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マリーゴールド

 



『許していただけるでしょうか?』



 ―――



 荒野に人の気配があった。

 この世界ではもう珍しいことである。


 禿げた丘陵が続く灰色の大地を二人と一頭で歩いていた。

 空は濁った白で、太陽の位置すらよく分からない。

 風だけが低く吹いている。

 リーシャは黙って私の隣にいた。

 ラバはその少し後ろを歩いている。


 そして、最初に気づいたのは音だった。

 ラバが耳を立てる。

 遠くから、風に混じって何人もの気配がかすかな音として届く。


「おしさま、人がいる」


 リーシャが小さく言った。

 私は頷く。

 丘の向こう側に集団がいるらしい。


 それから少し歩いて、丘を越えた。

 三十人ほどの一団が緩やかに歩いているのが見えた。

 男も女もいる。

 老人も若者もいた。

 子供の姿もちらほらと見える。

 誰も彼も乞食のようなみすぼらしさだが、揃いの白い布を肩にかけていた。

 旅装というよりは儀式めいた出で立ちである。

 荷車を二台引いていて、そこには水甕みずがめや干し肉や毛布が積まれている。


 しかし、なにより私の目を引いたのは……彼らの上空にあるものだった。


 上に眼球が浮いている。


 無数の眼球が空中に滞留していた。

 やけに巨大で、虹彩の色はばらばらだった。

 青、緑、茶、灰、そして黒。

 それらが瞬きもせず、ゆっくりと回転しながら群れをなしている。

 一つ一つに視神経の切れ端がぶら下がり、風になびいていた。

 赤黒い糸のような神経が何百と空に揺れている。


 それらは何をすることもなく、奇妙に静かだった。


 眼球の群れは一団の頭上およそ二十メートルの高さに留まっていた。

 数百の瞳孔がまっすぐに人間たちを捉えている。

 ただ見つめているだけだった。


 それは未知の事象ではあったが、近づいてみることにする。


「おしさま、危ないんじゃないかな?」


 リーシャが言った。

 上空の眼球と同じ、空虚な目でじっと私を覗き込みながら。


「そうかもしれない。だが、目的がある」


 首を横に振る。

 マーガレットの時とは違い、明確な打算があって彼らに近づくからだ。

 リーシャは首を傾げた。


「目的って?」

「生贄にする」


 彼らを生贄にして、使いたい魔術があった。

 するとリーシャは目を見開く。

 けれどすぐに微笑みに戻り、黙ってラバを撫で始める。


「……ひとまず、接触してみるか」


 私はゆっくりと丘を下り始める。

 歩いている途中、リーシャがもう一度語りかけてきた。


「あの人たちを殺すの?」


 もう一度首を横に振る。

 私は生贄を必要としているが、わざわざ殺すのも気が進まない。

 だから彼らに目を付けた。


「近い内に死ぬだろうから、使わせてもらうだけだよ」

「どうして分かるの?」


 足を止める。

 そして彼ら……目の前の一団が向かう先に視線を向けた。

 ずっと遠い果てに、赤と黒のオーロラがかかった高層ビルの一群が見える。


 私は一拍の間を置いて、また歩き始めた。


「彼らは、地獄に向かっているから」


 地獄へ。

 この世界の歪みの中心へ。

 私と同じ行き先へ、向かおうとしているのが彼らである。

 あの眼球を見るに、もう引き返しても手遅れだ。


 なら同行して、利用させてもらえばいいと思ったのだ。


「わかったよ、おしさま」


 納得したかは定かでないが、リーシャはもう何も言わなかった。



 ―――



 一団に近づくと、後尾を歩いていた男たちが振り返った。

 武器を持っている者はいない。

 代わりに木彫りの祈りの道具や、小さな祈祷書を首から下げている。

 揃いの白い布は近づいてみれば薄汚れていて、これが元の色なのか後から汚れたのかも判然としない。


 警戒の目がこちらに向く。

 だが敵意はなかった。

 どちらかと言うと、その目の底には疲弊があった。


「旅の方ですか」


 声をかけてきたのは列の中ほどにいた壮年の男だった。

 痩せて、頬がこけている。

 しかし背筋はまっすぐで、目の光だけは消えていない。

 白い布の上から太い縄を肩に掛けて、荷車の一台を引いていた。


「そうだ。同じ方角に向かっているので、同行させてもらえないだろうか」

「……ええ、もちろん。この出会いも主のお導きでしょうから」


 男はそう言って微笑んだ。

 温かい笑顔だった。

 けれど私とリーシャとをじっと見て、少し顔を曇らせる。

 その瞳には気遣うような色があった。


「お嬢さんと二人旅ですか。この時世に、さぞ心細かったのでは?」

「慣れたよ」


 私が素っ気なく答えると、男は柔らかく笑った。

 そしてリーシャにも声をかける。


「なるほど。お嬢さん、お名前は?」

「リーシャだよ。えへへ」


 リーシャは例の笑みを浮かべた。

 媚びるともへつらうともつかない、上っ面を貼り付けたような表情である。

 だが男はそれを気にかけなかった。


「リーシャさん。いい名前ですね。私はアスターと申します。……さ、こちらへ」


 こうして私たちは巡礼の列に加わった。

 歩きながら、アスターが自分たちのことを話してくれた。

 彼は巡礼団の長だという。


「私たちは、祈りの道を歩いています」


 荷車の(ながえ)を握ったまま、穏やかな声で語る。


「この世界が壊れたのは……人が罪を重ねたからだと、私たちは考えています」

「罪か」

「ええ。罪です」


 アスターの声に力がこもった。

 確信に満ちた声で私へと語りかける。


「人間は分を弁えなかった。与えられたものに感謝せず、より多くを欲してしまった。だから主はお怒りになった。……この惨状は、罰なのです」


 それを黙って聞いていた。

 思い当たる節がないと言えば嘘になる。

 ただし罪を犯したのは彼らではなく、魔術師だ。

 魔術師は天国を求め、この世を地獄に変えてしまった。


「だからこそ、私たちは祈るのです。全てを受け入れ、許しを請う」


 アスターは空を見上げた。

 巡礼団の上空で、数百の眼球がこちらを見下ろしている。

 彼はそれを恐れていなかった。

 むしろ畏敬に満ちた瞳で、あの異形を見つめ返している。


「あの目が恐ろしくはないのか」


 率直に訊いた。

 アスターは微笑む。


「あれは主の御目おんめです。我々を見守ってくださっている。害されたことは一度もありません」


 確かに、当初の予想とは違って眼球は何もしなかった。

 本当に見つめるだけだ。

 攻撃も、干渉も、声すらもない。


 じっと見つめている。


「歪みの中心にたどり着き、そこで全霊を捧げて祈る。主にすべてを差し出し、許しを乞う。そうすれば……きっと、世界は救われるでしょう」


 私は何も返さなかった。

 歪みの中心がどういう場所であるか、私は知っている。

 だが、それを伝えたところで何も変わらない。


 彼らには彼らの理由があり、私には私の目的がある。

 ただそれだけだ。


 列の後ろからリーシャの鼻歌がかすかに聞こえた。

 ラバの手綱を握って、気ままに歩いている。

 巡礼の者たちが何人か振り返って彼女を見ていたが、気にもせず空を仰いでいた。

 たまに上空の眼球に向かって手を振っている。


 眼球は、もちろんなにも応えることはなかった。



 ―――



 日が暮れ始めた頃、巡礼団は街道の脇に天幕を張った。

 手慣れた動きだった。

 誰が何をするか決まっているのだろう。

 天幕を支える者、火を起こす者、水を配る者。

 声を掛け合い、黙々と夕暮れの仕度を進めていく。


 私はラバを少し離れた岩に繋ぎ、荷を下ろしてやった。

 ラバは低く鼻を鳴らして私の手を舐めた。

 背を撫でてやりながら、巡礼団の様子を眺める。


「…………」


 体に異変を抱えている者がほとんどだ。

 ある女は腕の先が石のようになっていた。

 指が動かず、灰色に固まっている。

 ある男は首筋から肩にかけて黒い苔のようなものが這っていた。

 またある子供は片方の目が溶けかけて、泣くたびに膿が流れる。


 終焉の事象に呪われた人々だった。


 そんな彼らの中で、ふと目に留まった一組がある。

 焚き火を挟んだ向かい側。

 若い夫婦が並んで座っていた。

 母親が胸に赤子を抱いている。

 赤子は生後一年にも満たないだろう。

 おそらくその小さな体は、生まれた時から呪われていたはずだ。


 左腕の先が通常ではない。

 手首から先が蠟のように半透明になっていて、向こう側が透けて見えるのだ。

 透けた指先から、時おり砂のようなものがぱらぱらとこぼれ落ちる。

 母親はそれを見ないようにしながら、必死にあやしていた。


 父親がその横に座っている。

 砂がこぼれるたびに、そっと指で払っていた。

 その仕草がどこか祈りに似た気配を纏っている。


「…………」


 私は視線を戻した。

 巡礼団にはそれぞれの事情がある。

 私が関わる理由はない。


 だがそこへ、アスターが木の器を二つ持ってきた。

 中には穀物の粥と、干し肉の薄切りが少し入っている。


「さぁ、どうぞ。旅人にはまず食べていただくのが、我々の教えです」


 微笑んでそう言った。

 しかし私は、食料までたかる気はなかったのだ。

 アスターの目を見てやんわりと断る。


「あなた方の食料は潤沢ではないだろう。私たちの分はある」

「いいえ、これは()()()()()です。出会いは主の恵みですから」


 アスターはあくまで穏やかに言い張った。

 断り続けるのも角が立つ。

 私は器を受け取った。


 リーシャが両手で器を持ち、ふうふうと息を吹きかけている。

 彼女は一口すすって、目を丸くした。


「あったかい」


 ぽつりと呟く。

 それから顔を上げてアスターに笑いかけた。


「えへへ、おいしいよ。ありがとう」

「それはよかった。たくさん食べてくださいね」


 アスターはリーシャに優しく笑いかける。

 リーシャも笑い返した。


 それから、私は粥を口に運ぶ。

 薄い味付けだったが、確かに温かかった。

 長い旅路の中で温かいものを分けてもらうのは、これが二度目だ。

 粥を椀に注いで差し出してくれた、不愛想な老人の顔がふと浮かんだ。


 やがて、食べ終えたリーシャが元気よく礼を言う。


「ごちそうさま! ありがとう、おいしかった!」


 二人で器を返す時、アスターは嬉しそうに受け取った。

 そしてじっと私たちを見て語りかけてくる。


「そういえば、これから祈りの時間なのです。あなたがたも……どうでしょう?」


 私はあまり興味がなかった。

 ただ食事をもらった手前、断りにくい話ではある。

 それに、道を共にする以上は馴染む努力が必要だと考えた。


「ああ。せっかくだから参加させてくれ」


 ややあって日が完全に沈む。

 焚き火の明かりだけが残る。

 のろのろと鈍い動きで人々が集まってきた。


 人々へ向けて、アスターが祈りを唱え始める。


「今日の日も、断罪をまぬかれたことに感謝いたしましょう。天の眼の下で、今日償った罪を思い浮かべましょう」


 それに巡礼の者たちが声を合わせた。

 全員がうつむいて、目を閉じて、一心に言葉を繰り返す。


 許してください。

 我々の罪を、お許しください。


 上空では眼球の群れが夜闇に浮かんでいた。

 焚き火の光を受けて、硝子玉のように鈍くきらめいている。

 何百もの瞳孔が祈る人々を見下ろしていた。


 リーシャは祈りには加わらず、私のそばで毛布にくるまっている。

 上を見上げて、眼球をじっと見つめていた。

 あの空虚な瞳で。


 眼球もまた、リーシャを見つめ返している。


 やがて祈りが終わり、人々は天幕に散っていった。

 疲労の色が濃い。

 横になった途端に寝息を立て始める者もいる。


 焚き火の前に残ったのは、私と、見張りに立った男が一人だけだった。

 火がぱちぱちと爆ぜる。

 灰色の荒野に夜が降りている。

 風が低く唸り、遠くの地面から何かの音がかすかに響いていた。

 地鳴りとも呻きともつかない、ごく微かな音だ。


 この先にあるものが、少しずつ近づいていることを肌で感じる。



 ―――



 巡礼団と行動を共にして最初の昼のことだった。


 平原を進む列が、突然止まった。


 先頭を歩いていたアスターが片手を上げている。

 その視線の先に何かがある。


「…………」


 私は列を抜けて前に出た。

 前方の地面に、人が倒れていたのだ。


 正確には人だったものだ。

 仰向けに横たわった男の体から、何十本もの蝋燭が生えていた。

 胸から、腹から、顔から。

 白い蝋燭が肌を突き破って伸びている。

 すべてに火が灯っていた。

 風の中でも消えない、青白い炎がゆらゆらと揺れている。

 蝋が溶けて男の顔に垂れ、固まり、表情を覆い隠していた。


 死んでからどれくらい経つのかは分からない。

 蝋燭の減り方からして、それなりの時間が経っているはずだ。

 しかし死体漁りは来ていない。

 この状態では認識されないのかもしれない。

 思えば今までも、終焉の事情が作り替えた遺体は残っていることが多かった。


「おしさま、あれなぁに?」

「触るなよ」


 リーシャにはそれだけ答える。

 アスターは遺体を迂回するように列を導いた。

 巡礼の者たちは無言で遺体の脇を通り過ぎていく。

 目を逸らす者、手を合わせる者、足早に通り過ぎる者。

 こういう光景に慣れているのだろう。


 しかし完全に平気というわけでもない。

 通り過ぎた後、何人かの足取りが重くなっていた。


 そんな中、巡礼団の中でひときわ体の大きな男が、遺体を一瞥してから唾を吐いた。

 聞いたところ、名をヒースというらしい。

 赤ら顔で、首に太い十字の護符をぶら下げている。

 信仰心の厚い男のようだが、その信仰は怒りと紙一重のところにあるように見えた。


「……こうなりたくなけりゃ、祈れ」


 誰に言うともなく呟いて、ヒースは歩き出す。

 それを聞いた隣の男が小さく頷いた。


 巡礼団は黙々と歩を進める。

 蝋燭の炎はしばらく後方に見えていたが、やがて丘の向こうに沈んで消えた。


 道の上には、他にも痕跡があった。

 荷物を捨てて逃げた跡。

 靴が片方だけ残された場所。

 地面に刺さったまま錆びている剣。

 それらは全て、この道を先に歩いた者たちが残していったものだ。

 巡礼団が最初のグループではないことを、それらが物語っている。


 そしてその先人たちが、今どこにいるのかも。


 私は何も言わず、ただ歩いた。



 ―――



 それが起きたのは翌日の午後だった。


 巡礼団が平原を進んでいる。

 風は弱く、空気は乾いていた。

 前方も後方も、灰色の丘が続くだけの単調な景色だ。

 人々は疲れた足を引きずりながら、それでも一定の速度で歩いていた。


 アスターが隣を歩く年配の女と何か話している。

 リーシャは私のそばでラバの手綱を握り、時おりラバの耳を撫でている。


 穏やかな、と言うのは語弊があるが、少なくとも何も起きていない時間だった。


 しかし近くを歩いていた男の()()()()()のは、そんな時だ。


 音は後から来た。

 鋭い破裂音が空気を叩いたのは、男の体が崩れ落ちた一秒後のことだ。

 銃声である。

 射手もいないのに、見えない場所から弾丸が出てきた。

 地獄に近づけば近づくほど、こういった脈絡のない死がありふれるようになる。


 それは他の魔術師から聞いて、知識として知っていた。

 だが目の当たりにするのは別のことだ。

 さっきまで生きていた人間が、何の前触れもなく、潰れた果実のように地面に転がっている。

 私はその光景を前に、気を引き締めなければならないと考える。


「っ!」


 周囲がどよめく。

 悲鳴が上がった。

 近くを歩いていた女が血を浴びて立ちすくんでいる。

 男は即死だった。

 側頭部が陥没し、白い布が赤く染まっていく。

 彼らには銃撃という概念すら分からないだろう。


 一瞬の硬直の後、真っ先に叫んだのはヒースだった。


「ぼさっとするな! 死体漁りが来るぞ!」


 その一言で全員の顔が変わった。

 恐怖が走る。

 彼らは知っていたのだ。

 この世界の作法を。

 死体のそばにいてはならない。

 さもなければ自分も死ぬ。


 アスターが声を張った。


「急いでください……! 離れましょう!」


 巡礼たちが走り出す。

 散り散りに、しかし同じ方向へ。

 荷車を引く者、子供を抱えた者、呪いで足を引きずる者……幾人かはついて行けずに遅れる。

 それでもなんとか全員が走った。


 そして射殺された男だけが荒野の真ん中に残された。


 私は走り出す直前に、立ち止まった。

 ほんの数秒。

 遺体のそばに膝をつき、唇を動かす。


(さなぎ)に包め。鬼の夢を見せろ」


 呪文だった。

 死んだ男を贄とし……生命が失われた直後に生じる認識の空白を利用する。

 私はその隙間に手を差し込み、精神防護の魔術を編んだ。


 これはゆりかごの精神汚染に対抗するための術である。

 防壁を一枚、意識の外殻にかける。

 相手が相手ではあるので、人を贄にしても紙のようなものだ。

 けれど死者が出るたびに重ねていけば、やがてまともな盾になる。


 このために彼らと行動を共にしているのだ。


 術の完了にかかった時間は三秒に満たない。

 立ち上がって走る。

 前方を走る巡礼団の背中を追いかけた。


 けれど巡礼団に合流した時、ヒースが走りながら振り返っている。

 疑念に満ちた目が私を捉えていた。


「……あんた。今、何をしていた?」

「弔いの祈りだ」

「祈り? あの死体のそばで? 死体漁りが来るってのにか?」


 もっともな指摘だった。

 死体漁りが来ると分かっていて、わざわざ遺体のそばに留まる理由がない。

 違和感を覚えるには十分すぎる出来事だ。


「そうそう早くは来ないさ。それに、私にも祈りの作法がある。あの男の魂が安らかに旅立つよう、願っていただけだ」


 嘘だった。

 しかし嘘は魔術師の得意分野である。

 私は悼みを込めた声で話した。

 自己暗示の要領で、感情を自在に声色に乗せることなど造作もない。


「…………」


 ただヒースは納得していなかった。

 眉間に深い皺を刻んだまま、険しい表情を浮かべていた。

 それでももう何も言わず、前を向いて走り続けている。


「はははははは……」


 しばらくして、はるか後方で死体漁りの笑い声が風に混じった。

 振り返ると、空に黒い点が群がっているのが見える。

 あの笑い声を、巡礼の者たちも聞いたのだろう。

 誰も後ろを振り返らなかった。


 それからかなりの距離を移動して、巡礼たちはようやく足を止めた。

 肩で息をする者、膝に手をつく者、座り込んで動かなくなる者……色々である。

 アスターがその場に跪いて、祈りの言葉を口にしていた。


「フランツは許されたのです。先に、主の御許みもとへ行けたのです……」


 フランツというのは、今しがた射殺された男のことだろう。

 許された、とアスターは言った。

 震えながら頷いている者が何人かいた。

 縋るように説法に耳を傾けている。


 しかしヒースは祈りの輪に加わらず、腕を組んだまま私を見ていた。

 あの目を、私はしばらく覚えておくことにする。



 ―――



 それからも旅は続いた。

 巡礼団は一度止まった足をまた動かし、灰色の平原を歩き続ける。


 突然の死は一団に影を落としていて、歩く速度が少し遅くなった。

 荷車を引く手にも力がない。

 祈りの声は小さくなり、目をそらし合うようにして黙々と足を運んでいる。


 だが巡礼を止めるわけにはいかないのだ。

 止まれば死ぬ。

 戻っても死ぬ。

 進むしかない。


 風景はゆるやかに変化していた。

 丘陵が低くなり、平坦な荒野が広がっていく。

 ところどころに崩れた建物の残骸があった。

 壁の一面だけが立っている家。

 屋根が落ちたまま風化している倉庫。

 崩れた街道の名残が地面にうっすらと線を引いている。


 かつてはここにも人が住んでいたのだろう。

 しかし今は、瓦礫と灰色の土が広がるだけだった。


 歩きながら、私は巡礼団の構成を観察していた。

 分かっていたことではあるが、巡礼の中で呪われていない者はほんの数人しかいない。

 大半が終焉の事象に体を蝕まれている。

 石化、腐食、変色、溶解、凍結、透過。

 呪いの種類はばらばらだ。

 どの呪いに当たるかは運でしかなく、どれも解呪は難しい。

 しかも見ている限りでは、どんどん症状が進んでいる様子だった。


 そんな中、アスターの言う『祈れば治る』は、彼らにとって唯一の希望である。

 けれどその万能薬が存在しないことを、私は知っている。

 ただわざわざ口にはしない。

 彼らを救うことはできないし、そんな気もないが、絶望させたいとは思ってはいなかったのだ。



 ―――



 巡礼たちの前に怪物が現れたのは、同行してしばらく経った頃だ。


 昼下がりの乾いた空気の中で、最初に気づいたのはラバだった。

 手綱を握るリーシャの手が引っ張られる。

 ラバが足を止めて、前方に耳を立てている。


「おしさま」


 リーシャが小声で呼んだ。

 私は足を止めて前方を見る。

 岩場の陰に何かがいた。


 巡礼団の先頭を歩いていた者たちも気づき始めている。

 空気が張り詰めた。

 足音が止まり、人々の息遣いだけが残った。


 岩場の陰から、ぬるりと滑り出てくる。

 灰色の岩と同じ色をした、巨大な蜥蜴に似た形の怪物だ。

 ただ似ていると言っても違いはあり、たとえば目のある場所が口だった。

 口のある場所には目がついている。

 倒錯した顔を持つ、体長五メートルほどの怪物である。

 舌なめずりの代わりに、瞬きをしながら近づいてくる。


 岩を踏む重い足音が地面を通して伝わった。


「う、うわぁぁぁっ……!」


 悲鳴が上がった。

 巡礼の者たちが後ずさりし、押し合い、転び、這って逃げようとする。

 武器を持った者はいない。

 ヒースだけが石を拾い上げて構えていたが、あの大きさの怪物に石が通じるはずもない。


「大丈夫だ。列から離れるな」


 私はそう言って前に出た。

 群衆の間を抜け、怪物との間に立つ。

 ローブのポケットに手を入れた。

 保存していた虫を二匹、指先で潰す。


「独楽よ、(つじ)に立て」


 短い呪文。

 怪物の四つの目が一斉にこちらを向いた瞬間、首がぐるぐると回り始める。

 一回転、二回転、三回転……一定の速度で何度も回る。

 それにより、太い首がねじれ、皮膚が引き裂かれていく。

 最後にはねじ切れた首がずるりと落ちた。

 怪物は血を噴き出しながら、岩場の前に倒れ込む。


 静かに、あっけなく。

 骨の折れる鈍い音が響いただけだった。


「死んだよ」


 誰へともなく言って振り返ると、三十近い目が私を見つめていた。

 巡礼の者たちが呆然と立ち尽くしている。

 何が起きたのか理解が追いつかないのだろう。

 怪物が一瞬で死んだ。

 それだけが事実として目の前にある。


 最初に動いたのはアスターだった。

 数歩こちらに歩み寄り、私の顔を見つめる。


「あなたは……一体、何者なのですか」


 問いは静かだった。

 疑いではなく、畏怖に近い響きがある。


「旅の魔術師だ」

「魔術師……? ともかく、ありがとうございます。あなたのおかげで、みな助かりました」


 アスターは深く頭を下げた。

 後ろの巡礼者たちから、安堵のため息が漏れた。

 泣いている者もいた。

 恐怖と、それが去った後の安心とが入り混じって、何人かの体が震えている。


 ヒースも石を下ろしていた。

 こちらを見ている目に、まだ疑念は残っている。

 しかしそれ以上に、何か別のものが混じっていた。

 石を拾って構えることしかできなかった自分と、一言で怪物を殺した男。

 その差を、彼は噛みしめているように見えた。


「ふん」


 やがて鼻を鳴らして背を向ける。

 だがそれ以降、巡礼団の中での私の立場は変わった。

 人々は私に信頼を寄せるようになった。

 道中で危険の匂いがすると、自然と私のそばに集まってくる。

 アスターは何かあるたびに意見を求めてきた。


 信頼。

 私が得たのは、まさにそれである。

 死者のそばで呪文を唱えるための時間と、怪しまれない距離を。



 ―――



 とはいえ、私が対処できるような死因は多くはない。

 それからも人は死に続けた。


 死に方はさまざまである。

 予兆もなく倒れる者。

 体の一部が急に腐り落ちる者。

 夜中に叫び出して、そのまま息絶える者。


 共通しているのは、いずれも理不尽で、脈絡がなく、回避しようがないということだ。

 この世界そのものが人を殺す仕掛けになっている。

 地獄に近づくほどその頻度は上がっていた。

 そして人が死ぬたびに、私は弔いのふりをして強力な精神防護の呪文を唱えた。


 ただ、それとは別に魔術を使うこともある。


 四人目の死者が出た時、その死に方を見て弾除けの術を編んだ。

 見えない狙撃に対する防壁だ。

 いずれは私やリーシャに向けて撃たれる可能性がある。


 五人目の死者の時には、地面に飲まれることへの対抗術を重ねた。

 足元の地盤を認識で固定し続ける暗示である。


 六人目の時には、肉体の急速な腐敗を防ぐための防護を張った。


 このようにして、人の死に方を観察し、その都度それを防ぐ手段を構築していく。

 地獄の付近では脈絡のない死があふれている。

 死の種類を目にするたびに対策ができる。

 単純な話、人が多いことは予防の面で有難かった。


 一方で精神防護も着々と積み上がっている。

 一つ一つは紙よりも頼りないが、十枚重ねれば少しは心強い。

 二十も重ねればなお良いだろう。

 相手が『ゆりかご』なら、どれだけ備えても足りるということはない。


 そのために私は、この巡礼団と歩いているのだ。



 ―――



 焚き火の番を買って出た夜のことだった。

 アスターもまた眠らずに残った。


 巡礼の者たちは疲れ果てて天幕の中に沈んでいる。

 火の爆ぜる音だけが、二人の間に響いていた。

 頭上では眼球が夜闇に浮かんで、焚き火の光を鈍く反射している。


 リーシャは私のそばで毛布にくるまっている。

 眠ったふりをしていた。

 息の整い方が起きている時のそれなので分かる。


 しばらく沈黙が続いた。

 火が低くなりかけたので、私は薪をくべた。

 新しい炎が立ち上がり、アスターの顔を照らす。

 頬のこけた横顔に、影が深く刻まれていた。


 やがてアスターが口を開いた。


「……先生、と呼んでもよいですか」

「好きにしろ」

「では、先生。私は」


 一度言葉を区切った。

 それから、火を見つめたまま話し始める。


「私は……ずっと、あなたのような人を待っていたのかもしれません」

「私を?」

「そう、先生のように強い人です。この世界を歩いて行ける人を……。私たちの道を、照らしてくださる方を……」


 彼は微笑んだ。

 いつもの穏やかな笑みと同じだが、少しだけ揺らいでいるように思う。

 そう感じたのは、炎のゆらめきのせいだけではないはずだ。


 やがてアスターが口火を切る。


「……本当のことを、話してもいいでしょうか」

「聞こう」


 そう答えると、彼はまた火を見つめた。

 薄い唇が微かに震えている。

 深く躊躇うような間を置いて、ゆっくりと語り始める。


「私には、妻と娘がおりました」


 過去形だった。

 珍しいことでもないため、口は挟まず先を促す。


「亡くしたのは、呪いのせいです。朝起きると、二人とも……体が、木になっていたのです」


 声は穏やかだった。

 まるで他人の話をしているようにも聞こえる。


「根が床を突き破って。枝が天井に届いて。……顔だけが、そのままで」


 アスターは少し俯いた。

 何かを思い出さないように、記憶に蓋をするように目を閉じる。

 穏やかだった声がかすかに震えた。


「……妻の目が、こちらを見ていました。口は動かないし、声も出ない。ただ……泣いていました。木の幹から、樹液のように涙が流れていました」


 焚き火がぱちぱちと音を立てる。

 火の粉が夜空に舞い上がって、私のすぐそばで消えていった。


「何もできませんでした。いえ、何をすればいいのか分からなかった。やがて、そうしている内に木は蟲に食い荒らされてしまいました」


 アスターはまた顔を上げて、笑う。

 弱々しい、被虐者が加害者に媚びへつらうような……心が折れてしまった顔で。


「だから……祈ったんです」


 声がまた掠れた。

 私は黙って話を聞き続けている。


「祈ったら、少しだけ楽になりました。何かをしている気持ちになれた。何もできないわけではない、と思えた」


 それから、とアスターは言った。

 一つため息を吐く。

 じっと地面を見つめながら、懺悔のように言葉を重ねる。


「町に出て、同じことを言いました。祈れば許される、と」


 そこで、彼はまるで自嘲するように唇を歪めた。

 私は目を瞬かせている。

 アスターはいつの間にか、弱々しく泣きべそをかいていた。


「……そうしたら、人が集まってきたのです」


 やはり、私は黙って聞いている。

 彼は少しだけ早口になって、声を潜めて続きを語った。

 その様子は私に打ち明けておきながら、他の者には聞こえぬようにと隠しているように見えた。


「みな苦しんでいました。みんな、何をしていいか分からなかった。だから……祈ろうと言ったら、ついてきてくれました」


 声がさらに小さくなる。

 それは罪悪感か、知られることへの恐れか。

 ともかく、囁くような声で懺悔を続けている。


「最初は十人でした。それが二十人になり、三十人になった。……けれど、私は……私は、本当に祈りが届くかなんて、分かりません」


 私は小さく息を漏らす。

 どう答えていいのか分からずにいた。

 その沈黙を肯定だと受け取ったのかもしれない。


 アスターはなおも告白を続ける。


「歪みの中心に行けば救われるなんて……分からないんです。信じている……ふりを、しているだけです」


 目を向けると、笑みがまだ消えていなかった。

 どういう気持ちで笑っているのかは不明だ。

 少しだけ考えて、私は一つだけ問いを投げる。


「では、なぜ歩き続ける?」


 その問いは核心を突いていたのだろうか。

 アスターは目を見開いて、苦しげな表情で俯いた。

 唇を震わせ、少しだけ間を置いて、私の問いに答える。


「…………一人になるのが、怖いからです」


 それだけだった。

 それだけが彼の本心だったのだろう。


「みなが私のそばにいてくれるのは、私が祈りの言葉を唱え続けるからです。やめたら……みんないなくなる。また一人になる」


 なにか悲しいことを思い出しているのだろう。

 青ざめた彼の心は、もうこの場所から離れているように見えた。


「なので祈ります。信じているからじゃない。私は、一人が怖いから」


 アスターは呟くように言った。

 また火を見つめる。


「…………」


 もう返す言葉がなかった。

 だが、それでよかったような気もする。

 アスターは誰かに聞いてほしかっただけだ。

 巡礼の者たちには言えない。

 彼らの前では、信じている顔をしなければならない。

 だから、余所者の私にだけ言った。


 長い沈黙が続く。

 火が弱まり、薪の灰が崩れる頃、アスターはおもむろに立ち上がった。


「……すみません。妙なことを話してしまいました」


 彼はローブの埃を払い、一つ伸びをする。

 そして振り返って、いつもの穏やかな笑みを浮かべた。

 私はゆっくりと首を横に振る。


「いいや、別に」

「明日も早いので、そろそろ休みますね。先生もどうぞお休みください」


 天幕に向かう背中は、強い影を纏っているように見えた。

 明日の朝、彼はまた笑って『祈りましょう』と語るのだろう。


 そして、また地獄に向かって歩き出す。



 ―――



 翌朝。

 案の定、アスターはいつもと変わらず笑っていた。


「さあ、祈りましょう。今日も歩き続けましょう」


 天幕の前に立って、集まった巡礼者たちに呼びかけている。

 昨夜の告白が嘘のように、その横顔には穏やかな光がある。

 巡礼の者たちは膝をつき、目を閉じ、祈りの言葉を唱えた。

 毎日繰り返される朝の光景だった。


「…………」


 私はラバの荷を整えながらそれを横目で見ていた。

 リーシャが隣にしゃがんで、ラバの脇腹を両手でさすっている。

 ラバは気持ちよさそうに目を細めていた。

 この旅の間に、二人の距離はずいぶん縮まった。

 以前はラバの方が警戒していたのに、今では自分からリーシャに鼻面を寄せることがある。


 こうして進んでいると、赤子を連れた夫婦が遅れがちになった。

 どうも赤子の具合がよくないようなのだ。


 母親か父親が常に赤子のそばにいて、割れ物を扱うように大切に抱いている。

 走るのはもちろん、早歩きなども嫌がる。

 赤子の透けた左腕が、日ごとに透過の範囲が広がっているからだ。

 手首だったのが肘にかかり、肘が肩に近づいていく。

 砂のようにこぼれ落ちるものの量が増え、夫婦の衣服は常にざらついている。


 今も母親が歩きながら赤子に話しかけていた。

 何を言っているのかは聞こえないが、唇がずっと動いている。

 名前を呼んでいるのかもしれない。

 父親はその横を黙って歩いている。

 時おり妻の背に手を添えたり、抱くのを代わったりする。


 あの二人が旅に出た理由は、一つしかない。

 歪みの中心で祈れば、赤子の呪いが解けると信じている。

 自分たちの子供が健やかに生きると信じている。


 信じなければ歩けない。

 その点ではアスターと同じだ。

 信仰の意味は違っても、足を前に出す理由は同じだった。


 そんなある日の朝、目を覚ますとリーシャがその赤子のそばにいた。

 巡礼団の天幕の間、少し離れた場所に彼女は座っている。


 そして赤子を抱いている。


 彼女の間近では、母親がぐったりと眠り込んでいた。

 疲労が限界だったのだろう。

 かなり深く眠っている。

 その間に、どういう意図かリーシャが赤子を抱き上げたらしい。


 彼女は透けた左腕を避けるように、右側からそっと抱えている。

 さらに小さく揺らしていた。

 上下ではなく、横に。

 ゆっくりと、一定のリズムで。

 まるでゆりかごのように。


「…………」


 私はその光景を遠くから見ていた。

 意外にうまく揺らしていることもあり、赤子はぐずってはいない。

 リーシャの腕の中で、静かにしている。

 透けた手から砂がぱらぱらとこぼれて、紺のワンピースの裾に積もっていた。

 彼女はそれを気にはかけず、ただゆらゆらと揺らし続けている。


「えへへ」


 ふと、笑い声が聞こえる。

 いつもの、からっぽの笑いだ。


 私が近づくと、リーシャは顔を上げた。


「おしさま、おはよう」

「何をしている」

「泣いてたから、あやしてるの」


 赤子の顔を覗き込む。

 眠っていた。

 頬に涙の跡が残っている。


「……赤ちゃんね、横にゆらゆらすると泣き止むんだって。おじいちゃんが言ってた」


 リーシャは私を見上げて笑った。

 そしておじいちゃんとは、以前山で出会った親切な老人だ。

 彼女が赤子を見ていると、不愛想な口調で教えてくれた。


 『こう抱いて、横に揺らすといい。赤ん坊はどいつも同じだ』……と。


「おじいちゃん、元気かな〜」


 私は何も言わず、鼻歌を歌うリーシャを眺めていた。

 しかしこの赤子は普通ではなく、体が崩れる呪いを持つ。

 なにか事故があっても責任が取れないので、元の場所に戻すように伝える。


「母親が起きる前に戻しておけ」

「はぁい」


 リーシャは素直に頷く。

 赤子を毛布の上にそっと置く時、透けた腕に触れないよう、慎重に手を動かしていた。

 砂まみれのワンピースの裾を払って立ち上がる。


 そして、母親がまもなく目を覚ました。

 赤子が静かに眠っているのを見て、少しだけ表情が緩んだ。


「ああ……よかった。今日は痛くないのね……ふふ……」


 それがこの旅で彼女が見せた、最後の安堵だったと思う。



 ―――



 巡礼団は二十人を切っていた。


 ある夕暮れ、天幕を張り始めた時。

 ヒースが突然、地面の石を拾い上げた。


 最初は何をするのか分からなかった。

 彼はしばらく石を握ったまま立っていた。

 太い指が石の表面を擦っている。

 それから顔を上げた。

 頭上の眼球に向かって。


 そして叫んだ。


「お前らが見てるだけだからだ!」


 石が投げ上げられた。

 しかし高度が足りない。

 放物線を描いて、石は地面に落ちた。


「何が神の眼だ!! 見てるだけで何もしないから、みんな死ぬんだろうが!!」


 二つ目。また届かない。三つ目。四つ目。

 眼球は二十メートルの高さに浮いたまま、微動だにしない。


「なんとか言えよ! 何か……何かしろよ!!」


 投げる。落ちる。

 その繰り返しだ。

 何度投げても、空の目には届かなかった。

 眼球は瞬きもしない。

 視線を逸らしもしない。


 怒りを受け止めるでもなく、跳ね返すでもなく。

 ただ見つめている。

 疲れ果てた巡礼たちは、彼に対して何の反応もしない。


「…………」


 ヒースの息が上がっていた。

 肩で息をしながら、また石を拾おうとした。

 だが膝が折れた。

 そのまま地面に崩れ落ちて、両手を土につく。


「……畜生……畜生……!」


 声が震えていた。

 泣いているのだ。

 あの大柄な、怒りっぽい男が。


 巡礼の者たちは黙ってそれを見ていた。

 主の眼球に石を投げたというのに、誰も声をかけなかった。

 ヒースだけの怒りではないことを、皆が分かっていたからだ。

 彼が投げた石は、全員の石だった。

 彼が吐いた叫びは、全員の叫びだった。

 みんなが恨めしく思っている。


 そんな中、アスターが静かに歩み寄った。

 ヒースの背に手を置く。


「主の御目は、あなたの怒りも見ておられます」


 穏やかな声だった。

 信じていない言葉を、信じているように語る声。


「……うるせぇ、うるせぇよ。クソッ」


 ヒースは吐き捨てたが、アスターの手を振り払いはしなかった。

 しばらくの間、二人はそのまま動かなかった。

 夕日が二人の影を長く引いている。


「…………」


 上空では眼球が並んでいる。

 何百もの瞳が地面に崩れた男と、その背を撫でる男を見下ろしている。

 何の反応もなく。

 何の慰めもなく。


 ただ見つめていた。


「すまん、迷惑をかけた」


 やがてヒースが立ち上がった。

 目を擦り、鼻を啜り、何も言わずに天幕の方へ歩いていく。

 その背中はひどく小さく見えた。



 ―――



 また死者が出た。


 いつものように、巡礼団は遺体を残して走る。

 私は最後の数秒を使って呪文を唱え、列に追いついた。


 ところが一人の巡礼者が、唐突に私へ指を突きつけてくる。


「おい……こいつ、また死体のそばで何かやっていたぞ」


 若い男だった。

 恐怖で顔が青ざめている。

 恐怖は怒りに変わりやすい感情だと、他人事のように私は思う。


「なにか呪いをかけてるんじゃないのか?」


 男が言うと、何人かの視線が集まった。

 不信の色が滲んでいる。

 この旅で何人も死んだ。

 それを私のせいだと思いたいのだ。


「こいつが来てから死人が増えた。おかしいと思わないか? 魔術を使うし……お前、悪魔かなにかなんじゃ……?」


 若い男が周囲に同意を求める。

 賛同しないまでも、何人かが同じような疑念を向けてくるのを感じた。

 空気が険しくなりつつある。


「…………」


 私は何も言わなかった。

 弁明は逆効果になりうる。

 この手の集団心理は、否定すればするほど疑念を深める。


 けれどその時、おもむろにヒースが前に出た。


「やめろ」


 低く、太い声だった。

 有無を言わさない剣幕に、若い男が口を閉ざす。


「こいつは弔いをしてくれているだけだ。俺が見ていた」


 ヒースは腕を組んで、巡礼者たちを見回した。


「死体漁りが来るのに、いつも最後まで残って祈っている。悪魔だなんだと言いがかりつけていい相手じゃねぇ」


 誰も何も言い返さない。

 ヒースの声には確信があった。

 私は打算的に動いているのに、結果的に一番誠実に見えるらしい。

 意外というか、随分と皮肉な結果である。


「……すまなかった。どうかしてた」


 しばしの沈黙の後、若い男が目を伏せた。

 場の空気が緩む。

 私が礼を言おうか悩んでいると、ヒースは鼻を鳴らし、照れくさそうに背を向けた。


「ふん。まぁ、あんたも――」


 その先の言葉は、聞こえなかった。

 次の瞬間、彼の頭が弾けたからだ。


 音は後から来た。

 空気を叩く鋭い破裂音。

 最初の死者と同じだ。

 不可視の射手による射殺だった。


「っ…………」


 呆けたような息と共に、ヒースの長身が崩れ落ちる。

 膝が折れ、体が横に傾き、どさりと地面に倒れた。

 白い布が赤く染まっていく。

 太い十字の護符が血溜まりに沈んだ。


「…………」


 あまりにあっさりとしていた。


 因果もなく、報いもなく。

 善いことをしたから助かるわけではない。

 悪いことをしたから死ぬわけでもない。

 この世界にそういった秩序はない。


「……そんな」


 巡礼者たちが立ちすくんでいる。

 ヒースの死体を見つめたまま、口を開けて固まっていた。


 けれど、すぐに全員が動き始める。

 遺体を残して離れなければならない。


 私だけは残り、ヒースの遺体のそばに膝をついた。

 呪文を紡ぐ。

 精神防護を一枚、また重ねておく。


「悪いな。私は、悪魔なんだ……ヒース」


 小さな声で真実を告げた。

 すぐに立ち上がって走り、巡礼の列に追いつく。


 走りながら目を向けると、アスターもまた駆け足でいた。

 ヒースの遺体がある方を一度だけ見て、すぐに前を向く。

 彼の顔は真っ青に青ざめていた。


 そのままずっと走って足を止めた後、アスターは巡礼者たちの前に立った。

 いつもの位置に、いつものように立つ。

 そしてまた穏やかな笑みを作った。


「……祈りましょう。天に召された魂のために、祈りましょう」


 声は弱く、心細さをありありと写していた。

 しかし人々は何も言わず、ただ言われたように祈りを始める。



 ―――



 赤子が泣かなくなった。


 ある日の朝、母親が赤子をあやしているのが目に入った。

 ゆらゆらと揺らしている。

 だが赤子は泣いていなかった。

 それどころか声を発していない。

 ぱちりと目を開けたまま、ぐずりもせずに黙り込んでいる。


 母親は不安そうな表情を浮かべていた。

 たまに名前を呼んだり、頬を撫でたりしていた。


 そんな母子を眺めながら、私は赤子の左腕の異変に気が付く。

 透過は肘を超えて肩に達している。

 腕全体が蠟のように半透明で、もう動かない。

 砂がぱらぱらとこぼれる量が増えている。


 泣かなくなったのは、泣く力が残っていないからだ。


 父親の横顔が見えた。

 彼はそのことに気づいている。

 母親の横を歩きながら、赤子の透けた腕を見ている。

 だが何も言えないでいた。


 言えばどうなるか。

 何も変わらないか、妻が壊れるか、そのどちらかだ。

 だから黙って横を歩いている。

 その日の夜、赤子は母親の腕の中で眠っていた。

 静かな寝顔だった。

 虫の死骸のように、手足を丸めて縮こまっていた。


 そして翌朝。

 母親が目を覚ました時にはもう冷たくなっていた。


 透けていた左腕はもうない。

 肩から先が崩れて消えた。

 砂になって、毛布の上に灰色の粉が薄く積もっている。


 母親は声を上げなかった。

 口を開いたまま、音を出せずにいた。

 喉が引きつるような、掠れた呼吸だけが漏れている。


 巡礼の者たちが集まってきた。

 誰も何も言えなかった。


「…………」


 長い沈黙の後、やがて母親が泣き始める。

 叫ぶことはなく、赤子を抱きしめたままうずくまって。

 小さな声で謝っている。


「ごめんなさい……」


 それは祈りではなく、身を切るような謝罪の声だった。

 あとからあとから涙を流しながら、母親は赤子の前で詫び続けた。


「ごめんね……ちゃんと産んであげられなくて……ごめんなさい……」


 声が震え、途切れ、また繰り返される。

 どれだけ謝っても足りないのだと言うように。


「こんな体に……こんな世界に産んで……ごめんね……ごめんなさい……」


 赤子はきっと、一度もまともな体で笑った日がなかっただろう。

 母乳を飲む時も、抱かれて揺られる時も、指先から砂がこぼれていた。

 そしてとうとう、一度も歩くことなく、一度も言葉を発することなく、冷たくなった。


 母親はそのすべてを自分のせいだと思っている。

 こんな世界に産み落としたこと自体が罪だと。


 むせび泣く声が続いた。

 誰も止められなかった。

 アスターが膝をついて祈ろうとしたが、声が詰まって口を閉じてしまう。


「…………」


 父親は妻のそばに座っていた。

 何も言わずに、ただそこにいた。


「死体漁りが来る」


 見かねて、巡礼の一人が苛立たしげに言った。

 赤子の死体を捨てろということだ。

 しかし私は、大丈夫だろうと考えている。

 朝冷たくなっていたのにも関わらず、まだ死体漁りは来ていないのだから。


 例の蝋燭の死体と同じで、この赤子は終焉の事象に取り込まれたのだ。


「おい、早くしろ。早くしないと、俺たちまで……」


 痺れを切らしたように、同じ男が赤子を奪おうとする。

 すると母親が泣くのをやめた。

 涙も枯れたのかもしれない。

 彼女は男の手を払い除け、赤子を抱いたまま、ゆっくりと立ち上がった。


「…………」


 そして、彼女の目にはもう何も映っていなかった。


 赤子を抱いたまま歩き始める。

 巡礼団とは逆の方向へ、来た道を戻るように。


 父親が追いかけた。

 追いついて、肩を掴んだ。

 母親は俯いて、何度も何度も首を横に振った。


「……もういいの」


 虚ろに言ってまた歩き出そうとする。

 だが父親は手を離さず、引き留めようとしていた。


 二人はしばらく立ったまま、何も言わずに見つめ合っている。


「ごめんな」


 やがて父親の唇が動いた。

 短い言葉だった。


「俺が……旅に出ようなんて言わなければ。もっといい医者を探して、治療を受けていれば。もしかしたら、この子は……」


 無念に声が掠れている。

 ぼろぼろと涙がこぼれていた。

 この旅に出ることを決めたのは、彼の方だったのかもしれない。

 妻子を地獄に引き込んだのは自分だと責めている。


 けれど母親は首を横に振った。


「あなたは悪くないわ」


 静かな声だった。

 彼女は、心からそう信じた声で否定をした。


「……私が悪いの。きっと、私のおなかが呪われて、腐っていたのね」


 その言葉を聞いて、父親はやがて妻の肩から手を離した。

 そのまま隣に並ぶ。

 二人は同じ方向に歩き出した。


「…………」


 赤子を抱いた母と、その横を歩く父。

 二つの影が我が子の亡骸に寄り添って、灰色の丘陵の向こうに遠ざかっていく。


 最後に一度だけ、母親がこちらに振り返った。


「私たち、もう許してもらえなくていいわ」


 ぽつりと言い残して、また歩いていく。

 誰も追わなかった。

 追う理由がなかったのだ。

 アスターだけがうなだれて、二人の背に長い祈りを捧げていた。


「どうか……主よ、試練に耐えた子らを、天上にお迎えください……地上での苦しみと同じだけ、彼らの霊に、許しと祝福を授けてください……」


 彼は最後まで唱え終えてから、顔を上げる。


 いつもと同じ笑みを浮かべようとしていた。

 まだ穏やかに笑おうとしていた。

 しかしその笑みはもう、目までも届いていなかった。

 ただ口元だけを虚ろに歪ませている。


 私は何も言わず、前と変わらぬ歩調で歩き始めた。



 ―――



 それから数日もすると、巡礼団は八人にまで減っていた。


 遠くのオーロラが日に日に近づいている。

 赤と黒の光が空を走り、地平線にそびえる高層ビルの影がくっきりと見えるようになっていた。

 足元の地面も変わりつつある。

 土の中にアスファルトの欠片が混じり始め、錆びた鉄骨が地面から突き出している箇所があった。

 かつての文明の残骸の上を歩いている。


 焚き火を囲む者の輪は小さくなった。

 声はほとんど聞こえない。

 皆が膝を抱え、あるいは横になり、あるいは空の眼球をじっと見つめている。


 アスターが私のそばに腰を下ろした。

 夜番の時間になると、彼は決まって私のそばに来た。


「先生」


 穏やかな声だった。

 いつもと同じ声だ。


「なんだ」

「最後に一つだけ、聞いてもいいですか」


 最後、と彼は言った。

 私はまじまじと表情を確かめる。


「…………」


 アスターは笑っていた。

 ずっと浮かべていた、あの穏やかな笑みだ。

 しかしその下に、別のものが透けて見えた。

 恐怖でも怒りでもない。

 もう少し静かで、寂しいような何かだ。


「あなたはいつも、本当に……亡骸へ祈っていましたか?」


 呪文のことである。

 私は問いに答えようとした。

 ただ、嘘を吐こうとしたのか、本当のことを言おうとしたのか。

 自分でも分からなかった。


「…………」


 言葉が見つからないまま、沈黙が落ちる。

 焚き火がぱちぱちと音を立てた。

 火の粉が舞い上がって、夜の闇に溶けていく。


 答えが出る前に、アスターの方が口を開いた。


「……いえ、やはりいいです。聞かないでおきます」


 笑みが深くなった。

 信じていないのに信じているふりをしていた笑みだ。

 けれど今この瞬間だけは、本物に見えた。


「私たちとあなたが、わずかな時でも共にあった。それだけで十分です」


 アスターは立ち上がった。

 ローブの埃を払い、空を見上げる。

 眼球の群れが夜闇に浮かんで、何百もの瞳が彼を見下ろしている。


 そしてそれに微笑みかけた。

 彼の言う、主の御目に。


「おやすみなさい、先生」


 こちらを見ずにそう言った。

 天幕に向かう背中が、焚き火の光に照らされて、やがて闇に溶けていく。


 真っ暗な闇の向こうへ、私はようやく言葉を返した。


「……私は、祈ってはいなかったよ」


 だがその答えは届かなかった。

 あるいは、彼はもう答えを必要としていなかったのかもしれない。



 ―――



 夜が深まっていた。


 ゆっくりと焚き火の勢いが弱まり、灰が厚く積もっている。

 風は凪いでいた。

 荒野は静かだった。

 遠くで何かが軋む音がかすかに聞こえるほかは、虫の音もない。


「…………」


 リーシャは私のそばで毛布にくるまっている。

 近頃は、自己暗示によって深い眠りに落ちていることが多い。

 寝息が穏やかに聞こえる。


 私は焚き火の前に座って、空を見上げていた。

 眼球の群れが浮かんでいる。

 月明かりの中で、それらは不思議と穏やかに見えた。

 ただ見つめているだけの存在。

 害もなく、益もなく、ただそこにある。


 そんなことを考えて、ぼんやりと過ごしていた時だった。


「おしさま。なにか来るよ」


 リーシャの声。

 眠っていたはずだが、何かに気づいて目を覚ましたらしい。

 毛布から顔を出して、空を指さしている。


 私も顔を上げた。


 暗い夜空に、白い何かが無数に浮かんでいた。

 最初は雪かと思った。

 だが違う。


 パラシュートだった。


 小さな、人が使うには小さすぎる白いパラシュートが、際限なく空から降りてきている。

 しかしどのパラシュートにも人はぶら下がっていない。

 空だ。

 紐の先には何もない。

 ただ白い布の傘が闇の中をゆっくりと揺れながら下降していた。

 百、二百……数えきれないほどのパラシュートが、月明かりを受けて銀に光りながら降り注ぐ。


 美しいとさえ思える光景だった。

 だがその美しさの下に、何があるかは分からない。


 異変に気付いたか、巡礼者たちが天幕から顔を出した。

 空を見上げている。

 アスターも出てきた。


 パラシュートが地面に近づく。

 風もないのに、その一つ一つが巡礼の者たちのそばに正確に降りてきた。

 まるで糸で引かれるように。

 一人一人のそばに、数えきれないほどの落下傘が落ちる。


 私の上には来なかった。

 リーシャの上にも。

 ラバの上にも。


 何らかの防護魔術が効いているのか、あるいは別の理由か。

 いずれにしても、私は安心はせずに杖を握った。


 そして。


 パラシュートがぱさりと地面に落ちた後。

 真っ暗な闇から()が生えた。


 奇妙なほど白い手だった。

 滑らかで、つるりとして、指の一本一本が異様に長い。

 手首から先だけで闇に浮いていて、関節が多すぎる。

 そんな手が唐突に現れて、生き残った人々の背後で指を開いた。


 白い手が、ゆっくりと動く。


 音もなく、後から、人の頬を両側から挟んだ。

 ひんやりとした陶器のような掌が、まるで赤子の顔を包むように、そっと頬に触れている。

 挟まれた者の体が固まった。

 目を見開いたまま、微動だにしない。


 同じことが、全員に起きていた。


 巡礼の者たちが一人残らず動かなくなった。

 頬を挟まれ、上を向かされ、虚ろな目のまま凍りついている。

 八対の白い手が、八人の頬を抱えていた。


 アスターもまた動けなくなっていた。

 薄い唇が僅かに動いている。

 祈りを唱えようとしているのかもしれない。

 だが声は出ない。


 そして。

 三つ目の手が現れた。


 頬を挟む二つの手のさらに上から、もう一本の白い腕が降りてきた。

 その手には、小さな銀色の匙が握られている。


「リーシャ、目を閉じろ」


 私は咄嗟にそう言った。

 リーシャの目を手で覆い、背を向けさせる。


 静寂の中に音が響いた。


 ちゅぱ、ちゅぱ……と。


 水音に似た、粘り気のある音だった。

 それが八箇所から同時に聞こえている。

 夜の荒野に、濡れた舌が唇を舐めるような音が響き渡る。


 音はしばらく続いた。


 私はリーシャの目を覆ったまま動かなかった。

 杖を握る手に力がこもっている。

 だが何もできることはなかった。

 助けようとしても無理だっただろう。

 あの白い手は、私にどうにかできるようなものではない。

 触れた瞬間に全てが終わっている。


「終点へ急げ」


 私は周囲を見回して、近くにいた巡礼へと杖を向けた。

 そして魔術が発動する。

 白い手に弄ばれていた二人が死んだ。


 さらにその命を贄として、私は魔術を発動する。


「銀の車輪。十八回転」


 空気が震えた。

 贄の力に任せ、大幅に工程を省略し、その上で効果を高めた転移魔術だ。


 足元から光の紋様が広がる。

 銀色の輪が地面に浮き上がり、回転を始めた。

 一回転。二回転。

 回転するたびに景色が滲んでいく。

 荒野の大地が水に溶けるように揺らぎ、風景がねじれた。


 贄の力が術に流れ込む。

 二つの命が同時に開いた空白が、車輪を加速させていく。


「ちょうどいい。……目的地まで飛ばせてもらおう」


 私はそう言った。


 そして世界が剥がれ落ちていく。

 荒野の景色が紙のようにめくれて、その下から別の景色が覗いた。

 灰色の空。赤黒い雲。


 あとは……無数の電柱。


 風が吹きすさぶ。

 リーシャが目を閉じて、私のローブにしがみついている。


 十七回転。


 そして、十八回転。


 回転が止まった瞬間、世界が再び像を結ぶ。



 ―――



 最初に感じたのは、音だった。


 耳を劈くサイレンの音。

 高く、低く、空気を引き裂くように鳴り響いている。

 それが一つではない。

 いくつもの音が重なり、不協和音となって大地を震わせていた。


 次に見えたのは電柱だった。


 赤く光る曇天の下に、一本の道があった。

 ひび割れたアスファルトの、真っ直ぐな道だ。

 その両脇に電柱が立っている。

 しかし普通の電柱ではない。


 柱の上部に、錆びた拡声器がいくつも取り付けられている。

 朝顔型の、古びた金属製の拡声器。

 それが一本の柱に四つも五つも、不規則な方向を向いて突き出していた。

 電柱は道の両側に延々と並んでいる。

 どこまでも続いている。

 数十本、いや数百本。

 視界の果てまで電柱が林立し、そのすべてからサイレンが鳴っていた。


 そして、サイレンの合間に声が聞こえる。


 女の声だ。

 穏やかで、丁寧で、どこか事務的な声。

 アナウンスのような口調で、拡声器から繰り返し流れている。


『警告です。残念ながら、この世界は終わりを迎えました』

『まだ生きている方々は、速やかに自殺してください』


 声に反応したように、固く目を閉じていたリーシャがまぶたを開けた。

 そのまま周囲を見回す。

 ラバの手綱を握ったまま、声の出どころを探すように首を動かしている。


『……残念ながら、この世界は終わりを迎えました』

『まだ生きている方々は速やかに自殺してください。繰り返します…………』


 同じ文言が途切れることなく流れ続けている。

 拡声器の一つ一つが微妙にタイミングがずれていて、反響が重なり合い、声が幾重にも折り畳まれて聞こえた。

 穏やかなはずの声が、その反復と残響によって、底知れない異様さを帯びている。


「…………」


 リーシャは無言だった。

 ラバが怯えて身を震わせている。

 鼻面を撫でてやりながら、私は正面に目を向けた。


 道の先に、高層ビルの群れが聳えている。

 赤と黒のオーロラがその上を渡っていた。

 ビルの窓は全て割れていて、中から黒い煙のようなものが噴き出している。


 あの先が、この世界の歪みの中心だ。


 遠目に見るだけで分かる。

 私は何度か、深く呼吸をした。


「おしさま」


 リーシャが私を見上げた。

 珍しく、不安を隠せていない顔だった。


「なんだ?」

「ここはなに?」


 なに、という問いに私は目を瞬かせる。

 少しだけ考えてそれに答えた。


「最も『ゆりかご』に近い場所だ」


 なぜここなのか、という理由は知らない。

 私はしょせん最後の魔術師だ。

 様々な物事の起源や、いくつかの因縁からは遠い場所にいる。

 なので知っている範囲で答えると、リーシャはしばらく私の顔を見つめていた。


 けれどもう何かを尋ねることはなく、やがて小さく頷いてみせる。


「……そっか」


 それだけ言って、またラバの首を撫で始める。

 ラバを見る表情は伺えない。

 彼女にとって、このラバはどんな存在なのだろうか。


「リーシャ」


 私は杖をローブに仕舞い、まっすぐにリーシャの眼を見た。

 ラバを撫でるのをやめて、彼女も私に目を向けた。

 硝子玉のような眼と視線が合う。


「今までお前はよく学んだ。だから今日、最後の授業を経て……ようやく魔術師となれるだろう」

「最後?」


 いつもの声で聞き返してきた。


 その間もサイレンが鳴り続けている。

 アナウンスが繰り返されている。

 それらを意識の外に追いやって、私はゆっくりと頷いた。


「ああ、そうだ。これからお前は全てを知ることになる。そして私はいなくなる。明日からはお前が、この世で最後の魔術師だ」


 リーシャの瞳がわずかに揺れた。

 暗い暗い瞳の底に、かすかな光が灯ったような気がした。

 それがどういう意味を持つのか、結局私には分からないままだった。


「行こう」


 声をかけて歩き始める。

 リーシャが隣に並んで、ラバがその後ろを歩く。


 電柱の林の間を、三つの影が進み始めた。


『警告です。残念ながら、この世界は終わりを迎えました』


 拡声器の声が降り注ぐ道を、ただまっすぐに歩いていく。


 上空に眼球はもうなかった。

 代わりに赤い雲が脈打ち、サイレンが鳴り、女の声が世界の終わりを告げ続けていた。


 しかし、まだ終わりではないのだと。

 もう少しだけ、続けることができるのだと……私は自分に言い聞かせながら進んでいく。




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