三十八、
病院の会計カウンターの前の待合いの長イスに腰掛けて、二人並ぶ。
「落ち着いた?」
鹿島が、優しげに問う。差し出したコーヒー缶をようやく、小梅は手にした。
鹿島の隣には、カフェオレとオレンジジュース、カルピスの缶がそれぞれ列をなして並んでいる。
その様子を見た小梅が、ぷっと吹き出した。
「なに?」
鹿島が不安げに小梅を覗き込んだ。
「ううん、鹿島さん、こんなにたくさんもったいないですよ」
「小梅ちゃんが、何が好きなのかわからなかったから」
「何でも飲みます、私。雑食ですから」
今度は鹿島が、ぷっと吹き出した。
「雑食て。ふは、なんかカッコイイな」
「……ごめんなさい、鹿島さん」
隣に座る小梅が、俯く。
鹿島は、そんな小梅の横顔を見ていた。
(君はいつも笑っていて……でも、その裏に色々と我慢していたことがあったんだな)
小梅の人間味のある面を垣間見た気がした。
それは人間なら、当たり前の部分だ。叔父から譲り受けた会社を色々な手段を駆使して大きくしてきた鹿島にとって、周囲にはえげつない人間がたくさんいるわけで、そしてもちろん、自分自身も真っ白であるとは胸を張って言うことはできない。
小梅が心の内で思っていたことなど、大したことではないと思えるのだ。
人間なら、それが当たり前の感情だ、と。
(けれど、小梅ちゃんはきっと、そんな自分が許せないんだろう……)
「小梅ちゃん……好きだよ。好きなんだ」
鹿島が、その横顔に向かって言った。
小梅が赤く腫れた目を寄越してくる。
鹿島は手を伸ばして、その紅潮した頬をそっと撫でた。
黒く潤んだ瞳。見つめると、吸い込まれそうになり目が離せなくなる。
「……好きなんだよ」
小梅の目が遠慮がちに、ぱちりぱちりと二回、まばたいた。
その隙に、鹿島が顔を寄せた。小梅の唇に、自分の唇を押しつけた。
これは衝動だ。
頭の中は透明で、それは何ら機能していないはずなのに、視線は吸い寄せられるように小梅の唇しか見ていない。
身体がそろそろと勝手に動き、そうしなければ死んでしまうとでも言うように、小梅へと引き寄せられ近づいていく。
きっと身体が、心が、自分の全てが小梅を必要としているのだ。全身全霊で。
息と息が。
混ざり合って、一つの尊い創造物となる。
鹿島は唇を離すと、額を小梅のそれにくっつけた。
「小梅ちゃん」
名を呼ぶともう一度、キスをしたいという衝動を感じて、鹿島は次には鼻の先を小梅の鼻先に擦り寄せた。
「好きなんだ」
今度は小梅の下唇を包み込むように、ぱくと咥えた。
ふと、小梅の反応が気になって、そのまま小梅を見ると、目と目が合った。
唇を離して一定の距離を取ると、小梅のまん丸な目が愛らしくて、全身に震えが走った。
(ああ、本当に俺は……これが好きだという、本物の感情なんだ)
恋をするということ。
身に染みて。
頭ではなく心で理解すると、鹿島は小梅をがむしゃらに抱き締めた。
✳︎✳︎✳︎
「ごめんなさい、本当に」
スマホを差し出されて、素直に受け取る。すんなりと受け取れたのは、それまでの経緯があり、諦めの気持ちに傾いていたからかもしれない。
「ううん、こちらこそ、今までありがとう」
言いたい言葉がたくさんあった。けれど、数ある言葉の中で、一つ二つしか口にできなかった。
「楽しかった」
小梅が泣きはらした顔で笑った。
「鹿島さん、ありがとうございます」
そのまま立ち上がり、離れていった。
病院の待合で、小梅に返されたスマホの画面がほわっと明るかった。
それとは対照的に、鹿島の頭の中は霞がかかっている。
そんな頭で、さっきまでの小梅とのやりとりを、ぼんやりと思い出していた。




