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戦の後

渭水の南岸の平野を駆け抜けていた馬超(ばちょう)麾下の騎兵は、なお勢いを残していた。

(あぶみ)に足を掛けた兵の姿勢は乱れず、蹄鉄の打つ音が地を震わせていた。

槍の穂先は血と泥で鈍い光を放ち、追われる韓遂(かんすい)の兵の背を絶え間なく脅かしていた。


しかし、日没とともに追撃にも限界が近づいていた。

泥濘に足を取られる馬、闇に紛れて散る敵、そして兵自身の疲労――それらが積み重なり、秩序を保ったままの追撃は困難となりつつあった。


従兄(あに)上!」


馬岱(ばたい)が馬を寄せ、息を荒げながら叫ぶ。


「陽が落ちました。これ以上は危険でしょう」


龐徳(ほうとく)も槍を泥に突き立て、息を吐いた。


「ここで深追いすれば、逆に散じた残党に反撃されかねません。軍を収めるべき時でしょうな」


薄闇の中、馬超は騎兵を見渡した。

兵たちの顔は汗と血で汚れ、馬は白い泡を吹いている。

勝利の昂ぶりはあるが、戦いを続けるには限界だ。


「……よし、合図を出せ。追撃はここまでとする!」


太鼓が打たれ、角笛が低く鳴り響いた。

騎兵たちは名残惜しげに槍を振り下ろし、散り散りに敵を追っていた者も呼び戻される。

やがて渭水南岸の平野には、再び規律ある陣列が整った。


「戦果は十分だ。夜は陣を固め、敵の残党を寄せつけるな」


馬超の命令に、兵たちは声を揃えて応えた。



一方、橋の付け根から北岸にかけては、武器を捨てて降る者が続出していた。

すでに数千に及ぶ韓遂軍の兵が手を上げて列を作り、馬騰(ばとう)軍の兵に囲まれている。


馬騰は馬上からその光景を見下ろした。


「降兵は斬るな。隊ごと捕らえ、後方に集めよ」


命令は素早く伝わった。

降伏した兵からは武器と甲冑が取り上げられ、数十人単位でまとめられる。

馬騰軍の兵は捕虜を容赦なく扱いつつも、無闇に殺すことはしなかった。

むしろ敵の戦力を取り込み、明日からの糧とする方が利に適っている。


降兵の中には泣き崩れる者もいれば、安堵のため息を吐く者もいた。

誰もが今日の敗北を思い知り、生き延びることに必死であった。


「将軍、捕虜はすでに三千を超えました!」


副将の報告に、馬騰は頷いた。


「明日の朝に数を検め、降る者を従わせる。抵抗する者のみ斬れ」


その言葉は、兵たちにも聞こえるようにあえて声高に発せられた。

命乞いをしている者にとって、それは何よりの救いであった。

捕虜たちは互いに顔を見合わせ、次々と武器を捨てて列に加わっていった。



戦場の背後では、合流した孟達(もうたつ)率いる工兵と姜叙(きょうじょ)率いる歩兵が黙々と動いていた。

彼らの役目は戦うことではなく、勝利を確実なものに変えること。

すなわち、敵が遺棄した輜重を回収することだった。


「この荷台を開けろ!」


孟達の号令で、工兵たちが荷台をこじ開ける。

中からは干し肉や穀物、矢束や槍の柄が溢れ出した。

昼間の混乱で多くの輜重が放置されており、それがそっくり鹵獲の対象となったのだ。


姜叙は兵に命じ、荷を分類させる。

食糧は一か所、武具は一か所、布や馬具も分けて積む。

戦場における物資の確保は、次の戦いを決めるほどに重要である。


子敬(孟達)殿、この量であれば十日以上は養えますな」


姜叙の言葉に、孟達は満足げに頷いた。


「よし、将軍(馬騰)へ伝えましょう。糧は確保できた、と」


さらに川辺では、流された物資を引き上げる作業も行われていた。

濁流に漂う木箱を竿で引き寄せ、縄で縛って岸に揚げる。

中には破損して使えぬものもあったが、矢や金属具など再利用できるものは少なくなかった。


兵たちは疲れ切っていたが、戦勝の余韻に支えられて動き続けた。

鹵獲は戦利であると同時に、生き延びる保証でもあった。


やがて夜の帳が降り、戦場は静けさを取り戻した。

火を焚いて捕虜の列を監視し、鹵獲した物資を積み直す作業が続けられる。

渭水の濁流だけが絶え間なく響き、戦いの痕を洗い流していた。


騎馬隊はそれぞれの隊を収め、夜営の配置を整えつつあった。

馬騰は捕虜の収容を終え、孟達と姜叙は鹵獲物資の目録を作り始める。

戦場の混乱はなお残っていたが、秩序は確実に取り戻されつつあった。


戦は終わった――だがこれは始まりにすぎない。

夜営の篝火の向こうには、新たな戦の構想が待っていた。



囲むように並べられた篝火が、捕虜の列を照らしている。

数千の降兵は縄でまとめられ、火の明かりの中にうずくまっていた。

疲労と恐怖に沈んだ顔の中には、安堵の色も混じっている。

処刑されぬと聞き、命だけは繋がると信じたからだ。


その周囲では馬騰軍の兵が夜営を築いていた。

盾を並べて柵を作り、見張りを交代で立てる。

弓兵は矢を数え、騎兵は馬を繋ぎ、馬具を解いて休ませた。

血に染まった甲冑を脱ぎ捨てる者、篝火の前で干し肉を齧る者、疲労のまま眠りに落ちる者――勝利の余韻はあったが、全員の顔には戦いの苛烈さが刻まれていた。


孟達と姜叙は焚火のそばで物資の目録をまとめていた。

鹵獲した穀物や干し肉は数千人を二十日は養える量であり、矢束や武具も潤沢に確保された。

乗り捨てられた捕まえられた馬も数百頭にのぼる。

孟達は木簡に印をつけ、姜叙に渡した。


「これですぐにでも動き出せますな。勝利の果実は兵糧から始まるものだ」


姜叙は頷き、兵士に命じて仮の食糧庫を(しつら)えさせた。



その夜、馬騰と馬超はついに同じ幕舎に集った。

父子が顔を合わせるのは十余日ぶりであった。

勝利を得た後とあって、場には誇りと安堵が漂う。


「超、よくぞ持たせた」


馬騰はそう言って、息子の肩に手を置いた。


「三千で万を超える敵を相手に、よく一日持ち堪えたものだ。お前が踏ん張らねば、この勝ちはなかった」


馬超は静かに頭を垂れた。


「天は我らに味方しましたが、地の利と人の利が合ってのことです。」


龐徳と馬岱も幕舎に呼ばれ、勝利の功を称えられた。

馬騰は笑みを浮かべて言った。


令明(ほうとく)、岱。お前たちの槍が敵を(ことごと)(ほふ)ったと兵は皆語っている。褒美は必ず与える。今宵は堂々と誇るがよい」


その後、孟達と姜叙も呼ばれて賞された。



最後に幕舎に招かれた法正が静かに口を開く。

灯火に照らされたその顔は冷静で、戦場の混乱にあってなお一歩先を見据えていた。


将軍(馬騰)令君(馬超)。本日の勝利は大きい。韓遂軍を撃破し、数千の兵を降すことができました。されど、戦はまだ終わりではありません」


馬騰が頷き、続きを促す。


「戦前に奏しました通り降兵を処刑する必要はございません。むしろ取り込み、兵の数を増すべきです。彼らは今日、主に見捨てられ行き場をなくしました。今、寛容を示せば、忠義はやがて我らに向くでしょう」


言葉の通り、この戦いを起こす前からの既定の方針の確認だった。

馬騰は腕を組んで頷く。


「よかろう。降兵は組み入れる。明朝、酒と食を与え、我が旗下に入ることを許すと伝えよ」


法正はさらに続けた。


「また、これからの方針ですが……将軍の兵は周囲の残敵を掃討し、治安を回復するのがよいでしょう。対して令君は兵を北に進め、各県を解放しながら金城を目指す。韓遂の根拠地を脅かせば、宋建陣営も動揺を免れますまい」


幕舎に沈黙が落ちた。火のはぜる音が響き、誰もが思案に沈む。やがて馬騰が口を開いた。


「……宋建を揺さぶるか。それが最も早い道だな」


馬超は頷き、言葉を添えた。


「冀の周辺が安定すれば、兵も糧も確保できます。隴西へ攻め込むのはその後で十分です」


法正は静かに笑みを浮かべた。


「勝利の後に緩まず、一歩先を打つことが肝要です。まずは今宵を祝い、明日から次の戦を始めましょう」



やがて酒が持ち込まれ、将兵に振る舞われた。

捕虜から得た酒樽である。

疲労に沈んでいた兵たちは声を上げ、勝鬨を重ねた。

焚火の炎が高く揺れ、戦場にかすかな祭りのような空気が広がる。


だが馬騰も馬超も、杯を重ねることはなかった。

父は息子に、息子は父に視線を向け、互いにただ頷き合った。

勝利の喜びはあっても、戦はまだ続く。

明日のことを考えねばならぬのだ。


夜は更け、星々が静かに戦場を見下ろしていた。

篝火の列の中に、捕虜の影、兵の影、将たちの影が揺れ、次の戦いの予兆を孕んでいた。

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