1 母なる地球
かつて人類が滅亡させた青い星は、いまや遠い神話となった。
環境破壊により死にゆく地球を脱出した人類は、コールドスリープと次元跳躍の果てに、別銀河の約束の地へとたどり着いた。
そこで築かれたのは、あらゆる労働から解放された「思考の楽園」。
衣食住から社会の統治まで、すべての雑務を高度なAIが担い、人間に残された唯一の役割は、ただ「新たな発想」を生み出すこと。
そこでは争いという概念すら、古い歴史書のなかにしか存在しない。
人々は睡眠学習によってあらゆる知識を瞬時に手に入れ、苦労して「学ぶ」必要さえなくなった。
目覚めている時間は、ただ自分の好きなこと、心躍る探求だけに費やされる。憎しみや奪い合いのない、完璧に調律された平和な日々。
そこにあるのは、空腹も、格差も、労働の苦しみもない、人類がかつて夢見た究極の理想郷。
だが、人類は故郷を忘れたわけではなかった。
新天地から数千光年の彼方、捨て去ったはずの地球をAIは静かに観測し続けていたのだ。
そしてある時、驚くべき報せが届く。死の星となったはずの地球が自浄作用によって再生し、再び緑に包まれているという。
広大な宇宙を旅してもなお、人類は未だ他の知的生命体に出会えていない。生命の揺りかごである地球は、宇宙における「生物進化の奇跡」そのものだった。人類は一つの決断を下す。
あの美しい星を二度と自分たちの手で汚さぬよう、地球を「不可侵の聖域」として封印することを。
しかし、AIのデータだけでは捉えきれない「生命の真理」がそこには眠っているはずだ。
人類は、自らの目でその奇跡を見守る「地球観察官」を派遣することに決めた。
その選抜条件は、あまりに特殊だった。
求められたのは、「何もしない」ことができる者。
ただひたすらに見つめ、余計な干渉を一切せず、石のように静かに存在し続けられる者。
常に「何かを生み出すこと」を義務づけられた新天地の人間たちにとって、その「空白」を維持することは何より困難な試練だった。
候補者は次々と脱落し、適格者は一向に現れない。
候補者がことごとく脱落するなか、一人の青年が候補に上がった。
ネタ・ロゥ・サーネン。アジア圏日系の血を引く25歳。
彼は本当に「何もしない男」だった。
一人息子があまりにも何もしなさすぎてを将来を案じた両親は、息子に無断で「地球観察官」の公募した。
「何もしなくてでいいのなら、これほど彼に向いた仕事はない」
こうして、史上最も意欲のない観察官による、地球再発見の旅が幕を開ける。




