三十九、
「ごめんなさい」
何度も何度も謝る小梅に、鹿島は焦って言葉を繰り返した。
「違う、君は何も悪くない。俺が、軽率だったんだ。考えなしで、あんなことになってしまって、後悔している。でも、小梅ちゃんが好きなのは本当なんだ。小梅ちゃんだけなんだ。他に誰とも付き合ってない。深水ともそんな関係じゃない」
指輪も出して、その経緯を説明する。
「こんなもの、重いって思うかもしれないけど、」
震える指で、箱を開ける。買った時は、シンプルな指輪だったはずなのに、それは輝きを放っていて、とても美しく見えた。
これを小梅の指にはめることができたら、どんなに嬉しいだろう。
「こんな時に、小梅ちゃんが悲しんでいる時に、こんな……でも、こんな時だからこそ、一緒にいたい。側にいたいんだ」
「私は、大丈夫です」
「ち、違うっ」
病院の薄暗い待合いに鹿島の声が響いた。
「俺だ、俺が、俺が……側にいて欲しいんだ」
「……鹿島さん」
「どうしたらいい? 俺は何をしたら、君は側にいてくれるんだ」
「私みたいな嫌な子、鹿島さんには合わないですよ」
「そんなことない。君は本当に心が優しくて純粋で……俺はそういう小梅ちゃんのことが好きになって、」
「ううん、鹿島さんは知らないだけです、私の本性。こんな性格の悪い私じゃ、鹿島さんには、」
「そんなことないっ」
「それに、」
小梅は息を継いでから、一気に言った。
「身に染みて思ったんです。一度、連れていってくれたパーティーの時、鹿島さんの周りには綺麗な人がいっぱい居て。私みたいなちんちくりん、一人も居なくて」
「こ、小梅ちゃん、」
「鹿島さんには話してなかったんですけど、あの時……大同さんと一緒にオードブルを食べていた時、」
自分が橘と藤間不動産の娘の相手をしてた時だ。
「クラッカーにエビとアボカドが乗ってるやつ、手で取っちゃって……」
「え、」
小梅が息を吐いた。
「よく見たら、平たいスプーンみたいなやつ、あったんですけど。みんなが、えっ、って顔をして」
「だ、大同はそんなことは気にしないよ」
「ううん、テーブルの向こう側にたくさん女の人がいて……」
「何か、言われたの?」
小梅が、ふっと笑った。
「いえ、言われなかったんです」
「じゃ、じゃあ別に……」
「言われなかったけど、」
小梅が止めた言葉に恐怖がせり上がってきた。
鹿島は理解した。
笑われたのだ。
そこにいる連中は、そういう類の人間なのだ、と。
そして、自分もそんな連中の一員で、小梅に出会うまでそれが当たり前だったのだ。
鹿島の足元が一気に崩れ落ちていき、どす黒い底なし沼の中へとずぶずぶと沈んでいくような気がした。
小梅にそんな思いをさせていたなんてと、自分の間抜けさに怒りすら湧いてくる。
(その時、俺は……嫉妬なんかして、バカみたいに)
男に囲まれている小梅を見て、頭も心も嫉妬でいっぱいになり、小梅の様子をきちんと見ていなかった。
(しかも、気まで遣わせて……)
一回り以上も若い小梅に、辛い思いをさせていたのを察することができなかったのだと思うと、いい大人が何をやってんだろうな、心の中で自嘲する。けれど後悔してももう、何もかもを取り戻せない。
小梅が続ける。
「でも、そんなことより、鹿島さんに恥をかかせてしまったなあって」
「え、」
小梅の伏せ気味の睫毛が、ふるっと震えたように見えた。
「鹿島さんを困らせないようにって、頑張ったんですけど、」
えへへ、と力なく笑う。
鹿島はあのパーティーの日、挨拶に回っている時、相手にどれだけ無視し続けられても、小梅がにこにこと笑みを浮かべていたのを思い出した。
泣きたい気持ちになった。これほどまでに情けない自分を殴り倒したくなった。
「……鹿島さんが付き合ってた人も……って、そういえば、ちょうどこの場所でしたね。花奈さんって方だって、すごく綺麗で。雑誌のモデルさんか芸能人みたいだった」
小梅は握っている手にさらに力を入れて、ぎゅっと握り締めた。唇にも力が入り、そのところどころが薄っすら白く浮かび上がっている。
嫌な予感がした。
鹿島は、それが現実になることを恐れた。
「ああ、鹿島さんは私とは全然違う世界に生きている人なんだなあ、って」
「そんなこと関係ない」
あまりの弱々しい声に、自分でも驚いた。
「私みたいな貧乏人は、そんなキラキラした世界にいちゃだめなんですよ。それに、」
待ってくれ。
絶望を感じて、今度は鹿島が手に力を入れて拳を握った。
「これで、わかったと思います、私の本性も……冷たい嫌なヤツなんです」
お願いだ、もう少しだけでいい、側にいさせてくれ。
「…………」
「優しくてステキな鹿島さんにはつり合わないんです。鹿島さんは凄い人です。凄い人なんです。たくさん本とか載っていて、本当に凄い人なんだなあって。私なんて、そんな鹿島さんには相応しくないです。全然、相応しくない」
「……小梅、ちゃん」
「今まで、色々とありがとうございました」
差し出されたスマホと小梅の泣き腫らした赤い目とを何度か交互に見ると、鹿島はようやくスマホを受け取った。
✳︎✳︎✳︎
小梅が離れていってから、ずっとスマホを握り締めていた鹿島は、ぼんやりと待合いで座っていた。そこへ、入院患者の家族だろうか、バタバタと数人が会計カウンターを横切っていくのをみると、鹿島はようやく正気を取り戻した。
(ああ、結局……)
スマホをスライドする。薄暗闇の中、ほわっと淡い灯りがともされる。
(……手には入らなかった)
箱に入ったままの指輪を、ぼうっとした目で見た。
小梅ちゃんとのデートの約束を取り付けた時、これまでの世界が一変し、飛んで回りたいほど嬉しかったのを、昨日のことのように覚えている。
本当に空でも飛べるのではないかというくらいに、バカみたいに浮かれていた自分がいた。
それが。
その全てが。
自分の失態で、呆気なく失ってしまった。
(いや、それだけが原因じゃない)
スマホの画面をスライドする。
(住む世界が違うって言うなら、俺は、)
データというデータは、一つも入っていない。
「全てを捨ててでも……小梅ちゃん、君の側に行きたいのに」
ふふ、と弱々しい笑み。
登録の名前を呼び出す。
連絡先。
鹿島 要。
小梅の声が蘇ってくる。
「須賀さんが、昆布のお菓子が入荷したら連絡して欲しいって言うんです」
困ったような顔をして、スマホを差し出した。それを覗き込むと、『須賀さん』との表示。
顔がかっかと火照ってくるのを感じながら、鹿島は返事をした。
「いいよ、別に。小梅ちゃんの判断で登録増やしてもらって、全然良いから」
大人の余裕を見せたかったが、そんな些細なことにも失敗した。言葉に棘があったのだろうか、小梅が苦笑しながら言った。
「多分、登録するのは須賀さんだけですよ。私……そんなに仲の良い友達とか、いないんです」
「そんなことないよ。君は皆んなから好かれているから。大同なんかは小梅ちゃんが携帯を持ったなんて聞いたら、即登録をごり押ししてくるだろうから気をつけて」
「あはは、大同さんって、ブルドーザーみたいですもんね」
笑顔で。
その言葉がハマり過ぎて、吹いた覚えがある。
鹿島は視線を落として、手の中に包まれているスマホを見た。身体に震えが走った。震える両肩が少し、左右に揺れた。
鹿島 要。
たった一つだけだった。
他には誰の名前もなかった。
「小梅ちゃん、小梅ちゃん、こ、うめ、……」
涙が零れ落ちて、スマホの画面に二つ、落ちた。
鹿島は、後から後からせり上がってくる嗚咽を、止められなかった。




