【昔話 兵(つわもの)の掘る穴ー真実その10・一端の終幕前編ー】
ピーン・ビネガー
「諄い長い"血の契約"の記憶の付き合いに、感謝しよう。
だが、長たらしいと感じたかもしれないが、人はこの世界に出てくるまで、何かしら"ルーツ"があってそこにいるものだ。
"自分の為だけの人生"もいいかもしれないが、自分の周りを彩る"人生"に、然り気無く感謝してみてはいかがかな?。
まあ、旅人の戯れ言と思って聞き流してくれ」
コッ、コッ、コッ、コッ、コッ、コッ。
自分の耳に入ってくる、恐らくは時計の"秒針の音"と思われるもので、男は意識を取り戻した。
視界が暗いので、自分が目を閉じていることが判る。
そして体勢が身体の感覚で、"片膝をついてしゃがんでいる"のだと気がついた。
物体や状況の行動の"名前"は分かるのだけれど、自分の事が中々出て来ない。
しかし、心が不思議と"焦るな"と訴えて、狼狽える事はなかった。
そうやって一般的に、不安に押し潰されそうな状態を"不貞不貞しく"乗り越えたなら、男の中に、簡単に"自分"が戻ってきてくれる。
(―――私は、名前は"ピーン・ビネガー"。
ロブロウ――セリサンセウムという王国の、西の端の領地を治めることが役目で――ある画集と出会った事で、"賢者"にもなった。
その過程で執事となるロックと出逢って、幼い頃から決まっていた許嫁のカリン娶って、6人の子どもをもうけた)
暫く目を閉じたままで、思い出させる情報を次々と頭の中から引き出しては、ピーン・ビネガーは煉瓦を重ねるように積み上げて、"今"の状態を把握する。
やがて、頭の中で"自分"についての情報の整頓が、ある程度つけられた。
そうやって、ピーンは漸く眼を開いたのなら、目に入るのは、想像していたとおり、しゃがみこんで片膝を着いている自分の身体だった。
(で、私は、今、どうしてここ――寝室に踞っているのだろうな?。
それに、どうやら随分と魔力と体力は浪費もしている)
魔力が抜け落ち、大きく疲労した身体でピーンは、大切な妻と執事が繕ってくれた紅黒いコートを寝間着の上に身に纏い、寝室で膝をついていた。
ゆっくりと立ち上がってみるが、軽く立ち眩みがおきて、右手で思わず額を押さえる。
壁に挟め込むようにしてある時計を見あげれば、覚えがある記憶の間から数時間は過ぎており、あと2時間経たずに東雲を拝める時刻となる。
最後の記憶を蜘蛛が紡ぎ出すより尚細い、繊細な糸を辿るように、思い出そうとするが、ダメだった。
(――――駄目だ、記憶がない)
客人の部屋をロックを背負って後にして、厨房によって菓子を貰い、妻に決起軍に参入する事を話して―――。
そこからが"空白"となる。
尚且つ空白が疎らなのも、賢い男は直ぐに気がついた。
酒で酔うことはあっても、酩酊して記憶を失うという体験もしたことがない。
ただ、はっきり言えるのは"この状態"はあまり気分が良いものでもなかった。
(―――身体は、疲れているが"傷ついて"いる痛みはない)
それでも確認の為、手始めに一番身近な自分の両掌をピーンは見たが、"指の1本"も傷が等はついてはいない。
疲れの倦怠感、主に魔力が抜けたものによってのものは、身体中、全体的に怠いが痛みはどこにもなかった。
(という事は、多分私の事だから、好奇心の勢いに任せてまロックには叱られて、カリンに心配されるされるような、魔力を大量に使う実験をしていたということなんだろうか。
それで、何らかの失敗をしてしまってこうやって記憶のない状態になってしまっている――?)
幾分か髭が伸びた顎に手を当てながら、白髪の頭を傾けた。
ここ数時間の記憶はないが、「心配をかけそうだから、黙って証拠が残らないように行った魔術の実験をした」記憶なら、ピーンの中にちらほらとある。
最近、魔術を著しく使い込んだものなら、ロブロウに突如として現れたレジスタンスのリーダーとなる男と、戦闘終了後に自力で立てなくなるほどの戦い(一般的には死闘と言われる)を行ったものが記憶にはあった。
そうやって「無理をして行った秘密の実験」半数は、優秀な執事によって見抜かれて、手当てをしてもらいながらお説教をいただく事になっていた。
見抜かれた原因は、自分でも注意していれば気がつくような"後始末"を行っていなかった事が殆どである。
(今回は、後始末をし損ねた事はないか)
自分でも珍しいと感じながら、薄ぐらい部屋の中を先ずは丹念に見回してみた。
薄暗い中では、そういった"後始末のし損ねた物"を見つける事が出来なかった。
(記憶を失っていなければ、こういった行動はしないだろうなぁ)
顔に苦笑いを浮かべながら、指をパチンと右手の指でいつもの調子で弾く。
『ん?』
軽く指先に―――特に人差し指に違和感を覚えた。
薄暗かった部屋が一気に明るくなって、その中で指先を見つめる。
『指も、忘れた記憶の中で魔術の実験の為に"駆使"ということなのか?』
だが自分がこうやって指先を弾いて魔術を使う時は、大抵が"戦う"時の為に使ったりする事が主で、実験の為に使う事がない。
(……私は、何かと戦った?)
――そして、恐らく"負けた"。
『チッ』
盛大な舌打ちとと共に、賢者は自分が何かに"負けた"とい感覚を受け入れていた。
記憶が全くないのに、肉体の疲労感や魔力が抜けた徒労感は、何らかの戦い負けた事でなら説明がついてしまうし、納得できる自分がいた。
(あの鬼神のグロリオーサ殿にも、ギリギリだが勝てたのに、何にを相手にして、私は負けたというんだ)
しかも、具体的なその記憶は全くない。
白髪の頭を違和感の残る指先で、ぐしゃりとかき上げた。
『……戦った後で、記憶を抜き取った。
そういった措置が、取れる存在と戦ったという事なんだろうが』
ロックに知られたら容赦なくお小言をくらいそうな、攻撃的な異国の精霊や妖精を実験的に召喚したこともあった。
それで自分が怪我をすることがあっても、後に周りに迷惑が残るような後始末はしたことはない。
大概は欲しい情報を入手したのなら、そのまま精霊や妖精がいた元の世界に、しっかりと送り返したし、居座ろうと言うなら申し訳ないが"無かった"事にさせてもらった。
そんな背景があって、ピーンの中では、何であっても結果に勝敗をつけるつもりもないし、"勝ち負け"というものに拘っていないつもりでいた。
だがこの今抱えた"負けた"という感覚と向き合ったのなら、賢者にとっては腹立たしい気持ちとなってしまう。
『んん?。待てよ?』
だがそこでピーン・ビネガーという人の"性格"を思い出した。
(例え、"負けた"のだとしても、私がそこで引き下がるような性格だったか?。
それに、負けると判っているような予測ができる戦いに、挑むような素直な性格ではないよな?)
性格が宜しくないのは、自分でよく判っている領主はまた頭を傾けて考える。
好奇心を擽られたものなら突っ込んでいく性分である事は承知しているが、それが"命あっての物種"ということもわかっている。
今一度落ち着くために、鼻から深く息を吸って口から出す。
『He that fights and runs away may live to fight another day.
(戦って逃げる者は、生き延びて他日にまた戦う機会がある)』
自分の信条の1つにもしているも異国の格言を口に出して、明るくなった部屋の中を見渡した。
(私がするとしたなら、
"私は勝たなくてもいい"
しかし、
"相手が勝てたとも思えない戦い"
方に持ち越すだろうから……おっ?!)
部屋が明るくなったことで、薄暗くかった時には判りづらかった事にピーンは思わず目を大きく開いて、"記憶を失う前の部屋の変化"に気がついた。
今こうやって、自分が佇む場所からそんなに離れていない場所に、纏っている紅黒いコートとあまり変わらない滲みの後が寝室の絨毯の上に転々とあるのを発見する。
僅かではあるが"自分の血"が、自分が佇む近辺に散っている事に気がついた。
そして更に自分の"性格"を思い出したなら、踞るようにしていた、今、正に立っている場所から、後方に下がり脚をずらした。
『ふむ、やっぱり悪足掻きはしまくったようだな。
流石は、妻と執事が呆れる程のイタズラ好きな領主なだけある』
フフン、と鼻で笑って賢者は記憶を失う前の自分を"賛辞"する言葉を出す。
風呂上がりの為に、履いていた異国の草履という履き物の楕円形の足跡の下に、元は血だという事が分かる、こちらは結構大きめ紅黒いシミがあった。
『"私は"、負けに近い状態を見越して、やはりそれなりの保険はかけておいた訳だ。
で、相手にこの血の跡を見つけられないように、"最後"は踏ん張ったということかな』
今度は明るくなった部屋の中で、改めてじっくりと自分の人指し指の先を見つめた。
こちらも、楕円を何重にも描く指紋の中に見に覚えのない大きめの傷跡が、線となって入っていた。
30数年生きていて、指先を怪我したことがないわけではないが、こうやって傷跡が残るような怪我はした記憶がない。
『相手は御丁寧に、血を流した事を、"負けたピーン"が気がつかないように、傷まで塞いで……治療した?』
それでも次々と浮かぶ、"記憶を失う前の可能性の出来事"自分の中の考えを何度も反転させて賢者は熟考する。
すると、"治療をされた"理由がどうもしっくりとこなくて、賢者は眉間にシワを刻む。
しかし、"その事は今考えなくても良い"とも自分の勘が喧しく囁くので、"保険"の方へ考えを移す。
(血を流して行った"保険"をかけておいた記憶を……"吸いとった")
失った、奪われた、取られた、色んな表現があるなかで、記憶の事を"吸いとった"という表現が自然に馴染む。
(吸いとったという事は、その記憶は何処かに"貯えられている"と考えるのが妥当だな)
それからもう一度記憶を浚うようにして、ある事を思い出そうと努めて見るが、直ぐに止めて頭をガリガリと掻いた。
『記憶が吸いとれて私の中にはないわけだから、いくら考えても無駄だな。
まず、やってみた方が早いか』
パチンと新しく出来た傷跡が残る指を再び弾き鳴らし、部屋を再び薄暗くする。
『《おいで、眠りと安らぎを司る、暗き眠りを誘う闇の精霊達。
我が呼び掛けに応えて、我が持つ、存在の証しとなる影の闇の中から姿を現に現せ》』
今まで極力敬遠していた、知識はあるが初級の精霊術しか会得した覚えがない闇に向かって、呼びかける。
これでもし、ピーンの記憶にあるとおりだったなら、大して関わりを持ったこともない、寧ろどちらかと言えば中の良くない精霊は"無反応"のはずだった。
しかし、薄闇の中でも自分の影の中から、驚異的なスピードで、しかも最も人に親しみやすい影法師の形となって、ピーンの前に闇の精霊は姿を現した。
まるで、ピーンに従属の意志を表現するように姿を現した闇の精霊に、呼び出した当人が軽く驚いてしまう。
目の前に自分と同じ等身で姿を現した、闇の精霊を染々と眺めながらピーンは感想を口にする。
『まるで気を使うようにして、こうやって姿を具現化してまで現してくれたということは……。
私はどうやら結構強引な手段でもって、闇の精霊と短時間で交渉して、会得してしまったという事なんだろうな』
賢者の闇の精霊との関わりで最後に記憶に残っているのは、自分の大切な執事を取り込もうとする際に、踏みつけては、押し返す。
ある意味、喧嘩越しの対応をしたものしかない。
一方の精霊の方とは言えば、感覚や概念が人とは違うところもあるといっても、"先程"の強引で残忍にも感じる方法で屈服にされた事。
―――具現化した所を賢者の血によって無理矢理姿を固定されて、蛇の形をした首をくびり落とされた恐怖はしっかりと記憶しているので、態度は殊勝としたものとなる。
そんな事を微塵も覚えていないピーンは、闇の精霊の素直すぎる態度に多少戸惑ったが、直ぐにでも反応してくれるのはありがたかったので、早速尋ねる。
『それでは、私が会得した術を教えてもらおうか』
相変わらず切り替えの早すぎる賢者は、人ならば戸惑いを覚えるような調子で闇の精霊に朗らかな笑顔で尋ねた。
呼吸を整えて、眼を閉じて精霊術に適応するように僅かに残った魔力を使ってピーンは、閉じたままで"視界"を切り替える。
加えて"闇"だけを迎えいれるようにして、確りと自分達を知覚してくれる賢者に闇の精霊は囁くようにして、身に付けた術の種類を教えてくれた。
《人ノ心ノ内ヲ覗キミル。
貴方ガ我ラヲ使役シテ会得シタ術。
深淵二シテ困難ナモノ、タダ1ツノミ》
片言の"人の言葉"を使いながら、精霊なりに懸命に伝えてくれた術の内容を聞く。
『成る程、ありがとう』
短く礼を述べ、腰に両手をあてて薄く目を開いた。
(高等な術ではあるが、戦闘向きでもない、1つの闇の精霊術しか私は会得していないわけだ。
私と闇は相性が元来悪いから、何にしても闇に関わった術を使うとしたら、魔力の無駄な浪費が避けられないだろうからな)
再び指をパチリと弾いて、闇の精霊を彼のいる世界に返そうと構えてから、ある事に気がついた。
『おおっと、そうだ。
相性は悪いかもしれないが礼儀を忘れてはいけないな』
冷然とした様子から、いつもの飄々とした調子に戻った様子で、ポンッと拳を広げた掌に重ねて置いた。
『多分、きっと、確り者のロックの事だから〜♪』
鼻唄にも似た調べで執事の名前を出しながらパパパッと、賢者は紅黒いコートのポケットと名のつく箇所には手を当ててあるものを探し始めた。
よく無作為に研究するテーマを思い付いたり、魔術や精霊術を行う主の為に、執事は、賢者が身に付ける仕立て物に、役立つであろう物を毎日それとなく仕込み、準備をしてくれていた。
それはペンが備え付けられている手帳だったり、小さなナイフだったり、採取した物を納める為のハンカチや小さな袋だったりと様々だった。
『おお、やっぱりあった。さすがロックだな♪』
そうして今回捜しだしたのは、ジャラリという音と共に出てくる。
賢者が取り出したのは、よく精霊術では"礼の証"として使われる、研磨されてない、小粒の天然の鉱石が詰められたビロードの袋だった。
袋の口を縛っている紐を緩めて、長い指をいれてかき回してある鉱石を探す。
『ちょっと、待ってろ。確か闇の精霊が一番好きな奴が……ああ、あった、あった』
ピーンの長い指の先に紫の色をした鉱石が摘ままれていた。
『確か、闇の精霊は紫水晶が一番好きだったよな。
ま、私とは相性は悪いかもしれないが、術を使う時にはこれからもよろしく頼むよ』
それを親指の爪の上に乗せ、コイントスのようにして弾き、闇の精霊が潜んでいる自分の影の中に落とした。
すると弾き飛んで絨毯に落ちた紫水晶は、落下した音は全くなく、吸い込まれるように影の闇に吸い込まれていた。
闇の精霊は、予想外に奮発したピーンから投げ寄越こされた"礼の証"である紫水晶を大層喜びながら、"自分達の世界"へと戻って行った。
戻って行くの見送ったのなら、鉱石が入った袋をコートのポケットに直しながら、賢者は再び考え込む。
『さて、それではどうして、"ピーンは相性が悪くて知識以外は不要だと思っていた闇の精霊術を身に付けた"という疑問にぶち当たるわけだが……んっ』
ここでピーンの中で再び立ちくらみがおきた。
顔をしかめて、眉間の辺りを指先で摘まみ、揉んだ。
(これは魔力の不足の為の立ちくらみもあるが、どうやら軽い栄養不足でもあるのかな?)
『何か口にいれるものはないか……』
そう呟いて、薄暗くなっている寝室を見渡す。
すると夜食を運ぶための台車が、部屋の隅にあるのを見つけ、そちらに歩みを進める。
『何か、残っていれば良いが……そう簡単にはいかないか』
台車の上にのる、夜食を覆う蓋を開けたのなら、そこには空の皿しか残っていない。
ついでに一応支度をされている箸やスプーン等を見たならば、使われた形跡がない。
そして、食器を使わないで食べても咎められないのを承知で行う無作法者も、この屋敷の中ではピーン・ビネガー―――自分しかいなかった。
『どうやら、夜食は私が平らげたらしいが……それでも腹が減ったな』
まるでタイミングを見計らっていたかのように、執事との日々の鍛練のお陰で年の割りには筋肉で平らな腹がグウと鳴る。
白髪の頭をボリボリと掻きながら、自分の空腹具合に軽く驚きながらも、"自分の特徴"を思い出す。
(普段なら、疑問に思ったことがあったならそちらに集中して、空腹を感じることも少なくて、カリンに心配されてロックに叱られるのに)
結構凹んでしまって、空腹を訴える自分の腹を慰めるように撫でる。
(闇の精霊術を身に付ける事は、私の中で、好奇心を刺激するような疑問を満たす為に、どうしても必要だった事。
けれども、"それ"はもうなされてしまったから、私の中では好奇心は満たされている。
好奇心で以て、いつも凌駕していた空腹感を、本能を今は押さえきれない。
……といった具合になるのかな)
空腹の腹を宥めながら、"自分"という人を知ってるピーンは、吸い取られている記憶の中に、"自分が負けている事"と"求めたい疑問は解決している事"の2つがあった事は把握した。
(まあ、何はともあれ何か食べ物がないものか……。空腹時に考えてきっと"ろく"な事は思い付きはしないだろう)
好奇心が空腹感を押さえ込んでくれている時は、睡眠の欲すらもわかない賢者ピーン・ビネガー。
ただし"そういった場合でない時"は、どちらかと言えば結構な食い意地の持ち主でもあった。
しかしながら、紅茶が好きな妻が、日常の食事の合間に行われるティータイムと共に、執事が茶菓子も副竈番のマーサに頼んで用意をしてくれている。
妻と紅茶を飲むことが好きな夫は、誘われたなら断る事なく付き合うので、寧ろ空腹になる事の方が珍しい方だった。
『そうだ、紅茶が確か』
先程部屋を見回した時に、ティーテーブルの上に紅茶のポットが置いてあるのを確かに見かけた。
加えてカリンには寝る前に、気持ちが落ち着くという紅茶を飲む習慣がある。
『茶菓子でもあったなら……異国に言う地獄に仏とかいう奴なんだろうか……』
空腹のあまりに、回転が悪くなってしまった白髪の頭の中の記憶から贔屓にしている諺を引っ張り出しながら、ピーンは紅茶のポットが置かれているティーテーブルのへと今度は進んで行く。
するとそこには期待以上のものが、賢者の目に入って来ていた。
『おっ、これは本当にありがたい!』
テーブルの上に、ポットの影に隠れるようにして紙に包まれた―――確か、客人の為に副竈番が新しく作り出した焼き菓子があった。
ロックが見ていたなら、眉間に深い皺を刻んで諌められるような感じで、大きな掌でいくつか纏めてつまんで口に放り込んだ。
そして、この"菓子"を食べた時の独特の―――魔力が枯渇したよう状態っだったのに、隅々に栄養を満たされていく感覚と共に、"大切な事"を賢者は思い出していた。
丸い茶菓子のサクッとした食感に、舌に触れたら優しい甘味を感じさせて、喉を通り過ぎる時には、柔く穏やかに進む。
本当に、食べる方にとっては食べ易い優しい、"想い"が満ちた茶菓子だった。
《こんな気持ちなんて、味わいたくはなかったよ》
《恋なんて、アタシの人生の中じゃないと思っていたんだけどねえ。でも、しちまうもんなんだねえ……》
《きっと、アタシには、このお菓子のこの味をこえるものは、もう作れないんだろねえ》
茶菓子が体内に吸収されて、魔力が染み渡るように体に満ちる。
それと同時に、小さなシャボン玉が、パチ、パチ、パチっと弾けようにして、この菓子を作ってくれたマーサの切なさを滲ませた声が、賢者の頭に甦った。
領主としては元より、人として尊敬信頼できる人だからこそ話して貰えた、彼女の切ない告白だったに違いなかった。
(思い出せるということは、記憶を吸われた訳ではなかったんだろう。
しかし、こうやって茶菓子を食べて初めて思い出せるようになるまで、大切な事まで記憶の奥底に沈められるとは)
自分の″無責任″さに、領主は呆れた。
『スマン、マーサ』
思わず口に出して、信頼してくれている料理人に謝罪した。
きっとマーサが口に出すのは、恥ずかしい想いだっただろうし、信頼した上でのだったろうから、その信頼に応えられなくて、本当に申し訳なく、情けなくなる。
だがその事で大して気にしていなかった事が、″重大な事″をだった事を思い出すのに繋がった。
『もし、気がつかずにそのまま返していたなら、私は好奇心が満たされた事に満足して、お前の事を″仲間の形見″として返していたのだろうな』
息を潜めるように、姿はずっとそこにあったはずなのに、気がつけなかった存在に賢者は語りかける。
『きっと、数時間の事なんだろうが、私の感覚からしたら、″久しぶり″だな』
紅茶のポットの影に半分姿を隠していたが、注意をしておけばすぐ気がつけるような場所に、古くて立派な絵本があった。
『……ある意味本が好きな私が、本よりも食べ物に気を取られるのもおかしな事だったんだがな。
言っとくが、前に倒れた時の原因は、漸く手にいれた東の国の魔術書を3日間ぶっ通しで読んでいたからだ。
それくらい″普通の本″は大好きなんだがな、お前は″普通″ではないらしい』
傷跡がある指先の手を伸ばして、絵本の表紙に触れた。
その瞬間にマーサの茶菓子を食べたことで、枯渇の状態から抜け出した、賢者の魔力をガツガツといった様子で吸われ始める。
『私の"魔力"は、"お前"にとって遠慮なく吸いとれる代物になったのかい?』
絵本から魔力を吸われながらも、賢者はニヤリと笑う。
この"普通のでない絵本"に関しての詳細な記憶は、吸われてしまっている事を"身体が覚えていた"。
でも、それでも"全く構わない"と、空腹を脱したことで回り始めた頭と本能が、賢者に教えてもくれた。
《この絵本は人の魔力を、希には、"気紛れ"のように"記憶"吸って存在を保っているらしいとの事です。
記憶に関しては、本当に無造作に吸い取っているらしくて、基準が判りません。
そして、どうやら魔力は必ず吸ってはいるんですが、吸うにしても、相手に"好き嫌い"があるみたいです》
数時間前に、客人の幼馴染みで親友が語ってくれた"絵本の事で判っている事実"はしっかりと記憶の中にある。
そして語られた物の中にピーン・ビネガーが、どうしても欲しかったものが、その中にあった。
『私が欲しかったのは、古の"旅人"が扱えていたという"記憶を吸い取るという術"。
その術が行われた背景や作られた経緯なんぞ、何も興味がない』
本を掴み天に掲げるようにして、持ち上げた。
だが上に掲げた先にあるのは、光りではなく、薄暗い闇。
【……"旅人"の意志を継ぐ人は、やはり不可解な者が多い】
絵本は"笑った"。
『だって、せっかく記憶を吸いとれるのだったら、それが悲恋の記憶だけではもったいないだろう?。
どうせなら、細やかな人の幸せの戒めに繋がるような下らない記憶も、"要らない記憶"も吸いとった方がいい。
まあ、判断基準が性格の宜しくない賢者、ピーン・ビネガーとなるのが問題かもしれないがね』
そう言って、不思議と魔力を満たしてくれるマーサの御菓子を指先で摘まみ、口に放り込む。
『さあ、根比べといこうか?。不思議な絵本殿?』
マーサのお菓子が尽きるまで、体に魔力を補充しつつ、絵本と対話する。
そうやって東雲の時を過ごしていく内に、賢者は大量の魔力と引き換えに、"絵本の使い方"を感覚で会得した。
そして彼が生きている内に、知っていた絵本の題名と内容を思い出す事はなかった。
『後は実践あるのみか……。お、もう朝か』
厚い寝室のカーテンの隙間から、陽が切りこむようにして差し込み始めていた。
陽が直接当たっているわけではないのだが、ピーンは細い光の筋を見ただけでも眩しく感じて瞳を細める。
『……2、3時間でも睡眠をとるつもりだったんだが、やはり夢中になるといけないな』
使い方の感覚を会得してからは、大分魔力の吸いとる勢いの落ちた絵本を、左手の持ち肩にトントンと当てながら苦笑をする。
数時間の記憶はないが、ピーンは徹夜をしてしまったという事実に少しだけ困り顔をする。
『不味いな、最近はすぐに顔に疲れが出るというのに』
そう言って徹夜をしたのなら、隈が出やすくなる目元を治った傷口のある指先でなぞった。
隈に気がつかれたのなら、かなりの高い確率で、ロブロウ領主は妻には心配され、執事からはお小言を受けることになる。
『まあ、怪我をしているわけではないから、そこまで心配はされない……』
そこまで言ってからある事を思いだす。
【相手は御丁寧に、血を流した事を、"負けたピーン"が気がつかないように、傷まで塞いで……治療した?】
"記憶を失う前の可能性の出来事"で先程いくら考えて、答えがでなかった事だった。
だが今なら答えはでなくても、答えに繋がりそうな事に気がつけそうと賢者は考える。
やはり、まずピーンの指先が"治療をされた"理由がどうもしっくりとこなくて、自分の隈が出来ているだろう目元をなぞる、指を見つめる。
『それとも、この傷はやはり私が治した……事になるのか?』
だが″傷を治す″となると、ピーンの頭の中にまず浮かぶのは、世話焼きな執事の青年だった。
実験や研究で失敗し、流血するような怪我でもしようものなら、怒りながらそれ以上に心配もする執事の事を思い出す。
"国の為の研究もいいですが、もう少し御自分の身体を大切になさってください"
そんな性質の執事なので、一度すべて失った魔術の才能から、彼がまず一番最初に覚えなおしたものは、″主の為に役立つ為の″治癒術だった。
懸命に覚えなおし、ピーンが何の形にせよ血を流した時には、執事はすぐに治療を行ってきていた。
そんな時は、口では厳しく主の不注意を執事として諌める。
だが諌めながらも、実際に怪我をしている当人より傷つき、心を痛めている表情を浮かべて、治癒術を施して、大抵は完治に近い形にしてくれていた。
"「賢者は国の《財産》。如何にその《財産を巧く使》いこなすのが、国としての才覚と度量を測る事に繋がる」。
そんな言葉もあるそうですが、財産である賢者が多少傷ついても、国は様々な権限を与えてくれてはいるけれど、気にかけてはくれません。
「財産である賢者は、多少の綻びなど、自分で繕えてしまう、また繕えるからこその賢者という《財産》である」
……そんな言葉を返されたなら、旦那様を賢者として見ている人には、何も言えなくなるでしょう。
けれど、"ピーン・ビネガー"を賢者ではなくて、私みたいに"旦那様"や、領主様として見ているカリン奥様。
そしてロブロウの領民からみたら、代わりなどは有り得ない存在でいらっしゃるんです"
切々と年下ながら、主を諫める執事を見たならば、この執事の為に―――自分の事を考えてくれている人の為に、
"自分は簡単に傷ついてはいけないのだ"
という気持ちを抱くのと同時に、領主ピーン・ビネガーとして忘れてはならない気持ちを思い出させ、気持ちを引き締めさせてくれた。
だが引き締めると、いつも飄々としている優しい主の顔に、険しさが加わる。
そして、それはピーン・ビネガーが少しばかり"無理をしている"とも判る執事は言葉を続けてくれる。
"ただ、バン様が無事に跡目を継がれましたら、"領主様"と"領民からの想いから"は自由になれますから、それまでは御辛抱ください。
カリン奥様と私の"旦那様"と、国からの"賢者"の楔は残りますが、領主である時よりは、随分と楽で余程"自由"になると思いますから"
心のどこかで、自由を渇望するピーンの気持ちを知ってくれている、執事の言葉が何より、賢者には有り難かった。
朝陽が差し込むようになった事で、大分明るくなった寝室の中で、改めてピーンは治った傷跡を見つめた。
傷跡は傷が深かった為できたもので、ここまで丁寧に治癒されたなら、普通の切り傷は、きっと痕すら残らなかったと思える。
『……まるでロックが治してくれたみたいに、丁寧だな』
いつも自分で治癒術をかけたのなら、精々止血程度で、傷口は塞がないだろうともピーンは考えて苦笑いを浮かべた。
『出来の良い執事に、これ以上、私みたいな身勝手な孤独ぶる人間の為に心を痛めないように。
"ピーン・ビネガー"は珍しく頑張って治癒術を頑張ったということなのか?』
好奇心を擽られて仕方なかった、お伽噺のような"旅人"が使ったという術を自分が扱えるようになる為なら、手段は選ばない。
その事ばかりに気持ちを優先させて、自分の内にある歴史的に意味のある発見―――"絵本の正体"という記憶など、失ったとしても、ピーンにとっては、全く問題がなかった。
けれども、"自分を理解してくれる人の為"に、自分が、ピーン・ビネガーがそこまで努力をするような人間なのかどうか。
自分が大切な人の為に"心配をかけないように努力をするような人"なのかどうか。
"それ"が判らないことは、少しばかり賢者の心を曇らせる。
―――義理や人情を重んじるのは大切な事だとは思うが、それに縛られて必要な時に身動きがとれなくなるのは愚かしい―――
領主で、賢者であるピーンの考えを、10年以上の歳月を共にしたロックは重々承知してくれている。
そんな、"旦那様"だからこそ、遠慮なく依存してくれているのだとも、ピーンには判ってもいた。
依存先の主が、依存する相手の事を思う余り、"主"が個性を潰し存在が、輝かしい存在が翳ってしまっても、ロックはダメなこともピーンは踏まえて、それらしく"振る舞っていた"。
ただその"振る舞い"は、人が衣服を身につけて行動するのと同じで、"当たり前"であって、ちっとも負担に感じなかった。
ある意味"振る舞わない"事の方が、まるで着衣を身に付けないでいるような気がして、ロックがいる事で"当たり前"に振る舞えたのだから、ピーンからすれば感謝しかない。
そして、その感謝出来る人物を今になって漸く、主従の関係でも、"友人"だと思っても良いだいう考えを、受け入れていた。
《あら、領主様、領主様には何でもしてくれる執事がいらっしゃるではありませんか?。
そこは"グローさん"と、"アルセンさん"の間にあるものと同じように私には感じますけれども》
受け入れるきっかけをくれたのは、数時間前の妻の一言が始まりだった。
その妻も、ロックがいなければ、この天恵を与えるよな言葉を口にしてくれる事はなかったのだと、判っている。
(私は"無意味な孤独"を勝手に背負い込んでいたのだろうな)
きっと、ロックが居なければ、カリンは領主夫人で、ピーン・ビネガーと一生を添い遂げる伴侶であったとしても、ここまで打ち解けてなかったのではと思う。
そして、もし打ち解けた事が出来たとしても、彼がいなかったのなら、カリンがここまで"領主様"に遠慮をせずに物を言えるようになったのは、晩年になっていただろうと、簡単に想像がついた。
(若しくは、どちらかが今生の別れ間際になって、とかかもしれないな)
妻も執事も、どちらも自分が守らなければならないと思っている存在だと思い込んでいた。
いつも自分が"引っ張っていかなければ"といった考えを持っていた。
しかし、カリンに言われてから、自分の方が2人が居てもらわなくては困るのは自分だと、考えられるようになれた。
ただ、例え2人が同時に消えたとしても、困りはするけれど、"生きていられる"自信はピーンにはある。
だが2人がいなかったのなら、ここまで生きるという事を執着していた―――何より"楽しんでいた"とも思えない。
1人なら、寿命にしろ災害にしろ、何かの拍子に命を落としても、あっさりと受け入れてしまいそうだった。
けれど、今は2人という存在が、生きる事への欲の"楔"となってくれる。
心配し叱ってくれる存在がいたから、知識への好奇心に煽られて、取り返しがつかなくなるまで体を壊す事なく、賢者として研究を続けてこれた。
ピーンにとって遠慮なく使える"自由の為の時間の貯蓄"もできていた。
人として"生きている時間"を、上手に扱う事が出来ているのはこの2人がいたから―――。
(いかん、いかん、また私は、話を小難しく考えているな)
2人に感謝しつつも苦笑いを浮かべながら、妻からの天恵の続きを思い出す。
《領主様とロックの関係も、主従の関係にあって"友"の関係とは、表だっては言ってはいけないのかも知れません。
だけれども十分領主様とロックは、幼馴染みには時間が合わないかもしれませんが、"親友"に近いのものはあるように私は思います。
だって、研究に没頭する余り、連日続けて食事をとるのも忘れて、研究をしている領主様の口の中に、見計らってチーズが挟まったサンドイッチを放り込む事が出来てる執事なんて、聞いた事がありませんもの》
そういった話を、妻は心から楽しそうに語ってくれた。
どんなことも具合によるのだろうが、多少手荒に思えることでも、"貴方なら、お前なら、まあ仕方ない"と互いに受け入れてくれる存在がいるのは幸せなこと。
そして一般的に、その関係は"友人"―――親友と呼ばれる関係にあること。
だから、言われた事を思いだした事で"友と思っても良い"となった執事に対して、そこまで"ピーンが気を使うことがおかしい"という状況が出来ているのに気がつく事が出来た。
執事を"友"と思ってもよいと考えることができるようになっていた自分が、彼を哀しませないように、"自分"が無理をして治すようにするのだろうか?と思った。
(友と思えたのなら、寧ろその状況を、そういった怪我をした時のやり取りすら"私"なら、"人生を楽しむ"糧にする)
きっと、執事はいつもの調子で中途半端に賢者がかけた、ふとした拍子に再び血を流しそうな治癒術がかかった人差し指を、出会ったならすぐに発見して、呆れる。
"旦那様"である自分に、小言を一通り言った後に、"仕方ないですね"とため息をついて、怪我をした事を許してくれながら、ピーンに困ったような優しい笑顔を向けてくれる。
"これからは、注意してくださいね、旦那様"
そして、直ぐに自分の主の傷口を、懸命に覚えなおした治癒術で治してしまってくれるだろう。
そうやって、"旦那様と執事"はそんなやりとりを、賢者は"親友"として楽しむ。
(……なら、やりとりを楽しみにもしている私が、治癒術を行うわけはない。
そうなると、治癒術を行ったのは――?)
自然に存在に気がついてから左手に抱える、古くて立派な絵本を見つめる。
『"お前"が、わざわざ、ロックと同じ様に、丁寧に治したということなのか?』
不思議な力と意志を持っているという事は判る絵本は、これには答えなかった。
"絵本については、なにも詮索しない"
ピーンは自分の中に、出来上がっている不文律があるので、これ以上賢者は言葉を口には出さない。
不文律については、恐らくは"吸いとられた記憶"の背景にも、組み込まれてるのだろう。
でもここまで考えてみて、ピーンが加えて思い付くのは"絵本"がロックという自分の執事の存在を、気にかけているという事だった。
(絵本にとって、ロックはどんな存在なんだ?)
そこまで考えた時、領主邸の中に朝の喧騒が、厨房を中心にして広がり始めているのを屋敷の主は"察知"した。
そして自分も今か抱えている絵本も"大切な"存在である執事――――ロックも、ゆっくりとではあるが、身体を起こした事が、密かに潜ませて置いた精霊石の反応で主は確認する。
(とりあえず、一旦は中断だな)
絵本を鋭い目付きで見つめるのを止め、再び小脇に抱えて、目を閉じて長い指で押さえて小さく息を吐く。
それから目を開くと、部屋にある時計を見上げると、幾分早いが、厨房の竈の火がともされてもおかしくもない時間ではあった。
(使用人を減らしてしまった分、あの働き者のマーサと、ロックもそれを補う為に、いつもより速く起床したというのは十分に考えられる事だな)
妻がであるカリンが起きてくるまでには、まだ小一時間程時間はある。
身支度を整える為に、一度シャワーを浴びる余裕はありそうだった。
まだ鏡で自分の顔を拝んではいないが、恐らくは今は目元に立派な隈が出来ている事だろう。
寝台に寝た後がない事で、身体を休ませなかったのはばれるだろうが、ピーンは椅子に腰かけたまま寝る事もある。
カリンはそれを知っているから、直ぐには心配しない。
ただこの隈がある顔を見ならば、妻に心配をかけるのは明白である。
その前に、身支度を改めて整えて寝室を離れようと決意する。
幸いな事に、よくマッサージをして2時間でも睡眠を適当にとれば、ピーンの隈は消えてくれるものだった。
『とりあえず、他にも"怪我をしていた場所"がないかも確認しないとな』
指先の傷は治っていて、身体には痛みがないのは分かっている。
しかし身体の魔力を補充は出来たが、ピーンの体力がないことでの倦怠感と疲労感は、本当に著しい状態ではある。
(身体の何処かを負傷はしたが、指先と同じように治されている場所があるかもしれない)
風呂に入り確認し、傷跡が残っているのなら、ピーン・ビネガーがどういった"戦い方"をしたのかの情報を拾うことも出来るかもしれない。
『やれやれ、傷を治してくれるのなら、肉体疲労の栄養補給もしてくれたらいいのに……』
"あくまでも"、ロックが依存先で主でもあるピーン・ビネガーの姿を見て"傷つかない"という限定の上で、賢者への治療が行われたのだという事には、考えが及んだ。
(私でもそうするか)
"大切"に思える存在の為なら、いくらでも自分の労力も時間も裂いても構わない。
けれども、それ以外はどうでもいい。
大切な者為なら惜しみ無く、躊躇わず使われる労力でも、どうでも良いモノに使うのには惜しむべき、という考えにも賢者は賛同する。
(まあ、国王やら領主やら、自分の国(居場所)を護る者には、どうでもいい存在なんて、居場所を脅かす"侵略者"ぐらいしかいないわけになるんだが)
苦笑いを浮かべながらも、"ロブロウ領主"を経験した上で感じる事の出来た感覚は、自分にとって有益なものだったのもわかっている。
その"大切"の為に、気持ちや時間や体力を浪費する事で、自分1人では、決して感じる事が出来ない充足感を与えてもらっているのは確かだった。
(しかし、この充足感を続けて味わいたいなら、やはり資本としての"体力"が必要なものとなるなぁ……)
基本的に体力もあった方だとは思うのだが、三十路も後半に差し掛かると体力はやはり落ちているし、隈に象徴されるように、疲れが抜けにくいように感じる。
(体力を増進させるのも勿論大事だが、どちらかといえば効率よく快復させる事。
そちら考えた方が、これからの活動の為には効率がよくなるか……)
ポンッと思い付いた様に、左の掌の上に、賢者は拳にした手を置いた。
『ああ、そうだ。この旅の間に、薬草やらを使ってそういったものの研究をするのもいいかもしれないな。
セリサンセウムの中を、フィールドワークする機会でもあるわけだし。
うん、それがいい』
ウンウンと笑顔で頷いた後に小脇に抱えていた絵本を、再びティーポットの横に置く。
その時、顔に浮かべていた笑顔は冷たい。
『とりあえず、"4年"という時間の貯蓄は、もう削られ始めているから、有効に活用をしないとな』
―――そして、ロブロウ領主としての役目を全て終えた上で、愛しさと好奇心だけを満たしてくれる、平定がなされた国での"楔"達との余生を賢者は夢想する。
『この4年間、散々旅と冒険をして、ついでに国を平らにして。残りの一生を"ロブロウ"で引きこもれるように、未来の"国王"様に沢山の恩を売り付けないといけない』
ニイイッと口の端を上げる。
それが、"深謀遠慮のピーン・ビネガー"という名前を冠とする、"自分の人生の終焉"までを見越している《人》の思惑だった。
身支度の為に浴室に向かう。
まだカリンが起きるには速すぎる時間なので、ピーンなりに気遣って、浴室の扉は丁寧に開閉した。
そしてやはり妻と執事で繕ったコートだけは丁寧に衣紋掛けにかける。
結局眠らなかったが、身に付けていた寝巻きを、また片付ける者がうんざりしそうな脱ぎ方をピーンはした。
『ん?』
数時間前にも、こうやって衣服を脱いだはずなのだが、明らかに感触が違うのがわかった。
身体を禊いだはずなのだが、肌の感触で身体が"激しい運動をした"というのがわかる。
衣服を脱ぐのにも、多くの汗をかいた後、それがそのまま乾いたようなべとつきが、不快に感じた。
『どうやら魔力だけではなくて、やはり身体の方も存分に使ったらしいなぁ……』
昨夜着ていた衣服が入っている籠の中に、脱いだ寝巻きを放り込んだ。
『さて、私は武器も使わず、どういった戦い方をしたのだろうな』
鏡を覗けば案の定、徹夜の後にはお馴染みの立派な隈が目元にあるのが確認できる。
とりあえず腕を組んで、自分の身体を眺めるが、特に変わった場所は例の隈ぐらいのものっだった。
治されたとしても、傷跡らしい物は、ピーンの身体には全く見当たらない。
来客中と、屋内ということもあって、腕に隠し持つようにして愛用している短剣は装備をしていなかったが、刃物で戦ったという事がなかったらしい。
『結局、目立つ傷跡はこの指先だけか』
組んでいた腕を解いて、指を見つめた後に白髪の頭をガシガシと掻いて、シャワーを浴びた。
気持ち、目元だけをぐいぐいと指先で解すように、マッサージをする。
(後で一眠りすれば、何とか消えてくれるだろう)
直ぐに身体を拭きあげて、執事が"翌日"の為に用意してくれていた衣服を身に付けて、紅黒いコートに再び袖を通す。
"動ける姿"になったピーンは浴室から、やはり気を使って静かに出た。
『またせたな。さ、"実践"に行ってみようか』
コートの内ポケットに、"賢者だけが扱えるようになった絵本"を仕舞い込んで、寝室を出た。
まずは厨房に行ってみる。
『やあ、おはよう』
元気になった副竈番と、見習いの少女が、せっせと朝食を揃えてつつ、突如として現れた雇い主に目を丸くする。
それについ先程
"マーサ、旦那様は遅く起きられるそうなので、朝食の支度は遅くても良いそうです"
と、聞いたばかりでもあった。
『マーサさん、確か執事さんが……』
指導の賜物なのか厨房見習いの少女が、目を丸くしつつ、葉野菜を食べやすい様に、一口大にちぎりながら戸惑ったように尋ねる声をだした。
『……まあ、この領主邸じゃよくある事さ』
マーサもマーサで、竈番が休みの為に2人分の作業を器用にこなしながら、見習いの少女に答えてやる。
使用人2人の目を丸くした事―――驚いた顔に御満悦の領主は、今は開かれっぱなしの入り口でその様子を楽しそうに眺めていた。
笑っている雇い主に、マーサは小さく息を吐いて、見習いの方を向く。
『とりあえず、今はその作業を一旦止めて。
保冷庫から、領主様用の豆乳を出しな』
訪れたタイミングが良かったのか、マーサは2つ竈の火を止めながら、指示をだす。
自分は見習い少女では手が届かないし、破損したら1発で馘となる高級な食器をしまう戸棚に向かっていた。
『あっ、はい判りました』
少女は未だに小さく目を丸くしながらも、パタパタと動いて、マーサの言葉に従ってまあまあ機敏に動く。
豆乳が冷やされている保冷庫から取り出した時、マーサは"領主専用"のコップを濯いでいた。
『マーサさん、持ってきました』
『ありがとう、で、さっきあんたが千切った葉野菜と。
それとビネガー家の御家族だけが召し上がるパンを、2切れ程、薄く切って―――サンドイッチ用に支度をしとくれ』
再び指示を出しつつ、マーサは冷えた豆乳が入った容器を受け取り、それを慣れた手つきでコップに注ぐ。
豆乳が自分の愛用のカップに満たされたのを確認してから、入り口に立ちっぱなしだったピーンは厨房の中に入った。
『判りました……わあ?!』
見習いの少女が"動いていた領主"に驚いて声をあげた後、ピーンは何時ものようにコップに並々と注がれた豆乳を、マーサから渡された。
『そんなに驚かなくても、良いだろう?』
今度は厨房見習いの驚きっぷりに、ピーンの方が驚きつつも当たり前のように豆乳を受けとる。
『見習いにとっちゃ、昨日出会った気さくな領主様より、"ロブロウからでない引きこもりの不動の領主様"の方が馴染みがふかいからねえ……。
私達にとっちゃ、いつも通りの"イタズラ好きの領主様"って事たけど。
最近の若い領民にしたらそっちが有名みたいだよ』
『そいつは初耳だ、ありがとう』
(思えば連れて帰った時には子どもだったらロックが、成人してしまうぐらい時間は過ぎてはいるんだったな)
自分では、ただ領主の仕事をこなしつつ研究に打ち込んでいるだけで、正直に言ったなら"引きこもっている"とは思ってなかった。
だがロブロウから外に出ないとなる期間が、10年数年にもなると、そういう風に思われる事にも納得しているし、今回は"利用"もしている。
序でに振り返るように思い出してみると、出会った頃のロックは痩せて小柄で、今はぎこちなくパンを切るためのナイフを、火で炙っている見習いの少女よりもまだ小さかった。
(確か出会った頃が私の腹の上ぐらいで、今は顎まで背が伸びたんだから、10年でロックもよく育ったものだ)
小さな身体で懸命に働く少女の姿は、かつての執事の姿をピーンに思い出させるのに十分だった。
『マーサさん、パンの用意ができました』
そして確りと報告する姿は、副竈番を"尊敬"しているのを伝えてもくれる。
『ありがとう。それじゃあ、後は私がするから、昨日言ったとおり、朝食の作業に戻っておくれ』
はい、と再び素直に見習いはの少女は返事をして、厨房の奥の方に行ってしまった。
『厨房には昨日はいったばかりなんだけど、楽しそうに頑張ってくれてるよ。
親御さんが私の地元の方でね。
見習いが生まれて、小作農だったんだけれども、国の政策で見切られるような形で、仕事を解雇されたらしいよ。
でも解雇されたから、逆に土地にこだわらなくてすんだみたいだね。
農業で食うには困らないっていう事で、ロブロウに来たらしいよ。
来た頃には親御さんは、ロブロウの余所者には中々厳しい土地柄に苦労したみたいだけど、領主様が丁度ロックさんを連れ帰ったのと……。
何よりカリン奥さまと領主様が結婚したので、"おめでたい"続きだったから、比較的速く打ち解けたって親御さんは言っていたね。
あの見習いは、私と一緒で料理ばかりに興味があって、教会の学校に馴染めなかったそうだよ。
心配した親御さんが領主夫人である奥さまに相談されて、ロックさんがうちの頭と話して、雇う事になったんだ』
元気になり、粋も良い副竈番は、この屋敷で3番目に"変わり者の領主"の考えそうな事が判ったので、先回りして説明をしてくれる。
『そうか、まあ学校が合わなくても、自立活動を身につけて大人になれたなら、それでいいのかもしれないなあ』
『おや、領主様が"賢者"みたいな事を言うねぇ』
そこで互いに軽く笑った。
自分が長期間領地を離れたとしても、優しい妻と、この確り者の料理人がいたなら、この土地は大丈夫だと思えた。
("ピーン・ビネガー"という人物がロブロウ領主として名前が生きている間は大丈夫)
笑い終えたあと、豆乳の白く丸い水面を見ながら心の中で"賢者"は心の中で呟く。
―――だが、《クロッサンドラ・サンフラワー》という国王の名前では、セリサンセウムという国はもう、保てない。
そんな事を考えながら、コップの縁にピーンは口を当てた。
『いただきます』
小さく一言言った後に、一気に豆乳を飲み干す勢いでピーンは飲む。
そんな領主を確認してから、笑いを治めたマーサは厨房見習いの少女が用意した、パンと葉野菜を載せる為の皿を取り出そうと、雇い主の側を離れた。
正しく流し込むと言った様子で豆乳を"口髭"を作って飲み干しすと、ピーンにしたら珍しい光景を見た。
『ごちそうさまでした……どうした、マーサ?』
親指で"口髭"を拭っていると、厨房の隅々を把握している彼女が、"探す"と言った雰囲気で、ビネガー家の領主一家専用の食器が入っている戸棚の入り口を広げを見上げている。
『あ、あった!』
ピーンの質問には応えず、マーサは必要な皿を、見上げる形で漸く見つけたようだった。
しかし、彼女の背には幾分か高い場所にしまっているようで、副竈番は今度は爪先立ちに近い状態になっている。
『やれやれ、誰だい!、こんな高い場所に皿をしまったのは?!』
何か踏み台の代わりになるものをマーサが探している内に、ピーンは空になったコップを洗い物の場所に置いてから彼女の後ろに立つ。
『私が取ろう、元々私の朝食のサンドイッチの為だからな』
『そうかい?。じゃあ、私は残りの中身の支度をするから、皿を取って濯いでおいておくれ』
"立っているものは領主でも使う"という噂を立てられている副竈番は、そう言って肉類が納められている保冷庫の方に行ってしまった。
ピーンは昨夜の様子を微塵も感じさせない彼女に、見えないように優しく微笑みを向けながら、皿に手を伸ばす。
"サンドイッチ専用の皿"は、一般的に背が高いとされる彼の目の高さにの位置にあった。
これでは逞しいが、実は背の高さはカリンより小柄なマーサでは、自力で取るには無理な高さでもある。
(どうして、こんな高い場所にしまわれてしまっているんだ?……あ)
『……ああ、そういう事か』
小さく、今度は口に出して呟きながら皿を手に取った。
ピーンは、つい先日も食堂に入り浸っていた客人を思い出す。
(どうやら、グロリオーサがこの皿を片付けたという事らしいな)
領主には及ばないが、客人も十分背は高い。
(また、"友だち"としてグロリオーサは、厨房の手伝いをするつもりだったんだろう)
だが"昨夜"のピーンが口にしたことで、恋愛に関しては朴念仁と宣うグロリオーサでも、何かを察する事が出来たのか領主には判った。
(まあ、そこは"気がつかなかったグロリオーサ"と、"気がつかせなかったアングレカム"の間の問題だな)
これから訪ねる事になる客人の部屋で、昨夜はロックをおんぶして立ち去った後に、グロリオーサとアングレカムが結構な口論を始めていたのは窺えた。
『それにしても、領主様はまた、立派な隈を拵えたねえ』
ピーンの心内とは別に、グロリオーサへの気持ちに完璧に"ケリ"をつけてしまった副竈番は、保冷庫から領主の気に入っている生ハムを取り出していた。
『そんな隈が出来ているって事は、久しぶりに興味がつきないものを調べ回って、興奮して徹夜したってことだよね?。
ハムの量はどうします?。今なら切る前だから調整できるよ』
マーサは捌けた調子で、立派な隈を顔面に携えている雇い主に、それが出来てしまった経緯を確認する言葉を投げ掛ける。
ただそうやってマーサが、一般的に結構深傷にも思える"失恋"をしたはずなのに、捌けているのは、自分のコートの内にある絵本が原因。
"本の正体"は失っていたとしても、そういった"本の能力"といった記憶は、賢者の中では確りと残っている。
(恋も失恋も、はっきりとした事がないからなあ。もしかしたら、マーサなら記憶を吸いとらなくても良かったのかもしれない)
『ハムは透ける位に薄めな切り方で、量を多くして貰えたならありがたい。
後はそんな興奮してたまってできた蓄積疲労に、玉ねぎのスライスも頼む』
ハイハイと返事をして笑うマーサの側に、ピーンは答えながら自分の皿をもって寄った。
(ある意味、記憶を吸いとった事で"良かった悪かった"は直ぐに"結果"が出ることではないが……)
結果が直ぐに出ることではないのはわかっていたが、捌けて、今も楽しそうに調理をしているマーサ。
そんな彼女を見たなら、"恋をしていた記憶を吸いとった"事は、余計な事だったような気も賢者の中でしてくる。
辛い経験が、人を育てるという事は確かにあると、賢者にも分かっている。
何より、"グロリオーサを想う気持ち"をが込められたお菓子は、不思議なことに"絵本"に関わっていたことで極限にまで減っていた、アングレカムやピーンの魔力を補う事にもの凄く役立った。
グロリオーサとの恋にマーサが縁がなかったとしても、あのいろんな意味で素晴らしいお菓子がもう"2度と作れなくなった"が事は、惜しい事なのかもしれない。
(辛い記憶はなくした方が良いのか。それとも乗り越えることで、多くの事を学び得る事ができるというのなら、多少辛くとも乗り越えた方がよいのか)
疑問の言葉が、賢者の頭の中に浮かんだ。
(マーサなら、このどこまでも前向きな人なら、例え涙をながしたとしても、失恋なんて"乗り越えられた"?)
―――だとしたら、自分が好奇心に抗えずにしてしまった事は、どれ程の罪になってしまうのだろう。
『領主様がそんな隈を持っていたらロックさん、また心配するんじゃないかい?』
考え込んで動きが止まってしまっていた賢者に、料理人は捌けているというよりは、"気にかけている"といったニュアンスを強めて声をかけられたのに勘づいた。
"アタシの「記憶を吸った」事を気にかけているのかね?"
思わず、魔力の浪費も考えずに、覚えたばかりの魔術でマーサの心を覗き込んでしまっていた。
そして彼女が"自分を恨んでいない"と判って―――心の底からホッとする。
『……私の"突然徹夜をする癖"は、今に始まった事じゃないだろ』
だから、彼女の求めている"一番安心できる領主様"の姿を振る舞う。
序でにイタズラ好きな自分を思い出す為に、ふざけてみせた。
『まあ、ロックは驚きはするし、お小言だろうけれども心配はするにしても……』
『心配は、絶対にするだろうさ』
不意の形に強い口調で、マーサに断言された。
『丁度、領主様がここにくる数分前にロックさんから、"領主様は起きるのは遅くなります"て聞いたばかりだったんだ。
見習いも、それを聞いていたから、あんなに驚いていたんだよ。
まあ、その立派な顔の隈の事もあるだろうけれどね』
生ハム専用ナイフを手にして、目を細める。
料理人の―――自分の仕事に"誇り"を持つ目となって、マーサは取り出したハムのスライスを始めようとする。
相変わらずの眼差しで、刃先とハムの断面を見つめているが、それ以外にも何かの"気持ち"を感じさせるものがマーサの中にあるのを、ピーンは感じとれていた。
マーサの手は身体に合わせたように小さく、肉付きは良いし、指先も丸く指も短い。
どちらかと言えば、見た目はとても器用そうには見えない。
しかし、見事にピーンが望んだように、形を崩すことなく、まずはハムを一枚、透けるような薄さでカットをして見せた。
(ハムの塊にナイフを入れる際に、左手の人差し指をナイフの峰にあて、ナイフを持つ右手は軽く左手の指に当てるようにして、幅の厚さ加減を左手の指で調節している。
成る程、指の動かし加減によって、微妙な厚さを調節しているわけだな)
それなりに器用を自負する賢者は、その料理人のテクニックを興味深く眺めていた―――が。
『領主様、アタシは魔術なんてもんからは縁遠い人間だ、精々竈に火をつける為にやっと覚えたぐらいだよ。
けれども、領主様が"ロックさんに心配をかけた事そうな事″。
その話をハムの切り方に注目して、うやむやに誤魔化そうって雰囲気はいうのはお見通しだし、気に入らないねぇ』
(見透かされているか)
彼女の求めている"一番安心できる領主様"の姿を、振る舞うための"仮面"をとって"冷たい"と思われても仕方ないような、そんな表情を浮かべる。
『ごめんよ領主様。こっちもそれなりに、"友だち"の話をしている時は、いくら"失恋から立ち直ったばかりのマーサ"かもしれないけれど、真剣に話して欲しいのさ』
左手の指で薄く透けるぐらいのハムの幅を決めたなら、マーサは目線は雇い主にも向けず長い刃先に沿うように斜めにして、ナイフが真っすぐ、薄く降りていくうよう、右手をゆっくり動かした。
手は丁寧にゆっくり動かしながらも、マーサの口は滑らかに動く。
『ロックさんからしてみても、"イタズラ好きな領主様"は"あり"だと思うんだよ。
もう10数年そうだった事だしね。
けれども、予告無しに徹夜をされたなら、ロックさんにとっては、それはきっと"ちゃんと休む"と一度は約束をしたのに、その約束を破られたようなもんにならないか、心配になるんだよ。
まあ、アタシの勝手な気持ちだけれどもね』
そんな風に言いながらも、真剣にマーサは、"友だちの為"に雇い主相手でも怒っていた。
―――マーサの心配なら、友人としてロックは気の済むまでしてやるといい。
そんな事を、昨夜、彼女の友だちに言ったことをピーンは思い出した。
(形やあり方はちがうけれども、マーサも"友を思う気持ち"は強いというわけか)
冷たいと感じられそうな顔に、優しい微笑みを浮かべる事を我慢しながら彼女の"友だちの話"の続きに耳を傾ける。
『ロックさんからしてみたなら、"大切なピーン・ビネガー様"が何よりだから、例え約束を違えたとしても、お小言少しあるだろうけれど、本当に怒る事なんて決してないだろうさ。
けれども領主様は"寝ている"と仰ってる事を信じていたロックさんの気持ちは、やっぱり無駄にしちまっている気もするんだよ。
同じような事を言うみたいになるけれど、イタズラ好きな領主様に慣れているいるとは言っても、ロックさんにしてみたら、領主様から言われた言葉は"信じること"しか出来ないのさ。
アタシからみたら、それが歯痒いんだよ』
そう言い終えた時、マーサはピーンの注文通り透き通るような薄さのハムを結構な量を切り終えていた。
でも、ナイフを握る料理人の眼差しは鋭いままだった。
『折角、信じて貰っているのに、それを無碍にするなという事か?』
自分がロックにしてしまっている事で、"一番申し訳なく思っている事"を、皿を出しながら口に出してみた。
『違うよ、折角気持ちが通じあってるなら、アタシはそれを末長く続けてて欲しいのさ。
アタシみたいに縁がないと判った途端に、大切に思える人を想う気持ちを忘れさる事で、逃げ出すみたいな事を、ロックさんにはして欲しくはないわけさ。
まあ、あの人なら逃げ出すとかの前に、"ピーン・ビネガー"を失ったなら、壊れてしまいそうな気がしてならないけれどね』
―――それは、私が一番良く知っている。
直ぐに浮かんだ言葉を、ピーンはマーサには出せなかった。
『はい、皿を渡しておくれよ。折角、我ながら改心の切り方が出来たんだ』
そこまで言った時、マーサは振り返りピーンが持っている皿をヒョイと取った。
その拍子に領主の顔を見たマーサは、苦笑いを浮かべる。
『……まあ、最後の言葉は余計なお世話だったみたいだね。気に障ったなら申し訳ないね、領主様』
マーサがそう言って、空いている方の手で眉間を指差した。
ピーンは僅かに驚きながら、自分の眉間に触れる。
(おや)
皿を離した後の、例の傷跡ができた人指し指でその場所を撫でたのなら、皮膚の隆起しているのがわかる。
いつの間にか、自分でも気がつかない間に眉間にシワを寄せていたようだった。
『そうだね、アタシ何かが心配する前に、"ピーン・ビネガー"って御方はなんやかんやで責任感の塊みたいな人だったね。
ロックっていう人の為に、結構な労力は、きっともう随分と割いてはいるんだよね』
マーサは眉間にシワを刻んだ当人すら気がつかない、"怒り"をしっかりと認識していた。
領主専用の広い皿に、このあと"友人"がサンドイッチを作りやすいように、厨房で支度した材料を盛っていく。
『案外、この世界には魔法なんて必要ないかもしれないね。
ちゃんと、互いに理解しようと努めたなら、案外どうにかなるもんなのかもしれない。
まあ、裏を返したら理解しようとしなったら、何もわかりあえることなんてないかもしれない』
『……マーサの方が、余程賢者みたいだぞ』
本心からそう賢者が呟いたなら、料理人は明るく笑った。
『それを言うなら私には賢者よりも、領主様が前に言っていた"れんきん"なんたらの方があってるんじゃない?。
確か、そっちなら何か材料さえあったなら、そこから何でも作っちまうんだろ?。
アタシゃ、食材さえあったらどんなものだって調理してみせるからさ。
……さてどうせなら、ハムは奥さま達にもお出ししようかね。
そろそろ朝食の支度を本格的に始めるから、デッカイ図体の領主様には出ていって欲しいんだけれどもね』
サンドイッチの材料をすべて皿にすべて載せてしまった時、マーサに指示された内容を終えた厨房見習いの少女は戻ってきていた。
ただ、察しの良い見習いの少女は背の高い"領主様"と尊敬する先輩が多少ピリリとした空気を漂わせているのに気がついて、足を止めてもいた。
そのピリリと空気を壊したのは、厨房見習いの尊敬する先輩だった。
丸い鼻から大きく息を吐き出して、いつも"粋"の雰囲気をマーサは振り撒き広げる。
サンドイッチの材料を載せた皿をググッと背の高い領主に差し出し、"注文"を始めた。
『昨日はアタシも色々あったから、よく理由は知らないけれどさ。
ロックさんは、ここに領主様が抱えて運んで来た時には、自力では動けない程疲れていただろう?。
今朝も、アタシはとやかく言わなかったけれども、体調は万全ではなかったんだろうさ。
顔色は、お世辞にも良いものじゃなかったよ』
マーサの言葉に背の高い領主は微動だにしないが、厨房見習いの少女に不思議と"賢そう"と感じさせることしか出来ない瞳を向けた。
そして、見習いの少女はその"賢そう"と見えるその瞳に見つめられたのなら、数十分前に訪れた、"顔色の悪かった執事さん"を思いだして素直に小さな顎を縦に振っていた。
すると賢そうな瞳は少しだけ翳り、背の高い領主は顔を俯かせていた。
だが尊敬する先輩はお構いなしに、差し出した皿を領主様に握らせた。
『けれども、体調は悪くても、昨日動けなかった分を挽回しようって気持ちが顔に溢れてたからね。
アタシも何時も通りに、"普通"にしておいてやったよ。
まあ、こちとら何時も通りに支度をしているだけの話だからさ。
だから、ロックさんの前では隈はもうは仕方ないとしても、それならいつも"徹夜あけのロブロウ領主様"であって欲しいんだよ。
顔色の体調も悪いかもしれないけれど、ロックさんにしてみたら領主様さえ"いつも通り"であったら、それでいいわけだからさ』
『いつもの徹夜明けの"ピーン・ビネガー"か。
さて、久しぶりだから思い出せるかどうか……』
ここで副竈番は大きくため息をついて、両手に腰を当てた。
『またふざけた事を言う領主様だよ!。
それこそ、さっき厨房にきたみたいな様子でいいわけさ。
副竈番に余計な気なんて使うから、徹夜明けの"怪しい賢者"の雰囲気が潜んでしまうんだよ。
さあ、さっきも言ったけれども、朝食の支度の邪魔だよ!。
出ていきな!』
ドンッと背の低い副竈番は背中を叩いたつもりだったが、背の高い領主は腰を叩かれて盛大にバランスを崩していた。
『おおっと!?』
皿に載せたサンドイッチの材料が宙を舞いかけたが、賢者は見事に皿の上で受け止める。
そうして、厨房を追い出されるようにしてロブロウ領主は、退出した。
少しばかりサンドイッチを作る為の材料を皿の上で乱れさせたが、
『作るのはロックさんだから、問題ないよ!』
と"見送りの言葉"をマーサから頂いて
『最もだ』
と、領主様が真面目な顔で、答えたなら厨房見習いの娘が思わず吹き出したところで、紅黒いコートを翻しながら、客人2人と自分の執事が待っている客室にピーンは向かう。
客室に向かう途中で、俄に自分の影の中が騒ぎ出すのを賢者は感じ始める。
『―――何だ、そんなに"私"のロックに堂々と会えるのが嬉しいのか?』
一応、牽制の意味も込めてつつ、力技で従属させるようにして"協力"をしてもらっている闇の精霊に賢者は、皿を抱えてたまま、足を止めて語りかける。
するとザワザワと"喜び"の気持ちを、ピーンに影の中の闇を通じて伝えてくる。
牽制の意味に"ロックはピーンという存在しか見ていない"というニュアンスの言葉をかけていたが、闇の精霊にしてみたら、執事の側に寄れる事になっただけでも十分、喜ばしいことらしい。
《エエ、ウレシイ、"アノ方"ソバニヨレル、ウレシイヨ》
拙い人の言葉を使いながら、"側"に寄れる事になった喜びの表現をする。
これまで十数年、闇の精霊からロックを理不尽と言ってもいいほど―――人でいう所の"暴力的"ともとれるようなやり方で、遠ざけていたのに、その張本人である賢者に恨み言の1つも伝えてはこない。
恨み言をいうより、ロックという存在に近づける"喜び"だけが闇の精霊の感情を占めているようだった。
(それだけ闇の精霊はロックという存在に惹かれているというわけなんだろうが……。
ロックは一体どの逸話の"器"になるのやら……)
絵本に歴史的価値のある記憶―――"情報"を吸われた自覚はしているが、どうやら賢者に"必須"となる情報は頭の中に止まっている。
お伽噺や、幻想の世界だと言われているこの世界の"始祖"の片鱗に触れてしまった"人"が、賢者となって、好奇心を満たす様々権限を与えられたと同時課せられる役目。
万が一にも"人の世界"を揺るがしかねない、存在を人の世界において、受け止める"器"になる能性がある人を"治める"のも賢者となった人の役目だった。
そしてセリサンセウムという国では、器にあたる存在の"飼い殺し"―――王都に幽閉するのが法令と定まっていた。
国を越えて活動ができる賢者の資格はあるが、自分が国から領地を預けられている貴族という立場と責任が、ピーン・ビネガーにはある。
立場―――自分の地位や面目なら、いくらでも捨てても良いと考えてはいたけれど、ビネガー家を信じて頼りにしてくれる領民を蔑ろにして、自分だけが自由を求める事はピーンには出来ない。
幸い、情報を際限なく集められる自由はある。
けれども、本当なら動き回って、自分の目で確かめる自由が欲しい。
もし領地を任される貴族ではなかったなら、器の存在の可能性があるロックを連れて賢者として、"飼い殺し"にはされない国へ、連れ出しだろう。
(まあ、貴族で領主でなかったら、ロックとの出逢う事も助ける事も出来なかった縁なんだけれども)
適当な答えすら出せないジレンマを抱えて、大切な人との出会いに"後悔"を滲ませいように留意しつつ、賢者は再び足を客室に向かい始めた。
向かえば、向かうほど多少仰々しくも感じる、闇の精霊のロックに対する"アノ方"という呼ばわりに、再び軽く警戒心が沸いてくる。
だが自分が、闇の精霊達の"憧れ"に近い存在に近づく邪魔をしていたと思うと、少しばかり仕方ないとも思える。
(時間の概念も、感覚の価値観も、人と精霊は違うってのは解ってはいるが……。
余り陽のある時間に出たがらない精霊が、ここまで"嬉しい"って気持ちがここまで伝えられると、遠ざけていた私が、野暮でしかないって感じになるな)
苦笑いを浮かべつつ、少しばかり騒がしい雰囲気が、"風″に乗って伝わってくる。
『おっ、この感じは?!』
ピーンが幾分慌てて瞬いて、魔力を使って"視界"切り替えたなら、久しぶりとなる精霊達の姿が瞳に映った。
《クスクス、久シブリネェ、何カ楽シイ事ガアリソウネ》
緑の透ける幼女のような姿をした、大きさは賢者の掌より小さい精霊が連れだって、"イタズラ好き"の領主を見つけて舞ってやって来た。
『おっ!?3週間で、戻ってきてくれたか。ありがたい』
クスクスクス、と再び風の精霊達が笑って、賢者の耳元で小さく楽しそうに"ある事"を囁いた。
『成る程、ある意味"グロリオーサ"は責任をとったというわけか。
なら、私も"更に"けしかけないといけないなぁ♪』
賢者はニィイと笑って、足元の闇の精霊達と同じように、上機嫌の表情を浮かべる。
そのピーンの浮かべる笑みと"イタズラ心"感じ取った風の精霊達も、同調するが如く更に自分達が見てきた話を囀って、賢者の周りを舞っていた。
(まあ、私の守る土地の精霊達を吹き飛ばした事は"貴方の恋の話"でチャラにしようか、グロリオーサ"殿下")
ピーンがグロリオーサと、領地ロブロウの自慢の渓谷において初めて対面し、挨拶も何もなく続けるようにして、死闘に近い戦いを行った時。
ロブロウ領主は、力業では到底敵わない相手に、精霊術を行い自分の土地にいる、ありったけの風の精霊達に助勢を借りていた。
助勢の代償に、賢者は自分の身体にあるだけの魔力を繰り出して、ロブロウの領地中にいる風の精霊を集めた形になった。
そして鬼神と例えられる人は、戦いにでは親友から指示されたとおりに戦う。
《貴方の詳細な正体を知っている存在の命を奪いなさい》
という、中々物騒な親友の言葉に従い、人であるピーンを断ち切り、そのピーンが呼び出し、守護する精霊達を、容易には再び具現化出来なくなる程の力でグロリオーサは吹き飛ばす。
結果は"賢者"の騙し討ちみたいな形で、辛うじてピーンは勝利をおさめた。
ただし、吹き飛ばされた精霊が"滅する"という事はないが、人が呼び掛けても反応が出来ない―――平たくいったなら、精霊術を会得している人が、″視界″を切り替えたとしても捉える事が出来ないほど、細かく粉砕されてしまっていた。
一応風の精霊が再び形を取り戻しやすいように、且つ、グロリオーサと死闘を行った事で風の精霊が"不在"になったことが色んな方面にばれないよう、ピーンなりに画策して呼び戻す為の簡単な"呪い"を行っていた。
幸いになのは、風の精霊を頼ったりする農作業が少ない時期でもあったことだった。
加えて日常的に頼っている、火や水や土の精霊は、普通に助勢をしてくれていた。
ただ不思議と思えるのはピーンが思っていたよりも早くに、風の精霊たちは姿を取り戻してくれたことである。
早くに形を取り戻してくれたことはありがたい事この上ないのだが、あと2週間は時間がかかることだと、賢者は予想していたのだった。
そんな疑問を抱く賢者に、風の精霊達はまたクスクスとイタズラっぽく笑う。
(もしかしたら、トレニアの事もあるだろうが……グロリオーサが、マーサの事に関して恋を意識してしまった事も関係があるか)
ピーンとグロリオーサの戦いが終わった時。
鬼神と呼ばれる男は、様々な人を敵を切り伏せ、血を吸っているであろう王家の装飾が設えられた彼の武器を手放したなら、渓流に集まっていたありとあらゆる精霊が彼に興味を引かれて集まって来ていた。
火の精霊を引き寄せる強さ。
水の精霊を引き寄せる優しさ。
土の精霊を引き寄せる逞しさ。
彼はその全てを携えている、カリスマ溢れる"人"であった。
(考えたら私が風の精霊を具現化する前に、散々他の精霊に呼び掛けてくれたの風の精霊だったな……。
どちらにしろ、グロリオーサは精霊に興味はないが好かれやすい体質であるというわけだ)
グロリオーサが精霊を引き付けやすい事が、粉砕された風の精霊の形を元に戻す要因なるのはわかったが、ピーンからしたら、理由としては"まだ弱い"。
(もう一馬力、風の精霊が喜びそうな因子があったなら、納得が出来るのだけれども……)
皿を片手に抱えて、顎に手を当てて賢者が首を傾けた時。
―――グロリオーサ、一体どうしたんだというんですか?。
―――髪が絡まりでもしましたか。
風の精霊が扉の向こうから客人の一人の声を運び届けてくれて、ピーンは風の精霊が形を戻すのが早まった理由の合点がいった。
『成る程。思えば、最高に恋の気持ちを起こしやすくなる人が、ロブロウに訪れていたな』
風の精霊が運んできたのは日に焼けた褐色の肌を持ち、賢く秀麗な美丈夫、アングレカム・パドリック。
ただし、迷子グロリオーサのお迎えにきただけの客人アングレカムに纏わる全ての恋は、実らずに終わってしまっていた。
(まあ、実らないにしても、失ったとしても、"恋"は"恋"。
風の精霊にしてみたら、そんな人の感情の流れがあったら、引き寄せられるってわけだし)
どちらにしても、ロブロウから一時的に離れようと考えている賢者には、恋も"情報伝達"の役目を担う風の精霊が、こうやって戻ってきてくれた事は、有り難かった。
『―――とりあえず、相性は悪いかもしれないが、早速力は貸してもらうぞ』




