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『わたしが大好きな花束』



 子供の頃、私は深い悩みを抱えていた。


 ……それは常に突然やってくる。

 全身の毛がそば立ち、脳髄が凍りつくような恐怖と共に。

 私は、その恐怖に襲われる夜はいつも外へ出た。


 誰もいないところで叫んだり、泣いたり、腕を噛んだりして気を紛らわせていた。


 あれも、そんな夜のできごとであった。


 十四歳の私は、学校の宿舎を抜け出し、一人でグラウンドのそばの石段に座っていた。


「おや。こんなところで、遅くに……どうかしたのかな、君は?」


 いたずらっぽい声が聞こえた。

 振り向くと、そこには初老の男が立っていた。

 飛び級で入学した、幼い私をよく気にかけてくれていた教授だった。


「……少し、論文のことで悩んでいました」


 嘘ではなかった。

 本当に論文のことも考えてはいたからだ。

 すると先生は微笑んで、ゆっくりと私のそばに歩いてくる。

 そして同じ段に腰掛けて、穏やかに話を始めた。


「君の論文は……確か『自己意識の複製と保存について』だったか」


 私は頷く。

 その論文は、簡単に言えば……肉体のクローンを用意し、そこに人の意識を移植し保存するという内容だ。

 これは今、学部でも批判を招いている論文でもある。


「はい、そうです。先生も、許されないと思いますか?」


 聞いた話では、私の論文の評価はおおむねこうだ。


 非常に重大な倫理的リスクがある。

 幼さゆえの社会性の欠如が伺える。


 研究室の教授にも、ずいぶん長々と諭されたものだった。


「ふふふ……」


 だというのに、先生は何故か楽しげに笑った。

 目を瞬かせていると、やがて穏やかな視線が私を覗き込む。


「率直に言えば、許されないだろう」

「…………」

「しかし、許される必要があるのか?」


 言葉を失う。

 まだ幼い私に、許されなくても良い……という発想はなかった。

 良いことだけをするようにと育てられてきたので。


「なぁ、君。倫理や哲学は何のためにあると思う?」


 私は数秒考えて、答えた。ピンと来ない質問である。


「分かりません」

「そうだな。私もそうだった。しかし、長い時を生きて……色々とものを見れば腑に落ちることもある」


 そのような言葉に、私はにわかに興味を引かれていた。

 自分の何倍も生きた相手が、どのような結論を下したのかが聞きたいと思ったのだ。


「倫理や哲学で物は作れない。それは、この世の被造物の外側にある」


 私はその言葉で、初等学校での同級生たちを思い出した。

 算数など何に使うのかと嘆いていた子どもたちを。

 しかしそれに輪をかけて、哲学も倫理も役立たずだ。

 若かった私は、法学の出来損ないのように考えていたと思う。


 ともかく、先生は話を続けた。


「では、一体なにに寄与しているのか? 誰がどういう目的でそれを語り継いだか?」

「……教養でしょうか? 著書の文学的価値や、発想的な意義は無視できないかと思います」


 やや困惑しつつもそれらしく答えた。

 すると先生はまたいたずらっぽい笑みを浮かべる。


「違うな。それは、確かに必要だったんだ」

「なんのために?」

「生きるために」


 彼は言う。

 倫理も哲学も、人が生きるための物だと。

 そしてそれは、宗教や遊戯にも当てはまるらしい。


「私は、社会の豊かさの尺度とは、生きるための物がどれだけあるか……だと思っている」

「どうしてです?」

「死から離れるほど、人は生の苦しみに目覚める。もし死が身近であれば、生の苦しみを慰める必要はない」


 明日死ぬかもしれない人間が、生きる意味に思い悩むだろうか?


 先生はそういうことを語っている。

 しかし私は、一つだけ納得できずにいた。


「……本当に、死は遠いでしょうか?」


 ぽつりと漏らす。

 先生は私をじっと見ていた。

 対して、私は内心で動揺していた。

 誰にも言ったことがない、秘めた憂鬱を言葉にしてしまったからだ。


「…………」


 かといって今さら止めることもできず、言葉はせきを切ったように溢れ出していた。


「死は遠いなどというのは、まやかしです。死は常に我々の背後に張り付いている。私は、それが恐ろしくて仕方がない。……生の苦しみなど、分からないのです、先生」


 まくしたてたあと、後悔と共に俯いていた。

 そして両親について思い出す。

 私が死の恐怖を語り、初めて泣き叫んだのは六歳の頃だ。

 両親は笑い、寄り添い、私をずっと慰めてくれた。


 だが私が十歳になる頃には、彼らの見る目は変わっていた。


 週に三度は死を恐れて泣く私に、両親は少しずつ不安を募らせていった。

 タナトフォビアという病気だと言い始めたのはどちらだったか。

 果てには、精神病院に連れて行くかどうかで言い争うようになった。

 ……私は、別に病院にかかってもよかった。

 この苦しみが消えるのならそうしたいとさえ思った。


 けれど両親が言い争うのには耐えられず、彼らの前で泣くことをやめた。

 そして代わりに腕を噛むことを覚えた。


「……私は、異常でしょうか?」


 無意識に腕を握りしめて、私はそう言った。

 先生は何も言わず、私の腕を取った。

 さらに袖をめくる。


 そこには無数の歯型が……私の『死の苦しみ』が刻まれている。


「私は異常でしょうか?」


 俯いたままもう一度問いかけた。

 先生は黙って私の頭を撫でた。


「…………」


 私は、それが嬉しかった。


 苦しみや孤独に寄り添ってもらえた気がした。

 六歳の頃、死の恐怖に泣いて両親に抱かれた時と同じ安堵を得たような気がした。


 簡単に言うなら、私はまだ幼かったのだ。


 やがて長い沈黙を経て、先生は穏やかな声で語りかけてくる。


「我々に生の苦しみはない」

「…………」

「あるのはただ、死の苦しみだけだ」


 私は顔を上げる。

 先生は静かな目で私をじっと見つめていた。

 我々、という言葉の意味は問わずとも分かる。


「故に倫理は必要ない。哲学もな。それは、我々の慰めにはならない」


 その時、私は人生が変わる予感を覚えていた。

 言いしれない胸の高鳴りが押し寄せてきた。


「…………」


 先生は人懐こく笑みを浮かべる。

 頭を撫でる手を引く。

 それから、ゆっくりと手を私の前に差し伸べた。


「君さえよければ、最適な麻酔を処方しよう。……興味はあるかね?」


 迷うことはなかった。

 私にとって、その手は出口だった。


 ただ死への恐怖に押しつぶされる日々。

 学問に不死を求め、脅迫的に学び続ける灰色の日々。


 その終わりない憂鬱の輪から、飛び出すための出口なのだ。


「……ええ、興味があります」


 私はすぐにその手を取った。

 すると先生は笑みを深め、やや気恥ずかしそうに言葉を続けた。


「結構。では、私のことは『師匠』と呼びなさい」

「なぜです?」


 仰々しく、古めかしい呼び方が疑問だった。

 なぜ教授でも先生でもなく、師匠なのかと。


 ともかく、問いに答えた先生の笑顔を、私は今でもよく覚えている。


「それが、魔術師の流儀だからだ」


 先生……いや、師匠はそう言って笑う。

 そしてこの日、私は魔術師に至る道を得たのだった。



 ―

 ――

 ―――



 一歩一歩、地を踏みしめて、私はゆっくりと歩いていく。

 林立する電柱の間、サイレンが鳴り響く道を。

 長く続く道を歩いていく。


 元凶の地、『ゆりかご』に接する場所を目指して。


「リーシャ」

「なぁに、おしさま?」

「少し話をしよう」

「うん」

「この旅は、お前にとってどんな旅だった?」

「楽しかったよ〜」

「そうか」

「うん! おしさまにいろんなこと教わって、優しくしてもらえたもん」

「私は、優しかったか?」

「優しいよ。だって、リーシャのこと叩かないし……」

「お前は賢いから、叩く必要がなかった」

「そうかな? バカじゃなかった?」

「ああ、バカじゃない」

「そっかぁ。リーシャ……おしさまのこと、大好きだよ、えへっ」

「……調子の良い奴」

「へへ……それに、お洋服もくれたの嬉しかった」

「拾い物だ」

「でも、嬉しかったよ」

「そうか」

「あとは、おしさまのごはん、おいしかったな……」

「何が一番好きだった?」

「シチュー」

「あれか。結局、一度しか食わせてやれなかった」

「もっと食べたかったな」

「乳が手に入らなかった、仕方ない。ラバの荷にレシピは入れてある」

「リーシャには作れないかも」

「できなければ人に頼め。これからは、気が合う相手を見つけて、交流をするのもいい」

「そんな人いるかなぁ……」

「さぁ。少なくとも私は、お前のことが嫌いではなかった」

「わぁい」

「あとは、山小屋の老人もお前をかわいがっていた。アスターもな」

「でも、マーガレットちゃんとは仲良くできなかった」

「彼女の件は気にしなくていい」

「そうかな? ……あっ、そういえば、ラバさんとも仲良くなれたね」

「うん。お前によく懐いている」

「リーシャもラバさんが大好き」

「明日からは、お前のラバだ。私のラバでなくても、むやみに傷つけたりしないように」

「……しないよ。そんなことしない」

「分かってる。念のため言っただけだ」

「えへへ」


「…………」

「…………」


「……なぁ、リーシャ。短い間だったが、色々なことがあったな」

「うん」

「思い返すと、苦しんでいる人が多かった気がしないか?」

「そうだね」

「お前は、それを見てどう思った?」

「かわいそうだと思った」

「本当に?」

「…………」

「リーシャ、本当のことを聞かせてくれ」

「…………」

「本当はどう思った? 滅びゆく世界を見て、お前は何を感じた? ……教えてくれ、リーシャ」


「……………………」

「……………………」



「…………別に、なにも」



 ―――



「なにも思わなかった」


 微笑んだリーシャは硝子玉の瞳でそう言った。

 楽しくはなく、悲しくもない。

 憤りを覚えるということもない。


 答えはただ、虚ろだったのだ。


「……そうだな。それでいい」


 深く頷く。

 やはり、この子は魔術師だと思った。

 私の目に狂いはなかったのだ。


 これまでの旅の中で、彼女は常に空虚だった。

 異なるのは、自らの死に関することだけだ。

 それはどんな時も変わらない。


 最初に確信したのは、マーガレットの街を出た時である。


 あの狂気の夜に、ただ生き残ったという喜びに身を震わせ、笑い転げた姿を見て。

 私は、この子どもが魔術師たりうると理解した。


「リーシャ、これからお前に真理を伝える」

「真理?」

「そうだ」


 彼女は首を傾げている。

 しかし、大方の察しはついているだろう。

 だから構わず、私は真理を言葉にする。


 それは魔術師になるための、最後の条件であった。


「……真理とは、命には意味がないということだ」


 それは世界の真相や、隠された法則を語るものではない。

 私たちにとって真理は、生きる上で絶対の指針を意味する。

 真理はまるで羅針盤のように、向かうべき方向を示してくれる。


「少しも、ほんのわずかな価値すらもない。なぜなら、生き物はいつか死んで消えるからだ」


 私は一息にそれを語った。

 いずれ死ぬから、命には全く意味がないのだと。

 続いて、ある種の確信とともに視線を向ける。


「…………」


 思った通り、リーシャは眉一つ動かさなかった。

 いつもと同じ顔で私を見ていた。

 彼女にとってはきっと、当たり前のことだったのだろう。


 いっそ拍子抜けしたような様子で目を瞬かせている。


「それが真理?」

「……ああ。まぁ、魔術師われわれが勝手に定義しただけだがね」


 なので他の考えを否定しようとは思わない。

 ただ、胸の内ではこの結論が揺らいだことはなかった。


「どうしてそれを知らないと魔術師になれないの?」


 不思議そうな顔を眺める。

 私は淡々と説明を続けた。

 これも最後の授業の内である。


「独占のためだ」


 話しながら、歩調を少し早めた。道の残りはもう長くない。

 時間がないので、説明はかいつまんで、重要なところだけだ。


「……これは、メフィストの方針でね」


 最初に『ゆりかご』に溶けた男のことだ。

 彼は後進のため、『ゆりかご』の力を使った改変で魔術を改良した。

 しかし同時に、彼の意に沿わぬ者は使えぬようにルールを加えていった。


「魔術師から真理を聞き、賛同すること。それができなければ『大魔術』への接続は拒まれる」


 この条件は、リーシャがこれまで魔術を使えなかった理由でもある。

 いくら基礎を固めたとしても、許可がなければ使えない。


「なんでそんなことするの?」

「同じ思想の者だけを招くためだよ」


 この真理に、本当の意味で賛同することができる人間は、決して多くはないのだ。

 それを思いながら私は言葉を続ける。


「そして思想が重なれば、おのずと目的も同じになる」

「……目的」

「そう。目的が重要だ。やり方は違っていてもいいが」


 そこまで話して前を見る。

 もう道の終わりが近づいている。

 目前の無人街、高層ビル群を見つめて、私は最後に一度だけ足を止めた。


「…………」


 そのまま黙っている。

 先に口を開いたのはリーシャの方だった。


「おしさまは、世界を救うために旅をしたんだよね?」


 出会ってすぐの頃、穴ぐらの廃墟で聞かせた話である。

 リーシャは私がそのためにここにいると察しているのだ。


「…………」


 けれど、あの言葉は嘘だった。

 私には世界を救えない。

 深呼吸をして、終着点へ……『ゆりかご』の元へと足を踏み入れた。


「いや、違う」


 リーシャも歩き始める。

 それを横目に、私は真実を口にした。


「私にできることは、多分、先延ばしにすることだけだ」


 返事はない。

 どこかで彼女も、こんなことだろうと察していたのかもしれない。

 赤黒い曇り空の下、バラバラの方向にビルの影が伸びている。

 無人の街を進みながら、私はまた言葉を継いだ。


「あの日、『ゆりかご』に敗北した日に……この世界はとっくに終わっていた」


 だから、すでに手遅れでしかない。

 もう何をしても解決にはならない。


「これからすることは、ただのその場しのぎにすぎない」


 不気味なほどの静寂が満ちていた。

 リーシャも何も言わず、黙って私の話を聞いている。

 責めるでもなく、認めるでもなく。


「本当は私で最後にするつもりだった。……だが、お前を見て欲が出てしまった」


 またリーシャを見る。

 いつもと同じ目で私を見返していた。

 その瞳の暗がりが、妙に心地よく感じる。

 彼女は私の想いなどに惑わされず、全てを自分で決められると分かったからだ。


「私がこれからすることを、どうか見ていてくれ。その上で、お前がどうするかは自分で決めろ」


 私たちの契約は、あくまで『魔術師になること』だけである。

 その先で、彼女が何かを背負う義務はない。


「……うん、分かったよ」


 リーシャが頷く。

 そこで、唐突に笑い声が聞こえた。

 死体漁りの声だ。

 まるで話し終えるのを待っていたかのように、示し合わせたようなタイミングである。

 空に目を向けると、数千体……いや、数万体に届くような群れが押し寄せるのが見える。


「おしさま」


 リーシャが私のローブの裾をぎゅっと握る。

 私は特に動じず、淡々と彼女を落ち着かせる。


「安心しろ。奴らは私を殺さない。無論、お前もだ」


 私やリーシャという魔術師を、無事に『ゆりかご』に取り込むためである。

 それでも怪物をけしかけるのは、私に無駄な魔術を使わせるためだ。


 つまり、『ゆりかご』に入る準備をさせない事である。


「ああ、やはりな」


 ふと気が付き、私は呟いた。

 音もなく、足元に現れたものを見て確信を深める。


「……おしさま、これなに?」


 リーシャが問う。

 その視線は足元に釘付けにされていた。

 視線の先にあるのは、手のひらほどの大きさの、赤いブロックである。


「これか? これは、人間だ」


 拾い上げながら答えた。

 肉の箱はかすかに脈動を繰り返している。

 そして、言葉通りこれは人間だった。

 正確には、複数の人間の脳や感覚器官を圧縮したものだ。


 ただ贄としての形を整えただけの、禁忌という物差しすらも超えた何かである。


「――――使いやすいだろう? 使いたまえよ、ほら、ふふふ……」


 どこからか、あるいはどこでもない場所から声が聞こえた。

 老いてしわがれた男の声だ。

 楽しそうに、狂ったように笑っている。


 私は目を細めた。


「来たか……『トーキー』」


 返事はない。

 ノイズ混じりの笑いだけが響く。

 リーシャが私のローブの裾を引いた。


「トーキー?」

「前に話しただろう。私たちが負けた相手だ」


 以前、数百人の魔術師を『ゆりかご』に招いた本人である。

 しかしそれは今どうでもよかった。

 これは私の戦いなのだ。


 間近に迫る死体漁りの群れを見て、思考を整理する。


「…………」


 切り抜けるには、目の前にある『人の贄』を使った魔術が必要だった。

 ただ、殺されないからといって身を委ねれば、よりたちの悪い末路が待っているはずだ。


 とはいえ、私の選択はそのどちらでもない。


「おい、勘違いするなよ」


 淡々と語る。

 私はローブのポケットからナイフを取り出す。

 さらに、左手の人さし指を小さく裂いた。

 赤い血が地面に滴る。


「私が、なぜわざわざここに来たと思う?」


 もし『ゆりかご』に行きたいだけなら、ここに来る必要はなかった。

 遠い場所で人を贄にして、精神防護を積んで、万全の態勢で自意識を崩せばよかった。


 だがそれをせず、ここに来たのには理由がある。


「それは、お前たちを『攻撃』するためだ」


 端的に目的を告げる。

 即座に詠唱を口にした。


「……来たれ、御使みつかいよ」


 それはごく簡単な魔術だった。

 加えて贄は何もない。

 落とした血液は贄ではなく、単なる鍵だ。

 錠前を開く鍵のようなものだ。


 しかして、確かに魔術は発動する。


 詠唱と同時に、虚空に斬撃が走ったのだ。

 一撃ではない。

 二つ、三つ、四つ……数え切れないほどの鋭利が無空を裂いた。

 不可視の剣が振るわれた軌跡は、ずっと燃えて残り続けている。


 その熱痕の一つから、細い指が這い出してきた。

 さらに指は力強く動き、その隙間をこじ開ける。


 ……向こう側から、何かがゆっくりと現れた。


「……天使」


 リーシャが言う。

 果たして、現れたのは天使であった。

 古戦場で出会った、堕ち果てた使い魔である。

 それは三対の翼をはためかせ、燃える剣をゆらりと構えた。

 ミミズクの顔が剥がれ落ち、腹のラッパが溶けて、裂けていた腹が塞がる。


 天使は本来の姿……彫刻じみた美をもって、この終焉の地に降り立った。


「……そのおもちゃは、取り上げたはずだがな?」


 トーキーの声が聞こえる。

 私は小さく鼻を鳴らした。


 確かに、天使は『ゆりかご』に奪われた。

 しかし、奪い返せないと言った覚えはない。

 むしろそうした事態に備え、バックドアを仕込むのは使い魔の術の初歩である。


 そして今回の場合、その仕掛けは血液であった。

 肉体がない『ゆりかご』の者たちに、この認証は使えない。

 今すぐの対策は不可能だ。


「ハハハ……まぁいい、また取り上げてやるさ」

「それでは遅い。こちらは、数分もあれば事足りるのでね」


 私たちの会話をよそに、天使が動き始める。

 その戦力はまさに圧倒的だ。

 かつて世界の黄昏を支えた、究極の力が解き放たれる。


「――――――――ッ!」


 熾天の火を纏い、黄金の剣が空を裂いた。

 死体漁りたちが人がましく悲鳴を上げる。

 たった一撃で上空の群れが蹴散らされた。

 さらに、天使は力強く翼をはためかせる。

 限りなく空間転移に近い速度で飛翔し、赤い雲の裏で鮮やかな爆炎が閃く。

 それがほんの数秒で数え切れぬほど繰り返され、瞬く間に死体漁りは全滅した。


「…………」


 熱い風の余波が吹く。

 その非現実的なまでの破壊を前に、トーキーは興が乗ったように笑みを漏らす。


「ふふ……いいだろう、少し遊んでやる」


 そんな言葉を引き金に、さらに大量の怪物が現れる。

 空も地も異形の群れが埋め尽くしてしまった。

 しかも今回は有象無象だけではない。

 周囲の環境を塗り替えるような、圧倒的な存在感を放つ個体もいる。


 されど、それでも天使は膝をつかない。


 ほぼ無尽蔵とも言える物量に対し、一歩も引かずに渡り合ってみせる。

 赤い炎の斬撃が灼熱を吹き荒らし、左手の一振りで光の柱を雨と降らせた。

 超音速の飛行で駆け抜けて、終焉の空に三対の翼が躍動する。


 まるで神話の一幕のような大立ち回りに、敵がくつくつと喉を鳴らした。


「……これはこれは、大したものだ。次に奪ったら、もう少し色々と楽しませてもらうか」


 そんな言葉をよそに、私は足を急がせる。

 天使の戦いを前にしても、希望のようなものは一切湧いてこない。


「走るぞ」


 リーシャに言ってビルの隙間を走っていく。

 やるなら敵が引きつけられている間だ。

 地獄の狭間を駆ける私たちに、健気にラバがついてくる。


「ねぇ、おしさま。……天使さん、勝てるんじゃないの?」


 リーシャが言った。

 私は首を横に振る。

 あの天使でさえ、じきに力尽きてしまうのは分かっていた。

 もしあれで抑え込めるような相手なら、決して世界は滅びはしなかったのだ。


「勝てはしない。今は、いたぶられているだけだ」

「誰が?」

「私が」


 絶望の作り方を奴らはよく知っている。

 今は、私に希望を見せる段階なのだ。

 私が思わぬ反抗をしたものだから、奴らもそういう遊びをしたくなったのだろう。


「じゃあ、どうするの?」

「『これ』が作られた場所に行く」


 そう言ってリーシャに見せたのは、赤い立方体……すなわち『人の贄』である。


「それどこ?」


 息を切らしつつ、彼女はまた問いかける。

 私は周囲に視線を巡らせ、ある一方を指差した。


「あそこだ」


 指さしたのは、特に高い一棟のビルである。

 リーシャがまた走りながら答えた。


「なんで分かるの?」

「さっき、向こうから死体漁りが来ていた」


 私はこの肉塊は死体漁りたちと関係があると思っている。

 奴らは人の頭以外を丁寧に潰し、絶命すら許さずにどこかへ運ぶ。

 それは、この『人の贄』を作るためのものであった可能性が高い。


 だとすれば死体漁りの巣こそが肉塊の製造工場であるはずだった。


 やがて、たどり着いたビルの入り口は吹き抜けだった。

 回転扉の硝子はとうに砕けていて、枠だけが錆びたまま残っている。

 中に入ると、埃の匂いと、それに混じった甘い腐臭がした。

 ロビーは広い。

 天井が高く、かつては豪奢だったであろう大理石の床がひび割れている。


「…………」


 視線を巡らせる。

 ロビーの奥、吹き抜けの中央に……巨大な穴が開いていた。

 床が円形にえぐられ、地下へと続いている。

 覗き込むが底は見えない。


 ただ、奥から湿った空気が吹き上げてくる。

 その空気に混じって、微かに……何かを咀嚼する音が聞こえた。


「降りるぞ」


 リーシャに声をかけ、穴の縁に足をかける。

 蠟のような質感の物に覆われた縦穴を降りる。

 ラバはここには連れていけない。

 手綱を離し、重そうな荷を下ろしてやった。


「ラバさん……」


 リーシャがラバの鼻面を撫でる。

 ラバは不安そうに鼻を鳴らしたが、暴れはしなかった。


 魔術を使い、ゆっくりと落ちて降りていく。

 十メートルほど進んだ辺りから、穴の幅が広がっていく。

 さらに進むと、蠟の壁に六角形の仕切りが現れ始めた。

 要は蜂の巣である。

 さらに、その中に何かが詰まっているのに気づく。


「これ……人?」


 リーシャの言う通り、それは人だった。

 六角形の一つ一つに、人間が収められている。

 目を閉じ、頭以外を潰した肉団子の姿で、巣に半ば埋め込まれていた。

 生きているのか死んでいるのかは分からない。

 ただ、胸がかすかに動いている者もいる。


「なるほど、こうして保管するのか」


 私は呟く。

 さっき見たとおりだが、この構造物は巨大な蜂の巣を模していた。

 そして巣には世話役がいる。


「ははは……はは……」


 笑い声が聞こえる。

 死体漁りたちが壁面に張り付き、蠟の中の人間を舐め、前足で押し固め、口移しで何かを与えている。

 蜂が幼虫を育てるように。


 こうして彼らが作っているのは、あの赤いブロックだ。


 人間を圧縮し、贄として整形する。

 その工程がここで行われていた。


「……やはりな」


 私は呟いた。

 赤いブロックをポケットから取り出し、巣の中の人間たちを見回した。

 数百はいる。

 まずはこれくらいで十分だ。


「…………」


 巣に集っていた死体漁りたちが私に気づいた。

 首がぐるりと回り、笑い声が反響する。

 しかし私は気にも留めなかった。

 赤いブロックを一つ、放り投げる。

 贄の力が手の中で弾けた。


空蝉うつせみよ、産声を呑め」


 消去……いや、転送・・の魔術が発動する。

 蠟の壁が溶け、巣の中にある『人の贄』が光に包まれて消えていった。

 一つ、また一つ。

 六角形の部屋が次々と空になっていく。

 死体漁りたちが甲高い声を上げて騒いだが、止める術はない。


 そして、消去されたものの精神は『ゆりかご』に送られた。

 これはかつて、あらゆる手段で『ゆりかご』を攻撃していた時代に生まれた術なのだ。


 大量の昆虫の意識を送り込み、内部を破綻させる計画のために研究された。

 残念ながら、計画そのものは失敗に終わった。

 魔術師でない生命は『ゆりかご』に定着できなかったので。


 しかし術だけは残っていて、私にはかつての計画を成功させる手段がある。


「……トーキー、覚えているか? 私の論文を」


 消去の直前、私は巣の中の人間たち……その無数の脳に、ある処置を施していた。


 それは、自己の意識の複製である。

 かつて十四歳の私が書いた論文の、その先にあるものだ。


 私は魔術師となってからも、不死を求めその研究を続けてきた。

 そして魔術により、それは単なる理論から現実になった。


 その成果こそが今、『ゆりかご』の中に送り込まれた千人近い私だ。

 私の意識は、すなわち大魔術に接続した魔術師の意識である。

 故に『ゆりかご』の中に入る資格を持つ。


「……なにをした?」


 トーキーの声が聞こえた。

 それは無視する。

 複製された意識は長くは保たない。

 この術は不完全で、やがて消滅してしまう。


 けれど消滅するまでは……数百の私が、一斉にゆりかごの内側を掻き乱し続ける。

 その間に、次の手を打つ必要があった。



 ―――



「さて、もう終わりだ」


「お前のその、下らない反抗とやらに飽きた」


「どう負けたかって? 説明などない。必要か?」


「こうして終わるのが普通だ。お前だけが特別だとでも?」


「もうおしまい。時間切れ。おもちゃは片付けろ」


「……さぁみんな、最後に、頑張ってくれた彼に拍手だ」


 ぱちぱちぱちぱち。



 ―――



 気づけば私は、見渡す限りの闇の中にいた。

 目の前にあったはずの廃墟や蜂の巣、そういった確かなものは欠片も残さず消えていた。

 踏みしめる足の裏に、地面の実感がない。

 ただ果てのない闇の中に、私はひとり立ち尽くしていた。


「リーシャ、いるか?」


 返事がない。

 声は闇の果てに吸い込まれていく。


「…………」


 彼女が一体どこへ消えたのか、生きているのか。

 考えてみたが、もう何も分からなかった。

 明らかなのは、私が負けてしまったという事実だけである。


「――――――――ッ!!」


 ふと、聞こえた悲鳴に顔を上げる。

 目を向けると、無惨に敗れた天使がいた。

 剣を奪われ、鎖で足を逆さ吊りにされ、宙吊りの体にはびっしりと赤い百足が這い回っている。


 終わりない苦痛に泣き叫ぶように、天使はずっと叫び続けていた。


「…………」


 やがて宙吊りの鎖が切れ、天使は落ちていった。

 闇の底へと沈んで、深い闇の向こうへと消える。

 それを見届けたあと、私は崩れ落ちて膝をついた。

 体の芯が冷えている。

 気力の残滓すらも感じない。

 転送の魔術の負荷が、私の自意識に重くのしかかっていた。


 ただずっとうなだれていると、どこからか声が聞こえた。


「歩け」


 私はふらふらと立ち上がる。

 先の見えない闇の中を歩き始めた。

 足が重い。一歩ごとに膝の奥が軋んだ。


 また声が聞こえる。


「愚かだな。なぜ私たちに抗った?」


 その声は老いていて、あるいは幼く、女であり、男でもある。

 定まらぬ特徴の声が、私に語りかけていた。

 おそらく、もはやそれは『トーキー』でさえない。

 ただ悪意の化身として、この世界を覆っているなにかだった。


「魔術師らしからぬ行為だ」

「お前は他の者たちと違うようだ」

「裁判にかける必要があるな……ふふ……」


 私は何も答えない。

 ただ無言のうちに歩みを進める。息が浅い。肺の底まで空気が届かない。


「お前たちは一人ずつここに来ては邪魔を続けた。ささやかな、かわいい抵抗だ」

「そうして『ゆりかご』に溶けることが、事態を悪化させている自覚すらもあったはずだ」

「けれどお前は違う。お前は、我々を倒すつもりだったのだろう?」

「理解できない。我々は、お前にとって希望たりうる存在だというのに」


 ……そう言って、声がほくそ笑む。


「我々は、単なる狂人ではない。永遠に至ろうとしているだけだ」

「そう、目的がある」

「かつて魔術師は不老の肉体を得たが、それでは足りない。いつかは星が滅びる……まだ死は追いかけてくる」


 そして新たな星を見つけても、宇宙が滅びる。

 一つの終わりを解決しても、世界の終焉は次々と迫りくる。

 その絶望は、魔術師をずっと苦しめてきた命題である。


「この世界では、あらゆる物が滅びるようにできている」

「つまり、無意味なのだ」


 歩き続ける。指先の感覚が失せていた。

 その時、唐突に闇の中にスポットライトが差す。


「…………」


 光の下で、白衣を着た研究者が忙しく働いている。

 しかしその研究者たちは人間ではない。

 頭部だけが白いネズミだ。


 ネズミの研究者たちは、なにかの実験を行っているらしい。


 そして実験に使用されているラットは、研究者たちとあべこべに顔だけが人間である。

 水に落とされ、電流を流され、薬剤を投与されたり、回り続ける円盤の上を走ったりする。

 意味があるような、ないような、奇妙な実験で死に続ける。


「これが命だ」


 ぱちり、と。

 かすかな音と共にスポットライトが消える。

 しかし次の瞬間には、いくつものライトが現れる。

 その下には等しく、生命の冒涜が満ち満ちていた。


「そして、これを根絶やしにする必要がある」

「この世界から、生命を……認識を、すべて抹消し、『ゆりかご』を宇宙で唯一の認識とする」

「さすれば、全てが思いのままだ。我らが思い浮かべる通りに、世界は在り方を変える」


 それは退廃と終焉の大術式である。

 贄をもって隙間を作るのではなく、この世界そのものを空洞とし、彼らの認識だけを注ぎ込むのだ。

 さらに声は愉しげに語りを重ねた。


「やがて我々は陽子崩壊、真空相転移、ビッグリップ……あらゆる滅びを解決し、宇宙を完全で恒久の舞台へと昇華させるだろう」

「その時こそ、我らは真の悲願……真の永遠を掴み取るのだ」


 宣言して、『ゆりかご』の声は高らかに笑い始める。

 どこまでも清々しい笑いである。

 世界を贄とすることに、何の疑問も抱いてはいない。


 死の恐怖に取り憑かれた彼らに、倫理や道徳……生きるための理は、何も意味をなさないのだ。


「……どうするんだ? そんなに、長く生きて」


 荒い息の中、私は言った。

 つと声が止まる。

 スポットライトが全て消えた。

 弱い息で、空気を胸に取り込みながら、どうにか言葉を重ねた。


「お前たちは分かっていない」

「…………?」

「価値がないんだ、そんなことには」


 そう告げた瞬間、闇の中で笑い声が弾けた。

 あらゆる方向から嘲笑が聞こえてくる。


「はははは……価値がないと言ったか?」

「魔術師となり、数百年……醜く生にしがみついたお前が? それを語るのか?」


 返す言葉がなかった。

 私はひどく愚かで、誰もが知っているようなことに気が付かなかった。


 きっと魔術師の本質とは、ただそれだけのことなのだ。


「そうだな」


 私は自分の矛盾を認めた。

 声はなおも笑い続ける。

 さらに嘲笑うように反論を重ねた。


「なぁ、価値がないと言うのなら、それは生きとし生けるもの全てだ」

「……当然のことだが、最後の結末に影響を及ぼせないものは、論理的に無価値だ」

「価値があるのは、最後に残る物だけ……」

「黒板の落書きとひっかき跡を消して、式を整理し直してみたまえ」


「……なにがある? 実に明快だろう? 私と、同志諸君。そして永遠の宇宙」


「他のものは、無意味だ。死にゆくだけの幻だ。蜃気楼にすぎない」


 私もかつては同じ考えだった。

 そう考えて、人々を見下してさえいた。


 ……なぜ誰も、死を恐れないのだろう?

 泣き叫んで怯えないのだろう?

 奴らは愚かで、現実が見えないのだろうか?


 しかし実のところ、これは嫉妬だった。

 いつか死ぬのに、晴れやかに笑い、日々を楽しめることを妬んでいた。


「恩師に聞いたよ。……死の苦しみが遠ざかるほど、生の苦しみが明らかになるらしい」


 いつかの会話だ。

 それに『トーキー』は反応しなかった。

 私は構わず言葉を継ぐ。


「永遠を手にしてみろ。お前たちはいまに『殺してくれ』と言い始める」

「何が言いたい?」


 声が怪訝そうに言う。

 私は小さく鼻を鳴らした。

 それから、『ゆりかご』の魔術師たちへ向けて淡々と答える。


「分からないか? ……私たちは、ただ痛がりなだけだ」

「…………」

「生きることにも、死ぬことにも、苦しみがある。その苦しみに耐えられなかっただけだ」


 たとえば、何もない宇宙で何兆年も生きることを想像する。

 その虚無から逃れて、永遠に自分に幻を見せ続けることを思い浮かべる。

 いつか絶え間ない幻が、途切れる瞬間が訪れる絶望を想う。


 これは、魔術師が行き着く『生の苦しみ』だ。

 いつからか私は、それが怖くなった。

 そして気づいたのだ。


 私は死ぬことを恐れていたわけではない。

 生も死も関係がなく、ただ苦しみたくないと、傷つきたくないと泣いていただけなのだと。


「確かに、命は無価値だ。けれどそこに、都合のいい救いはない。どう転んでも、世界は苦しみに満ちている」


 闇の中がしんと静まり返る。

 私の言葉に聞き入る、という気配ではない。

 信じられない物を目撃して、言葉を失うような間だった。


「……だから私たちは、どこかで満足しなければならなかった」

「…………」

「それができなければ、いつか……取り返しのつかないことになるだけだ」


 実際にそうなりかけたのが今だ。

 魔術師たちは『ゆりかご』に入り、不死の道へと突き進んでいる。

 さらに世界は壊れ、もう人々が生きる余地はない。


 一方は終わることのない生の苦しみへと。

 もう一方は逃れられぬ死の苦しみへと。


 誰も得をしない形で、出口のない苦痛へ転がっていくだけなのだ。


「…………端的に、分かりやすく答えろ。お前の目的は何だ?」


 長い沈黙を経て、やがて声は言った。

 混乱しきっていると分かる。

 魔術師でありながら、陳腐な……少なくとも彼らがそう断じた、ありふれた説法を語るのだから。


 私は深く息を吸って、答える。


「私の目的は、この世界を滅ぼさせないこと」

「なぜ?」

「必要だからだ」

「なんのために?」

「生きるために」


 路傍の花。

 微笑む人々。

 ぼんやりと窓の外を見つめる誰か。

 笑う日もあれば、諍う日もある。

 傷ついて泣くこともある。

 街の雑踏では、数え切れないほどの人々が、いつも自分のことで精一杯だ。


 ……そんな、騒がしい世界が、滅びゆく者たちが、私には必要だった。

 賑やかな輪に加われなくてもいい。

 私は、そんな世界の片隅でまどろんでいたかった。

 生の苦しみも、死の苦しみも、何気ない光景に溶かしてしまえればよかった。


 静まり返った地平を歩くほどに、そう実感する。

 私にはやはり、別の麻酔が必要だったと。


「…………」


 一際長く、沈黙が続く。

 歩いていた私は、道の終わりにたどり着いたことを悟る。


 闇の先に、一筋の光が見えた。


「判決が出た」


 声が聞こえる。

 身構えて杖を抜いた。

 先に見える光……その前に、誰かが立っている。

 子供の背丈だった。


「喜びたまえ、死刑だ」


 穴が閉じるように、光が消えていく。

 その人物は、この闇の外から来た者なのだろう。

 逆光を背にして立っていた誰かは、ゆっくりと歩き始めた。


「…………」


 最後に、声が見下げ果てたように吐き捨てる。


「お前は『ゆりかご』に迎えない。そこで死ね」


 聞くともなく聞く。

 歩み寄る人影を見つめた。

 ……姿が明らかになる。


「リーシャか」


 ひとりごとのように呟く。

 すると、闇の中で彼女が微笑む。

 軽やかな足取りで、くるりと回っておどけてみせる。


「……えへへ。あのね、おしさま……リーシャ、選ばれちゃった〜」


 なにに選ばれたのか、ということは聞かない。

 聞かなくても分かりきっている。

 リーシャは『ゆりかご』の手先となった。

 おそらく、まだなにか……奴らがこの地上でやり残したことがあるのだろう。


 それを果たすための手先になったわけだ。


「それでね、最初のお仕事は……おしさまを殺すこと」

「できるのか? お前に?」


 まだ魔術を使ったことすらない小娘だ。

 たとえ死に体でも負けるはずはない。

 けれどリーシャは口元に手を当てて、くすくすとほくそ笑んだ。


「やだなぁ、分かってるでしょ? リーシャは、ちゃんと力をもらってるよ」


 そう言って、彼女は真っ直ぐに私を見つめる。

 闇の中で、まるで黒曜石のように……彼女の瞳が黒く光っていた。

 金色だったはずの瞳が、黒く塗りつぶされている。


「…………」


 ゆっくりと、どこからか杖を取り出す。

 そして楽しげな、笑いの混じる息で魔術を使った。


「……あはっ、終点へ急げ!」


 放たれたのは局所的に時を操る魔術だ。

 ある地点で時を加速させ、物体を急速に朽ちさせる。

 どこを狙っているのかは定かではない。

 ただ多くの場合、この魔術の範囲はそう大きくはない。


「足よ、風を踏め」


 加速の術を使って場を離れる。

 右へ向けて、横の機動で範囲外に逃れた。

 しかし間に合わない。

 魔術に左腕が巻き込まれた。

 対象の空間が……その体積が、あまりに大きすぎたせいだ。


 明らかに、何かの干渉ありきの威力である。


「……まずは左手。生贄を使いにくくなる」


 朽ち果てた私の左手を見て、リーシャが淡々と語る。

 口ぶりから、魔術戦に関する知識もあると理解した。

 私と離れたのは短時間だったが、幻術を応用すればどんな知識も仕込める。


 つまり、今のリーシャには『ゆりかご』に溶けた数百人分の経験があると考えるべきだ。


「星のともしび、熱の模写」


 銀の火の魔術を使った。

 五つほどの火球を作り、リーシャへと飛ばす。

 力も経験も及ばぬ以上、心理的な隙をつくしかないからだ。

 目に見える脅威をぶつけて、まずは戦意を揺るがせる。


 しかし。


「効かないよ。……リーシャの目はね、『ゆりかご』の目だから」


 銀の火球が消えていく。

 改変した事象がさらに上書きされた。

 あの目に視認されたことで魔術が消えたと直感する。


「ほう、それは素敵じゃないか」


 軽口を叩いて考える。

 あの眼にも制限はあるはずだと。

 なぜなら、先ほど移動に使用した魔術は消えなかった。

 さらに、事象の上書きができるなら、目視した私に直接干渉すべきだ。


 だがしないということは、他の生命に直接干渉するほどの力はない。

 あくまで放たれた魔術を捻じ伏せるための魔眼なのだ。


「……まぁ、そうでなければ勝てもしないが」


 ため息を一つ。

 呟いて戦闘を続ける。

 私の目的はリーシャを殺すことではなく、無力化することだった。

 弟子を殺す趣味はないので。

 しかしリーシャの方は、純粋な殺意で私を仕留めにかかっている。


 そこには一切の躊躇がなく、幼子が虫をバラバラにするような無邪気さすらあった。


「ねぇ、おしさま。リーシャね、ずっと世界がどうでもよかった。だって死ぬも〜ん」


 楽しげな声がする。

 私は必死に動き回って、リーシャの攻撃をかわし続ける。

 同時に『ゆりかご』の眼をかいくぐり攻撃を加えようとした。


「いつか死ぬならどうでもいいよ。どうせなくなるの。諦めてるの。みんな、生まれる前のことなんて知らないでしょ? いつかその真っ暗闇に落ちるの、永遠に」


 攻防の最中、リーシャはぶつぶつと一人語りを続ける。

 強迫的な、闇を煮詰めたような声だ。

 けれどその表情はどこまでも穏やかで、凪いだ満足に満ちたものだった。


「だったらないのと同じだよ。心も体も。どうでもよかったの。苦しいの。いつか消えるのが苦しいの」


 まくし立てるように語る。

 同時に淀みなく魔術を使った。

 恐ろしいほどの集中力である。

 杖の先から黒い稲妻が迸り、私の足元から無数の杭が発生する。

 その他諸々、数え切れぬほどの魔術が連鎖した。


「どんどん時間がすぎるの。リーシャはまだこどもだよ? でもきっと、すぐに死の一瞬前の瞬間が来る」


 飽和攻撃を透明化でやり過ごす。

 しかしそれすらも読まれていた。

 雷光を突っ切って半透明の腕が迫る。


「……っ」


 リーシャが呼んだ霊体の腕だ。

 透明化した物に触れられる使い魔である。

 なすすべなく首を掴まれた。


「……怖かった。想像するだけで怖いの。耐えられないの」


 リーシャは話し続けている。

 絞め殺される前に透明化を解除した。

 肉の身に幽体は触れられない。

 だがその瞬間を狙い、風の刃が脇腹を抉り取った。

 闇の地面に血飛沫が散る。


「時間は消えていく。もう戻れない。リーシャはつま先から燃えていく。なのに何もできないんだ」


 攻撃は終わらない。

 彼女は数百の銃器を生成し、宙に浮かせて乱れ撃った。

 私はそれを障壁で防ぐも、すぐに悪手であったことを悟る。


 なぜなら、異なる性質の弾が入り混じっているからだ。

 炸裂弾、貫通弾、焼夷弾、果ては催涙弾まで。

 どんな壁を作っても弱点を突かれる。


 瞬きの内に火と鉄の嵐が壁を引きちぎって、私は無様に吹き飛ばされた。


「……でも、苦しいのはもうおしまい」


 彼女は安心しきったように息を漏らす。

 穏やかな笑みと共に杖を振った。

 銃器と共に焼夷弾の火が消え去る。


 代わりに闇の底から、巨大な指が現れた。


「リーシャはね、ずっと生きていけるんだ。もう消えないんだって。……『ゆりかご』で、大切にしてもらえるんだって」


 人の背丈ほどの指が闇の地面に張り付く。

 徐々に何かが這い出してくる。

 深い水に潜って、陸に上がるように……闇の内側から飛び出した。


「天使か……」


 背筋が冷える。

 ミミズクとラッパの堕天使が、暗く燃える剣を構えた。

 その威容を背に、リーシャはやはり穏やかに笑っている。


「じゃあね、おしさま。リーシャをここに連れてきてくれて、ありがとう」


 なすすべもない。

 煤けた息で立ち上がるのが精一杯だ。

 私にはもう、戦うような余裕が残っていなかった。

 実のところ、もう二つほど『人の贄』も使っている。


 限界に近いところまで追い込まれてしまっていた。

 だから私は、彼女に向けて語りかける。


「……なぁ、リーシャ、見逃してくれないか?」

「ううん、だめ。これは契約なの。……契約の魔術に、リーシャはもう同意しちゃったんだ」


 その証が、黒く底光りする『ゆりかご』の瞳だという。

 どこか得意げにそう語り、リーシャは私に杖を向けた。


「ごめんね。……契約を破ったら、罰を受けなきゃいけないの」


 説明されるまでもなく、私も契約の術は知っていた。

 術師と対象、双方の『認識』に働きかけることで絶対の履行力を持たせた鎖だ。

 それに背けば、背かれた側の任意でペナルティを与えることができる。


「……なら、私を殺すのか?」

「うん。そうするしかない」


 彼女はやはり躊躇わない。

 杖を私に向けて、ぴくりともその切っ先を逸らさない。

 息を整えながら疑問を重ねる。


「しかし、私を殺すことに意味があるか? 取り込んだ方が得になるはずだ」


 『ゆりかご』に溶けた魔術師が増えるほど世界への干渉は強まる。

 故に最初は、奴らも私を取り込もうとしていたはずだ。


 それには、彼女も納得するところがあったらしい。


「……んー、そうね。ちょっと聞いてみるよ」


 微笑んで目を閉じた。

 その隙に不意打ちを仕掛けるようなことはしない。

 指一本でも動けば、背後に控える天使が私を殺す。


 しばらくして、リーシャがゆっくりと目を開いた。


「駄目だって。……だからまぁ、意味はないけど……死んで、おしさま?」


 リーシャが動いた。

 仮にその攻撃が実行されたなら、私は生きてはいなかっただろう。


 しかし、彼女の魔術は放たれることがなかった。


「残念だったな。今日は、私の勝ちらしい」


 リーシャの足がよろめく。

 愕然とした表情で崩れ落ち、杖を手放した。

 天使が消える。

 理解できない現実を前に、彼女は激しく狼狽ろうばいしていた。


「……なに、これ? どうして?」


 今、リーシャは苦痛を感じているはずだ。

 それもとても耐えられないような激痛を。

 だがそんな苦痛よりも、なぜ自分が崩れ落ちているのか……という疑問の方が気にかかっているように見えた。


 私は師匠として、彼女の質問に答える。


「それは……『契約』だからだ、リーシャ」

「契約……?」


 彼女は目を見開く。

 そして呼吸三つほど後、何かに気がついたように声を漏らした。


「まさか」

「そうだ。お前は私と約束をした。……『無意味に生き物を殺さない』と。最初の日にな」


 あれは契約だったのだ。

 とはいえ、罰を与えるためではない。

 リーシャが約束を破れば、知ることができるように。

 ただそれだけのために用意した縛りだった。


 けれどそれが、この土壇場で私を救った。


 私を殺すことを、無意味だと認めてしまったから。

 はっきりと言葉にしてしまったから。

 決して違約の事実が変わることはない。


「リーシャ、もうお前に私は殺せない」


 淡々と伝えて、私は準備を始める。

 杖を地面に置き、右手で最後の『人の贄』を取り出した。

 それも地面に置いて、私は座り込む。


「待って、ねぇ待っておしさま! やだよ、リーシャ……リーシャね、捨てられちゃう、ちゃんとしないと……『ゆりかご』に、役立たずって思われちゃうの……!」


 悶え苦しみながら、リーシャが地面を這いずってきた。

 まだ苦しんでいるということは、私への殺意を捨てていないということである。


 その意志の強さ……いや、痛ましさに私は目を細める。


「お願い、行かないで。行かないで……お願い……ねぇ……お願い……お願いだからぁ…………」


 リーシャはまるで、ただの子供のように泣きわめいていた。

 本当に、普通の子供のように見えた。

 それはこの旅の中で初めてのことだった。


「……悪いが、私にはなすべきことがある」


 すなわち、世界の延命である。

 かつて『ゆりかご』に敗れたあと、残った魔術師が続けてきたことだ。

 リーシャはもうそれを知っていたのだろう。

 血を吐くような声で私に叫んだ。


「なんで……! なんで、そんなの……意味ないのにっ!!」


 私は『ゆりかご』に行き、狂うまで抗い続ける。

 だが手を尽くしたとして稼げるのはわずかだ。

 とても終わりを覆すことは出来ない。

 そもそも『ゆりかご』に溶けるという行為自体が、長期的には終末を加速させてさえいる。


 であれば、意味がないとそしられるのは当然だった。


「そんなの、意味ないんだから! だから、死んでよ……リーシャは、ずっと生きられるの……生きられるのに…………!」


 恨みごとを言って泣き崩れる。

 何度も私に杖を向けようとする。

 けれど、最後にはリーシャも力尽きた。

 さめざめと泣く彼女の頭を、私はそっと撫でてやる。


「なぁ、お前の言う意味とはなんだ?」

「……消えないこと。最後まで残ること」

「まるで『ゆりかご』のようなことを言う」

「リーシャは『ゆりかご』になりたい」


 私は少し考える。

 消え入りそうな意識を繋ぎ止めながら、また彼女に問いかけた。


「最後まで……永遠に、残ったら意味があるのか?」


 そう問えば、リーシャはきっと私を睨んだ。

 低い声で、怒りを滲ませて答える。


「……どうでもいい。リーシャはただ、消えたくないんだ」


 投げやりな口ぶりに聞こえた。

 私はゆっくりと首を横に振る。


「どうでもよくない」

「…………」

「……お前は今、死から逃れようとしている。でもそうすると、今度は生きることに囚われてしまう」


 この世界には、避けるすべのない死の苦しみがある。

 けれどそれを覆せば、今度は生の苦しみから逃れられなくなる。


「分かるだろう。永遠の生が、決して楽園ではないことが」


 きっと、生きれば生きるほど悪くなっていく。

 ずっと孤独になって、狂気の檻で泣きわめくだけのさだめが待つ。

 それを告げると、彼女はすっと視線を逸らした。


「…………」


 真っ黒い瞳で闇の底を見つめている。

 いま、リーシャが何を思っているのかは分からない。

 それでも私は言葉を重ねる。


「リーシャ、苦痛は生きることの影だ。切り離すことはできない」


 人間がどれだけあがいても影は消えない。

 せいぜい影の長さや向きが変わるだけだ。

 そう伝えると、リーシャが弾かれたように顔を上げる。

 唇を曲げて、震える息で問いかける。


「……じゃあ、どうすればいい? リーシャがずっと苦しいのは、どうすればいいの?」


 ぼろぼろと涙をこぼした。

 それは死の恐怖に震え続けた、幼い少女のありのままの苦しみである。

 抱えた痛みを剥き出しにして、リーシャは私をじっと見ていた。


「さぁな。人生は、その答えを見つけるための猶予だろう?」


 私はもうその答えを持っている。

 人よりずっと長い……本当に長い時間をかけて、ようやく人並みの答えを手にした。

 しかしそれは私のための答えで、リーシャのものではない。

 だから何も教えず、それだけを伝えて最後の呪文を口にする。


「時よ、狭間に落ちろ」


 それは贄を使った魔術である。

 少しでも精神汚染の侵食を遅らせるため、精神の時間を停滞させた。

 この術により『ゆりかご』による精神汚染は遅れ、より長い時間を稼げるようになる。


「リーシャ……お前は、旅が楽しかったと言ったな」


 もう少し何か話そうと思った。

 口を開くと、やはり時間が間延びしている。


 そして、この魔術をもって私の自意識は限界を迎えたらしい。


 静かに、音もなく体が消え去っていくのが分かる。


「私は、お前には『生きる苦しみ』もあると思っている」


 断言はできない。

 私はリーシャと関わらなかったからだ。

 死に怯える彼女に、生の苦しみを教えたくないと考えて。

 でもそれは間違いだったと、消え去ろうとする今になって思えてくる。


 なぜなら、知らなければ判断を下せないからだ。

 死から逃れる道を示すなら、私には別の道も教える義務があった。


「…………」


 答えが返らない。

 リーシャはもう全てを諦めたように俯いてしまっていた。

 私はその涙をそっと拭って、ため息と共に語りかけた。


「安心しろ。『ゆりかご』はまだ、お前を見捨ててはいない」


 何故なら、彼らには結局、人間的な感情はないからだ。

 欠片でも利用価値がある内は、決して自分の手駒を捨てるようなことはしない。

 そんな下らない、感情的なミスはありえない。

 当然、私のように逆らえば別だろうが。


「ほんとう?」


 リーシャが目を見開く。

 瞳に光が戻った。

 まだ自分が『ゆりかご』に迎えられる余地があると聞いて、彼女は嬉しかったようだ。

 それを否定はしないものの、一つだけ諭しておく。


「ああ。……しかし、まだ行くな。お前はまだ子供だ。道を決めるのは、もう少し、色々知ってからにしなさい」


 例えば、少しくらいは喜びを知ってもいい。

 これから好きなものを見つけたり、嫌いな物を愛せるようになるかもしれない。

 そうすれば、いつかなにかが、彼女のための麻酔になるかもしれない。


「…………」


 リーシャは迷うような素振りを見せた。

 けれどやがてこくりと頷く。

 私はそれを見届けて、この世界を去ることに決めた。

 そうすればまた少し時間を稼げるだろう。


 ……ただ、これはあくまで『ゆりかご』を肥大させる行為だ。


 それを繰り返したせいで、残せる時はもう長くない。

 病状はずっと悪化を続けていて、破滅はいまや目前にある。

 彼女が生きるのは、終焉の前の息継ぎのような時間なのだ。


「お別れだ、リーシャ」


 ついに最後の時が来た。

 黒い瞳の涙を拭い、とりあえず、この契約は破棄しておこう……と私は考える。


「ここまでついてきてくれて、ありがとう」


 はじめて彼女に笑みを向け、別れを告げる。

 それで私は私の答えを示したつもりだ。

 ゆっくりと目を閉じると、身体が消えるのが早くなる。


「……おしさま」


 リーシャが泣きべその声で私を呼んで、袖をぎゅっと握った。

 鼻を啜り上げる音がする。

 私は、自分の身体がまだ完全に消えていないことを悟った。


「リーシャ、目を閉じろ」

「…………」

「手を離してくれ。……私を認識するな」

 

 目を閉じたままで言った。

 リーシャが手を離す。

 そして、瞳も閉じてくれたのだろう。


 残っていた体が消えて、私は空に溶け去った。


 全てが暗転する。


 どこか遠くで、笑い声が聞こえた。


 男でも女でもない、幼くも老いた声。



 そのおびただしい声が、妙にゆっくりと近づいてくる。



 ―

 ――

 ―――



 この世界のどこか。

 陽光に満ちた湖畔で、ひとりの少女が眠っていた。

 水面が風にさざめくたび、細かな光が草の上を踊っている。

 その柔らかな草のしとねの上で、少女はゆっくりと目を開いた。


「…………」


 金色の瞳に、晴れ渡る蒼穹が映った。

 どこまでも広く、どこまでも青い。

 少女は太陽の輝きに思わず目を細める。

 澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込むと、水と草の匂いがした。


 雲一つない空を見上げている。

 その空には、もう異形や悪夢の姿はなかった。


 静かに、平穏な時間だけが流れていく。

 湖畔を渡る風が草を撫で、遠くで鳥のさえずりが聞こえる。


 ずっと長い間そうしていると、少女のそばに大きな影が寄り添った。

 温かい吐息が頬にかかって、影に気づいた少女は嬉しそうに笑みを浮かべた。


「わぁ、ラバさん!」


 人に馴れたラバが、少女の頬に鼻面を寄せる。

 温かい舌で、慈しむように肌をなぞった。

 少女はくすくすと笑って、楽しそうにラバの首筋を撫でている。


「えへ、ごめんねラバさん。そろそろ起きなきゃ」


 けれど、しばらくしてそう言った。

 ラバの顔をやんわりと遠ざけ、軽い伸びと共に身を起こそうとする。

 ただそこで、ふと少女は怪訝そうに眼を瞬かせた。


「…………?」


 そのまま、足のあたりに視線を動かす。

 なにかが落ちたような感触があったのだ。

 見ればそこには、色鮮やかな花を束ねたブーケが置かれていた。


「…………」


 花びらに陽光が透けて、淡い影を草の上に落としている。

 少女は何度か首を傾げた後、戯れな残酷さでその花に杖を向けた。


「終点へ急げ」


 物を朽ちさせる術である。

 少女は花が好きではなかったから。

 しかし魔術を受けても、花は一片も欠けなかった。

 色褪せもせず、萎れもしない。


 それを見て、少女は驚いたように眼を見開いた。

 一つだけ、思い当たる記憶があったのだ。


『花が好きなのか?』

『嫌いだよ〜』

『どうして?』


『だって、すぐに枯れちゃうもーん!』


 やがて、長い沈黙の果てに、少女は小さな声で誰かを呼んだ。


「……おしさま?」


 おそるおそる、震える指で花束に触れた。

 花びらは柔らかく、確かに温もりを帯びている。

 そのままそっと、何かを恐れるように、おずおずと抱き上げた。

 しかしそれも、最初の内だけだ。

 すぐに笑顔になって、胸にぎゅっと花束を抱き締め、嬉しそうな声を漏らした。


「きれい……リーシャ、大切にするね」


 それから、少女は花束から顔を上げる。

 また一つ思い出すことがあった。

 かつて飼われていた山賊に言いつけられたことだ。

 名前を覚えられないからと、自分のことは『リーシャ』と呼ぶように。

 解放されてもずっと、どうでもいいから続けていた。


 けれど少女は空を見つめ、やがてゆっくりと首を横に振った。


「ううん、わたし(・・・)…………大切にする」


 まるで花が咲くように、綻ぶように笑った。

 立ち上がり、ラバと共に湖畔を去る。

 死に呪われ、何も、自分さえも愛せなかった少女は、いま魔術師として歩み始めた。


 死の苦しみから遠ざかり、生の苦しみを少しだけ手繰り寄せて。

 限りある命を傍らに、永遠の花束を抱いて。


 少女はひとり、外の世界へと駆け出していく。



 増悪の魔術師・了



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