忍び堂 パート1
沈黙。
…………
そして――闇。
………………
果てしなく、息苦しく、容赦のない闇。
………………
それこそが全てだった。その虚無の真ん中に、十歳にも満たない小さな少女が立っていた。目に見えない冷たい光に照らされたその姿。
そして、彼らが現れた。
一人ずつ、影の中から姿を現した――男、女、子供、彼女と同年代の者もいれば、年上の者も。彼らは幽霊のように彼女を取り囲み、鋭い視線で彼女を睨みつけ、軽蔑と拒絶の表情を浮かべていた。
皆が彼女をじっと見つめていた。まるで彼女が場違いな存在であるかのように。まるで彼女が間違いであるかのように。
「ほら、あの娘だ。」
「またあいつだ。」
「呪われた化け物め。」
「あいつのせいで二年前に母親が死んだって聞いたよ。姉は今入院中だ。」
「あいつでいるのは本当に辛いだろうな。」
「シーッ!こっち見てるよ。」
「なんでそんなにじろじろ見てるの?」
「あっち行け、変人!」
なぜ生きているの?」男、女、クラスメート、教師、見知らぬ人、様々な声がこだまする。どれもぼやけた顔だが、どこか見覚えのある顔ばかりだ。
「お前のせいで母親は死んだ。お前のせいで死んだんだ。」声はこだまするが、顔は見えない。冷たい声が響く。霧を切り裂くように、女の嘲笑が響く。
「お前のせいで妹はあの病院にいる。お前はどこへ行っても不幸をもたらす。」
「あの子は呪われている。継母がそう言っていた。」言葉は波のように押し寄せ、彼女を窒息させる。
「生まれてこなければよかった。」継母の鋭く毒々しい声が耳に響く。
「お前が触れるものは全て壊れる。」義姉の嘲笑が憎悪に満ちて響く。「お前は呪われている、葵。私たちの完璧な家族に汚点を残す存在。」
葵は虚空に一人立ち尽くし、拳を握りしめ、荒い息を吐いていた。彼女は叫びたかった。反撃したかった。
13歳の彼女の、傷だらけで血まみれの姿が、影の中から浮かび上がった。かろうじて平静を保っているだけだった。破れた制服は、埃と乾いた血痕で汚れ、彼女の体に力なく垂れ下がっていた。静かに恥辱に頭を垂れ、彼女は威厳のある父親の前に立っていた。父親の非難の重みが、逃れることのできない嵐のように彼女にのしかかっていた。学校で喧嘩をしたという言葉が父親の耳に入った瞬間、彼の表情は険しくなった。彼は理由を尋ねなかった。理解しようともしなかった。
「いつまでこの家の名を汚し続けるつもりだ?!」彼はただ叫んだ。まるで彼女の行動が、彼が彼女について抱いていた確信を裏付けたかのように。顔は石のように固く、声は冬の風よりも冷たかった。
「お前はチンピラのように喧嘩をして、この家に恥をかかせた。一体どんな娘なんだ?お前は私の娘なんかじゃない。」かつて温かみがあった彼の声は、今やガラスのように鋭く研ぎ澄まされていた。
「あの子は見た目以上に狂ってるわ。」義理の姉は、罪悪感で心臓が激しく鼓動し、震えるアオイの手を見て嘲笑った。少女の笑い声が泣き声に変わるのが聞こえた。姉は病院のベッドに座り、アオイに背を向けて泣いていた。
「全部あなたのせいよ。あなたが何をしたか見て。私をこんな目に遭わせた。全部あなたのせいよ。」姉は涙を流しながら、血に染まった手で妹を睨みつけ、そう言い放った。葵は叫んだが、声は出なかった。影が迫ってくる。胸が締め付けられる。もう一度叫んだが、声は消え失せ、何年もの沈黙、袖の下に隠された傷跡、そして心の奥底に埋もれた悲しみの中に消えていった。冷たい見えない流れに引きずり込まれ、闇に包まれながら、葵は沈んでいった。跡形もなく、この世から消え去った。
もしかしたら…彼らの言う通りなのかもしれない。もしかしたら、私が皆が恐れる嵐なのかもしれない。葵はそう呟きながら、ゆっくりと目を閉じ、さらに深く沈んでいった。とても寒い…痛い…痛い…
…………
町外れの狭いアパートで、夕暮れの薄明かりの中、犬の鋭い吠え声が響いた。葵が布団の上にじっと横たわると、カーテン越しに琥珀色の夕闇が差し込み、壁に影が揺らめいていた。彼女の淡いラベンダー色の瞳が、最初は焦点が定まらず、ゆっくりと開いた。彼女はゆっくりと起き上がり、床に視線を落としたまま、静かに鼻歌を歌った。
また夢を見た、と彼女は思った。濃い青色の髪の毛が目にかかるのを払いながら、前髪に手をやった。乾いた鼻息が漏れた。数分後、冷たい水が彼女の肌を流れ落ち、シャワーヘッドの下に静かに立っている彼女の体に流れ落ちた。目を閉じ、夢の残像が彼女の心を引っ張る。
まあいいわ。彼女はシャワーを止め、湯気が渦巻く中、シャワーから出た。黒いアンダーシャツの上に、ラベンダー色のアクセントが入った白いパーカーを重ね着していた。袖と裾には、ラベンダー色のストライプが2本入っている。それに、黒のショートパンツ、ニーハイソックス、そして紫色の縁取りのある黒いスニーカーを合わせていた。フードを頭にかぶり、両手をポケットに突っ込んだ。散歩の時間だ。
ソキョシは取るに足らない町だった。犯罪と静寂の重圧に押しつぶされそうな、寂れた町。人々が忘れ去った場所、あるいはあえて目を背けた場所。葵はひび割れた舗道を歩き、パーカーのポケットに手を突っ込み、寒さに身を縮めていた。「私のような人間にはぴったりの場所だわ」と彼女は思った。薄暗い街路を見渡しながら。「呪われた存在。こんな場所にいるべきじゃない」。彼女は息を吐き出し、夕暮れの空気に消えていく自分の息を見送った。「ずっと一人ぼっちだった…でも、もしかしたらそれが一番いいのかもしれない。誰かを暗闇に引きずり込むより、一人で歩く方がまし」。
小さなコンビニのネオンサインがかすかに光る中、彼女は店の前を通り過ぎた。店内で窃盗が行われていることには気づかない。店内には安っぽいジャージを着た4人の若い男たちがいて、傲慢な雰囲気を漂わせていた。一人は頬に傷跡があり、もう一人はナイフを指の間で弄んでいた。リーダー格の、背が高く痩せた男は、ニヤリと笑いながらカウンターに寄りかかり、野球バットを叩きつけた。
「おい、じいさん」と、彼は嘲るように言った。「寄付はいかがですか?」 店主は、茶色の髪を乱した、やや中年の男で、冷たい青い瞳に無関心な視線を向けた。
「まったく。またお前らか。他にやることがないのか?」と、店主は言い返した。
「芝居はもういい、じいさん。金を出せ」と、傷のある男が命令した。
「何度言えばわかるんだ?金なんか余分に持ってないんだ」と、店主は眉をひそめて嘲笑った。
リーダー格の男は舌打ちをした。「ちっ。聞きたくないな」彼はレジをつかみ、こじ開けようとしながら、大量の札束を取り出し、自分の袋に押し込んだ。
「おい!何やってんだ!」男は拳を握りしめながら叫んだが、二人の強盗に押さえつけられ、それぞれが片腕を押さえつけられ、もう一人が光る折りたたみナイフを首に突きつけた。
「じっとしてろ、じいさん。さもないと喉を切り裂くぞ。」男は低い笑い声を上げながら脅し、他の二人もそれに倣った。
「何だって!?離せ、この野郎!」リーダー格の男は男の袋の口をロープで縛り終えると、
「さあ、行くぞ!」そう叫ぶと、男は店から飛び出し、他の者たちも男を解放して後を追った。強盗たちはドアを突き破って通りを駆け下り、店主は店のすぐ先で立ち止まるまで、彼らの後を追った。
「止まれ!泥棒だ!」店主は必死に叫び、周囲の人々に危険を知らせようとした。数少ない見物人が四人の男が走り去るのを見て、息を呑む声が辺りに響いた。葵は振り返り、近づいてくる人影に視線を向けた。その背後には、シンプルなTシャツにゆったりとしたズボン、そして温かみのある黄土色のエプロンを身につけた店主が、必死に追いつこうと走っていた。
「それは娘たちのお小遣いだ!返せ!」店主は心配そうな顔で言った。葵はため息をついた。自分はヒーローではない。すでに自分の問題を抱えている。しかし、店主の言葉、そしてまるで最後の抵抗であるかのように拳を握りしめる様子に、葵は動揺した。トラブルに巻き込まれないようにしようとした矢先、葵は静かに息を吐き、前髪に手をやり、突進してくる男たちの前に足を踏み出した。フードを深く被り、その影に隠された瞳の輝きを際立たせた。
「おい!どけ!!」リーダーが怒鳴りつけたが、葵はただ目を開けただけで、その視線はまだ影に覆われていた。彼が近づいてくると、彼女は素早く足を上げ、彼の顔面に蹴りを入れた。彼は宙を舞い、盗んだバッグが手から落ち、顔面から地面に叩きつけられた。葵は彼に目もくれず、バッグを軽々と空中でキャッチした。
「ボス!」他の3人が叫び、駆け寄って彼を起こそうとした。鼻に血をつけた彼は、葵を睨みつけた。
「てめえは何者だ!?」彼は唸り声を上げ、他の3人は彼女を睨みつけた。
「はあ?なんだ、高校生が強がってるだけか?」傷のある男が嘲笑った。
葵は彼らをじっと見つめ、全く動じない様子だった。「強盗するなら、せめて手早くやれよ。恥をかくだけだろ。」
リーダーの顔が歪んだ。「今なんて言った?」
葵は首を傾げ、バッグを数歩後ろに投げ捨てた。「どもった?」彼は立ち上がり、腕を振り回しながら葵に突進してきた。
「誰であろうとそんな口の利き方は許さない!お前はただのガキだ、この化け物!バッグを渡せ、邪魔するな!」彼は咆哮し、葵の顔面に乱暴なパンチを繰り出した。しかし、葵は水のように軽々と身をかわした。フードが後ろに滑り、その動きに合わせて流れる濃い青色の髪が露わになった。彼女は右拳を握りしめ、雷鳴のような衝撃音とともに彼の顔面に叩き込んだ。
「うっ彼がよろめいた瞬間、彼女は空中で回転し、彼の後頭部に飛び蹴りを放った。彼は勢いよく吹き飛ばされ、意識を失った仲間たちの群れにまるで鉄球のように激突した。店主や通行人たちは口をあんぐりと開けて呆然と立ち尽くし、通りには驚きの声が響き渡った。その間、葵は腰に手を当て、倒れた人々の山へと歩み寄った。
「これで黙ったでしょ」と彼女は呟き、しゃがみ込んで男の襟首を掴んだ。その手には怒りがこみ上げていた。「あんた、大事なものを盗んで逃げられると思ってたなんて、正気じゃないわね。ネタバレよ、逃げられるわけないでしょ。二度と盗みなんか企むなよ、このバカども」彼女の声は冷たく、毒気に満ちていた。
彼女は彼から手を離し、彼の頭が鈍い音を立てて舗道に打ち付けられるのを見届けると、堂々と立ち上がった。意識を失った泥棒たちの鼻から血が滴り落ちていたが、彼女は微動だにしなかった。パーカーのポケットに手を戻し、アオイは落ちていたバッグのところへ歩み寄り、拾い上げると、驚きと好奇心に満ちた目で彼女を追う店主の元へ向かった。彼女が彼の前に立ち止まり、バッグを差し出すと、彼は小さく息を呑んだ。
「はい。これはあなたのものです」と彼女は淡々と告げた。彼が手を伸ばしてバッグを受け取ると、彼女は少し向きを変え、薄暗い光の中で横顔が浮かび上がった。目は閉じられ、片手はすでにポケットに戻っていた。
「ありがとうございます…本当にありがとうございます!どれほど感謝しているか、言葉では言い表せません!助けていただいて本当に感謝しています」彼は感謝の眼差しで感謝の言葉を述べ、温かい笑顔を浮かべた。アオイは軽く頷き、フードを頭にかぶった。
「またね」彼女はそう言って、ポケットに手を入れたまま歩き出した。
男は瞬きをした。「ま、待って!」彼は手を差し伸べ、彼女の後ろに並び、彼女の歩調に合わせて歩き始めた。「お礼は要らないんですか?」彼は彼女の後ろをゆっくりと歩きながら尋ねた。
「いえ、結構です。ただお手伝いを申し出ただけです。長く人と一緒にいるのは苦手なんです」彼女は柔らかくも毅然とした声で答えた。
「でも、せめてお名前だけでも教えていただけますか?」彼の問いかけに、彼女は歩みを止め、少しだけ振り返った。横目でちらりと見た彼女の表情は、一瞬の疑念を除けば、読み取れなかった。
あぁ…あおい咲です…」彼女の声は途切れ途切れになり、お腹から大きな音が漏れて、恥ずかしさで頬が熱くなった。男は静かにくすりと笑い、面白そうに目尻に皺を寄せた後、再び目を開けた。その優しい微笑みは、彼女の赤面をさらに深めた。
「うちのレストランに来て、君を落ち着かせてあげようか?」男はそう提案したが、あおいは疑わしげな表情を浮かべた。
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カウンター脇のバースツールに腰掛けた葵は、カウンター越しに料理を作る男の様子をじっと見つめていた。この店は、半分が食堂、半分がコンビニという、二つの顔を持つような空間だった。左手には、焼きたての料理と淹れたてのコーヒーの香りがかすかに漂う食堂があり、右手には、スナック菓子やボトル飲料、日用品が壁一面に並んでいた。二つのエリアの間にはドアがあり、客は簡単に行き来できる。奥の方では、一人の客が静かに飲み物の棚を眺めていた。カウンターの上には壁掛け時計が時を刻んでいた――午後7時15分。
「出来立て熱々のカレーライスです。どうぞ召し上がれ。」男が彼女の前に皿を置くと、湯気が繊細な筋となって立ち昇った。香辛料の香りが漂い、彼女の五感を刺激し、期待で胸が高鳴った。ポケットに手を入れ、数枚の紙幣を取り出した彼女は、それをカウンターに置こうとした瞬間、男がそっと手を差し伸べ、彼女を制止した。
「料金はかかりません。サービスです」と男は口元に微笑みを浮かべながら言った。
「え?どうして?」彼女は眉をひそめ、戸惑いながら尋ねた。
「本当ですか?お金を取り戻すのを手伝ってくれたんです。当然のことです」彼はシンクに向き直り、何気なく食器をすすぎ始めた。
葵は不意を突かれ、瞬きをした。視線は彼の背中に留まった。「…ありがとうございます」彼女は呟き、目の前の料理に目を落とした。
「ところで、白川コウタです」彼は彼女に親しげな笑みを向けながら付け加えた。「それで、お名前は?」
彼女はフードの下から目を隠しながら、少し躊躇してから答えた。「葵…桜庭葵。」
「桜庭?その苗字、聞き覚えがあるな」彼はそう呟き、目を閉じて顎に指を当てながら考え込んだ。突然、口を「お」の形にして指を鳴らすと、彼女は視線を細めた。記憶が蘇ったのだ。
「ああ、思い出した」彼は少し目を上げ、全てが繋がった。「桜庭――そう、アーバン・トーキョーの高級ファッションと不動産帝国だ。桜庭晴人がオーナーだろ?桜庭グループのCEO?」彼の視線は彼女に戻り、大きく見開かれた瞳に認識の光が宿った。「君は彼の娘だ」
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない」彼女は肩をすくめ、料理に目を戻した。「だって、桜庭という苗字を持つ人は他にもいるし」彼女は唇をすぼめて呟いた。
「皮肉を言ってるのか?」コウタは腰に手を当てて尋ねた。
「何て言えばいいの?桜庭という苗字の家族は他にもいるもの」彼女は静かに答えると、カレーをスプーンですくって口に運んだ。舌に触れた瞬間、彼女の目は少し見開かれた。濃厚で風味豊かな味わいが口いっぱいに広がり、温かく心地よい感覚に包まれた。彼女の頬はかすかに赤くなり、瞳には静かな驚きが宿っていた。
「でも、その姓の家族は他にいないはずだ」と彼は考え込み、こめかみに一筋の汗を流しながら彼女の表情を見つめた。「え?どうしたの?」彼女が落ち着きを取り戻し、首を横に振ると、彼は尋ねた。
「何でもないわ。あなたみたいな大人がこんなに美味しい料理を作れるなんて、ただ驚いただけ」
それは褒め言葉なのか、それとも…彼は腕を組み、こめかみから一筋の汗を流しながら右の眉を上げた。
「褒め言葉じゃないわ」彼女は咀嚼しながら口を挟み、彼の額にも一筋の汗が流れた。 「でも本当に美味しいのよ」と彼女が付け加えると、彼は驚いた表情を見せた。彼女が食べる様子を見ながら、彼の顔に温かい笑みが浮かんだ。かつて知り合った女性、友人の記憶が、葵の姿をぼんやりと覆い隠していた。
「それで、どうしたの?」彼女の問いかけに、彼は瞬きをして現実へと引き戻された。「え?」
「じっと見てるじゃない」彼女は口いっぱいに食べ物を頬張りながら呟き、彼は信じられないといった様子で顎が外れそうになった。
「見なくても分かるのか?」
「勘がいいのよ。それで、どうしてそんなに見つめていたの?確かに見覚えがあるかもしれないけど、そんなに変に思わなくてもいいじゃない」彼女はそう呟きながらスプーンで一口食べ、まつげをそっと閉じ、静かに味わった。
「え?いや、そういうことじゃないんだ。ただ…君をこの辺りで見たことがないから。そもそもこんな田舎町で何をしているんだ?こんな辺鄙な場所に引っ越してくる人なんて滅多にいないだろう?」彼は正直に答えた。
「あなたが思っているよりずっと前からこの町にいるのよ」彼女はわざと彼の質問をはぐらかし、代わりにスプーンでもう一口食べた。咀嚼しながら、彼女の視線は皿に釘付けで、彼の目を見ようとしなかった。
「本当?どれくらい?」彼女が彼を見上げると、彼は興味津々で身を乗り出した。ラベンダー色の瞳は柔らかそうだったが、何を考えているのか読み取れなかった。
「知りたいの?」彼女は言い返した。
「え?もちろん知りたいよ」彼は再び腰に手を当てて答えた。「さあ、どれくらいの間、葵?」彼の口から自分の名前が漏れたことに、葵は少し目を見開いた。長い間、誰も私の名前をそんな風に呼ばなかった。なんだか…変な感じ、と彼女は考え込み、視線を横にずらした。
「ええと、だいたい…」ドアのベルがけたたましく鳴り響き、ドアが勢いよく開いた。彼女の言葉は途中で途切れた。二人が振り返ると、ドアのところに一人の少女が立っていた。腰まで届く長い濃い茶色の髪が背中に流れ落ちている。エメラルドグリーンの瞳が部屋を見回し、二人に視線を向けた。彼女は濃い紺色のクロップドジャケットに白いノースリーブのアンダーシャツ、体にぴったりフィットした黒いパンツ、そして丈夫な黒いブーツを履いていた。ドアにもたれかかり、まるで命がけで走ってきたかのように、胸が呼吸に合わせて上下していた。
「あぁ、危なかった!」彼女は息を吐き出し、左手の甲で額を撫でながら、目を閉じてリラックスした笑みを浮かべた。葵は眉をひそめて彼女を見つめ、コウタは驚きで目を見開いた。
レイナ!?何してるんだ?こんな夜更けに外出しちゃいけないって分かってるだろ。リョウとミソラが心配して探しまわるぞ。」レイナがカウンターに向かい、アオイの隣に座ると、彼は不満げな声で呟いた。
あの制服…彼女はそう呟き、少女のジャケットに視線を留め、左胸の紋章に目を奪われた。
「あ、大丈夫。ここで見つかるわけないわ。この店は私を探す場所としては一番最後に来る場所よ。」レイナは目を閉じたまま、かすかに口元に笑みを浮かべながら答えた。コウタは一度瞬きをし、それから静かに息を吐き、腕を組んで考え込んだ。
「あ、ああ、確かにそうだな。」彼はそう答えると、ふと何かを悟ったように眉を上げた。
「それにね」彼女は彼の視線と目が合った瞬間に言った。「街の様子を見て回りたかったの。もう子供じゃないんだから。ちょっと好奇心旺盛なのは仕方ないでしょ?」
「でも、そうやってみんなを無視するのは良くないよ」彼は優しくも毅然とした口調で答えた。
「うん、わかってる」彼女は諦めたようにため息をつき、微笑みながら彼を見た。「わかったわ、戻るね…何か食べてから」
コウタはくすっと笑った。「いつものでいいかな?」
「そうよ。野菜多めで」彼女は微笑んだ。
「かしこまりました」彼は振り返らずに答え、注文の準備に取り掛かった。二人の会話はまるで葵が存在しないかのように続いた。彼女はもうすっかり慣れていた。何しろ、この5年間ずっとそうだったのだから。
「ねえ」と声が聞こえ、葵は少女の方を見た。少女の緑色の瞳は、温かい笑顔で輝いていた。
「こんにちは」と葵は眉を上げて答えた。
「この町に引っ越してきたばかり?今までここで見かけたことがないんだけど」
「えっと…」と葵が言いかけたところで、コウタが遮った。
「別に」とコウタは答え、二人は彼の方を向いた。彼はカウンターに背を向けたまま、作業をしながらちらりと横目でちらりと見た。「彼女はしばらく前からここにいるよ。正確にはどれくらいかは分からないけど…。でも、彼女がいてくれてよかった。彼女がいなかったら、今夜は強盗に遭っていたかもしれない」
「強盗?どういうこと?」とレイナは心配と真剣な表情で尋ねた。
「またあの連中が現れたんだ」とコウタは、落ち着いた声ながらも苛立ちを滲ませて説明した。 「金を要求されたんだ。持ってないって言ったのに、貯めてた小遣いを無理やり渡させられたよ。」
レイナは、その言葉を聞いて静かに鼻で笑い、前髪を指でなぞった。彼が誰のことを言っているのか、もう分かっていた。
「また、シッカリバツゾクって連中ね。軽犯罪やコンビニ強盗、ちょっとした脅しで有名なチンピラ集団。自分たちは強いと思ってるみたいだけど、本物のギャングは誰も相手にしないわ。社会から搾取して、逆らう奴は誰でも罰する。男も女も関係なく、欲しいものは何でも手に入れようとする。奴らにとって罰はモットーで、カッコいいと思ってるみたいだけど、大抵は大物犯罪者気取りの無鉄砲な連中だと思ってるわ」と、レイナは無関心そうに目を閉じて言った。
「そうだ。だが今回は、奴らは4人組で襲ってきたんだ」と、彼は落ち着いた、しかし毅然とした口調で言った。「そして逃げようとしたが、この女の子に止められてボコボコにされたんだ」彼の言葉に、レイナはアオイの方を振り向き、目に一瞬驚きの色が浮かんだ。
「バツゾク」。それが彼らのギャングの名前なのか。聞き覚えのない名前だ。もしかしたら、最近できたばかりの新しいギャングなのかもしれない、とアオイは心の中でつぶやいた。すると突然、レイナが彼女の肩を掴み、アオイは我に返った。
「えっ!?マジで!?すごい!戦えるの?すごい!」レイナは目を輝かせ、感嘆の声を上げた。
「あ、うん…ありがとう」アオイはこめかみに汗を流しながら、そう呟いた。
「葵がいなかったら、お金を失うところだったよ」とコウタが言いながら、湯気の立つラーメンの丼をレイナの前のカウンターに置いた。レイナはすぐにラーメンに目を向け、葵から手を離した。
「そう。じゃあ、食べよう!ありがとう!」レイナは明るくそう言って、両手を合わせて箸を折り、ためらうことなく食べ始めた。
葵は目を閉じ、満足そうにうなりながら、レイナが麺をすする様子を見ていた。青い髪の少女が自分の食事に戻ったちょうどその時、レイナが口を開いた。
「白川さんのラーメンは、仕事の後に食べるのが一番美味しいです。最高!」レイナはにっこり笑い、コウタはナプキンで手を拭きながら、温かい笑顔を返した。
「気に入ってくれて嬉しいよ」コウタはそう言って、食事をする二人の少女の方を向いた。しばらく心地よい静寂が続いた後、レイナが口を開いた。 「あおいちゃん、名前はあおいちゃんだよね?」彼女はまだ食べ物を咀嚼しながら、青い髪の少女に視線を向けた。
「うん」あおいは頷き、少し口を押し込みながら咀嚼した。
「星月レイナ。サヨナキ高校の3年生です」彼女は自己紹介し、口元に笑みを浮かべた。
「なるほど、その制服か」あおいは咀嚼しながら答え、視線は食べ物から離さなかった。
「え?」レイナは麺をすすりながらあおいの方を見た。あおいも顔を上げてレイナを見た。
「この制服、街で何度も見かけたわ。別に目新しいものじゃないのよ」
「そういえば、コウタさんが、あなたがこの街にしばらく住んでいるって言ってたわ。教えてくれない?」
「まさに話そうとしていたところだったんだ。君が飛び込んできたから」レイナがコウタの方を見ると、コウタはため息をついた。 「そうなの?私って本当にラッキーね。それで、あとどれくらいかかるの?」彼女がそう言うと、二人は期待を込めて彼女を見つめた。葵は小さくため息をつきながらそう言った。
「ごめんなさい…もう行かなくちゃ」そう言って立ち上がろうとした時、レイナが彼女の左腕に手を置いた。
「ちょっと待って!行かないで。話を聞いてほしいの。お願いだから」
「大丈夫だよ、葵。もう少しいてもいいよ」コウタはそう言って、葵が小さくため息をつくと、温かい目で彼を見つめた。
……
「えっ!?もう総京志に一年以上も住んでるの!?」レイナは悲鳴を上げ、目と口を大きく開けて驚いた。一方、コウタは呆然と立ち尽くし、信じられないという表情で目を見開いていた。
「うん」葵はそう答えると、食べ物に目を落とし、もう一口口に詰め込んだ。
「ずいぶん長い間だね。どうして今まで一度も会ったことがなかったの?」コウタは表情を変えずに尋ねた。
「あまり外には出ないから」葵は肩をすくめて答えた。
「それでも、少なくとも通り過ぎるのには気付いたはずよ。いつもパーカーを着ているから?」
「さっきも言ったように、私はあまり長く外にはいないの。必要なものを手に入れたら、すぐに帰るわ」葵は毅然とした、しかし用心深い声で答えた。
「そうなの? それは大変そうね。でも、私たちは総京志の秩序を保つために、もっと長く外にいるのよ。それが私の癖の一つなの」レイナは静かにため息をつき、麺をすすりながら、何気なく咀嚼した。葵の視線は彼女の制服に向けられ、胸に縫い付けられた紋章に目を細めた。翼を広げ、嘴に繊細な花をくわえた、飛翔する鳥の姿。
さよなき高校。他にはない学校――男女が訓練し、戦い、そして成長する場所。ギャングの抗争に悩まされる町において、この学校は抵抗の灯台としてそびえ立っている。生徒たちはただ勉強するだけでなく、ソキョシを飲み込もうとする混沌からソキョシを守るために戦っている。目を閉じて考え込んでいると、苛立ちがこめかみを駆け巡り、声が刃のように鏡の中の自分に突き刺さるにつれ、彼女の唇は引き締まった。
この学校はエリート集団によって支配されている。彼らは最も獰猛な戦士たちであり、肩書きではなく、目的によって結ばれている。彼らの使命は?平和を脅かすギャングを壊滅させること。街を浄化する嵐となること。ソキョシを守ること。彼らは無法者たちが恐れながら囁く名で知られている…ナイチンゲール。昼夜を問わず、彼らは立ち上がる。恐怖をまき散らし、害を及ぼし、闇の中で繁栄する者たちは、彼らの正義の歌に直面することになる。
鋭く息を吐き出し、目を開けたアオイは、隣にいる茶髪の少女を睨みつけた。こめかみのイライラしたチックがまだ脈打っている。「マジで?私の心の声を声に出して読んでるの?何よ、生中継?それに、もっと重要なのは、一体どうやってそんなことしてるの?」
「ただの勘よ。当たったでしょ?」少女はニヤリと笑い、アオイは小さく唸った。コウタは二人に目をやり、目を閉じて腰に手を当て、ぎこちなく笑った。
「それって、あなたの個性の一つでしょ?」アオイは眉を上げて尋ねた。
「そうかもね」レイナは軽く肩をすくめ、箸で麺をくるくると回した。「でも、あなたにそんな個性があるかどうかは分からないけど」と冗談めかして言うと、アオイはレイナを睨みつけ、横顔とアオイの紫色の瞳が交わった。
「え?何か…」アオイは言葉を途中で止めた。レイナが顔を近づけ、じっとアオイを見つめたのだ。
「君の瞳…青い嵐のバラを思わせる。とても美しい」レイナがそう言うと、アオイはびくっと身をすくめて後ずさりした。その拍子にフードがずり落ち、髪が露わになった。レイナとコウタは困惑した表情でそれを見つめた。
「どうしたの?! なんでそんなにじっと見てたの?!」 レイナが小さく笑うと、アオイは驚いて目を丸くして尋ねた。
「ごめん、ごめん。ただ見てただけ。あなたの目が気になって。」
「ところで、どうして私の目にそんなに興味があるの?」 アオイは今度は慎重に席に着きながら尋ねた。
「さっきも言ったけど、青い嵐のバラに似てるの。人工的に育てられた、美しく繊細なラベンダー色の花びらを持つ花。あなたの目は、そのバラと同じ色で、完璧な色合いなの。」 少し間を置いて、レイナは続けた。「それに、彼女にも似てる。」
「彼女?」 アオイは眉を上げて尋ねた。
「ええ、サヨナキの初代リーダーで創設者よ。優しくて美人だったの。歌声はナイチンゲールみたいに優しくて美しかったわ。学校を作ってサヨナキ高校って名付けて、仲間たちと一緒に地域の守護者として活動してたの。でも2年後、他の仲間たちも解散してしまって、彼女は去ってしまった。それでも戦い続けたのよ。最高だったわ。」
「だった?」アオイは何度も同じ言葉を聞いて聞き返した。
「ええ、もういないの。どこに行ったのかも誰も知らないけど。でも、私は彼女のことをずっと忘れないわ。」
「ふーん、始めたことを途中で投げ出すなんて、ちょっと怪しいわね」アオイは言った。年上の少女は意味ありげな笑みを浮かべ、再び食事に目を向けた。
「それにしても、あなたがこの町に1年も住んでいるなんて信じられないわ」レイナは麺をすすりながら付け加えた。
「ああ。ソキョシは危険な、生きている存在だ。今もそうだ。複数のライバルギャングが支配していて、それぞれ動機も戦術も違っていた。純粋な犯罪者もいれば、倫理的にグレーなところで活動している者もいた。当時は抗争がひどくて、ここは町とは呼べないような場所だった。19年前、サヨナキ高校の創設者が介入したんだ。彼女は学校の評判を築き上げて、この状況を立て直した」コウタは腕を組み、アオイが静かに耳を傾けるのを見守った。「彼女たちは長い間、事態を収拾していた…でも結局、解散してしまった」
「でも正直に言うと」レイナはラーメンのスープを最後の一口すすり、満足げなため息をつきながら丼を置いた。「サヨナキ高校は、実は良いスタート地点なのよ。確かに最初はちょっと荒っぽい感じがするかもしれないけど、それが私たちのやり方なの」彼女はアオイの方を向き、表情を明るくして満面の笑みを浮かべた。「ねえ、あなたも一緒にどう?」 「興味ないわ」葵はグラスの水を一口飲みながら、無表情に言った。
「えっ?!どうして?私たちの正義から逃れられるギャングなんていないわ。私たちはこの町の守護者よ。正義のために立ち上がるの。あなただってぴったりよ」彼女の声は揺るぎなく、強い意志に満ちていた。葵は何も言わず、カウンターに視線を固定していた。暗い影が彼女の瞳を覆い、何も読み取れない。二人の間に重苦しい沈黙が流れた。
「町のヒーロー?正義感?」彼女は乾いた笑いを漏らした。「ヒーローぶるのはやめて」彼女は毒を含んだ声で鼻で笑い、コウタとレイナは呆然とした。彼女の視線はレイナに向けられ、ガラスのように鋭かった。
「ねえ、自称救世主のあなたたちに会ったら、なんて言うんだろうっていつも思ってたのよ」彼女は身を乗り出し、声は鋭く張り詰めていた。
「『ヒーロー』だって? 簡単な店の強盗すら止められなかったくせに。昼夜問わず、彼が助けを必要としていた時、一体どこにいたの? 私が近くにいなかったら、この店は全焼していたわよ」彼女は乾いた笑いを漏らした。「ナイチンゲールズはどうなの?」彼女は嘲るように首を傾げた。「冗談でしょ。フライトンゲールズとでも呼んで」
「ちょっと待って…」コウタが言いかけたが、レイナに遮られた。レイナは手を上げて、アオイが続ける間、暗い影が彼女の目を覆った。
「自分たちを守護者と呼ぶの? 私には、守るべき人たちを苦しめるだけの、ただの喧嘩屋にしか見えないわ」アオイの声は冷たく、軽蔑に満ちていた。
「正義の名の下に喧嘩を売るなんて、高尚なことなんかじゃないわ。それに、あんたが崇拝してるこの学校って?」彼女は鼻で笑った。「全部始めた張本人が、いざとなると逃げ出したのよ。情けない。自分のいわゆる仲間さえも散り散りになった。リーダーなんて名ばかりだったわね――笑えるわ。」彼女は背もたれにもたれかかり、嘲りを込めた口調で言った。カウンターの上で震えるレイナの握りしめた拳には気づかずに。しかし、レイナの握りはすぐに緩み……口元に微かな笑みが浮かんだ。
「まあ、あなたにも同じことが言えるわね。そう思わない?桜庭葵?」レイナの言葉が空気を切り裂き、葵は息を呑んだ。目を見開いた。どうして私の名前を知っているの……?
「何を言ってるの?どうして――」
「苗字を知っているってこと?」レイナは首を少し傾げ、意味ありげな光を瞳に宿した。 「あなたを一度だけ見かけたことがあるわ。もう何年も前のことだけど。桜庭葵。その名前…簡単に忘れられる名前じゃない。特に、その名前につきまとう噂の数々を考えればなおさらね。」彼女は言葉を止め、葵に視線を向けた。
「でも、人生があなたに残酷だったからといって、善行をしようとしている人たちを侮辱する権利はないわ。サヨナキ高校の初代生徒会長を悪く言う資格なんてあなたにはない。彼女はこの町と共に立ち上がった。人々と共に、人々を押し退けるのではなく、共に何かを築き上げた。彼女はあなたとは違う…世間から身を隠し、まるで自分だけが苦しんでいるかのように振る舞うような人とは違う。」
「レイナ…」コウタの声が、静かに、しかし警告するように響いた。
葵は震える手で拳を握りしめた。「あなたは私のことを何も知らない」と呟き、レイナの目を睨みつけた。「知る必要もない…だって、あなたには知るはずがないから。あなたは夢の中に生きているのよ。みんなが優しくて、そばにいてくれる夢。でも、目を覚まして」彼女の声は感情で低く響いた。「不幸に見舞われた途端、みんな背を向ける。全員が。あなたが誰であろうと、どんな経験をしてきたとしても関係ない。彼らにとって…あなたはもう壊れているのよ」
「その話し方からして…」レイナは葵を横目でちらりと見ながら呟いた。声には冷たい軽蔑が滲んでいた。「地獄のような経験をしてきたのは明らかね。それは悲劇…」彼女は言葉を止め、目を細めた。「…でも、それでも、全く哀れだわ」
葵の表情は一瞬で変わった。怒りに燃える瞳で拳を振り上げた。
「黙れ!!」彼女は飛びかかり、レイナの顔めがけて鋭いパンチを繰り出した。ダイナー中に大きな音が響き渡り、埃が舞い上がった。コウタは息を呑んだ。
しかし――
アオイは凍りついた。彼女の拳は当たっていなかった。レイナの左手のひらにしっかりと掴まれていたのだ。アオイは目を見開き、レイナを見つめた。まさか…掴んだ?レイナの視線は揺るがない。表情は冷静で、落ち着いていて、動揺していない。全く動じていない…この子は一体何者なんだ?
アオイは眉をひそめ、拳を振りほどいた。コウタはカウンター越しに身を乗り出し、驚きの表情を浮かべた。
「レイナ!?大丈夫!?」レイナは指を曲げ、何事もなかったかのように衝撃を払いのけた。
「ふぅ…すごいパンチだったわね。」彼女は小さく笑みを浮かべた。 「こんな熱さ、久しぶりに感じたわ。なんだか懐かしい。」
葵は顔を背け、腕を組み、目元に影を落とした。「ちっ。何よ?」低い声だったが、鋭かった。「あなたは私のことを何も知らない。私を判断できる立場じゃない。私は人なんて必要ない。一人でいる方がずっといいの。」
「でも、いつまでも一人で抱え込むことはできないわ」レイナは落ち着いた口調で、毅然としながらも優しく言った。「葵、あなたには人が必要なの。好き嫌いに関わらず、誰かを心の中に入れる必要がある。ちょっと聞いて。さよなき高校に入ってみたら?」
葵のこめかみに青筋が走った。「絶対嫌よ!」彼女は言い放った。「もう言ったでしょ。興味ない。誰にも頼らない。ここまで一人でやってきたんだから、それで十分よ。」
レイナは小さく、意味ありげな笑みを浮かべた。「一人で生きていけないと言っているわけじゃないわ。明らかに、あなたは一人で生きていける。」彼女の表情が変わり、静かな理解を込めた優しい瞳になった。「でも、生き延びることと生きることは違う。あなたはあまりにも深く孤独に閉じこもって、人に見てもらうこと、理解してもらうことがどんな感覚だったかを忘れてしまった。そして、その孤独…」彼女は言葉を区切った。「それがあなたを蝕んでいるのよ。弱さでも、失敗でもない。ただ、痛みだけ。」
葵は息を呑んだ。レイナの言葉が心に染み渡るにつれ、彼女の目は大きく見開き、かすかに震えた。残酷な声、バタンと閉まるドア、傷ついた姉の体、父の最後の視線――苦い記憶の残響が脳裏をよぎる。だめ。ここでは。今は。彼女は拳を握りしめた。大きな音を立てて、右拳がカウンターを叩いた。
「私は助けを必要とするお姫様なんかじゃない。」彼女はレイナを睨みつけ、瞳には激しい炎が燃え盛っていた。「私には誰も必要ない。私の目標はただ一つ――それは、人から離れること。特にあなたみたいな人とはね。」そう言うと、彼女は踵を返し、足音だけを残してドアへと駆け出した。
「葵、待って!」コウタは彼女の後ろ姿に呼びかけた。しかし、ドアの上のベルがチリンと鳴り、彼女はもう姿を消していた。
コウタはため息をつき、両手を腰に当ててレイナを振り返った。「そこまで言わなくてもよかったのに……ちょっと厳しすぎたんじゃないか?」
レイナはすぐには答えなかった。目を閉じ、ゆっくりとグラスを唇に運んだ。彼女の声は静かで、思慮深かった。「時々……真実は、あまりにも深く埋もれてしまった時だけ、痛みを伴うものなの。」コウタは息を吐き、腰から手を離した。
「彼女にはそれが必要だったのよ。」彼女は静かにグラスをテーブルに置き、そっと付け加えた。 「彼女がどんな経験をしてきたのか…それは彼女を本来の彼女とはかけ離れた人間に変えてしまった。ああいう苦しみは、人を孤立させ、人を信じることを忘れさせてしまう。誰かが最初の一歩を踏み出さなければならなかったのよ。」彼女はゆっくりと息を吐き、決意を込めた声で言った。
「少し乱暴だったかもしれない…でも、そうするしかなかったの。だって…」彼女は目を開け、静かな決意を込めてコウタの視線を受け止めた。「…彼女は、彼女の娘なのよ。」
コウタはわずかに目を見開き、レイナが誰のことを言っているのか理解した瞬間、表情を和らげた。視線をドアの方に移し、理解の重みが胸にのしかかった。
「彼女が無事だといいんだけど…」彼は呟いた。
レイナは再びグラスを持ち上げ、小さく温かい微笑みを浮かべた。「大丈夫よ。」少し間を置いて、「彼女はアオイよ。そして、彼女は自分が思っている以上に強いの。」




