工典と保典
遅くなりました
堂内の興奮も冷めやらぬまま、続けて太昊工典へと話題が移る。
「――太昊は工を司り、炎帝は農を司る。先も述べた通り工典は稼典よりも前に配されており、保典は稼典の後に配されている。恐らくは伏羲の後に神農、神農の後に黄帝という意なのだろうが…」
冊を開いた馬超は、まず静かに言葉を置いた。
「工典の記すところは稼典や保典と比しても難渋である。私も、或いは文姫も未だ多くは解していないのだ」
馬超は眉間に皺を寄せながら頭を振る。
実のところ三皇秘典の内容は全て馬超の持ちうる知識しか記載することができない。
工業分野に関しては学生の頃に学んだ数学・科学に関する記憶と趣味と研究を兼ねて読み漁った工業史の知識、若い頃に就いていた品質管理の仕事で培った知見くらいしか持ち合わせていない。
それでも工典を著したのは迷信を排した科学的な思考法や、帰納法的な論理を流布するためでもあった。
とりわけ後漢代はその成り立ち的な理由もあって讖記・緯書のような胡散臭い予言書が盛んに流行った時代であり、桓譚や張衡、王充といった讖緯を迷信として否定したり合理的な思想を持った人間は排斥されがちであった。
その意味では工典は割と危険な書物ではあるのだが、蔡琰の編纂によってある程度は儒者を学んだ人士にも受け入れられる内容に仕上がってはいるはずだった。
「工典に記されているのは、器や工房の作り方そのものだけでは無い。天の理———火や水、風や土といったものは、どの時代でも同じく動く。その理をどう識り、どう役立てるか。それが纏められているようだ」
楊阜が首を傾げる。
「天の理……と申されますと?」
「たとえば火だ。火は物を燃やす。だが焔を囲えば炉となり、熱を逃さぬ。風を送れば温度が上がり、鉄をも溶かす。これは器具の違いではなく、理をどう扱うか。工典はそうした道筋を示している。これが正しいのかどうか…実際に試して見なければ解らぬのだが」
「なるほど———」
官吏たちも首を傾げる者、頷き始める者と反応は様々であった。
◇
「工典が初めに述べる所は、理の根源は数に在り、数の上に理が在り、理の上に物が在り———との事だ。諸君らも易や暦法、九章算術などを学び、それらを日々の役務に役立てているはずだ」
「確かに計数が出来ねば政は成り立ちませんな。租税を数えるのは基より、畑の広さを求めるのも道や壁を建てるのも、そして星辰を読み暦を定めるのもまずは数によって導かれます」
趙昂が顎の髭を撫でながら日々の政務を思い返す。
「その上に理。古来より諸子が易や道、陰陽、五行、墨弁、名辞など様々に天の理を明らかにしようとしてきた。工典はそれらとはまた別の理を示している。先の言の通りこれらが正しいかどうかは実際に試して見なければ解らないが―――読んだ限り、私の感じるところに従えば正しく思える」
「ほう…!」
興味を掻き立てられた姜叙が食い入るように頁をめくり文字を追っていく。
「そして理の上に物。理を用いて器物を作り上げていく工夫と術とが描かれてもいる」
「図・画も記されているのですな。これは…見たことのない奇妙な道具だ。実際に使える物なのか」
「この水車や竜骨車とやらは京師にて見たことがございます。もしかしたら他の物も有用なのやも知れませぬ」
馬超による監修のもと蔡琰によって描かれた図説に閻温が唸り、尹奉が太学への遊学中に見かけた器具を見つけて声を挙げた。
「工典に通底しているのは何事も説を立て、予め測り、実を験せという事だ。実際に試して見るのが何よりも確かな術だと。そして一度ではなく、何度も確かめるべきだ、とも」
「然様ですな。初めに紙の上で思い描いた絵図と、実際に事を起こした果実のなんと形の違う事か。だが何度も験しを経れば果実に近い絵図を描けるようにもなります。理を解する、とは何とも深い言葉のように思えます」
楊阜が言葉を心に刻みつけるようにして感慨し深く頷いた。
「しかしながら工典は全てを解き明かすには時間が掛かろう。ひとまずはすぐに役に立ちそうな所を取り上げ、解らぬ分は広く試して行くがよかろうな」
馬超は冊を閉じ、ひとまず結んだ。
◇
最後に馬超が手に取ったのは軒轅保典。
黄帝に仮託した医学の書物であった。
「黄帝と言えば内経や外経、神農黄帝食禁などが知られているが、保典はまたそれらとは別の理と術が記されている」
広間が静まる。
楊阜をはじめ、官吏たちが息を呑んで冊の表題を見つめていた。
馬超はゆっくりと口を開いた。
「農で腹を養い、工で力を支える。だが病で倒れれば、すべて水泡に帰す。これまで幾度も傷や病で人を失ったろう。保典は、その数を減らすための道を示す」
保典の内容も現代医学の理論からすればそれほど深い内容が記されている訳ではなかった。
馬超が持ち合わせているのは基礎的な疫学や家庭医学程度の知識でしかない。
それに加えて蔡琰が記憶していた医書や本草書の内容を馬超が照らし合わせて検討し、取捨選択したものを著述した。
だが医術や経方が方技として占いや祈祷、仙術と一緒くたにされている現状からすればその程度の医学知識でも有用と判断して形としたのだった。
「まず、病の所以は幾つかに分かれるのだと言う。口や傷から入る毒、体を犯す目に見える虫、気を犯す目に見えぬ虫、疲れによる臓腑の乱れ、滋養の不足による気の乱れ、そして老いによる衰え。これらを避けたり、緩めたりすることで傷病に倒れる事を減らすことが出来るのだという」
「ふぅむ。わかるような、わからないような…目に見えぬ虫、とはいかようなものでしょうか」
「綺麗に凹の字に磨かれた蛍石を覗くと、我らの常の目では見えぬほどの小さき虫が見えるのだとか。また工典にも書かれている事だが、そも万物を織り成す根源は分けられぬところまで分けていけば目に見えぬほど小さく成るのだとか。周易はそれを卦で表し、陰陽家は五行を唱えた。秘典はそれらを元素、と呼び習わす」
楊阜が悩ましげに腕を組んで喉の奥を鳴らし、馬超が応じる。
「――まず食で言えば、穀や肉は腹を養う。だがただ満腹にすればよいのではない。粟や麦のほかに豆を食せば力となり、野菜や果実は体を整える。甘きものは麦芽や蜂蜜からも取れる。これらを合わせ、過ぎず不足せずに食せば病は減る」
馬超の言葉に、趙昂が感心したように目を細めた。
「なるほど……粟ばかりで冬を越した年は、痩せ衰えた者が多うございました。やはり食い合わせの妙があるのですな」
「また、手を洗い、水を煮ること。これは薬に勝る。目に見えぬ虫は、水や土と共に腹へ入る。火にかければ多くは死に絶える。手を洗えば口に入らぬ」
尹奉は眉をひそめ、思わず手のひらを眺めた。
「……確かに、傷の後に水を浴びると膿みにくいとは聞きます。そのような所以だったとは」
姜叙は肘を組み、深くうなずいた。
「ただの習いと思うておりましたが、これほどの訳があったとは……。民に広めれば病は大きく減りましょう」
「それと、体を使いすぎぬこと。人の臓腑は弓に似ている。張りすぎれば切れ、緩めすぎれば役に立たぬ。働きと休みを程よく交わせば、長く保てる」
楊阜はしばし黙していたが、やがて口を開いた。
「近ごろ郡中に病で倒れる若者が多いのは、兵役や徭役が重すぎるせいかもしれませぬな。……これは政を司る我らへの戒めでもありましょう」
堂内に低いざわめきが広がる。
これまで「病は天命」と考えてきた者たちにとって、日々の食や水や休みが病を遠ざけるという話は新鮮であり、同時に衝撃でもあった。
各人が過去の経験を思い返し、腑に落ちる場面を探しては互いに小声で確かめ合っている。
馬超は静かに頷き、さらに言葉を重ねた。
「老いは避けられぬ。だが老いを緩めることはできる。歯を守り、目をいたわり、体を冷やさぬようにすれば余生は長くなる。酒や肉も度を越せば寿を縮める。これは神農や黄帝も述べてきた道理だ」
閻温が苦笑をもらした。
「はは……耳に痛い話ですな。されど道理。これを知らぬまま過ごすのと、知って用いるのとでは大違いです」
「大切なのは、黄巾や米賊のように祈ることでも占うことでもない。病の所以を知り、避け、和らげること。これが保典の教えだ」
その場に重い沈黙が落ちた。
静かではあったが、それは否定ではなく、重みを噛みしめる沈黙だった。
幾人かは拳を握り、幾人かは胸に手を当て、自らの家族や部下の顔を思い浮かべていた。
やがて趙昂が姿勢を正し、声を張った。
「保典の述べるところ、まさしく理にございましょう。小吏から三老や里正に伝え、実際に行わせます」
それを受けて姜叙が応じる。
「郷里の子弟を集め、まず水を煮ること、手を洗うことを徹底させましょう」
「では私は兵卒を使い、試みに井戸の水を煮沸させますれば」
そこに閻温が力強く加わった。
「うむ。各々工夫して広めてくれ。ただしよくよく保典を読み込み、努々試しを怠らぬようにな」
馬超の言葉に、堂内の空気は更なる熱を帯びていった。
誰もがこれらを民を守る理として受け止め始めていた。
讖記・緯書 前漢末から流行した予言書や経書に対する解釈書。讖が予言を意味し、緯はよこ糸を意味してたて糸を意味する経に対応して注釈を織りなすという事らしい。王莽が漢から簒奪して新を建てるのに利用し、光武帝も新たに後漢を建てるのに利用したため後漢では讖緯を否定すれば国の成り立ち自体を否定するのに等しかった。袁術が皇帝を名乗る時に使った予言というのもつまりはこれのこと。
桓譚 字は君山。前漢末から後漢初めにかけて漢に仕えた。沛国相の人。博学多才で音律や古文を好んだ。光武帝に対して讖緯とかいう胡散臭いオカルト本を信じちゃダメだよと直言して怒らせ斬られそうになった。
張衡 字は平子。78年生まれ。南陽郡西鄂の人。渾天儀(動力付き天球儀)や地動儀(地震計)を発明したことで有名。詩作・絵画・数学・天文学などでも業績を残したと伝えられる。官僚としては剛直で不正を摘発しまくったり讖緯説を批判したりしたので疎まれて左遷されたりした。
王充 字は仲任。27年生まれ。会稽郡上虞の人。合理主義者で周囲と合わず地方の下級官吏から出世できずに辞めて郷里に帰って学問に打ち込んだ。『論衡』という書物を著し、讖緯説のみならず儒教そのものに対しても厳しい批判を行ったとされる。揚州に流されていた時代の蔡邕が現地で論衡を手に入れて虎の巻にしていたと伝えられる。




