炎帝稼典
長々と書いてありますが、特に後半は定番の内容をそれっぽい雰囲気が出るように書いただけなので読み飛ばしても構いません…
闇に沈んだ閨房、涼州の秋の夜は寒く、窓の鎧戸は閉められ微かな灯火のみが揺らめいて照らしていた。
「旦那様…」
床の中で寄り添った裸身の蔡琰が、甘えるように馬超の逞しい胸板へと頭を擦り寄せる。
客や家人の前では常に貞淑な振る舞いを怠らぬ彼女だが、馬超が閨の中では全てを赦すと何度も言い含めたため、最初は戸惑いもあったようだが今では素直に情を見せるまでに解けていた。
「身体は大丈夫か?」
「はい…寧ろ馴染んできてしまったようで、困ります」
頭を抱き寄せて気遣うよう、香油で整えられた滑らかな髪を撫でつける。
出会った頃より随分と血色の良くなった美貌は、言葉とは裏腹に随分と嬉しそうに微笑を浮かべていた。
「そうか。無理をしていないのなら、良い」
「はい」
今は涼州の情勢も落ち着いており、毎日枕を共にすることが出来ていた。
常は蔡琰が、月のものの時だけは楊蓮も招かれる。
ここに来た頃は互いに少しだけ嫉みを覚えたそうだが、今では実の姉妹以上に仲睦まじい。
楊蓮は甲斐甲斐しく蔡琰の身の回りの世話を焼き、蔡琰は手慰みに書画や琴を教授しているそうだった。
「今宵もまた、お聞かせ下さいませ」
この時代の夜は長い。
日の長さが、と言う事ではなく単純に限られた灯しか無いからである。
三度、情を交わしてもまだ十二分に語るだけの時間は残されていた。
馬超は寝物語の代わりに、千八百年後の様々な知識を蔡琰に教えていた。
伏波兵法論に纏められた内容を始め、三皇秘典に記すべき実用的な知識から、歴史であったり社会であったり思想や哲学の解釈であったり、時には覚えている限りの娯楽的な物語や体験談まで語って聞かせていた。
元より知的な素養に優れた彼女は目を輝かせながらそれらに聞き入り、己の血肉として受け容れていった。
◇◇◇
冬十月
涼州には寒空が広がり、冷たく乾いた風が吹き荒ぶ時候となっていた。
冀の政庁、楊阜ら主だった官吏が集められた広間の卓上に刷り上がったばかりの書冊が積み上げられていた。
蔡琰の手によって再構成、清書された叡智の結晶を木版に刻み写し、印刷したものを製本したものだった。
藁のような色の表紙には隷書で大きく「三皇秘典」とあり、巻ごとに「炎帝稼典」「太昊工典」「軒轅保典」と分かれている。
「これが……」
馬超に促された楊阜は冊を手に取り、息を呑んだ。
厚さは決して多くない。
だが、版木を刷ったばかりの墨の香りが、妙に頼もしく感じられた。
「蔡伯喈様秘蔵の典籍だそうだ。我が妻、文姫に復元させたものを木版に刻み拓本とした」
「木版に…なるほど、石経と比べれば随分楽に彫れるでしょうな」
尹奉が用意された冊の数に納得し、関心しきりに頷く。
「令君。これほどの書を我らに授けていただけるのですか」
「そうだ。これは民のための書だ。お前たち官吏はまず学び、使い、そして広めよ」
趙昂が信じがたいといった顔で問い掛ける。
この時代、知識は財産であり資本であった。
師弟の契りも交わさずに軽々に教授するものではなかったし、一族の内に秘して相伝する家学すらもあったくらいだ。
「――まずは炎帝稼典だ。巻は工典の方が先だが、農こそ国の第一だと考えてな」
馬超が一歩進み出る。
冊を手に取り、堂々と声を響かせた。
「先も申した通り農は国の根だ。民は土から食を得る。兵もまた土から立つ。これを疎かにして国は成り立たん」
紙面に視線を落としていた姜叙や閻温らが姿勢を正す。
馬超は頁を開き、指で示しながら続けた。
「まずは知れ。土も生き物だ。続けて同じ作物を植えれば痩せる。だから畑を分け、順に作を替える。これを輪作という。豆を挟めば土は養われ、その後の麦がよく実る。豆は漉き込んで土の滋養としても良し、穀が足りぬ場合はそのまま食べてもよし」
「……豆を挟む。なるほど、実りの良い家の畑は確かに豆も作っていた記憶があります」
楊阜が低くつぶやき、うなずいた。
「次に畦と溝だ。畦は高く、溝は深く。水は根元に溜めず、走らせる。旱の折には井戸を掘り、桔槔で汲み、溝へ導く。ちなみに工典にはより楽に汲める桔槔が示されている。大雨の後は溝を広げて逃がせ。これを怠れば収穫は半減する」
馬超の言葉は簡潔だが、耳に刺さる。
官吏たちは真剣に耳を傾け、何度もうなずく。
「だが、水は人を争わせる。そこで取り決めを置く。十戸を一班とし、堰や沈砂池の掃除は半月ごとに共同で行う。怠った者は次の番を末に回す。こうすれば争いは減る」
尹奉が小さく息を漏らした。
水利争いは常の悩みだった。
これを律として明文で裁けるなら、民の不満は大きく減る。
馬超は次に肥の頁を開いた。
「乾草二、糞一、枝葉一。この比で積み、中央に葦を束ねて差す。空気を通し、手の甲が熱く臭いが強ければよし。六十日から九十日で肥となる。黒く冷たいなら尿を注せ。臭ければ藁を足せ。そうすれば地力は戻る。また馬糞・牛糞と鶏糞では滋養が異なる。どちらも土には必要となる」
楊阜が感嘆の声を上げた。
「むう…農民は習いで行っていることでしょうが、こうもはっきりと比まで定めてあるのですな」
「その通りだ。勘ではなく理で動かす。これが要だ」
続けて、害虫と病について語る。
「畦を十歩ごとに見回れ。虫が多ければ灰を撒き、油石鹸水を葉に塗れ。ヨモギや葱を煎じて散らせ。麦の病は種を塩水に沈め、浮いたものを捨て、灰をまぶして播け。これで多くの害は防げる」
姜叙が聞き慣れぬ言葉に首を傾げる。
「油石鹸とは…?」
「製法も記してある。後ほど確かめるがよい」
そして、暦の頁を開く。
「冬麦は寒露から霜降に播き、芒種から夏至に刈る。春麦は啓蟄から清明に播き、小暑前に収める。粟は小満から芒種に播き、白露に収める。苜蓿は清明から立夏に播き、翌年から馬の草とせよ。数年ごとに麦と替えれば土地も肥え、馬も養える」
その名が出た瞬間、場がざわめいた。
「苜蓿……」
閻温の声が震えた。
馬の草を畑で育てるなど、考えたことがなかった。
馬超は声を強め、結んだ。
「炎帝稼典は、すぐに試せる術ばかりが記されている。まずは示範田を設け、一畝で試せ。良ければ五戸、さらに村へ。急ぐな。確かめて広げればよい」
広間は静まり返った。
だがその沈黙は重苦しさではなく、全員が心を震わせている証だった。
「まず土が人を養う。結局のところ、食えぬから漢人も胡人も叛くのだ。学び、広めよ。民の腹を満たせ」
「承知いたしました!」
楊阜が深々と拱手し、他の者もそれに倣い、声が広間に響く。
官吏たちの眼差しは燃えていた。
「———稼典の理を、形にするとするための定めも用意してある」
さらに別冊が示され、空気が張り詰めた。
「まず、県の骨組みを立てる。県尉は游徼を差配し堰と水路の輪番を見よ。県丞は三老・里正らを集め郷里の作付と肥やし、示範田を択び管せよ。さらに新たに牧監、倉丞、巡検の官を置く。家禽に備蓄、蝗に病害と気を配るべき箇所は多い」
官吏たちが一斉に拱手し、それぞれの職務を胸に刻む。
「賦役は一戸につき年二十日。農繁期は外す。六割を水利に、二割を防風と排水、残り二割を倉と道路に振る。――これで八万五千人日の労を確保できる。幹線五十里、支線二百里を三年で整え、沈砂池は郷ごとに二基。防風林は用水沿いに半分を初年で植える。それと工兵も使う」
既に具体的な工数まで算されていることに尹奉が思わず息を呑む。
「水は十日一水。上から下へ札の順。違反は次に末番、さらに罰の労三日。幹線には目盛石を打ち、支線には漏斗枡を置け。水の量を見えるようにする。沈砂池は半月ごとに浚え。争いはこれで断つ」
閻温が深く頷いた。
「次に作付だ。三万畝を五つに分ける。麦一万二千畝、粟と黍六千畝、豆六千畝、苜蓿五千畝、果樹千畝。――飼料を削ることは許さぬ。食う事が第一と言っても、馬政も疎かにはできぬ」
「はっ!」
「収量の目標は麦で百斤、粟で九十斤。苜蓿は畝あたり三百斤の乾草を得る。これだけで二千の軍馬を養えるはずだ」
広間がざわめいた。軍馬の飼料不足に悩まされ続けた涼州にとって、これは希望そのものだった。
「運用は節気で定める。雨水から啓蟄は堰を修繕し、麦に追肥。清明には果樹を植え、穀雨には防風林を補う。芒種には麦を収め、小暑には苜蓿を刈る。処暑から白露には粟を収め、寒露から霜降に冬麦を播く。――節気ごとにやるべきことを明らかにした。迷うな」
馬超は冊を掲げ、最後に力強く結んだ。
「各郷には示範田を一畝ずつ置け。新法と旧法を比べ、三度のうち二度勝てば次年二割へ、三勝なら半分へ拡げよ。二年続けて勝ちが多ければ、全県の標準とする。拒む郷は免租を外す。従う郷は五分の租を減じ、良種を与える。――報告は水と作物と虫と倉、それぞれ定めた期ごとに必ず出せ」
官吏たちは拱手し、一斉に声を合わせた。
「承知いたしました!」
その声は広間に響き、壁を震わせるほどだった。
拓本 印刷術発明以前の、石などに刻まれた文字を左右反転させずに写し取る技法。文字部分が白、その他の部分が黒くなる。作中の三皇秘典は官吏たちが理解しやすいように拓本と言っているだけで、実際は木版印刷で複製しています。
石経 儒教や仏教の経典を刻んだ石碑。国家公認の標準テキストを公布するために制作されたも物が多い。現存する最古の石経は蔡邕が刻んだと伝えられる熹平石経。




