鍛錬の日々
ちょっとやりすぎたかも
政庁での務めを終えた官舎へと戻った馬超は、夕食の準備が整うまでの間に家人の李成に声を掛けた。
「子昂、今日も頼むぞ」
「若様も熱心ですねぇ。冀じゃ一番の豪傑でしょうに」
「冀で一番では足りん。どうせなら天下一を目指さねばな」
県令に任じられて以来、政務にばかりかまけては体が鈍ってしまうと危惧した馬超は時間を見つけては人体工学に基づいた効率的な鍛錬を行うようにしていた。
試しに作らせた丸太の両端に石製の丸重しを取り付けた器具を使っての重量挙げ。
石の加工が思った以上に面倒なようなので普及させるなら砂袋等で代替するのが妥当だろう。
五回の五巡を目途に完全消耗するように調整してある。
一通り終わったら李成が差し出した羊肉串と水を頬張りながら、少し筋肉を休ませる。
次は李成に足を押さえてもらっての膝立ち倒れ。
肉離れなどの怪我を予防するためにはこういった鍛錬も欠かせない。
十回を二巡、筋肥大が目的ではないので高強度かつ短時間を意識する。
続いてはうつ伏せの状態で肘とつま先で体を支える平板支撑。
武技にしろ騎乗にしろ、体幹は非常に重要となる。
二十呼吸の間支持し、これを五巡。
再び休憩を取って筋の熱を冷ました後、跳蹲へと移る。
二十回を三巡、下半身の広範な筋肉と瞬発力を鍛えていく。
最後に肘を突いて横倒れになり、李成に上側の足首と膝を両手で腰の高さで支えてもらい、下の脚を上側の脚に揃えるように持ち挙げながら同時に、上側の腰部も上方へ引き上げる。
鍛えにくく、それだけ怪我もしやすい部分を重点的に鍛える運動だ。
「ふう…今日はこれくらいにしておくか」
「お疲れさまでした。それにしても…今年のはじめと比べたらまた一回り大きくなったんじゃないですか」
「骨はもう成長しないが、筋肉は鍛えれば成長するからな。お前もやるといい。ただし短い時間で集中して、無理はしない程度にな」
ちょうど食事の用意が出来て劉紅が呼びに来た。
食事も肉や魚、豆類を多めにしてもらっていた。
◇◇◇
秋の冀の兵舎には乾いた風が吹き抜けていた。
黄河の水は少し濁り、南方の丘陵は金色に染まりはじめている。
だが昼下がりの陽光はまだ容赦なく、訓練場に立つ兵士たちの額をじっとりと濡らしていた。
号令を発するのは馬超である。
隣には従弟の馬岱、後方には剛毅な龐徳。
いずれも分隊を率い、新たに集められた兵たちを鍛え上げる任に就いている。
「さて———戦に勝つためには、常からの準備こそが肝要だ。相対する敵よりも強くなることこそが生き残る近道。これからそのための術をお前たちに叩き込んでいく」
そして馬超は上衣を脱ぎ捨て、見事に鍛え上げられたその肉体を衆目に晒した。
「お前たちも俺のようになりたくないか?であれば黙ってついて来い!」
馬超がその太い両腕を掲げると、兵士たちから歓声が上がった。
◇
初週は基礎であった。
「腕立て二十!終えた者はすぐ立ち上がって蹲立へ移れ!」
馬岱の声が訓練場に響く。
兵士たちは膝をつき、砂まみれになりながらも腕を押し上げる。
次いで立ち上がり、背をまっすぐにして腰を沈める。
龐徳が背後を回り、姿勢の甘い者がいれば容赦なく叱咤した。
「腰を落とせ!戦場で半端な足腰では、槍を構える前に倒れるぞ!」
兵たちは歯を食いしばり、汗と砂とで顔をぐしゃぐしゃにしながら動きを繰り返した。
最初は十回も満足にできなかった者たちが、数日で二十、三十と数をこなすようになる。
呼吸は荒く、腕は震えたが、誰一人として脱落することを許されなかった。
藁を詰めた布袋を抱え、全員で「抱え上げ」を行う。
これは馬超が新たに導入した訓練で、現代の人体工学を知る彼の工夫であった。
重い袋を床から抱き上げ、背を丸めず腰を落として立ち上がる。
兵士たちは最初、その奇妙な動作に首をかしげたが、数日後には脚と腰の痛みに納得した。
◇
翌週、訓練は苛烈さを増した。
砂袋を肩に担ぎ、五十歩を走り、戻って次の者へ渡す「砂袋中継」。
一度でも落とせば全員がやり直し。
失敗が続くと、仲間同士で罵声が飛んだ。
馬超は黙って見守り、最後に言った。
「戦場では一人の過ちが全員の死につながる。だから互いを責めるのではなく、支え合え。ここで学ばねばならぬ。」
翌日からは兵卒たちは自ら声を掛け合い、荷を落とさぬ工夫を考え始めた。
肩に縄を巻き、腕を組んで担ぎ上げる。
次第に息が合い、走る足並みもそろっていった。
休養日に取り入れられた遊戯も、連帯を深める一助となった。
瓜のような形の革張りの球を奪い合う原始的な「闘球」。
戦術と呼べるほどのものはまだないが、敵陣に運ぶため兵士たちは自然に陣形を組み、盾のように仲間を守り突破役に力を集中させる。
歓声と笑い声が訓練場に満ち、汗だくの体がぶつかり合うたびに友情が芽生えていった。
◇
三週目には、荷重行軍が課せられた。
夜明け前、兵たちは二十斤の荷を背負い、冀の南の丘陵を越える。
冷気を含んだ風が頬を刺し、足元は乾いた土埃にまみれる。
最初は声をあげて歩いていた兵たちも、数里を越えるころには口数を失った。
龐徳が先頭で歩を速め、後方から馬岱が叱咤する。
「遅れるな!息を合わせろ!」
丘を越え、渭水の支流を渡るとき、兵たちの脚は鉛のように重かった。
だが馬超は敢えて休ませず、行軍の最後に坂道ダッシュを課した。
「戦場では万全の状態で戦いに臨めることなど無い!辛い状態で体を動かす状態に慣れること事こそが命を繋ぐことになるぞ!」
倒れ込む者、歯を食いしばる者、肩を貸し合う者。
泥に塗れたその姿に、誰もが自らの限界を悟った。
だが同時に「共に苦しむ仲間」の存在も実感し、顔を見合わせて笑ったのだった。
◇
最後の週には、訓練は実戦に近づいた。
隊ごとに分かれ、盾を構えて突撃し、号令で一斉に後退する。
三十呼吸の全力攻撃と三十呼吸の整列を繰り返す。
これは戦場での突撃と撤退を模した動作であり、兵士たちの心肺を限界まで追い込む。
同時に槍突きも加わった。
兵士たちは木槍を構え、短い号令ごとに全力で突きを放つ。
二百回を超える突きの後には腕が痺れ、槍を落とす者もいた。それでも馬岱は怒鳴った。
「敵は待ってくれぬ!最後の一突きで生死が決まるのだ!」
そして、四週目の締めくくりは再び「闘球」であった。
過酷な訓練の後の熱冷ましのはずだが、二陣営が激しくぶつかり合う。
転倒し、砂にまみれながらも必死に玉を運ぶ姿は、まるで戦場の混戦そのものだった。
勝敗が決したあと、兵士たちは肩を組み、息を切らしながら笑った。
顔には疲労の色が濃いが、その眼光は鋭さを増していた。
◇
夕暮れ、兵舎の屋根に赤い陽が沈む。
馬超は高台に立ち、訓練を終えた兵士たちを見下ろした。
彼らの姿は、四週間前とはまるで違う。
痩せ細った農夫や牧夫は逞しい兵となり、互いを支える仲間となった。
「まだまだ未熟。だが、この者たちは必ずや刃となる。」
馬超の胸に確信が芽生えた。
馬岱は満足げに頷き、龐徳は険しい顔で兵たちを睨みつつも、その口元には微かな笑みが浮かんでいた。
秋風が冀の城壁を吹き抜け、遠くで犬の吠える声が聞こえる。
その夜、兵舎には疲労を越えた安堵の息遣いが満ちていた。
兵たちは藁床に横たわり、夢の中でもまだ槍を突き、球を追っていた。
だが、これは始まりにすぎなかった。
次の四週には更なる積み上げが、その次の四週には実戦を模した演習が予定されていた。
そして束の間に休息の後、年が明ければ彼らが実戦の血風に晒される日が迫っていたのである。




