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三十、

「もう帰ろう」


「は、はいっ」


「ごめん、急に」


「いえ、大丈夫ですっ」


小梅はまだ、目を丸くしている。腕を掴まれたまま、そのままに。


鹿島はエレベーターが一階へ着く頃にようやく小梅の腕を離した。


「……ごめん、痛かったね」


「いえ、全然ですっ」


(君が……たくさんの男に囲まれているのが、我慢ならなかった)


実際は、そんなことは口が裂けても言えない。


けれど、そう言いたい気持ちと、それを言ったら終わりだと思う気持ちが押し合いへし合いをして、鹿島の中を占めていく。


鹿島は、押し黙るしか仕方がなかった。無言で、エレベーターのドアが開くのを待つ。チン、と音が鳴って、ドアが開いた。


すいっと小梅が先に躍り出た。軽やかな足取りで、くるっと回って鹿島を見る。


「良かったです。大同さんのオススメ、ちょっと口に合わなくてっ」


鹿島は、きょとんとしてしまった。


「美味しくないって言ったんですけど、みんなが美味しい美味しいって言うんです。私の舌がおかしいのかな」


自分への情けなさもあったが、小梅に気を使わせたこともあって、鹿島の気持ちはどん、と落ち込んだ。


けれど、鹿島をなんとか笑わせようとする小梅が愛しくなって、鹿島は抱き締めたい衝動に駆られた。ホテルのロビーで、ホテルのロビーなのに、もう少しで手を伸ばしてしまうところだった。


「送っていくよ」


何もかもを抑えていた。


鹿島は今日、恋の苦しみを嫌と言うほど、知った。


✳︎✳︎✳︎


『つまらなかったね』


『いえ、楽しかったですよ。キャビアなんて、初めて見ました。噂ではよく聞きますけど、本物は初めてで』


メールを打つ手が、揺れる。


『ありがとう。そう言ってもらえると、助かるよ』


『それじゃ、おやすみなさい』


『うん、おやすみ』


スマホをベッドの上に投げる。まだ灯のついている画面を見ると、ほわっと日付が浮いている。


「はああ、まだ土曜日だぞ」


ごろっと上を向く。天井に小梅の顔が浮かぶ。


「土日に会えないってのは、きついな」


モリタとメープルの定休日である水曜日以外は、小梅は働き通しだ。鹿島も水曜日をいつも休むわけにはいかず、土日に会えたらいいのにと考えていた。


「明日は日曜日か。ヒマだな」


(そうだ、明日は午後からモリタへ買い物に行こう)


そう決めてしまうと心がすっきりとした気持ちがして、鹿島は布団に潜り込んで、目を瞑った。


少しだけでも、顔を見たい。


少しだけでも、声が聞きたい。


鹿島は、眠気とともに、そのまま意識を手放していった。


✳︎✳︎✳︎


日曜日、朝早くに目が覚めた。


メープルで遅めのモーニングでもいいかと思ったが、小梅がいないのにメープルに行く意味もないなと思い直すと、家で軽く朝食を取ってゆっくりと過ごしてから、家を出る。


本屋に寄ったり文房具を買ったりしながら、町中をぶらぶらしてからモリタへ行こうと、駅へと向かう。


その時、電車の反対方面の出口から出てくる小梅の姿を見た。


(あれ、今日は仕事じゃないのか)


小走りで走っていく。


(そっちはもしかして……)


花奈が入院していた総合病院の方だった。小梅のおばあさんも、そこで入院していると聞いている。


(お見舞いにでも行くのだろうか)


距離的に離れているので、ここからは声はかけられない。あとをついて行こうと思ったが、それではストーカーだと自分で自分を気持ち悪く思い、止めた。


その時。


小梅が、振り返った。


鹿島は自分を見つけたのかと思ったが、遠目でも視線は合っていない。


何を見ているのかと思って振り返って見ると、背後にそびえ立つビルの入り口に、大きなカラクリ時計。


(ああ、時間を見てるのか)


すると、小梅がこちらを見た気がした。慌てて手を振ると、大きく振り返してくれた。


「あー、鹿島さんー」


大通りを左右を見ながら渡ってくる。


「小梅ちゃん」


奇跡か、と思った。会いたいと思って会いに行くところを、こんなタイミングで出会えるとは思いも寄らなかった。


(なんだこれ、やばい、嬉しい)


「こんにちはあ、こんなところでどうしたんですか?」


手元のレジ袋を見て、「あ、お買い物ですね」と言う。


「うん、文房具と本をね」


「今日はお休みですもんね」


軽く息を切らしていて、子犬のように自分へと駆けてきてくれたのが、くすぐったいような気がした。


「小梅ちゃんは、その、どこか行くの?」


「あ、はいっ。おばあちゃんのとこに」


「県病院だね」


「そうです」


「……あのさ、」


鹿島は勇気を出して、訊いた。


「良かったらでいいんだけど、俺もお見舞いさせてもらえないかな」


小梅がきょとんとした顔になる。


小梅のおばあさんは長い間寝たきりで、意識がない植物状態だと聞いている。


(……家族でもないのに、出しゃばり過ぎかな)


そんな気持ちがあって、強くは出られない。手探りで言葉を探す。


「……やっぱり、無理かな。だめなら次の機会にでも大丈夫だから遠慮なく断って」


「いえ、大丈夫です。おばあちゃんも喜ぶと思うし……でも本当に良いんですか?」


「うん、」


「それじゃ、今から?」


「君がいいなら、」


「行きますか?」


「うん」


突然の提案に呆気なく許可が出たことを意外に思いながら、鹿島は小梅を伴って、近くのフラワーショップに寄って、小ぶりな花束を買った。


「そんな、花束なんていいですよ。意識がないんで、いただいてもわからないですし。もったいないです」


「でも、手ぶらだと落ち着かないし」


「そうですか、じゃあお言葉に甘えて。おばあちゃん、お花大好きなので、喜びます」


駅から病院までは歩いて10分ほど離れていて、小梅はそれが当たり前というように歩き出す。鹿島は、小梅の隣で肩を並べて歩いた。


(タクシーっていう考えは思い浮かばないんだろうな)


隣を歩く小梅の顔をちらと見る。笑顔を浮かべてはいるが、いつものように足取りは軽くない。


そりゃお見舞いなんだからそれが当たり前だろうと思う。


当たり障りのない会話を交わしながら、鹿島は小梅の隣を歩いた。


病院のエントランスを抜け、知った道といった感じにずんずんと歩いていき、エレベーターに乗る。8階で降りると、正面に配置されているナースステーションに声を掛けた。


「こんにちはあ」


「あら、小梅ちゃん。ちょっと久しぶりかな?」


「はい、いつもお世話になります」


鹿島も頭を下げると、年配でベテランそうな看護師がにこっと笑った。


「あら、こんにちは」


「今日は、おばあちゃんにお客さまを連れてきました」


「こんにちは」


鹿島が挨拶を返すと、年配の看護師は怪訝な目つきで鹿島を見たが、すぐに小梅の方へと顔を向けた。


「おばあちゃん、今日のリハビリはもう終わってるから」


「いつもありがとうございます」


小梅が手を上げながら、ナースステーションを離れて、廊下を歩き出す。鹿島も少し遅れて、後をついていこうとする。


年配の看護師にもう一度軽く頭を下げると、看護師は何か言いたそうな表情を浮かべた。けれど、すぐに思い直したのか、頭を下げると、手元のカルテに目を落とした。


(なんだろう、俺、不審に思われてるのか?)


歳の差を、こういう時に感じるというのも、癪に触るが仕方がない。


(恋人には、見えないのだろうか)


気にはなるが、あまり考えないようにと、小梅の後を追うようにしてついていった。


廊下の一番奥、ぽつんとひとつだけ離れた病室の前に来た。


トントンとノックをして、小梅が「おばあちゃーん」と声を出しながら、病室へと入っていく。鹿島も足を忍ばせながら、入っていった。


「おばあちゃん、来たよー。今日はお客さんがいるよー」


病室にはひとつベッドがあり、老人が眠っている。


驚いた。


(もっとたくさんの機械につながれているのかと思っていた……)


眠り姫の老人は想像と随分違って、頬の血色もよく、痩せてはいるが痩せ過ぎてはいない。けれど点滴の針が刺さった細い腕は、見るからに痛々しかった。


「おばあちゃん、鹿島さんだよ。えっと私の……と、友達、」


小梅が鹿島を見て、へへと笑う。


鹿島も苦笑しながら、小梅の祖母のかたわらに寄った。


「初めまして、鹿島と申します。小梅さんとは、仲良くさせてもらっています」


顔をある程度近づけると、消毒液か何かの匂いがふわりと漂ってきた。


「リハビリしてもらったから、顔色が良いねえ。良かったね、おばあちゃん」


小梅が祖母の細い腕をさする。


「おばあちゃん、鹿島さんがおばあちゃんに花束をくれたよ」


鹿島はその言葉で左手に持っていた花束の存在を思い出し、小梅にどうぞと言って渡した。


「おばあちゃん、お花好きでしょ。花瓶に差して、飾っておくね」


受け取った花束を病室の中にあるミニキッチンの方へと運ぶ。


ジャーという音とガランとシンクに花瓶を置いた音が響いてきた。


鹿島は、ベッドの横にあったイスに腰掛けた。


横顔が。


小梅の横顔に似ている気がした。


「小梅さんとはお付き合いさせていただいています」


小さな声で、囁くように、鹿島は言った。小梅には聞こえないように。


「大切にします。安心してください」


キッチンから出てきた小梅は、花瓶を両手で抱えている。


「小梅ちゃんは、花が似合うね」


鹿島が言うと、小梅は照れたように頬を染めた。


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