十七、
「じゃあ、悪いが今日はもう、あがらせてもらうよ」
「はい、お疲れ様でした」
「えっと、スタン社の契約書に不備があった件だが……」
「大丈夫です。先方に連絡済みです」
「ああ、ありがとう……で、その書類については、」
「不備を訂正したものを、来月の7日までにいただく予定です」
「そう、そうだった、そうだったね」
秘書の深水が帰り支度をしているのを見て、鹿島は言った。
「え、キミも帰るの?」
「社長っ‼︎ 社長が、まだこんなにも早い時間に帰られるというなら、こんなチャンスはめったにありません。私も帰ります」
強い口調で言われて、少しだけ怯む。
「そ、そうだね、それがいい」
「今日はモリタの定休日ですね」
「あ、うん」
「社長はこれからお食事のお約束ですね」
「そうだよ」
鹿島は、唇を引き結んだ。
「早くしないと、遅刻ですよ」
慌てて腕時計を見ると、待ち合わせの時間が迫っていた。
「いけない、急がないとっ」
カバンをガシッと持つ。部屋のドアを出てエレベーターホールへと向かう。その鹿島の背中に「社長、お急ぎくださいっ」と声が掛かった。
「悪いがお先にっ。彼女、携帯を持っていないんだっ‼︎」
エレベーターに飛び乗ると、ボタンを連打する。
今夜も車の運転は自分でやらなければいけないが、鹿島の心は踊っていた。
✳︎✳︎✳︎
「こんな高級なお店、本当にいいんですか?」
小梅が黒のワンピースの裾を手で直している。シンプルで18歳らしい、白の花柄が散らしてある可愛いワンピースだった。
小梅が、これ一張羅なんです、と笑う。
その一張羅を自分との食事に着てきてくれたというだけで、鹿島は自分が特別な存在になったような気になり嬉しくなった。
「今日は、この前のお詫びのつもりだから、遠慮なく好きなものを注文してくれ」
個室に通されて、鹿島と小梅は向かい合って座った。
「どうぞ」
店員にイスを引かれて、そろ、と腰をかける。
後ろを見ながら、おっかなびっくり座ろうとしている小梅を見て、首の後ろがそわっと疼いた。
(……可愛いすぎるだろ)
イスに座らされ、きょろきょろと不安げにしている小梅を少しでも落ち着かせようと、鹿島は言った。
「ここはよく知っている店だから、そんなに心配しなくても大丈夫だよ」
会社近くにある、鹿島がよく通っているビストロのドアをくぐると、支配人が奥から慌てて出てくるのが見えた。
「鹿島様、いつもありがとうございます。本日はご予約をいただいておりましたでしょうか」
「いや、今日はしていないんだ。席は空いているかい?」
鹿島が聞くと、支配人はどうぞこちらへ、と個室を案内した。
(席が空いていて良かった)
そう思いながら向かいの小梅を見ると、メニューを見て、なにやら固まってしまっている。
「食べたいものは決まった?」
鹿島が訊くと、小梅はメニューをパタンと閉じた。
「ごめんなさい。ね、値段が高過ぎて、何が何だかわからなくなっちゃいました」
小梅が目を丸くしたまま笑った。
(ほんと可愛いな、リスとか、そういう小動物みたいだ)
鹿島は笑いを堪えながら、心の中でそう思った。
「お肉とシーフードなら、どっちが好き? エビとか好き?」
「私、どっちでも……」
「じゃあ、両方食べよう」
「え、」
小梅が驚きの表情を浮かべたが、鹿島は構わず、注文した。
「飲み物は、と……小梅ちゃんは何がいい?」
「お、お、お水でいいです」
「じゃあ、ミネラルウォーターと僕はジンジャーエールの辛口を」
鹿島が言うと、支配人が「珍しいですね。今日はお車でしたか?」と訊く。
「うん、今日は須賀くんを置いてきてしまった」
「そうでしたか」
支配人は笑みを浮かべながら、テーブルから離れていった。
それを機に、鹿島は小梅へと佇まいを直す。
「それで……この前は病院で本当にみっともないところを見せてしまって」
頭を下げると、小梅は両手を上げて、わわわと言う。
「そんな、本当に気にしていませんから。大丈夫ですよ」
「君をあんな目にあわせてしまって」
「ほんと、大丈夫です。あんなの全然ダメージゼロですよ」
「うん、そう言ってもらえると、助かるよ」
「それより、鹿島さんは大丈夫ですか?」
「ん?」
「……あ、あの人と別れたんですよね」
「うん、そうだよ」
店員が飲み物を持って入ってきた。聞かれてはまずいと思ったのか、口を結ぶ。店員はテーブルにさっとグラスを置き、ミネラルウォーターを注いでから去った。
「病院で、あの後大丈夫でしたか?」
小梅はすぐにグラスを取って、水を口に含んだ。歯にグラスが当たったのか、カチッと音がした。
(緊張している、のかな)
喉元が動いて、飲んだ水が流れていくのがわかる。
「花奈が興奮して、大変な迷惑を掛けてしまったね。あれから……病室に戻ってからは眠ったよ」
「そうですか」
小梅がもう一度、グラスを取る。
その視線が泳いでいるような気がして、鹿島は心配になった。
「おばあさんは、具合はどうなの?」
「はい、まあ変わらずですね。良くもならず、悪くもならずです」
「訊いていいのか、わからないけど……」
察しがいいのか、小梅はニコッと笑って言った。
「大丈夫ですよ。驚くかもしれませんが、もう長いこと意識がないんです。植物状態って言った方がわかりやすいかもです」
「えっ」
鹿島が声を上げて驚く。
「そうですよね、みんなビックリしますから」
「じゃあ、ずっと入院を?」
今度は、鹿島が目の前に置いてあるグラスを手に取った。ジンジャーエールの炭酸が喉をひりつかせる。
「はい。ずっと、」
その言葉の重みに、ごくっと唾を飲んだ。
トントンとノックがされ、前菜が運ばれてくる。二人は一時、沈黙し、テーブルに仰々しく置かれる皿を、見つめていた。
「生ハムのサラダと甘鯛のカルパッチョです」
「…………」
小梅を見ると、皿が目の前に置かれるのを、背中を反らせて大げさに仰け反っている。
鹿島は、ふっと吹きそうになった。
「わあ、綺麗」
小梅の言葉に、鹿島も皿を見る。
甘鯛の刺身に、ジュレにしたソースがキラキラと光っている。
そして、また小梅を見ると、目を丸くして料理を凝視していた。
「そんなに見つめていないで、食べようか」
鹿島が、フォークに手を伸ばすと、その様子を窺いながら小梅もそろりと手を伸ばした。
「あの、鹿島さん。私、こういうの初めてで……」
「え、あ、うん」
「どのフォークを使ったらいいのかとか、教えてもらえませんか?」
「……ああ、いいよ」
鹿島が言葉を選んでいると、小梅の視線が再度泳ぎ始めた。
(……どうしたんだろう)
鹿島は小梅の様子を見て心配になり、テーブルに置いてある鈴をチリンと鳴らした。
「箸を持ってきてくれないか」
店員にそう言うと、すぐに持ってくる。
「これで食べよう」
鹿島が言うと、小梅に笑顔が戻った。
「あ、ありがとうございます。実を言うと、ナイフとか使ったことがなくて……」
「あまり使う機会がないかな」
「はい」
箸を持って、甘鯛と葉っぱを一緒に取って口へと運ぶ。
「うわ、これ、すごく美味しい」
ソースが唇を、きらっと染めている。その唇に視線を取られながら、鹿島もサラダを口に運んだ。
「美味しいね」
「はい、すごく‼︎」
目は丸く、口元はもぐもぐと動いている。鹿島を見ては、笑顔を浮かべる。その笑顔を見るだけで、口の中に入れた料理が美しく彩られていく。
甘み、塩気、まろみ、酸っぱさ……そして、「美味しい」を「味わう」ということ。
(これが、食事というものか)
軽い驚きがあった。
花奈との食事は。
「仔羊にこのバルサミコのソースが合いますわね」
「そうだね」
「レシピを教えてもらおうかしら。シェフを呼んでちょうだい」
支配人に手を上げて、シェフを呼びつける。
(レシピを教えて貰ったって、作る気なんてさらさらないだろうに)
呆れた覚えがある。
けれど店を出る時、支配人やシェフがお美しい方ですねと花奈を褒めれば、鹿島の呆れた気持ちなどは、どこかへと飛んでってしまうのだ。
(今までは……それでも良かったのに)
鹿島は心で思いながら、手元のフォークに手を伸ばした。
「小梅ちゃん、そのお肉には、これとこれを使って」
ナイフとフォークを指差す。
「これと、これ……ですか? 」
「そうそう。こんな感じに端から切っていくんだ」
「ふふ、難しいですね」
苦笑いを浮かべながらも、ナイフを滑らせる。
「個室だから誰も見ていないし、変でも構わないよ。ゆっくり食べて」
「はい」
手首があらぬ方向へ曲がっているのが気になって、鹿島が席を立つ。小梅の背後に回り、小梅の手に手を添えた。
「こう持った方が切りやすいよ」
その瞬間。
手がぱっと離れて、フォークとナイフが皿の上にガシャンと落ちた。
「あ、」
「ご、ごめんっ」
「いえ、私こそごめんなさい」
部屋に響いた音に、何事かと店員が入ってくる。
「すまない、ナイフを落としただけだから」
「お怪我はありませんでしたか? 新しいものをお持ちします」
「ああ、大丈夫だ。そうだな、悪いが新しいものを……」
すると、小梅が慌てて言った。
「このままで良いです」
見ると、皿に何とか引っ掛かっている。
「ギリセーフでしたから」
店員が慌ててナイフとフォークを握りしめる小梅を見て、ふっと笑う。
「では、何かございましたら、お申し付けください」
下がっていった店員を見て、鹿島も席へと戻った。
「……イケメンの店員だったね」
「そうですね。あの黒のベストやエプロンが、かっこいいです」
ちり、と胸が痛んだ。
「でも絶対、秋田さんには合いませんよ」
その言葉に、ふふ、と小さく吹き出す。
「彼は恰幅がいいからね……それより、その、いきなり手を握ってしまってごめん。許可を取るべきだった。こんなのはセクハラだ。悪かったよ、今後は気をつけるから安心して」
吐き出すように言う。鹿島は自分が今、どんな顔をして話しているのか、わからなかった。
小梅がどう思ったか気になって、返事を待つ。
小梅は握りしめているフォークに細かく切った肉を刺すと、口へと放り入れた。
「大丈夫ですよ。それより私もビックリしてしまって、大騒ぎになっちゃいました。すみません」
笑顔で答える。その顔を見て、鹿島はホッと胸を撫で下ろした。
「いや、俺が悪いんだから」
「鹿島さん、これ、すっごく美味しいです。鹿島さんも食べてみてください」
「ああ、いただくよ」
小梅の笑顔が胸の中に届く。それは、じわっと染み入ってくるようで、鹿島の胸は温かくなっていく。
(イケメンにヤキモチ焼いたり、こうして小さな幸せを感じたりで……今日は忙しい日だ)
食事が終わるまで小梅は「美味しい」を連呼し、そして鹿島は他人と食べる食事を、初めて楽しいと感じた。




