第7話 逃亡と追跡
それは不幸な事故、あるいは不運な運命の悪戯であったと言えるかもしれない。
この国の軍隊は発砲をしない、組織立った抵抗などできるハズもない、そういった思い込みが互いの中に存在していたことが、原因と言えば原因だろう。相手の居所をすでにある程度把握していた侵入者達は、容易にその包囲網を狭め、所長を含めた研究員達を研究棟の一角に追い詰めていった。それがあまりにも効率的に、かつ順調に進みすぎたことが、この場合は最悪の結果を導き出してしまったと言える。
油断から不用意に飛び込んだ隊員が焦りから撃ち出された銃弾に倒れた瞬間、本来あるべき交渉がないままに交戦状態へと陥ってしまった。とはいえ、それは交戦と呼ぶにはあまりにも一方的な、単なる射殺現場の構築でしかない。研究員側の戦力は所長が個人で所有していたハンドガンが一丁のみ、それも狙いすら定まらずに三発ほどを撃ち放ったに過ぎない。最初の一発が、まるで狙い澄ましていたかのように命中したことは、彼自身にとってあまりにも運の悪い出来事であったと言えるだろう。それは単に、窮鼠が猫を噛んだに過ぎないのだから。
しかし結果として、所長の放った一発の銃弾は侵入者達の油断を払拭し、傷付いた味方を救出するための援護射撃によって多数の死者を出すこととなった。その場に居た研究員二十三名の内、僅か五秒に満たない射撃によって実に八名の命が失われたのである。その中に所長――この魔道都市の創設者であり責任者でもある黒山才蔵の名前があったことに、遅れて現場に到着した保紫は複雑な表情を浮かべた。
「裏切ったとはいえ、やはり元上司の顛末には胸が痛みますかな、先生?」
「そうではありませんが――」
言いかけて思い直し、表情を引き締める。
「いえ、確かに気分は良くありませんね」
「まぁ、本来なら正式に告発された上で処罰されるべきでしょうが、売国奴である事実に変わりはありますまい。この不運も、あるいは彼らしい結末と言えるのかもしれませんな」
目付きの鋭い佐官が、保紫の傍らに並んで冷淡な呟きを漏らす。彼が指示を飛ばすまでもなく、現場では怪我人の収容と遺体の確認作業が進んでいる。動揺もなく、組織としての整然さを失っていないのは、さすがに訓練された兵卒の姿と言える。
「しかし、彼と言葉を交わす前に死なれたのは、少し問題があるのではありませんか?」
軍人という身分ではない保紫だが、その様子に慌てる素振りは微塵も感じられない。その姿を横目に見ている佐官は、やや感心しつつも内心で疑問を抱いてもいた。利権に溺れる組織に属する一般人がその良心から告発を行い裏切った、その成り行きから想像される人物像とは、少しばかり隔たりがあるように感じられたからである。
「正直、私としてはキチガイ学者と会話をせずに済んでラッキーだったと思っていますな。奴の抱えている知識を有用視する連中も確かに居ますが、相応の収穫があれば黙らせることもできるでしょう。そのためにも先生、もう少し働いていただきますよ?」
「えぇ、わかっています」
反応を確かめるような物言いに、保紫は素直な頷きを返す。探り切れない深層を見極めようと更に言葉を重ねかけたところへ、一人の仕官が走り寄った。
「少佐、黒山才蔵のIDカード、回収いたしました」
「被弾は免れていたか?」
「はい、問題ありません」
報告に大きく頷き、改めて保紫へと向き直る。
「では先生、資料の捜索と取りまとめ、急ぎお願いいたします。私はもうしばらく現場の後片付けを指揮してから、そちらに合流いたしますので」
「わかりました」
頷く保紫の姿は、少なくとも少佐の目には組織の打倒など眼中にないかのように映る。
「先生、改めて申し上げておくまでもないかとは思いますが、くれぐれもデータの改竄などに――」
「何者だっ!」
事態が一段落し、落ち着きを取り戻していた部隊に緊張が走る。不意に強まった二つの気配が、慌てふためいた足音を響かせて遠ざかっていった。
その音の軽さは明らかに大人のものではない。
「……まだ鼠が居たか」
「如何いたしますか?」
「とりあえず追え。三人も居れば十分だろう。どの道出口は全て封鎖してある。逃げ道などどこにもない。ただ、抵抗するようなら――」
「子供達には手を出さない約束でしょう?」
保紫の放つ妙に力の篭った一言に、少佐はニヤリと笑う。
「ご心配なく。我らとしても、魔法使い達を失うような愚を冒すつもりはありませんよ。彼らは貴重な『サンプル』ですからな」
「……とりあえず、銃は使わないでください」
「そうですな。おい、聞いての通りだ。捕獲に際して銃は使うな。銃は、な」
「はっ!」
三人の仕官が、構えていた銃を肩に掛けなおして走り去る。その背中を見送る保紫の表情は、ここへ到着した時と同様、あるいはそれ以上に複雑だった。
「急げっ。まだそう遠くへは行っていないハズだ!」
息を潜めて座り込む二人のすぐ近くを、複数の軍靴の音が走り抜けて行く。目の前にある『壁』がなければ、間違いなく二人の姿は彼らの視界に捉えられていたことだろう。
「……行ったか」
物音が遠ざかっていくことを確認して、咄嗟に作った偽物の壁から恐る恐る顔をのぞかせる。建物の外から見れば、そこに通路があることなどすぐにわかるのだが、実際にその場を歩いて不自然さに気付くのは極めて難しい。まして二人と違い、彼らがこの魔道都市に足を踏み入れるのは初めてのことなのだ。薄暗い非常灯の中で幻術の壁に気付ける道理など、あろうハズもなかった。
「さてと」
しばらくの安全を確信し、誠治は壁を維持したまま元の位置へと座り直す。その隣には膝を抱えるようにして座っている久里寿の姿がある。瞬き一つ見せない眼差しは、深紅に染まった床の一点を眺めている。今は何を言っても、彼女の耳には届きそうな気がしなかった。本来ならもう少し安全な、せめて逃げ道を確保しやすい一階までは下りておきたかったところだが、今の彼女を引っ張って大人三人、それも銃を持っているような職業軍人(仮)から簡単に逃げられると思えるほど、彼は楽観的にはなれない。そもそも彼とて、隣に落ち込んだ女の子の姿がなかったなら、自分の方が頭を抱えて座り込みたい心境なのである。余裕など微塵もない。
「……これから、どうしようか?」
躊躇してから、返事が期待できないことを承知で問いかけてみる。気持ちの上では彼も同様か、それ以上の衝撃を受けてはいるが、だからといってこの場に留まってなどいられない。どこか感覚が麻痺しているからこそ、彼には冷静な判断が見えていた。
「……保紫先生、だったね」
「あ、うん……」
そんな彼の辛うじて張り詰めている糸を、久里寿の呟きが大きく揺さぶる。つい先程見た光景が現実であったなど、まだこの場では認めたくないのだろう。盗み見た景色の中に見知った顔があったという記憶は、まるで霧の向こう側にでもあるかのように霞んで見える。
「本当、なのかな?」
怯えるような、あるいはすがるような眼差しに、彼は応じられない。所長の死など、彼だって信じたくはなかった。実際に死体を見たワケでもないし、信じないという選択肢が彼らの中に存在しても不思議ではない。しかし彼がそう思い込もうとする度に、保紫という見知った顔が邪魔をする。彼という身近な存在が、まるで映画の一幕のような場面を現実に塗り替えてしまうのだ。
「……僕は、信じたくないよ」
弱々しい本音が、思わず口から漏れる。
「うん、私も」
少しだけ安堵したような笑顔が、今の彼には心強い。と同時に心が緩んでいく。それまで明確に頭を支配していた現状と展望が、どういうワケか思考の渦に消えていった。思い出されるのは感情的な、数少ない思い出と言えるものばかりだ。
「僕はさ、唯一の魔女――母さんのことは、ほとんど憶えていないんだ」
「うん」
他人が聞けば脈絡がないように思える話に、彼女は素直な頷きで応じる。その穏やかな眼差しに、彼は安心して言葉を続けた。
「母さんが死んだのは僕が三歳だか四歳だかの頃でさ、後から聞いたんだけど、朝起きたら死んでいたらしいんだ。隣に寝ていた僕は何も気付かずにいたらしいよ。当時の研究所は大騒ぎになったらしい。それも含めて憶えてないんだけどね」
この事実は研究所ばかりではなく、日本中で話題となっている。そして公式発表においても、彼女の死因は未だに謎のままだ。研究対象としてのストレスによる自殺、薬物投与の影響による内臓疾患、脱出を図った際に起きた不幸な事故など、憶測めいた風聞には事欠かない。しかしどの説も決定打には欠けるため有力視はされず、後に彼女が普通の人間であることが判明したこともあり、心臓発作による自然死で一応の決着を見ている。もちろん、数多く乱立する異論が消えてなくなったワケではなく、それは現在でも噂の中にくすぶっている。
「あの頃……っていうか僕が憶えている昔の魔道都市っていうのはさ、子供が一人も居なかったんだ。今思えばそれは当然のことなんだけど、当時はつまらなくてね。一番面識のあった所長のことをついて回って怒られたこともあった」
この魔道都市が教育機関としてのスタートを切ったのは十年ほど昔の話である。とはいえ構想が立ち上がってから最初の子供である『紅藤火山』が加入するまで、まだ五年の歳月を必要としている。この間、誠治は実質的に独りだった。
「所長以外には居なかったの? もっと若い研究員さんとか、いそうなものだけど」
「何人か仲良くなった人も居たけどね。みんな、何年かすると居なくなるんだ。研究員って、あんまり一ヶ所でジッとしていない人達みたいでさ」
研究員と呼ばれる人間達の標準的な実情はともかく、この魔道都市において彼の考察は極めて的確である。実際、魔法使いと過度に接触しないことが研究員には求められていたのだ。むろんそれを、誠治は知る由もない。
「そっか。じゃあ所長だけが、ずっと一緒なんだ」
「うん。強引なところがあるし、気難しいから嫌われることも多いけど、それでも僕にとっては父親のようなものなんだ。だから――」
だからこそ、事実は重い。
「あいつらも保紫先生も、許さない」
「……うん」
久里寿にとって保紫は、この魔道都市に来てから最も信頼を置いている人物の一人であったことは間違いない。それを理解した上での言葉に、彼女は頷きで応じた。味方を欲する者にとって一番重要なのは、その数でも質でもない。その気持ちに偽りがないかどうかである。彼女の眼差しはどこまでも真っ直ぐで、保紫への敬意という迷いを見せた上で振り切ってくれた。
彼にとって、これほど心強いものはない。久里寿は、誠治が生まれて初めて得た『理解者』なのである。
「そうと決まれば、まずは――」
先程まで骨が鉛になったのではないかと思えるほど重くなっていた腰が、今は不思議なほど軽い。あるいは、このまま三階の窓から身を投げ出しても飛べるのではないかと思えるほどだ。
「逃げよう」
颯爽と手を差し出して、彼は苦い顔をする。実際に出してから気付いたのだが、あまりに格好のつかない台詞である。とはいえ、幻術しか使えない彼が銃を持った大人と対峙したところで、満足に戦える道理もない。何とか目を眩ませて彼女を無事に逃がす程度が関の山だ。
「でも、逃げるったって、どこに?」
「まずは魔道都市の外へ出よう。このまま捕まるワケにはいかない」
「……うん」
ここから逃げ出したところで自分には帰る場所などない、そう言いかけた久里寿は慌ててその言葉を呑み込んだ。目の前に居る彼は、自分の生まれ育った唯一の場所を捨てようと言っているのだ。自分の抱える悲哀など彼の失うものの何分の一にも満たないだろうと、そう思い直す。
そもそも、彼女には何もないのだ。何もないからこそ、魔法が得られるかもしれないと思ったのだ。こんなところで、ワケのわからない状態のまま諦めたくはなかった。
彼女は渾身の力で彼の手を握り返し、その隣に並び立つ。目の前には本物の魔法使いがいる。まだ諦めるには早過ぎた。
「よーし、そうと決まれば早く行こっ。早く出よっ!」
「はいはい」
一瞬ですっかり元の様子を取り戻している彼女に少し呆れつつ、握った右拳に力を込める。彼女の手は温かく、柔らかく、なのにとても力強くて、だけど小さかった。それを守りたいと強く思えば思うほど、自身の力の無さが痛感させられる。
彼にとって母親の存在は大きな目標であったが、自分と単純に比較することはなかった。いずれ同じように具現化する能力を身に付けたいと思ってはいたが、それは母親に対する対抗意識からではない。天才と呼ばれた母に出来て自分に出来ないことがあることがあっても、驚くつもりはなかった。
しかし今、彼は生まれて初めて母と同じ力が欲しいと思った。自分の無力さと至らなさを、心底憎いと思った。
彼の力の限界点――実体のない壁をすり抜け、二人は人影のない廊下へと走り出る。その先に待つものが何であるのか、未だに知る由もないままに。




