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胡蝶之夢

長安(ちょうあん)を発って幾日、三輔(さんぽ)の荒野には未だ戦乱の煤煙が残っていた。

焼け落ちた村の跡、耕す人影のない畑、道を行き交う商人はほとんど姿を消している。

蔡琰(さいえん)馬超(ばちょう)の愛馬の後ろに跨り、しっかりと鞍角に身を預けていた。

しがみつく両腕は未だ震えが残っていたが、声には少しずつ力が戻りつつあった。


「……このような有様では、わたくしの身の置き所などどこにもございません。ですが、()まで伴っていただけるのなら……せめて安らげましょうか」


控えめながらも柔らかく微笑む。


「三輔に留まれば、再び賊の標的となるだろう。涼州(りょうしゅう)も乱れてはいるが冀なら俺の庇護が及ぶ。共に来るがいい」

「はい……。厚かましい願いをお聞き届けくださり、かたじけのうございます」


その様子を隣で見ていた龐徳が、馬を歩ませながらふと口を挟んだ。


「あの琴を守ろうとする御姿、まるで琴そのものが命のようでしたな」


蔡琰は頬を赤らめ、そっと鞍に下げられた琴箱を撫でた。


「父より授けられた唯一の形見にございます。これだけは、いかに荒波の中にあっても手放すことはできませぬ」


馬超はしばし無言で頷き、それから声を低めて言った。


文姫(ぶんき)殿。……一つ頼みたいことがある」

「何でしょうか」

「俺はこの世の理を少しばかり知っている。だが、ただ語っても怪しまれるだけだ。ゆえに、失われた蔡伯喈の書の断簡を得たと称し、三皇の秘典を著そうと考えていた。父君の名を利用するようで心苦しいが、農や工や医の理を載せ、政を正すために」


蔡琰は目を見張った。


「三皇の秘典……。神農や黄帝に仮託して世に示す、と……。ですが、その中に記す理は、どこから得たものにございましょう?」


馬超は少し前を見つめ、しばし沈黙していた。荒野を渡る風の音が、会話の間を満たす。やがて、意を決したように言った。


「……信じなくともよい。ただの与太話と思ってくれて構わぬ。俺の中には、この世より千八百年も後の未来の記憶がある」


蔡琰は息を呑み、馬超の背を抱き直した。


「未来……?千八百年も、先のことを……?それは、夢や幻ではなくて?」


「胡蝶の夢のごときものだ。自分が蝶であったのか、人であるのか、誰にもわからぬ。ただ一つ言えるのは、知識として頭の中に在るということ。それを世のために使おうと思うのだ」


蔡琰は瞳を瞬かせ、すぐに小さく問い返した。


「――荘子、にございますか」

「さすがに良くご存じだ」


文姫はかすかに微笑んだ。


「幼き頃より父に書を読まされました。荘子の篇も、胡蝶の夢のくだりは忘れがたく……。ですが、貴方様のお話はただの寓言ではなく、実のご体験にございますのね」

「そう信じている。夢か、幻かもしれぬ。ただ――その知識を世に使おうと決めている」


龐徳は重い息を吐き、唇を噛みしめた。


「若……それほどの秘密を、なぜこの場で我らに。他に知る者は?」

「初めて語ったわ。文姫殿は俺をよく知らぬゆえに、かえって語りやすい。そして令明(龐徳)、お前は俺が最も信を置く友だ。だからこそ明かした。あるいは徳巌(馬岱)あたりならば信じるやもしれんが…あれは俺を盲信しすぎる」


龐徳は眉をひそめて馬超を見つめた。


「ふむ…では我らの行く末も?」


馬超は小さく笑った。


「ああ。史に記される俺とお前は、やがて敵味方に分かれる。理由までは伝わっていないが、おそらく俺が裏切ったのだろう」


龐徳の瞳が揺れたが、馬超は真剣な眼差しで続けた。


「だが今回は裏切らぬ。必ずお前と共に歩むと誓う」


龐徳は長く息を吐き、そして苦笑した。


「ならば、信じましょう。この先がどうあろうと、私は若に従います」


文姫は二人のやり取りを黙って聞いていたが、やがて静かに口を開いた。


「未来の記憶……。それが夢幻であろうとも、貴方様のお心が真であるならば、きっと世を動かす力となりましょう。……わたくしも筆をもって、お支えいたします」


馬超は頷き、夕日に染まる空を仰いだ。


「ならばよい。未来を知るがゆえに、その未来をなぞるつもりはない。俺は俺の道を行く」


三人の影は長く伸び、荒野に揺れていた。乱世を照らす夕陽の下、確かな絆が新たに結ばれた。

この後の話の注は後日更新するかもしれません。

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