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「—————ん」



 まどろみから意識が浮上し、紡は目を瞬かせた。視界に広がるのはトラバーチン模様の天井と薄水色のコントラクトカーテン。静かな空間と独特な香りが鼻腔に届き、紡は自分が保健室に運ばれた事に気が付いた。



 この学園は設立したばかりだと聞いていたが、保健室の雰囲気というのは中学のそれとほぼ同質なのかと軽く感心する。




「……」




 少しぼやけが残る視界で先ほどの事を思い出し、紡は小さくため息を付いた。どうやら自分はまた倒れてしまったようだった。



……原因は分かっている。過去の記憶によるPTSD……紡のそれは特に程度がひどかった。眩暈、呼吸困難から始まり酷い時には意識がなくなるほどの体の拒絶反応。あの頃に捕らわれて八年ほど経つが、未だにこれがよくなる兆しは見えなかった。



 今日も例にも漏れずそれが起こり倒れてしまったのだろう。入学式当日に保健室利用なんてまた目立ちそうなことを……と自分に悪態付いた紡は、不意に喉の乾燥に気が付いた。



 軽く身じろぎしてから起き上がり、周囲に視線を巡らせる。ベッド脇の机に紙コップが置かれているのに気が付き手に取ると、中に冷水が入っていた。



 誰が入れてくれたのか、と半ば気になりながらも煽ると喉の渇きが潤う。



「……神代さん、目が覚めましたか?」



 一息ついたタイミングで、外から控えめな声が掛かった。視線を送ると、カーテンに小柄な女子のシルエットが浮かび上がっている。どうやら紡が起き上がった音を感知してやってきてくれたようだ。



「入ってもよろしいですか?」



「—————どうぞ」



 控えめな声に返事をすると、カーテンが恐る恐るあけられて、それから綾乃の姿が現れる。



「大丈夫ですか」



 もう一度問いながらベッドの傍に寄ってきた綾乃に軽くうなずきながら、紡は簡易椅子を勧める。失礼します、と一礼してから腰を下ろした綾乃から、ふんわりと淡いシャボンの香りがした。



「北条さんが運んでくれたんですか」



「いえ、養護教諭の方々が。私はただお傍にいただけです」



「……そうですか。ありがとうございます」




 ぺこり、と紡が頭を下げると、綾乃が慌てたように手を胸の前で振る。




「いえ! 気になさらないでください。体調不良はだれにでもあることですし」



 そう言って綾乃は健気に微笑み、それから紡の手元の紙コップに視線を送った。



「あ、お代わりいりますか? それとも冷水ではなくてお白湯のほうがよかったですか」



「……じゃあ白湯を」


「はい!」



 お願いします、という前に笑みを浮かべた綾乃がベッドから離れていく。お嬢様の様に丁寧な言葉遣いと所作をする女性だが少し忙しないところがあるなと思いつつも、その後姿を見送っていると「少しい~かしら、神代君」と甘い声が紡に掛かった。



「はい」




 若干強張った声で声のした方を見やると、明るい茶髪にバリバリのパーマをかけた女性がひょっこりと姿を現す。すらりと長い脚にジーンズを履き、ベージュのセーターの上に白衣を羽織り、首から学園の教師カードを下げている。



「初めましてで、こんにちは。神代紡君、私はこの学園の養護教諭チーフを務めている牧野巴(まきのともえ)です。ご気分いかが?」



「普通、です」



「そう。よかったわぁ」



 ぱぁと背景に花が咲くように柔らかい笑みを浮かべながら、養護教諭の牧野が紡の傍に近づいてくる。先ほど綾乃が座った椅子に座り、身を乗り出して紡の顔を覗き込んだ。



「熱はなかったし、呼吸ももう大丈夫そうね」



「はい、もう寮に戻ろうかと」



「それでいいと思うわぁ。もう元気になったでしょ、そろそろお腹すいたんじゃない?」



 真紀の言葉に自分のお腹に視線を送った紡は、おにぎり一つ分くらいの食欲がわいてきたことに気が付き頷く。




「そうですね、どこかコンビニでも行って、残りは勉強に充てます」



「んもぅ、学園のコンセプト、ガン無視ねぇ」




 何故か体をくねらせた牧野に、眉根を寄せながら紡が首を傾げる。




「どうしてそんなに奇怪な動きをしているんですか」


「乙女に向かって妖怪扱いなんてひどいわぁ」




「乙女……」



「もぅ、そんな視線を向けないでよ」



 冗談、冗談と笑いながら椅子に座り直した牧野が紡のチェリプロを指さす。




「今日、さっそく学園から【課題】が出たのよ。パートナーと一緒に昼食を取るっていう」



「————なんですか、それ」




 チェリプロを操作して牧野の言うことを確認した紡の顔が訝しげなものに変わる。なんて【課題】だろうか。一緒に食事……人付き合いの苦手な紡には少し辟易してしまいそうな内容だった。




 余りに紡の顔が嫌々だったのか、険しい顔しないでと牧野が紡の頬をもむ。びくりと反応した紡の頬に、ひんやりした牧野の、長くほっそりとした指の感触が触れた。




「はいはい、リラックス。……で、体調が良いなら誘ってあげなさいよ、北条ちゃんを」


「え?」


「え、じゃないわよぉ。さっきまでずっとそばに付き添ってくれてたんだからお礼も兼ねて……ね、北条ちゃん」



「は、はい?」




 見遣った先には、湯気のたつ紙コップを両手に包んでゆっくり歩いてきた綾乃がいた。牧野に急に話を振られて驚きで固まった綾乃をぐいと半ば強引に引き寄せて、牧野が微笑む。




「あれだけ大胆にカップル宣言してきたんだからぁ、ちゃんと責任持ってあげなさい! ほら、おさ湯は飲む! さっさとこっから出る! ほらいった行った~」



「んぐ」




 無理やりコップを突っ込まれて紡がせき込む。慌てて駆けよる綾乃にこりゃもう将来安泰だねぇと笑いながら、牧野が手を振った。




「私は養護教諭の牧野巴。元気な生徒はさっさと保健室から出すのが趣味よぉ~」




「どん……ごほ……な、趣味もって……ごほっ」


「大丈夫ですか、神代さん?」



「ん……」



「またなんかあったら来てね~」




 陽気な牧野の声に追い出されるようにして保健室を出た紡は、隣で保健室に向かって失礼しましたと丁寧にお辞儀してからドアを閉めた北条にちらりと視線を送る。




 このまま分かれても構わないのだが、先ほど牧野に言われた【課題】が気になり、それとなく探りを入れてみる。





「あの———北条さんはお腹、すきましたか」



「え、いえ大丈夫です。神代さんがコンビニで済ませるとおっしゃっていたので、私も何か自分で用意しますよ。お気になさらないで自習されてください」



 紡の歩み寄りは甲斐なく、先程の会話を聞かれていたのか綾乃は紡を立てるように一歩引いた発言をする。出鼻をくじかれた紡は、頷くしかできない。





「そう、ですか」



「はい……では失礼します」



「……」



「……」






 あれだけ酷苦冷たい態度をとってしまった罪悪感と、いま気を使わせてしまった罪悪感で何も言えなくなった紡に、綾乃が再度礼をする。





 そのまま彼女の後姿を送ることになるのか、と先程の牧野のアドバイスを反芻した紡は、何故か少し寂しい気持ちが湧き上がったのに気が付いた。だがどうすることもできず静かに去っていく綾乃を見つめていると、ぐう、と大きな音が静かな廊下に反射した。





「!」



「?」





 紡は包装室から雑音でも流れたかと天井を仰ぐも、保険室の前ということで出口のあたりにはスピーカーが見当たらなかった。加えてこの廊下には今二人以外に人影がないので、音の出どころは明白だった。



「……北条さん」


「ひゃい!」




 紡の声掛けに綾乃の方がびくりとはねる。緩やかなカーブを描いた茶髪からかすかにのぞく耳が紅いのは気のせいではないだろう。




 先ほど浮上した罪悪感と、なんとも言えない寂寥感が、自分の人付き合い嫌いを上回る効果を発揮したのだろうか。綾乃と出会う前―———ほんの数時間前、学園の門をくぐった自分でさえも驚きそうな科白を持って、紡は次の瞬間綾乃にこう話しかけていた。




「北条さん、一緒にお食事しませんか」


「……え?」




 自分の醜態に頬を染めていた綾乃が目を見開く。先ほどの紡の態度がデモンストレーションだったとはいえ、本心に近いもので接されていたと思っていた綾乃にとっては、今の気遣いのような声かけは驚くものだったからだ。それと同時に、自分のことを真剣に見つめる紡の、切れ長の美しい双眸に吸い込まれそうになり心臓が一瞬高鳴った。




「……はい、良ければご一緒させて下さい」




 しばしの逡巡のあと、林檎のように紅く染まった頬に小さい微笑みを浮かべて、綾乃は頷く。紡も綾乃の顔から照れが移り、無表情にほんの少しの赤みを浮かべて「行きましょうか」と促す。その空間は先ほど紡が、冷徹な態度且つ上から目線で振舞ったプロポーズよりもロマンティックで、なんとも言えない甘酸っぱさを秘めていた。




「……いいわねぇ」




 その様子をドアの隙間からのぞき見していた牧野が、廊下の二人に気が付かれないように密かにほくそ笑んだ。



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