冀の政庁
これも内容は特に重要じゃない、こんな人が部下にいますよという雰囲気回です
朝の鼓が城壁にこだまし、冀の政庁の扉が内から開いた。
土間の砂はまだ冷たく、文机には竹簡と牒文が几帳面に積まれている。
香炉の煙が細く立ち、薄陽が柱の節目を淡く照らした。
馬超は県令の席に着き、左右に若い官が並ぶ。
右に楊阜、左に姜叙。
出納の簿冊を抱えた尹奉が文書台の前に控え、背後には巡察札を帯びた閻温、戸口の帳を携えた趙昂が列の端から市の方角へちらと目をやった。
(因果なことか、揃って史実では馬超と敵対した者たちばかり…彼らもまた歴史に名を残すほど優秀だったということか。まあ善い、今生では叛かれぬように上手く使えばいいだけよ)
馬超は視線を巡らせ、短く告げる。
「本日の議は四つ。
一つ、鞍と鐙、槍の作と給。
二つ、渡の標と橋頭の備え。
三つ、市の掟。
四つ、戸の改めと保伍の立て直し。——始めよ」
◇
まず楊阜が一歩進む。
「工房は相見させました。写しをここに。作のほどと期日、いずれも記してあります。受け取りは丞・令史・官佐、三官そろえて改め見るがよろしゅうございましょう」
尹奉が簿冊を繰り、淡々と続ける。
「深鞍と鐙は一具に革いくばく、木いくばく、手間は何日という勘定にて。槍の穂は細・広の二様、柄は楡に限る。工銭は市の相場に合わせ、前に半、後は品を改めたのちに払うのが筋と存じます」
姜叙が横から添える。
「兵への給は術の進みを見て順次。まず百具、十日で更に百。槍は刺突の列に細穂を、馬体へは広穂を。追いの組は軽きものを用いさせます」
馬超は頷き、竹簡に目を落とした。
「よい。徴発はせぬ。汗の代は正しく払え。此の件、三官の印を重ねて進めよ」
朱の印が三つ、紙面に並んだ。
◇
次に姜叙が新たな簡を開く。
「浅瀬の標杭は五尺おき、川の気に応じて風上を深打ちいたします。橋頭は盾を並べ、土嚢を積む。弓騎はその背に二十歩下げて置きます。兵の動きは『糧・路・期』の順に定める。——もし糧乏しければ、尉の名において期を延べるやむなし、と承りたい」
「任せる」
馬超は即座に答えた。
「兵は腹で動く。余は刻のみを示す。道と食は汝が決せよ」
姜叙は無言で一礼した。
◇
閻温が一歩進み出る。
「市では塩と皮の直が吊り上がっております。明朝より市の掟を掲げます。法外の値で売る者あらば、物は官に収め、銭を科す。私闘・略奪は律に照らして断ずる」
趙昂が手を挙げ、柔らかに言う。
「塩は命の根。罰のみでは冬を越せませぬ。商隊の入城順を改め、行き渡らば直は自然と落ちましょう。旱魃の里には米でなく、皮や労にて替えさせる道も要ると存じます」
尹奉が頷く。
「道を二つに分けましょう。軍の用は驛の道で急がせ、市の物は商隊の道で運ばせる。混ぜればどちらも潰れます」
楊阜が書板を指で叩いた。
「ならば掟の末尾に加えましょう。約束は紙に落とし掲ぐが上策にて候」
馬超はわずかに笑む。
「よかろう。加えて告げる。——降る者と百姓、宗女をみだりに戮すべからず。余の名で書け」
◇
趙昂が戸口の帳を開き、筆先で列をなぞる。
「羌・氐・漢の戸を一つの簿にまとめ、里ごとに保伍を編み直しました。夜の見張り、火の道具、避難の先は決めてあります。婦女・老人の役については、内は…私の妻が取りまとめましょう」
「婦女の働きも功と数えよ」
馬超は頷いた。
「炊き出し、荷運び、傷の手当、いずれも戦の背である」
趙昂の顔が明るむ。
「承りました」
◇
議がひと巡りしたころ、政庁の外がざわついた。
伝令が駆け入り、額の汗を袖で拭う。
「市が荒れております!塩の倉を閉ざし、直を三倍と吹聴する者どもあり!」
閻温の目が冷たく光る。
「出る」
馬超は立ち上がり、席の者らを見渡した。
「よい機を得た。手順どおりに行う。——皆、参れ」
◇
市はすでに人波で満ちていた。
塩俵を積んだ倉の前に屈強な者らが立ち並び、群衆を押し返す。
老女が銭を固く握りしめ、泣きそうな顔で前へ進もうとする。
「押すな!今日の売りは終いだ!明日はもっと高くなる!」
罵声のかたわら、閻温が静かに間に入る。
「押し返すな。手を離せ」
口論が膨らみかけた一歩先で、楊阜が布告を高く掲げ、よく通る声で読み上げた。
「これより市の掟をここに示す。塩と皮の直を法外に吊り上げし者は、品を官に収め、銭を科す!」
尹奉が続ける。
「軍の塩は別の道で満たす。民の分は本日の平直にて売らせる。倉を開けよ。数は官が改める」
仲買の頭目がせせら笑った。
「誰の差配で——」
言い終わらぬうち、閻温が一歩詰め、男の手首から棒を叩き落とした。
「法を曲げるなら、まず手を放せ」
空気が一枚、凍った。屈強な者らが思わず退く。
馬超は群衆の方へ体を向け、腹の底から声を出した。
「塩は命だ。本日は平直で売らせる。足らば、趙昂が商隊を呼び、明け方までに補う。争うな、列を守れ」
趙昂が頷き、若者に目配せする。
「南門の隊にも使いを。明け六つには着かせよ」
姜叙は手早い。
「倉の前に縄を張れ。列は三つ、老人と子は先へ。護りの者を五、五で付ける」
尹奉の配下が俵の数を改め、竹竿で計り、帳に記す。
楊阜の布告は既に柱に貼られ、人の目に触れる。
閻温は黙して列の端に立ち、乱れそうな箇所を指で示すだけだ。
人の波は、やがて波でなく列となった。
ほどなく最初の老女が塩を受け取り、深々と頭を下げる。
「ありがたい……」
馬超はわずかに頷き、閻温へ低く言った。
「頭目は連れてゆけ。獄で訊け。ただし首は刎ねるな。科すに足れ」
「承知」
閻温は短く答え、男を連れて行く。
尹奉が簿を閉じた。
「本日の科した銭はこの通り。府庫に入れます。工の支払いに穴はあきませぬ」
楊阜が筆を走らせ、印を重ねる。
「今日の一件、記に留め、明朝、政庁と市に掲げます」
ほどなく趙昂が戻り、息を整える。
「商隊、今宵ひと隊、明け方にもうひと隊が着きます。市は持ち直しましょう」
馬超は「よし」とだけ言い、群衆を見渡した。
こわばっていた顔に、次第に安堵が広がる。
塩俵が空に近づくころ、冬の風はなお冷たかったが、不思議と温かな気が市に満ちていた。
◇
夕日が政庁の柱を朱に染め、長い影が土間に伸びた。
席に戻った馬超は、静かに言う。
「今日の働き——よくした。まず法を掲げ、次に手順で動き、やむを得て力を用いる。この順でゆく」
楊阜がうなずく。
「文に落とせば、誰も逆らえませぬ」
姜叙が短く添える。
「市の乱れも兵の糧。飢えれば、槍は鈍ります」
尹奉は簿冊を指で叩いた。
「科した銭で工の支払いは滞りません。工房も息が続きましょう」
閻温は一礼して、言葉少なに。
「掟が立てば、血は流れませぬ」
趙昂は微笑して言う。
「家が立てば、城は強くなります。妻にも、明朝より女手の段取りをさせましょう」
馬超は皆を見渡し、深く頷いた。
「明朝は工房を見る。——紙の上の約束がどう働くか、私が確かめる」
外では夜警の鈴が遠く鳴り、冀の空に一番星が灯った。
政庁の灯は遅くまで消えず、朱の印は紙の上で静かに光り、涼州の寒に、わずかな温みを残した。
楊阜 字は義山。生年不明(作中では170年に設定)。漢陽郡冀の人。若いころから同郡の尹奉・趙昂と並び称された。涼州刺史韋康に召し出されて別駕や参軍を歴任した。潼関で曹操に敗れた馬超が再起を図ろうと隴右で騒乱を起こし、韋康は籠城の末に和議を結んで降伏したが殺されてしまった。楊阜はやむなく馬超に従っていたが復讐のために涼州の士人を糾合して反抗しついには涼州から追い出すことに成功した。
姜叙 字は伯奕。生年不明(作中では167年に設定)出身地不明。姜氏は天水四姓の一つで姜維の父の姜冏も冀の人なのでその縁戚と設定。韋康が殺されるとやむなく馬超に従って歴城に駐屯したが、楊阜が復讐心を語るとそれに感動した母親に命じられて反抗計画に加わった。後に歴城が馬超に落とされて母親は捕らえられたが、馬超に向かって面罵したので母親や家族は殺されてしまった。たいがい母親の方が目立っている。
尹奉 字は次曾。生年不明(作中では170年に設定)。漢陽郡の人。涼州の従事に就いていたが韋康が敗れると馬超にやむなく従う。姜叙らが挙兵すると南安の趙衢らと謀って呼応し、馬超の妻子を皆殺しにしてさらし首にした。
閻温 字は伯倹。生年不明(作中では165年に設定)。漢陽郡西城の人。涼州の別駕兼上邽県令代行に就いていたが馬超に攻められて冀へと逃げ帰った。冀が馬超に囲まれると援軍を求めるために包囲を抜け出そうとしたが捕らえられ殺された。
趙昂 字は偉章。生年不明(作中では170年に設定)。漢陽郡の人。妻は王異。羌道県令や涼州従事、参軍事を歴任した。馬超への反抗にも加わったが、その計略にはことごとく王異が関わっていたと伝えられる。たいがい妻の方が有名。最初は王異をヒロインにしようとも考えましたがやめました。




