒くなり、ウィルはごろりと寝返りを打った。
「別に、ありがとうなんて言われる程の事じゃないだろう?」
わざと口を尖らせてウィルが答えたその直後だった。
「あら、貴方、一人?」
突然頭上から聞こえた声に、ウィルは心臓が口から飛び出るかという程驚愕した。メロンパンにかじりついたまま恐る恐る顔をそちらにむけると、天井の上――つまり、鐘がぶら下がっている屋根の更に上――から逆さまに身をのり出す長髪の女と目が合った。
……こんな高い場所で、俺以上にヤンチャな奴がいた。
愕然とするウィルの前で、その女は更に驚くべき発言をした。
「もしかして、貴方もいるの? 『もう一人の自分』が」
ウィルは全身の血が冷えていくのを感じた。
よもや人などいるはずがないと思っていたところへありえない形で人が現れ、その上リリィとの会話まで聞かれてしまったのだ。更に悪いことに、相手はどうもペクトラの事を中途半端に知っているらしかった。もし何も知らない奴ならば今の会話は「変な独り言」くらいにしか思わないだろう。まして「中に人がいる」なんて発言をする筈がなかった。
これまでにも何人かのペクトラと会話をしたことはあったが、その中には仲間のことを軽々に他言してしまう者もいた。そんな奴に関わると碌なことにならないので、たとえ相手がペクトラだとしても自分の素性はできるだけ明かさないようにウィルは気をつけていた。しかし、今回は完全に油断していた。
(……さて、どうするよ)
女へひきつった顔を向け、ゆっくりとメロンパンを口から外すとウィルはリリィの指示を仰いだ。
〈どうするって、一つしかないでしょう?〉
リリィからは予想通りの言葉がさらりと返ってきた。それは強引にでもしらばっくれるしかないという意味だった。
「……は、はは。あんたの言ってること、よくわからないよ」
人を小馬鹿にするような表情を繕いウィルは女に言った。しかし女は食い下がらなかった。
「だってさっき、ぶつぶつ言ってたじゃない。二人で会話するみたいな感じで」
女の指摘にウィルは身体をびくっと震わせてしまった。唇の端がぴくつくが自分でもわかった。それでも懸命にごまかそうとウィルは思考を巡らせた。
「あれはだなあ……そう、劇の台詞練習だっ。相手の分も含めて覚えてたから、それでだな……」
しどろもどろのウィルに女は初めて怪しいものを見る目つきになった。
「ほんとぉー?」
女は屋根の上からひらりと飛び降り、器用に空中で身を捻りながらウィルの頭元へ着地した。腰元にひらつく裾が目に入り、丈の短いワンピ-スと錯覚したウィルは慌てて眼を瞑った。しかしそれは杞憂だった。女が降りたった後に薄眼を開けて見ると、女の服はチュニックでレギンスもきちんとはいているのがわかった。ウィルは心底ほっとした。
女は見た目二十歳前後といった様子だった。焦茶のロングヘアーのサイドを後ろで纏め、花を並べた形の薄桃色のバレッタで留めていた。色白な肌と暗い灰色の瞳、そして細身の体型のせいで立ち姿だけならば女は貧弱そうに見えた。しかし今の見事な着地を見た後ではそんな第一印象は吹き飛んでしまった。
女は意地悪な笑みを浮かべウィルの顔を覗き込むと言った。
「……じゃあもう一回言ってみてよ~。その覚えた台詞ってやつ」
それは妙に馴れ馴れしい言い方だった。俺はこの手の人間とはそりが合わない。ウィルは本能的に感じた。しかし反面、そういう性格を少しだけ羨ましいとも思えた。
「……い、言えるかよ、人前で」
視線をそらすウィルに女はさっきの会話を諳んじようとした。
「えと、こうだっけ? 銅鐸の呪……」
「あ゛ーうるさいうるさいうるさい‼︎」
ウィルは苛立たしげに女の言葉を遮った。そして持っていた食べかけのメロンパンを口いっぱいに詰め込み飲み込むと起き上がった。内心、そろそろ誤魔化しきれないと焦っていた。
下ろしたリュックを右肩にかけ直し梯子へ向かうウィルの背中へ女は声をかけた。
「あらいいの? 台詞を覚えないと使ってもらえないわよ? 新人劇団員くん?」
「そんなの、お前に関係ないだろっ」
振り返りもせず捨て台詞を吐き、ウィルはリュックの紐ごと梯子の支柱を握り滑り降りた。
*
「くそぉ……踏んだり蹴ったりだぜ、こんなの……」
〈半分以上、自業自得と思うけれど〉
しかめ面でぼやくウィルにリリィは極めて客観的な答えを返した。
教会の上で会った女と別れたのち、ウィルには立て続けに困った事件が起きていた。屋根裏に滑り降りたところを清掃員の老人に見つかりこってりと絞られた挙句、背負い直そうとしたリュックの肩紐はぶつんと音を立てて切れた。梯子を降りた際の支柱との摩擦が原因だった。お陰でウィルは床に散乱した荷物を拾い集める羽目になり、そのせいで依頼人との待ち合わせに三十分も遅刻してしまったのだった。せめてもの救いは依頼人の女性が最高に優しかったという事だけだった。
*
依頼人の話を聞いた後、ウィルはその奇妙な依頼に頭を悩ませながらも青果店を探した。
「……ああ、あった。やっと食えるな」
漸く見つけた青果店で主人と思われる老人にウィルは愛想よく声をかけようとした。が、老人はウィルを憎しみを込めた眼でギッと睨み、ぼそりと呟いた。
『よそ者に売れるものはねぇよ、他あたんな。といっても、果物はここしか売ってねえけど』
老人はやたらピリピリしていて機嫌が悪そうだった。何か不愉快な事でもあったのだろうかと首をひねったが何も思い当たる筈もなく、ウィルは肩を落とした。
「……今日はそういう日だな」
自分のついてなさ加減にすっかり元気をなくしたウィルはリンゴの入手を諦めた。くるりと踵を返し宿探しをしようと決めたその時だった。
「どーしったの?」
屋根の上からついさっき聞いたばかりの声がかかった。
……どうしてこいつは、人の神経を逆なでするタイミングで話しかけてくるんだろうか。
うんざりした表情でウィルは屋根の上を見上げた。
予想通りの女が予想通り、人懐っこそうな笑みを浮かべ屋根の上で足をぶらぶらさせていた。
「……またお前か。なんでもない」
ウィルは仏頂面で答えたが女は眩しい笑顔を崩さなかった。
「ねえ、さっきから果物ばかりみてたよね? おいしい果物、あげよっか?」
リンゴを食いっぱぐれて内心しょげていたウィルの耳はぴくりと動いた。