第10話 吼える猟犬
「これからどうしよう……」
茂みの中で、二人は身を寄せ合っていた。今の二人に行き場はない。何とか研究棟から屋外へと出たものの、そこで彼らの行動は頓挫してしまっていた。
「表も裏もガッチリ固められている。連中が爆破した壁には装甲車が陣取っているし、万事休すか……」
親指の爪を噛みながら、誠治は力なく呟く。
正直なところ、二人は少し甘く見ていた。銃を抱えての襲撃とはいえ、正規部隊の進撃などとは思っていなかったのだ。少しばかり訓練された夜盗の類なら隙もある、そんな風に考えていた。しかし連中の行動は極めて統制が取れており、かつ目的に対する指針も徹底していた。どうやら襲撃してきた奴らは、この中に居る者達を誰一人逃がすつもりはないらしい。
もちろん彼らとて、見張りの姿を見るなり諦めてすごすごと退散したのではない。誠治の幻術を使い、見張りを引き剥がす陽動を何度か仕掛けてはみた。しかし見張りの全てが出入り口を離れることはなく、むしろ警戒レベルを引き上げる結果となってしまったのである。こうなると、連中が予想し得る出入り口からの脱出は極めて困難だ。
幸いと言うべきか、闇夜の上に魔道都市の広大な敷地という味方が存在し、彼らにとって都合の良い遮蔽物も多いため隠れるには困っていない。更に連中は確かに正規軍ながら人数的には決して十分ではなく、出入り口を完全に封鎖する一方で捜索にはあまり人手が割かれていない様子だった。連中が諦めて撤退するまで身を潜めることが出来れば、まだ希望はある。
むろん、ここから逃げおおせたところで子供二人が庇護を受けずに生きていくには、しがらみの多い世の中である。今までのように、温室でぬくぬくと生活することは出来なくなるだろう。いずれにしても覚悟は必要だ。
「……いや、朝まで待てばきっと」
地面を拳で叩き、誠治は自らに言い聞かせる。
「うん、そうだね。あいつら絶対悪者だし、夜が明けたら警察の人とかが助けに来てくれるよ」
「ははっ、だといいな」
久里寿の気楽さが、今の彼には心地良い。とはいえ、彼は彼女ほど楽観的にはなれそうもなかった。自分の対峙している相手が、今まで自分を守ってくれた権力と同等か、それ以上の存在であることは明白だったからだ。彼は外の世界を知らないが、自分が守られて存在していることくらいは知っている。
しかしそれでも、今はそんな楽観論にでもすがらなければ希望が持てそうもなかった。
だから、レンガ敷きの通路を歩く靴音が聞こえた瞬間、二人の緊張感は急速に高まっていく。見付かったら終わりという意識よりも、見付かりさえしなければ道は開けるという微かな光明に、彼らの気持ちは縛られていた。まだ諦めていないからこそ、身体が硬くなる。
足音は複数だった。少なくとも三人以上は居る。彼ら二人を追うために動員されたのは三人だったが、そいつらは手分けして探していたハズだった。この人数がまとめて移動しているのは、人員の変更があったと考える方が妥当だろう。
ところが、建物からも距離があり、どの出入り口からも見通せないような通路の真ん中で、その集団は足を止めた。暗闇である以前に藪の向こう側に居る連中の外観は、二人からは拝むことが出来ない。もしかしたら気付かれているのではないかという恐怖感が心臓の鼓動を激しく打ち鳴らし、うるさいほどに響いて聞こえる。誠治は思わず服の上から左胸を強く掴むが、その鼓動が収まることはなかった。
「近くに居るんでしょ?」
相手の気を逸らすために幻術を用いるべきか否か迷い始めた彼の耳に、聞き覚えのある声が飛び込んでくる。
その声が桃香のものであるとわかって反応しそうになる久里寿を、誠治は厳しい視線で制した。罠だとまでは思っていないが、彼女が利用されている可能性を考慮しての判断だ。
「ちょっと出てきてくれない? 話したいことがあるのよ」
その物言いに、彼は違和感を覚える。いつもの彼女とは、纏っている雰囲気からして違っていたからだ。まるで何か、不満をぶつけているかのような苛立ちすら感じ取れる。これが火山であるなら、まだわからないでもない。しかし桃香という人物は、そういった感情を最も表に出さない人物だと思っていた。
それが真意なのかメッセージなのか、彼には判断がつかない。ただ、彼女の言葉に強い確信が見られることだけは疑いようもなかった。もしこのままやり過ごそうとしても、彼女がこの藪を探し始めれば容易に見付かってしまうだろう。彼一人ならともかく、彼女を連れたまま見付からずに済ますことは難しい。何より、何の力もない彼女を支えにしているからこそ、ここまでの粘りを見せているのである。それを犠牲にして自分だけ逃げられたところで、今の彼にとっては本末転倒というものだ。
「……ここに隠れてて。動いちゃ駄目だよ」
「えっ、ちょっと!」
彼の不意な囁きに狼狽する久里寿を置いて、誠治は慎重に移動を始める。藪を抜け、大きく迂回するように茂みを掻き分け、桃香を含めた四人が待ち構えている通路――彼らから見ると背後へと姿を現した。
「あら、もう一人は?」
闇夜に隠れて細かな表情までは読み取れないものの、三人の男達に囲まれて堂々と立っている彼女からは、奇妙なほど攻撃的な雰囲気が窺える。ゆっくりと、かつ優雅さすら纏って振り返った彼女の声を聞き、その眼差しを正面から受けた誠治は、その一瞬で確信した。
彼女はもう、味方ではないと。
「……はぐれたよ。そいつらのせいで」
敵意を隠すつもりはないようだ。少なくとも、彼に譲歩という選択肢はない。
「ふーん……まぁいいか。とりあえず用事があるのは誠治君の方だし」
「で、話って?」
「そう尖らないでよ。これでも一応、説得に来たつもりなんだから」
「なら、そいつらと一緒に行動するなっ。そこの連中はウチの所長を殺したんだぞ! わかってるのかっ?」
「えぇ、もちろん」
涼しい顔で頷いた彼女に、誠治は言葉を失う。
告げるべき言葉が見付からず、彼はただ彼女のシルエットを見詰めるしかなかった。今の彼女が何を知り、何を抱えて今に至っているのか、彼にはわからない。しかし仮に、その事実を理路整然と並べられたところで、彼女の真意を理解することは出来そうもなかった。
まるで、切り立った断崖の上で底の見えない谷間を挟んで話しているかのような気持ちになる。昨日まで、否つい数時間前まで仲間だと思っていた彼女が、今は別人としか思えなかった。
「……何があったんだ?」
「そうね。色々とわかったことがあるの。私や貴方の現在を引っ繰り返すような事実がね」
「引っ繰り返す?」
油断なく身構えながら、それでも興味を抑えることが出来ずに言葉を返す。今のこの状態が、すでに日常を大きく覆しているのだ。この上どんな事実が更なる反転を呼ぶというのか、彼には想像も出来なかった。
「そうよ。誠治君は所長を父親のように思って慕っていたし、感謝もしていたようだったけど、私にとってあの男は憎悪の対象以外の何者でもなかったわ」
「え……どういう、意味?」
「どういうって――」
鼻で笑い、口元が歪む。
「そのままの意味よ。ちなみに私だけじゃないわ。紅藤君も黄島君も翠野君も、あの男に対して大なり小なり憎しみを抱えている。そして恐らくは藍河さんも、こんなことになっていなければ、あの男を憎んでいたでしょうね」
「その、言ってる意味がわからないよ。僕達はここで、この魔道都市で楽しく過ごしてきたじゃないか。そりゃあ所長は気難しかったし、誰にでも好かれるタイプってワケじゃなかったけど、だからって世話になっている相手を憎むだなんて……」
「楽しくだって? くくくくくっ、貴方、本当に何も知らなかったのね。ここまでだと呆れるを通り越して哀れに思えてくるわ。魔法使い最古参がこれほど無知だったなんてね。それとも、知っててとぼけているの?」
「僕はとぼけてなんかいないっ」
「でしょうね。もし知っていたら、悪質過ぎる冗談だもの」
歪んだ笑みが真顔に戻ったことを、見えない闇の中で実感する。今の彼女はあまりにも素直で、どこまでも正直であることを躊躇いもなく態度で主張している。普段の、というより今までのどこか天然めいて見えた彼女が素の桃香でないことは何となく感じることもあったが、今はそれこそが彼女本来の姿であると心の底から信じたいと思わせる。
「だから私が教えてあげる。貴方の敬愛する所長の真実を、ね」
「真実だって?」
「そうよ。でもその前に、一つだけ私の質問に答えてくれない?」
「……何だよ?」
平静を装っているつもりではいるが、自然と声のトーンが下がっていく。警戒感は不安を呼び、不安は恐怖を煽る。どんな人間であれ、自分の心を偽ることは困難だ。
「貴方は、貴方の魔法は――」
左手を持ち上げ、その指先が誠治の影を捉える。
「どんなトリックに支えられているの?」
「トリック……だと?」
「そうよ。この世に本当の魔法なんて存在しない。貴方がその幻術を使えるのは、そこに明確なトリックが用意されているからだわ。私が知りたいのは、その核となるシステムへの干渉方法よ。ホント、貴方の幻術はよく出来ているものね」
「本気で、言ってるのか?」
驚くというより嘆くような表情で、誠治は問いかける。もちろん、応じる彼女に動揺など見られなかった。
「えぇ、冗談に聞こえた?」
「いや、そう思いたいところだけどな。ちなみに言っておくけど、僕の魔法にトリックなんてない。唯一の魔女から受け継ぎ、所長が立証した技術なんだ。誰であろうと、この魔法を『インチキ』なんて言わせはしない!」
「唯一の魔女、か」
口の中に含んでいた笑いが次第に抑えられなくなり、桃香は額を押さえ、身体をくの字に曲げて不快な哄笑を上げた。精神をヤスリで削るような笑い声に彼の眉根は寄り、腹の底から怒りが湧いてくる。
「何が可笑しいんだ!」
「だって、ふふふ……これは笑わずにいられないでしょ。目の前にインチキの証拠が実在しているってのに、インチキを全面否定するだなんて、殺人現場で凶器を持った犯人が必死に弁解してるようなものだわ」
「じゃあ、桃香の予知って……」
「あんなのデータ検索から導き出される予見よ。更に言えば、紅藤君の発火も黄島君の帯電も翠野君の遠視も、全部ネットワークを利用したトリックに過ぎない。というより、少しも気付いていなかったの?」
「ウ、ウソだ……」
「嘘じゃないわ。私達はあの男、黒山に電脳化の手術を強要された。断れば命はなかったし、実際に殺された子供もいたわ。貴方も憶えているでしょ。適性がなかったという理由で魔道都市を後にした子供達のことを」
「え、いや、まさか」
「すでに殺されてるわ。元々ここ以外に行き場のない連中だもの」
「そんな……でも僕は、僕の魔法は……」
闇の中で自分の手を見詰めながら、今まで使ってきた魔法を思い出そうとする。しかし何故か、どんな魔法だったのかを思い出すことは出来ても、どうやって使ったのかについては思い出すことが出来なかった。
魔法は常に、彼の傍にあった。使えることが自然だったし、使えることを疑ったこともなかった。しかし今、彼は魔法を使うことを生まれて初めて怖いと感じていた。
「どうやら、本当に気付かないまま使っていたみたいね。まぁ、あの男は貴方を本当の魔法使いにするつもりだったでしょうから、このくらいで驚きはしないけど」
「本当の?」
「仮に唯一の魔女を本物の魔法使いであると仮定したら、の話だけどね。そもそも貴方、自分が何のために生まれたのかわかってるの?」
「何のって、どういう意味だよ」
所長が研究者として厳しい人物であったことは彼も知っている。彼が魔法使いという、言うなれば黒山の理論を実証するための存在であることも理解していた。それでも、彼という存在を必要としてくれていることは事実だと思えたし、母親である唯一の魔女が自らの意志で産んだことも間違いないと思っていた。
「あの男が求めているのは、いつだって自分の地位と虚栄心よ。唯一の魔女も、そして貴方も、そのための道具でしかない」
「そんなことっ――」
「あるわ。あの男は唯一の魔女を捕らえ、拘束して身体の自由を奪い、薬で眠らせて実験動物にした。本来なら魔法の仕組みを解明するつもりだったんでしょうけど、唯一の魔女は協力しなかった。だから淫靡な夢を見せて、そのイメージだけで妊娠させようとしたの。ホント、酷い話よね」
「いや、母さんは快く協力したって……」
「そんな戯言を信じているの? まぁ、目の前に転がる事実から目を背けようってところは、よく似てるのかもしれないわね」
「え?」
唖然とする誠治に、桃香が畳み掛ける。
「アイツは自分の構築した理論を証明しようと必死だった。けど、イメージだけで人が妊娠するハズないでしょ。その事実にようやく行き着いて、でも今の地位を失いたくない黒山は、姑息にも自分の精子を彼女に注ぎ込んで実績を作ろうとした」
「ま、さか……」
「それが貴方よ、真白誠治君」
鋭い眼光に射抜かれ、誠治の腰が砕けそうになる。後方にたたらを踏んで何とか踏み止まったものの、立っているのがやっとという状況だ。
「ウソだ、そんなの……」
「残念だけど事実よ。あの男、ご丁寧にもDNA鑑定まで依頼してたわ。貴方は間違いなく、唯一の魔女とあの男――黒山才蔵の実子よ。良かったじゃない。父親代わりなんかじゃなくて、本当に父親だったんだから」
「あ、あ……」
更に二歩、誠治はふらつきながら後退する。
その二歩目がレンガを踏み締めた瞬間、右の太腿に傷みが走った。
「アツッ!」
その部分を押さえ、膝を折る。ジンジンと強まる痛みは、次第にその姿を明確にしていく。何か尖った物でも当たったのかと思っていた患部は、切り傷ではなく火傷になっていた。
「どう? 出力を上げれば、発火でも結構なダメージになるでしょ」
「発火って、まさか魔法?」
「魔法じゃないわ。ただのトリックよ。弱いレーザーの集中砲火、照射装置が無数にあるワケじゃないから、ポイントは限られるけどね。でも、痛みを与える程度なら十分かな」
「くっ!」
彼女の発言が終わる直前にレンガの上を転がり、立ち位置を変える。右腕に何かが当たったような気配はあったが、単発では十分な火力に達しないのか、ダメージには至らなかった。
そして直後、これ以上の話し合いは不毛と察した誠治が、右手を力強く突き出す。まずはこの状況、四人の敵が目の前にいるという現状を脱する必要がある。
「……何してるの?」
だが、彼の右手を中心に広がるハズの黒い煙は、どこからも現れることはなかった。突き出した右手だけが、闇を掴もうとするように空を掻いている。
「えいっ、くそ、何で!」
「まぁ当然ね。今この魔道都市を支えるシステムの実権を握っているのは、私なんだもの。例えシステムの奥に巧妙に隠されていたとしても、私の許可なく発動することは出来ない」
「そんな……違う。僕のはトリックなんかじゃ!」
「ならどうして何も出ないの?」
「ぐっ」
左手も突き出し、一心に念じてみる。しかしそれでも、彼の想像は想像の領域から表に出てくることはなかった。そして、今までどうやってビジョンを空間に転移していたのか、考えれば考えるほどにわからなくなっていく。それまで自分の力だと思っていたものが、実は誰かの借り物でしかなかったのではないかという疑念が、心の隅に溜まり始めていた。
「まさか使い方を忘れたの? 魔女の息子ともあろう者が」
クスクスと含んだ笑いを漏らしつつ、桃香が躊躇なく一歩を踏み出す。
「わああぁぁっ」
彼は震える手を引っ込め、力の入らない膝に鞭を打って走り出す。それはもう、猫に見付かった鼠が自らの巣へ走るかのような、目の前にある危機からの逃避行動でしかなかった。頭の中には何もない。考えや思いは、恐怖に塗り潰されていた。
「あ、待てっ」
「慌てて追わなくてもいいわ」
脱兎の如く逃げ出した誠治の背中に反応して足を踏み出しかけた三人の自衛官を、彼女の言葉が素早く制止する。
「この魔道都市から出ない限り、どこへ隠れても私にはお見通しだもの。それより、二人は残ってこの近くを探してちょうだい。女の子が一人、隠れているハズだから」
そう言って桃香は、口元に歪んだ笑みを浮かべる。
「そうそう、その子は魔法使いじゃないから、実験動物としての価値はないわ。犯した後に殺したところで、何も問題はないの。せいぜい玩具にしてあげて」
この言葉に反応するように、茂みの一部が大きく揺れる。
それが目標の逃避を意味すると知ってか、三人の男の内二人が動き始める。互いに曖昧な笑みを浮かべてはいるが、その瞳はすでに獲物を狩る肉食の獣を髣髴とさせる鈍い輝きを放っている。
「私の受けた苦しみの何分の一かでも、味わうといいわ」
呟く桃香が天を見上げると、微かな光が僅かな隙間を縫ってこぼれてくる。世界樹の向こうに輝く月が、そこに在るからだ。
彼女は、微かに見えた光明を否定するかのように、月明かりに舌打ちをして歩き始める。闇の中で生きてきた彼女にとって、光はいつだって届かない彼方にあるものでしかなかった。
魔法が在るか無いかは問題ではない。
彼女にとってそれは、偽りでなければならないのだ。