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渭水の戦い(三)

午後の陽は西へ傾き始め、渭水(いすい)の濁流は赤みを帯びて輝いていた。

申の刻も半ば(午後四時)を過ぎ韓遂(かんすい)軍はようやく仮橋を完成させつつあった。

午前から午後にかけて千人を超える犠牲を払ったが、それでも兵は絶えず押し出され、杭は打ち込まれ、縄は締め上げられた。

死屍を踏み越えて進んだ努力は、ついに南岸へと届く一本の橋を形にした。


丸太を束ね、杭で打ち固め、縄で結び合わせたそれは、荒削りではあるが確かに川を横切る道となっていた。

橋脚は幾重にも組み合わされ、木材は厚く重ねられている。

午前の失敗から学んだ工兵たちは、必死の努力で補強を施し、ようやく人馬が渡れる安定を得たのだ。


「できたぞ!」

「橋が通った!」


韓遂軍の陣に歓声が上がった。

恐怖に沈んでいた兵の顔に、久方ぶりに生気が戻る。

誰もが疲労困憊し、血に濡れ、泥に塗れていたが、橋の完成は希望を灯した。

隊列は整えられ、太鼓が鳴り、先鋒の閻行の部隊が進む準備を始める。

韓遂は馬上から、橋を見下ろした。


「よくやった。これで勝機は我らにある。全軍、渡河を開始せよ!」


彼の声に応じ、鼓と角笛が鳴り響いた。

盾を構えた歩兵の列が進み、橋に殺到する。

その後を騎兵たちが後ろに続く。

兵たちは恐怖を押し殺し、前を向いて足を踏み出す。

橋は(きし)みながらも彼らを受け止めた。

初めて板の上に足を置いた兵は、胸の奥に震えを覚えながらも前へと進む。


対岸の馬超(ばちょう)の部隊は、それを見守っていた。

騎兵は既に馬にまたがり、騎射でけん制を続けている。

龐徳(ほうとく)は憤然と槍を握り、今にも突撃を命じようとしたが、馬超が手を挙げて制した。


「まだだ」

「だが、このままでは奴らが押し寄せるぞ!」

「機というものがある。挟撃出来ねば押し切れん」


龐徳は目を見開き、しばし黙した。


「ではどうする?」

「一時退くか。歩兵は城に、騎兵は東で機を窺う」


その時、遠く西方の丘陵の彼方に、土煙が上がった。

風に流されながらも、確かに大軍の動きが見える。

旗が揺れ、列がうねり、地響きのような音がかすかに届いてきた。


「……来たか。退く必要は無くなった」


馬超は小さく呟いた。

龐徳も馬岱(ばたい)も、その視線の先を見て口を閉ざした。

馬騰(ばとう)率いる軍勢、その数一万。彼らはすでに韓遂軍の側面に迫りつつあった。


橋の上を進む韓遂軍の先鋒は、その気配を知らない。

彼らは歓声を上げ、盾を掲げ、槍を振るっていた。

勝利の兆しに見えたその姿こそ、破滅の序章となる。


夕刻へ向かう陽の光が渭の流れを赤く染める。

濁流を跨いだ橋は、韓遂軍にとって希望の道であると同時に、死地への一本道でもあった。



閻行(えんこう)率いる先鋒はすでに数千が橋を渡り終え、南岸に布陣を始めていた。

彼らの顔には午前にはなかった自信が浮かんでいた。

矢はなお飛んでいたが、隊列は崩れず、盾と槍で守りを固めながら進んでいた。


「見よ、敵は押し返せぬ!」

「川岸を確保した!これで勝ちだ!」


声は次第に大きくなり、後続の兵も勇み立った。

恐怖と混乱は完全に消えたわけではない。

だが橋の存在が希望を呼び戻し、数の力が心を支えていた。

韓遂は対岸の馬上でその光景を見下ろし、安堵の息をついた。


「ついに渡ったか。余計な手間を掛けさせおって、踏みつぶしてくれるわ!」


だがその背後で、別の動きが起きていた。

西の丘陵、その稜線に土煙が上がった。

はじめは一筋の薄い煙に過ぎなかった。

だが刻一刻と濃さを増し、やがて幾つもの旗が見え始めた。

風に翻る旗印は「馬」の字を描き、長い列をなして丘を越えてくる。


「……敵影!」


韓遂軍の後列から叫びが上がった。

伝令が駆け、斥候が戻り、報告が一斉に飛び交う。


「西方より大軍が接近!馬騰の旗です!」


韓遂は蒼白になった。

胸の内を冷たい手で掴まれたかのような感覚が走る。

午前中、虚報に惑わされたときの恐怖が、今度は現実となって押し寄せた。


「ば、馬騰が……?隴西(ろうせい)に出ていたはずでは……!」


幕僚が口を開いたが、言葉は続かなかった。

目に映る旗と土煙は揺るぎない事実であり、今さら否定できぬ。


陣中にざわめきが広がった。

後列の兵が足を止め、誰かが「退け!」と叫んだ。

前へ進もうとする者と、後ろに下がろうとする者がぶつかり、列は乱れ始める。


南岸で橋を渡り切った先鋒は、その声に気づかない。

彼らはまだ勝利を信じ、盾を掲げて進んでいた。

だが橋の上に密集する数千は、背後の混乱を知らぬまま、まるで袋の鼠のように前後を狭まれた。


高地の馬超は、その光景を見て静かに息を吸った。

龐徳が低く唸る。


「ようやっと機とやらが来ましたな」

「研ぎ澄ました我らの槍先を見せつけてやりましょう!」


馬岱が笑みを浮かべ気勢を上げる。


「よし、()くぞ!」


馬超が大音声(だいおんじょう)で突撃を命じ、掲げられた夕陽を浴びて槍の穂先が光を返した。



西方から迫る馬騰軍は、まさに大河の氾濫のごとくであった。

整った列は長く連なり、騎兵の馬蹄は地を鳴らし、歩兵の盾は太陽に反射して白く輝いた。

その進軍の音が次第に近づき、渭水の轟音に混じって響く。

韓遂軍の後列は完全に動揺し、秩序を保てなくなっていた。

その様子に法正(ほうせい)は高台の上で静かに呟いた。


「罠は閉じた。あとは刃を振り下ろすのみ」


夕焼けとともに風が渭を渡り、戦場に新たな段階の始まりを告げていた。



馬超の号令が響いた瞬間、渭水南岸の塞に控えていた騎兵たちが一斉に鞭を入れた。

鐙に足を掛けた兵たちの体勢は安定し、馬は泥濘(でいねい)を蹴散らして駆け下る。

蹄鉄が石を打ち、火花が散る。

千五百の騎馬が一つの奔流となって川辺の敵陣へ偃月(えんげつ)の刃を突き立てる。


「進めぇっ!」

孟起(馬超)様に続け!後れを取るな!」


鬨の声が渦を巻き、矢は騎乗のまま放たれ、敵前列を乱した。

すぐさま槍が構えられ、陣を保ったまま韓遂軍の先鋒へ突き立つ。



その頃、西の丘陵を越えた馬騰軍もまた、整然と進撃を開始していた。

騎兵三千が先陣を務め、歩兵七千が大きな盾の壁を築きながら続く。

横合いから迫るその威容は、まさに地を割る洪水のごとくであった。


韓遂軍の後列は、その影を見ただけで戦意を失った。


「後ろを()かれるぞ!」

「逃げねば退路を断たれる!退け!」


叫びは伝令よりも速く広がり、列はたちまち乱れた。

前へ進もうとする兵と後退しようとする兵が橋の付け根で押し合い、鎧が軋み、悲鳴が上がる。



橋を渡り切った閻行の部隊は、眼前に迫る馬超の騎兵を見て顔色を変えた。


「なにっ、馬超自ら来るだと!」


彼らは慌てて盾を重ね、矛を突き出したが、馬超隊の突撃はそれを正面から打ち砕いた。

騎馬の勢いに乗せた長槍は歩兵の列を貫き、突き倒された者が次々と泥に沈む。

龐徳が前に躍り出て、敵の旗持ちを槍ごと突き倒した。

旗が倒れると同時に士気は崩れ、数百の兵が声を上げて逃げ出した。


馬岱はその隙を突いて側面へ回り込み、次々と敵兵を弾き飛ばした。

彼の軍馬は泥濘をものともせず駆け抜け、長槍の穂先は赤い帯を描くように閃いた。


「ええい小僧!今度こそ決着を付けてくれるわ!」

「望むところよ!」


矛を構えた閻行が馬を駆って馬超へと迫る。

両騎が交錯し、二合、三合と矛と槍が合わさって打ち鳴らされる。


「はあぁっ!どうしたぁっ!?そんなものか!!」

「ぐぅっ!なんたる膂力!俺が押し負けるだと!?」


気迫の籠った馬超の猛撃を受けるたびに矛を握る閻行の手に衝撃が走る。

二度矛を合わせた時よりも明らかに力強く鋭い槍に困惑せざるを得なかった。


「ふん!男子、三日会わざれば刮目(かつもく)して見るべしってな!」

「ぐああああっ!くそっ!これはたまらん!」


馬超の放った突きが閻行の右肩に突き刺さり、思わず矛を取り落とす。

武器を失った閻行はすかさず馬の頭を返し戦列から離脱する。


「閻行は逃げ去ったぞ!我らの勝利だ!」

「若に後れを取るな!」

「追え!押し潰せ!」


馬超の叫声が戦場に響き渡り、龐徳と馬岱がこぞって鼓舞すると味方の士気はますます高揚し、敵兵の戦意は挫かれて次々と逃散(ちょうさん)し始めた。



橋上にいた韓遂軍の数千は最悪の状況に陥っていた。

前には馬超の突撃、後ろには馬騰軍の横撃。

川の上に架けられた橋はもはや退路ではなく、逃げ場を塞ぐ檻となった。


「戻れ!橋を戻れ!」

「いや、進め!敵を突破せねば全滅だ!」


叫びが交錯し、誰も統制を取れない。

そこに馬超隊から逃れようとする先陣も殺到して橋の上は押し合い、転倒した者はそのまま踏み潰され、濁流に落ちていく。

隊列は瓦解し、混乱は瞬く間に広がった。



高台から戦場を見下ろす法正は、冷静に呟いた。


「挟撃は成ったか。あとは崩れるだけだな」


彼の予測通り、韓遂軍の陣形は音を立てて崩壊し始めていた。

夕陽に照らされた渭水は赤々と燃えるように輝き、その流れの上で戦いは決定的な局面へと進んでいった。



馬蹄の響きが大地を震わせていた。

西方の丘を越えて渭水に至った馬騰は、整然と進む自軍の列を見渡した。

先陣の騎兵三千が槍を揃え、次いで歩兵七千が大盾を掲げて続く。

日没を背に受けるその光景は、まさに怒涛であった。


「これで韓遂は袋の鼠よ」


馬騰は低く呟いた。

予想外の襲撃に目の前に展開する敵の陣形はすでに崩れていた。

後列はざわめき、統制を失い、退く兵と進む兵が橋の付け根で押し合っている。

橋上に群がる数千も前後を塞がれ、どう動くこともできない。


「突撃せよ!」


馬騰の命令に応じ、騎兵が鬨の声を上げて突き進んだ。

敵後列の歩兵は背を向けたまま逃げ出したが、騎兵の突撃は容赦なくその背を突き破った。

悲鳴と怒号が入り乱れ、瞬く間に列は崩れ去る。


馬騰は前方を睨み据えた。

橋の向こうでは馬超の騎兵が突撃を繰り返し、敵の先鋒を蹂躙している。

父子の軍が左右から同時に敵を呑み込む――まさに戦場を制する瞬間であった。


孟起(もうき)め、よく持ち堪えた!」


胸の内に誇らしさと、戦の苛烈さが入り混じる。

勝利は確実だ。だが馬騰は決して油断しなかった。

敵はまだ数千単位で残っている。

渭水の濁流がその退路を塞いでいる以上、戦はこの場で決し、敵は逃げ場を失う。


「追い崩せ!残兵を蹴散らせ!」


命令が伝わり、馬騰軍は潰走する敵を追撃した。

夕陽の残光が赤く川を染め、その中で勝利の旗が高く翻っていた。



渭の濁流の上に立つ仮橋は、もはや希望ではなく恐怖の象徴だった。

韓遂は馬上から戦場を見下ろし、血の気が引いていくのを感じていた。


「退け!隊列を立て直せ!」


叫んでも、もはや誰も聞かない。

兵たちは耳を塞ぎ、目の前の混乱に呑まれていた。

前では馬超の騎兵が槍を構えて突撃し、橋を渡った兵を次々と突き倒している。

背後では馬騰軍が土煙を上げて押し寄せ、後列は雪崩のように潰走していた。


寿成(馬騰)め……なぜここに……!」


信じられなかった。

奴は確かに隴西に出撃したはずだ。

だが今、目の前にいるのは現実。

「馬」の字を描いた旗が風に揺れ、その数は一万にも及ぶだろう。


幕僚が震える声で言う。


将軍(韓遂)、退却を……」

「退却だと?このままおめおめと逃げ帰れるか!」


韓遂は叫んだ。

だが背後には馬騰の大軍、前は渭水の濁流と泥濘。

兵は互いを押し合い、踏み潰し合い、川に落ちて沈んでいく。

橋の上は屍と絶叫で埋め尽くされ、指揮など意味を失っていた。


「持ち堪えろ!持ち堪えるのだ!」


必死に声を張り上げるも、その叫びは濁流に呑まれた。

周囲には武器を投げて降伏する者、川へ飛び込む者、敵に背を向けて逃げる者――誰もが己の命を救うことだけを考えていた。


韓遂は唇を噛み、血の味を覚えた。

勝ち戦と信じて進軍したはずが、この有様。

自らが築かせた橋は、敵を討つ道ではなく、兵を死地へ誘う道となった。


「……これは、敗北だ」


小さく零れ呟いた時、夕陽は完全に沈み、戦場を赤黒い闇が覆う。

戌の刻に入り(午後七時)、勝負の趨勢は決した。

韓遂は僅かな供回りとともに戦場を離れ北へと落ち延びていった。

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