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蝶の羽ばたき(三)

遅くなりました

灯が三つ、静かに焔を揺らしていた。

雨上がりの夜気は冷たく、賓客の間には香木の匂いが薄く漂う。

扉の外に従者を退け、卓を挟んで三人だけ――賈詡(かく)董昭(とうしょう)、そして馬超(ばちょう)が坐した。


「関東の形勢を、いま一度お聞かせ願いたい」


馬超が切り出すと、董昭は盃を置き、指先で卓の端を軽く叩いた。


「大きく分けると河北(かほく)袁紹(えんしょう)淮南(わいなん)袁術(えんじゅつ)、この二袁の争いよ。袁紹は冀州(きしゅう)を奪った後、青州(せいしゅう)并州(へいしゅう)宗族(袁譚・高幹)を送り支配を広げているが驕慢(きょうまん)になりつつある。私も危うく疑われて殺されるところであったわ。幽州(ゆうしゅう)公孫瓚(こうそんさん)易水(えきすい)を挟んで対峙しているが、互いに決め手を欠く状態のようだ。公孫瓚も私怨で大司馬(劉虞)(しい)し、凡俗を重用して人心を失っているようだった。兗州(えんしゅう)曹操(そうそう)はまだ袁紹に味方しているがそれもいつまで続くことか。曹操は曹操で徐州(じょしゅう)で父や弟を殺された腹いせに誅戮(ちゅうりく)を繰り返している内に、呂布(りょふ)(いただ)いた張邈(ちょうばく)陳宮(ちんきゅう)らに(そむ)かれて兗州を荒らされ、ようやく何とか奪い返したとか。呂布は徐州の劉備(りゅうび)のところに流れたようだが…またぞろ裏切りを繰り返すだろうな」


賈詡が深く息を吐き、言葉を承けて続ける。


「袁術ははじめ南陽(なんよう)()って豫州(よしゅう)を臨んだが何とも戦下手な事よ、豫州・兗州では曹操に敗れ、南陽は劉表(りゅうひょう)に奪われて()う這うの体で寿春(じゅしゅん)に流れた。江東(こうとう)に配下を派遣しながら劉備や呂布らと結んで袁紹・曹操に抗しようと再起を図っているとか。ただ、聞く限りによると求心力を失いつつあるようで長くはあるまい」

(今のところ関東の状況は史実とほぼ変わっていないな。天子を迎え損ねた曹操がこれからどうなるか。大義や官位を得られず飛躍は難しいが、その分袁紹との決裂が伸びる可能性も…?曹操が弱ければ袁術や呂布も生きながらえるかもしれない。どのみちこれからも関東の動きは注視すべきだろうな)

「なるほど、関東も荒れているのですな。天子が苦境にあり漢家が危難にあるというのに嘆かわしい事です」


馬超は頷きながら聞き入った後、大仰に顔をしかめて首を振って見せた。

続けて急ぎ用意させた書を卓の上に積み上げる。


「さて、ここに献じたき書がございます。三皇秘典(さんこうひてん)伏波(ふくは)兵法論、政戦両略(せいせんりょうりゃく)。いずれも蔡伯喈(蔡邕)様の旧蔵だとか。縁あってご息女を妻として迎え入れまして、彼女に復元してもらいました」


賈詡が眉をわずかに上げ、書物を手に取ってその手触りを確かめた。


「ほう、随分と上質な紙…蔡侯(さいこう)紙、いや左伯(さはく)紙か?」

「秘典の一、工典に従い作らせた太昊(たいこう)紙にございます」


董昭が大仰な紙の名前に思わず大きく笑いを漏らす。


「ははは、ずいぶん大それた名前だが、いやそれに相応しい品質かもしれん」

「ふむ、これが以前聞かされた(ふる)くて新しき学、という奴か」


かつて長安(ちょうあん)で馬超と語った時の記憶を思い返した賈詡がぱらぱらと(ページ)をめくって流し読みする。


文和(賈詡)殿より随分と面白い若者がいると聞かされていたが、なるほどこれは退屈しそうにない」

「いやはや、恐縮です」


賈詡は董昭にも馬超のことを事前に話していたようで、かなり興味深そうにしている。


「伏波兵法論…これも聞かぬ書名だが、伏波とは祖の?」

「まあ…()()()()()()()()です」


明け透けな馬超の言葉に思わず賈詡が噴き出す。


「くっくっく…いや、序を読んだがなかなか意欲的な内容のようだ。後ほどゆっくりと読ませてもらおう」

「政戦両略…これもまた興味深い書かもしれん。兵家に法家を混ぜた書は数あれど、この書は法家の上に兵家を建てたようなものか?ううむ、もっと落ち着いて読める状況で検討したいぞ」


董昭は政戦両略の目次や序を食い入るように読み耽っている。

政戦両略は新たに蔡琰(さいえん)に筆を執らせて書き上げた書物だった。

内容は前世の学生時代に研究した戦争論や、卒論の主題(テーマ)とした君主論を組み合わせて脚色(アレンジ)したものとなっている。

儒家や道家などの思想を極力混ぜ込まないように監修したので、この時代からすると随分異質な内容に仕上がっているはずだった。


「奸臣どもを征伐した後に存分に語り明かしましょう。さて、関中の諸将を糾合すれば今度こそ奴らめを討てはしましょう。その後は如何すれば?」


馬超としてはこれこそがこの二人に相談したかった本題であった。

李傕(りかく)郭汜(かくし)を討伐して長安を取り返すのはいい。

度重なる内輪もめで戦力は削れ、三輔(さんぽ)を荒らしまわって人心を失い、天子を手放して求心力も低下してだいぶ弱体化しているようなので勝てはしそうではある。


だがその後に馬騰(ばとう)をどう立ち回らせるか、これが問題だった。

はっきり言ってしまえば今までの経歴からしてどこまで行っても武人でしかなく、朝廷で重きを()すほど(まつりごと)には明るくはない。

三公や大将軍などに就いてしまっては董卓(とうたく)や李傕らの二の舞になることは目に見えている。

しかし、だからと言って軽んじられるのもそれはそれで甲斐が無い。

旧弊(きゅうへい)(まみ)れた士人たちに任せても天下の乱れは収まらないだろう。

どう考えても難しいかじ取りだった。


「そうだね…それこそ伏波将軍の名と開府と涼州牧(りょうしゅうぼく)の実を得るのがよいだろう。雍州(ようしゅう)も旧に復するのが良い。朝廷では我らも出来る限り(たす)けよう。その上で京師に屯してもらい、君が涼州を差配する…と言ったところでどうだろうか」

司徒(しと)趙子柔(趙温)司空(しくう)張孟嘉(張喜)太尉(たいい)楊文先(楊彪)、いずれも名臣だが油断ならない老獪さよ。抑えが欲しいな」


今回の逃避行は三公も欠けずに同道したらしい。

史実ではどうだったか。

曹操が司空になったことだけは確実だが…今回はその未来は訪れない。


荀公達(荀攸)益州(えきしゅう)()けず荊州(けいしゅう)に留まっているはずだ。呼び戻すが良いだろう」


賈詡が荀攸(じゅんゆう)の名前を挙げた。

意外なことにまだ曹操の元に行っていないらしい。

実際はどうだったのだろうか。


「いずれ洛陽(らくよう)の再興も必要。河東(かとう)はいまだ賊が跋扈(ばっこ)している、重しの司隷校尉(しれいこうい)鍾元常(鍾繇)あたりか」

「うむ、豫州人士は党錮(とうこ)で苦しい思いをした。重用して恩を売っておくべきだろうね」

「なるほど…」


こうして賈詡と董昭の問答で今後の方針が次々と提示されていった。

鍾繇が司隷校尉になるのは既定路線、だが今回は彼も曹操の下ではないのだろう。

馬騰に開府するのならば辟召(へきしょう)させる人材も必要となる。

前世の知識から有望そうな人材を列挙して選ぶのがよいだろうか。

このように決めるべきことはまだまだ多かった。

蔡侯紙・左伯紙 蔡侯紙は後漢の宦官・蔡倫が製法を改良して朝廷に献上した紙。当時から天下に広まり蔡侯紙と呼ばれた。蔡倫以前にも紙そのものは存在しているので「紙の発明者」というより「製紙法を大きく改良して普及させた人」とする方が正確。左伯は後漢末の製紙の名手で字は子邑。左伯の紙は特に品質が高いことで知られていた。


三公 太尉・司徒・司空の総称。後漢朝廷における最高位の官職で、建前上は太尉が軍事、司徒が民政、司空が土木と司法を司るが、前漢中期頃から名誉職化しており実務は天子への上奏を取り次ぐ尚書台が取り仕切った。そのため実際に政務を担当する場合は尚書を掌握する録尚書事が加官された。


楊彪 字は文先。142年生まれ。弘農郡華陰の人。名門・弘農楊氏の出身で、楊震から楊秉、楊賜、楊彪と四代にわたって太尉となったことで知られる。本人も名臣として名高く、曹操からは警戒され曹丕からは尊重されたが三国志的には楊脩の父としての印象の方が強いかもしれない。


趙温 字は子柔。蜀郡成都の人。若い頃に京兆丞となったが「大丈夫たるもの雄飛すべきで、どうして雌伏していられようか」と言って官を捨てたというなかなか豪快な人。飢饉の際には家の穀物を放出して一万人余りを救ったともいう。献帝の長安遷都に従い、司空を経て司徒となった。李傕が献帝を連れ回そうとした際には直接書簡を送って痛烈に批判し、危うく殺されかけている。


張喜 後漢末の司空。李傕と郭汜が争った際には楊彪らとともに両者の和解を命じられている。史実では建安元年(196年)九月に楊彪とともに罷免され、その後任の司空に曹操が就いた。『献帝春秋』では名前を「張嘉」とする異説もある。史書に字が見えないため作中ではこの説から作り「孟嘉」としている。


荀攸 字は公達。157年生まれ。潁川郡潁陰の人。荀彧の族子だが荀彧より六歳年上。何進が政権を握った際に各地から集めた名士の一人として黄門侍郎となった。董卓暗殺を計画して投獄されるが董卓の死によって助かり、その後蜀郡太守になることを希望したものの道が塞がっていたため荊州に留まった。その後はよく知られている通り曹操に仕えた。


鍾繇 字は元常。151年生まれ。潁川郡長社の人。李傕・郭汜が争った際には献帝の脱出に協力しており、この時点ですでに朝廷に仕えている。史実では建安二年(197年)に荀彧の推薦を受けて司隷校尉となり、持節して関中諸軍を監督。馬騰・韓遂ら関中の諸将を朝廷に従わせ、曹操の後方を安定させる大きな役割を果たした。書家としても非常に有名。一部では(主に私生活面での)鬼畜エピソードも有名。


司隷校尉 比二千石。洛陽・長安を含む司隷諸郡を監督するとともに、百官や京師周辺の官吏の不法を取り締まる強力な監察官。後漢末では州牧の設置と合わせて行政長官の役割も獲得したため非常に強力な権限を有した。


開府・辟召 開府は文字通り自分の府を開いて属官を置くことが出来るようになる。三公や大将軍などの高官は自前の属官組織を持っていた。辟召はそうした高官や州郡の長官が人材を自らの属官として招く制度。特に後漢では三公府の掾属に名士が集まり、そこから中央官や地方長官へ進む出世コースにもなっていた。これで部下となったものはその後もその上官の故吏として一種の派閥を形成していた。


雍州 後漢の通常の十三州には雍州は存在しないが、興平元年(194年)六月に涼州の一部を分けて新たに雍州が置かれた。『後漢書』献帝紀では金城・酒泉・敦煌・張掖の四郡を雍州としたとされる。後世に長安周辺を中心として置かれる雍州とは範囲がかなり異なるためだいぶややこしい。

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