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【昔話 兵(つわもの)の掘る穴ー真実その2・後編ー】

『私は賢者と共に、実はもう1つの銘を貰っている。

"深謀遠慮(しんぼうえんりょ)のピーン・ビネガー"』


『しんぼうえんりょ、ですか』

勤勉な少年でも、聞いたことがなかった言葉だった。


賢く勤勉である少年ですら耳にしたことがなかった言葉だと、気が付いた賢者は小枝を拾って異国の文字とこの国の文字を並べて地面にザッと音をだして刻み記す。


遠謀深慮(えんぼうしんりょ) とも言う事もあるらしい。

賢いロックなら判ると思うが、この異国の四文字を砕いて意味を繋げたなら察しがつくだろう。

意味合いとしては、"遠い将来のことまで考えて周到に謀りごとを立てること"。

そんな意味合いの"銘"くれるなら、私には短く簡単に"老獪"って言葉が好きだし合っていると思うんだがなぁ。

流石に成人もしていない小僧に賢者の資格を得たばかりの若造に、老獪を名乗ることは国に許して貰えなかった』

そう言って、地面に文字を刻んだ小枝を放って、朝食のパンを再び手に取った。


ロックは主が刻んだ言葉を真摯に見つめ、意味も"初見"なりに理解してからまずは深々と主に向かって(こうべ)を垂れる。


『旦那様が、わざわざ伏せていらっしゃる"深謀遠慮の賢者"という名前を持っている事、私に教えていただいたのを感謝いたします』

感謝をされるという言葉を聞いて賢者は笑いを浮かべ、少しばかり残っていた朝食のパンにかぶりつく。


『感謝されるとは思わなかったな。

単に大仰過ぎて好みではないから、深謀遠慮の名前は、老獪を名乗るのを許されるまで黙っていようと考えていただけだから』

照れ隠しも含めてモゴモゴと口の中で、パンを()みながらピーンは執事の言葉に応えた。


『そんな風に人にしても自分の事にしても、"気持ち"を第一に考える旦那様が、自分の好きではない事――、ピーン・ビネガーという人の気持ちを(ないがし)ろにしてまで、どうしてもう1つ名前の意味を、私に教えてくださったんですか?』

賢い少年は、判らないところだけを真っ直ぐに主に尋ねる。


依存という忠誠をする執事は、主が"執事のロック"を大切に思っているからなんて塵ほどにも思わない。

そんな様子は、執事を大切に考えている"主"に切ない表情を浮かばせる。


『別に、自分の気持ちを蔑ろにしたつもりはないんだけれどもなぁ』

笑いを"苦笑い"に変え、本当に不思議そうな真っ直ぐな少年の眼差しを何とか受け止めた。

大切な執事を、頑是無い弟を見守る兄のような気持ちになって、正直な気持ちを伝える。


『ロックに教えた理由は1つ。

ロックという"人"に、心を自由にする(すべ)を教えておかないと、遠い、随分先の未来にはなるんだろうけれど、"取り返しのつかない事が起きそうだ"。

と、深謀遠慮の賢者は考えが及んでしまったからさ』

『―――え?』

この賢者の言葉には、ロックは本当に当惑するしかできないが、ピーンは自分の優秀な執事に語り続ける。


『ロック、お前は闇の魔術に関していえは、既に私の闇の精霊術より上回っている。

優秀という言葉も、本当は妥当ではない。

もしも、広い意味で一般的にお前の闇の魔術の力を言葉で表現するのなら、"天才"が一番相応しい。

言っておくが、魔術の師匠としての贔屓目でも、佞言(ねいげん)でも偽りでもない。真実だ』

きっぱりと言い切るピーンの顔に朝陽が、当たり少しだけ影が出来る。


いつも光ばかり当たる主の顔に出来た"闇"にも、主を越えているという"真実"にも少年は軽く怯える。


『そんな、私が旦那様を越えるなんて』

急速に不安が"闇"となって、朝陽を浴びることで更に出来た足元の影から、ロックの心と身体を捕らえようとした瞬間。


ロックの影の"闇"をピーンが立ち上がり、踏みつけ、背の高いピーンにしてみれば頭2つぐらい背の低い執事の頭を撫でた。

最近では眠っている時以外では、中々見せない無防備な表情で、ロックは主を見上げる。


『安心しろ、あくまでも越えているのは闇の魔術だけであって、他は私には全く(かな)わん。

例え戦ったとしても、余裕じゃあないが、賢者の私がお前に負ける事はない』

不貞不貞しくも感じる程のピーンの態度で、強烈な"光"のように強い個性の前で、ロックを取り込もうとした"闇"は、影の中に素早く身を潜めた。


隙あらば、闇の精霊達は親しみをもった人でさえも取り込み、"永遠の安らぎ"へと繋がる"死"へと誘おうとするのを賢者は知っているし、それをロックにも教えていた。

口には出さないが、大切な弟とも思っている執事の少年の為に、自分が精霊術を使う事に不具合が起きようとも、これから取ると決めた"予防策"に容赦はピーンはしないつもりだった。

闇の精霊の加護でもある"安らぎ"が、自分の人生から薄くなる事が承知の上で、闇の精霊に愛されるロックを、最も闇の精霊と同化するように精霊術を使える場所から、引き離す為の言葉を吐き続ける。


『今のお前は、闇の精霊とほぼ同化するようにして、最大限に闇の力を使えている。

しかし、それでは万が一闇の精霊の術が使えない状況の時に危うい』

嘘に"真実"を滲ませて、今まで闇とロックと築き上げてきた関係を"壊す"。


『―――その危うさが、いずれ大変なことに繋がるというのですか?』

このロックの質問には、声も出さずに賢者は頷いた。

無条件に自分の事を"信用"してくれる、少年の気持ちを狡猾に利用する。


『闇の精霊と共鳴するあまりに、お前が命を落としてしまうかもしれない』


これは、"嘘"。


『私は、お前に命を落とすかもしれないような、大変な目に遭って欲しくはないんだ』


これは"真実"。


きっとこのままでも、天才であるロックは闇の術の特性を十分に理解して、世界に名を残すような魔導師になれる道があると賢者には解る。

そうなってしまう事で、彼が"闇"を象徴とする存在に"見つけられて"、引き込まれる可能性が格段に上がる事も"賢者"になってしまった自分だから判る。

お伽噺や、幻想の世界だと言われているこの世界の"始祖"の片鱗に触れてしまった"人"が、賢者となりうる資格の内の1つだった。

万が一にも"人の世界"を揺るがしかねない、存在に出逢ってしまったならそれを"治める"のも賢者となった人の役目。


それ故に、ある程度国の垣根なく自由に動き回れる。

大地に線を引いて、"ここがうちの領土だ"なんてしても、その時がやってきてしまったのなら、国も領土も関係無く"人の世界"は――――。


『―――旦那様、それでは私はどうすればいいんでしょうか?。

私は、自分でも判っているぐらい旦那様に、ピーン・ビネガーという人に、依存しています。

その依存の力が、闇の精霊術の力を上げてくれている事も、存じています。

ただ、依存しているなりに、私は努力を』


『ああ、それは知っている。

お前の依存は、見方によってはもう病といっても良いかもしれない』

"病"という言葉に、ロックは唇を咬んで哀しそうな瞳で主を見上げた。


しかし、その哀しそうな顔に賢、者はそっと大きな自分の手を添えた。

"手を添えられる事は意外だった"といった様子で、ロックは思わず顔に添えられたピーンの手を横目で見つめ、そんな視線に構わず、賢者は話を続ける。


『人って奴は、"病"や"怪我"をして"障がい"を感じてから初めて"普通"の有り難みを判る、学習能力が中々低い生き物でもある。

時には病に出逢えた事で、気づけた事に感謝してしまうものもある。

ロックは私に、感謝する事を教えてくれた、大切な"病"だ』

ギュッと家族にもあまりした事も、された事もない抱擁を、ロックにして言葉を更に続ける。


『私は、感謝をする事を教えてくれた"ロック"という病と、これからも上手にやっていきたいと考えている。

出来れば、病と知っておきながらも注意さえしていれば大丈夫みたいな、そんなお前との人としての"縁"を続けていきたい』

これからも、家族みたいに思える大切な人と、同じ時間を過ごしたいから。


"大切な人の、未来ある大きな才能の芽を摘み取ろうとする所業を、神様、どうか赦してください"

信仰心が余りない男は、朝陽を浴びながらこの時ばかりは"赦し"を少しだけ願った。


"深謀遠慮の賢者ピーン・ビネガーとして、ある"予測できる未来"をありのままのを伝えたのなら、もしかしたら、思慮深い執事の少年は自分から、命を絶つ事を選ぶこともあるかもしれない。


遠い先を見越す賢者として、世界を揺るがす存在の"器"に成りうる存在――ロックを見つけてしまった事を、本当なら国に報告しなければならなかった。

けれどそれは"可能性"があるだけで、もしかしたら"その時"は、器が人として一生を過ごす間には訪れないかもしれない。


そんな期限の判らない"時間"の為に、1人の"一生"を無駄にさせるのは、ピーンには悔しくて堪らなかった。

だが"歴史から考える賢者"としては、ロックの事を国に報告するべきなのだと、理性が言う。


(―――どちらも、丸く治めたいというのは、力を持たない者が考えるのは"傲慢"か)

抱き締められて、固まってしまった少年と未だに"人の才能を摘む"という行為に躊躇いが拭えない2人の間に、穏やかな風が吹いた。


そして風に乗って、ある音が聞こえてくる。


"それでも、いいじゃない" 

"ゲコっ"


『ん?』

『カエル、の鳴き声でしょうか?』

その音で互いに自然に体を離し、賢者には少年の、ロックにはカエルの鳴き"声"が不意に聞こえて、少しの時間が流れて"間"が開く。

そしてその間は、落ち着きを賢者に与えていた。


(ロックには、カエルの声しか聞こえていなかったのか)

"それでも、いいじゃない"


不意に自分だけには聞こえた先程の言葉は、もしかしたら与えられる赦しの言葉より、余程ピーンの心を軽くしてくれていた。


『あの、旦那様。お話の途中ですが、私からも一言、言わせてください』

ロックも、まるでカエルの鳴き声に触発されたかのように口を開く。


『旦那様は、私に闇の精霊術のには天才の素質があると仰ってくださいました。

きっと旦那様が仰るのなら、それは本当の事でしょう。

それでも私は世間様に"闇の精霊術の才能が天才"と言われるよ声よりも、

旦那様に「ロックがいると助かる」とか「ロック」と、

私を必要としてくれる声を聞いている方が良いんです。

私は…ロックという"僕"個人は、病と言われたとしても、自分の生き方がピーン・ビネガーに依存にまみれているようだと、周りに謗られても、それが一番幸せなんです。

それだけで、いいんです』

ロックのその言葉を聞いて、ピーンは今まで躊躇いに躊躇った"才能の眼"を摘まみあげる行動をやっと起し始める。


頭の中に(いにしえ)に絶えて使われなくなってしまった言語達を羅列させて、必要な言葉を拾い上げて、発音すら忘れられた言葉で"ある物"を使うために、この世界に呼び寄せる。


―――最後の確認を、忠実過ぎる執事にした。


『―――じゃあ、私は今から、あらゆる事態を避けるために、お前にある処置を施す。

それは、今までお前が魔術に関して学んだ全てを無駄にする事になる。

魔術にしても精霊術にしても、1からやり直す事になるが、いいか?。

せっかく、ここまで学んできて成長した技術を全くの無かった事にするが、それでも』

尚も確認するような主の言葉の途中で、ロックが口を開いた。


『構いません。私は、旦那様の傍らに立って、役にたてるだけで、それでいいんです。

だって"ビネガー家の執事のロック"が、私の一生だと自分で選んだのですから。

執事は、旦那様の世話を焼いたり、そのご家族のお世話をさせて貰うのが務め。

いくら魔術の1つに天才と言われる才能があったとしても、無駄なだけですから』

潔すぎる自分の執事の言葉に主人であるピーンの方が、恐縮してしまう。


苦笑する主を見て、執事はまた安心を感じさせるような穏やかな笑みを浮かべた。


『僕は…私は、貴方から大切に思われた事だけで、それでもう十分、"居場所"がありますから』

―――パチンっ


賢者の指が弾ける音が響いて、2人の立つ足元に五芒星が浮かび上がり、そこから強烈な風が吹き荒れ、朝食に使われていた食器や焚き火は吹き、消し飛ぶ。


『お前の才能を"パンドラの匣"にしまわせて貰う』

パチン、パチン、パチン、パチン、パチン、パチンとピーンは今度は6回指を弾くと、続いて2人の足元に浮かぶ五芒星の中に六芒星の図形が、浮かび上がる。


吹き出すように荒れていた風の動きが、今度は逆に吸い込む形になり、そしてその力は主に執事の少年に対して向けられていた。


『んっ!!』

少しだけ苦しそうな声を、ロックがあげると同時に、執事の少年の身体から黒い(きり)とも(もや)とも見える、闇色した物がまるで下にある2つの魔法の図形によって吸い出すようににして、吸引されて行く。

それは苛烈な竜巻がまるで逆に作用するような形で、ロックの身を包んでいた。


『ううっ』

両腕で自分を抱き締めるようにして、吸い込まれ、奪われていく自分の力に堪えきれず、声を漏らし、ロックの持っていた闇と共鳴する力――"才能"が、吸い込まれ"仕舞われて"いく。


そのロックが苦しむように見える様子に、朝陽を浴びて出来た影の中から闇の精霊達が、"友"を苦しめ、奪わんとする(かたき)を見るように、恨みがましい念を一斉にピーンに送っていた。

その様子をチラリと振り返り、ピーンは薄く笑う。

闇の精霊は、ピーンからの笑いにはっきりと怒りを覚えていた。


(私の人生に"闇からの安らぎ"はもう最後の時ぐらいしか貰えないだろうな)

遠い未来に、きっと安らぎ少ない日常に疲れる時もあるだろう。


それでも"大切な人"を守る手立てを何もしなかったと、後悔するよりマシだと、術の仕上げにまた指をパチンっと弾いた。

下の2つの図形から尚一層強く吸い込む風がロックに向かった。


『だ、旦那様』

主から施される未知の魔術に、ロックは怯えるような瞳になり、手が伸ばされてた。

その手を、躊躇いなく掴んで自分を見詰あげる執事に力強く頷いてみせる。


『大丈夫、ここにいる』

主の言葉を聞いた瞬間に執事が心から、安堵した微笑みを浮かべると同時に、一番"大きな影"が少年の背面からズッと出てくる。


かつて蔵の中で見かけた、古に神と扱われて、世界を作られる際に"人の都合"だけで"泥を被った"存在。


(もう目をつけられていたか)

焦りが賢者の中に走る。


しかし、ロックに潜んでいたであろう一番大きな影は、意外な程あっさりと下の魔法の図形に"仕舞われる"。

拍子抜けする程のあっさり具合に、ピーンは思わず気が抜けそうになった。

ただ、ロックが自分の中にある"才能"を吸い込まれる事に耐えきれずに、手を繋いだまま、未だ魔術の図形が浮かんでいる地に膝をついたので慌ててその肩を支える。


(何も抵抗なく"仕舞われて"くれたのは有り難いが、あれ程の力がこうも簡単になるものか?)

術の道理の知識だけはあったが、こうやって実践するのは初めてなので、"パンドラの匣"という魔術の"規模"がピーンにはわからない。


《世界から全てを包み隠し、切り取る術》

その"あらまし"や行う為に唱える文言や起こりうる結果を記されてはいる魔術書は、しっかりと読み込んだ。


そして、魔術書には術の行程に起こりうる現象やその後の副作用の説明は記されていなかったから、何かが間違っていたりとしたとしても、それはピーンには分からなかった。


(術の稼働具合は分からないけれど、これで、"器"としてのロックの才能を"匣"に封じ込めた事は確かだ)

どうやら気を失うまではいかないまでも、ロックが体力を相当消耗しているのは見てとれる。


困憊(こんぱい)してしまった執事の少年を支えながら、常にロックの周りいた闇の精霊達の気配が全く感じられなくなって少々人の悪い笑みを賢者は浮かべた。


(これで"匣に隠す"――"才能を喪う事"で、人の世界の都合においては、一生涯を幽閉されるような人生を避ける為の"逃げ道"は造られた)


『ロックが魔術をやりたいなら、また、最初から丁寧に魔術の1から私が責任を持って教えてやる。

ただ、今度は恐らく前みたいに、簡単には魔術を身につける事は出来ない。

それでも、いいか?』

小さく耳元で呟くと、執事は疲労感に瞼を閉じたままだが、ゆっくりと頷いた。


素直な反応に、胸が傷んだ。


(本当はゆっくりと"依存"から解放して、"闇の精霊と袂を別つ"とするというのが、真っ当なやり方で、ロックにとっても最良な方法だったんだろうが)

その方法をとれば、時間は数十年必要とするが、闇の精霊術の"天才"と呼ばれる程の腕前と"器"としての"条件"を穏やかに手放す事が出来ていた。


時間も手間もかかるが、それまで学んできた魔術や精霊術の習熟はロックの中に残り、天才とはいかないまでも"秀才"と周りは確実に呼ばれる腕前は残せたはずだった。

魔術の技術が残っていたのなら、依存とい病を退けて、ロブロウ領主の館の執事を辞したとしても、その身1つで、王都でも他国でも、充分に重宝がられるものとなっただろう。


ただ匣に才能を仕舞ってしまった今、それはもう"出来ない話"になってしまっている。

しかし、ロックが抱えている"才能"の闇があれ程大きな影をだとは賢者にも正直予想外だった。


(寧ろ、最も迅速に――"世界"から"器"としての目を誤魔化すには、"匣の中"に隠してしまうのが、最良だったという事か)

ピーンが指を弾いて、地面に浮かんでいた魔法の図形はスッと消えた。


"匣"の蓋は閉じられた。

先程の荒れ狂い、吹き荒ぶ風があったのが嘘のように、穏やかな朝の風景に戻ってきていた。

それでも暫くの間ピーンは神経を研ぎ澄まして、周囲に異変がないか探っている。

知っていたとはいえ、初めて行う"術"であるので、油断は決してしない。


(最初、会った頃には気がつかなかったが、国は…国王はもしかしたら"器探し"を始めていたのか)


"器の周りでは、―――が死ぬ"

記憶の思い出に空白を確認して、眉間の間に深い筋を刻む。



(ああ、駄目だ。思い出せない)

思い出せない事で、賢者は"時代"が動き出してしまった事を自覚する。


嘗て読んだハズの文献をどうしても思い出せず、額に筋を刻んだままで軽く舌打ちをした時、魔術の才能を吸い尽くされた自分の執事が小さな呻き声を出した。


(っと、それよりも私にはこちらの事がある)

ピーンにして見れば大切なのは、"世界"という大きな(くく)りも大切だとは思うが、目の前にいる存在に重きを置きたかった。


過去の歴史から、形や伝承の形を変えながら"続けられた悲劇"が"今"という時代に、花が(ひもと)くように始まろうとしているのがわかって、胃の中がズンと重くなる。


(身近な人を助けるのなら、手の込んだ方法で細かく配慮も出来るが、世界や国なんてだだっ広い、形を掴めない、物を助けを求められてもな。

何より"器探し"が始まっていたとしたのなら、世界はこれから恐らく…)

"器"の1つ(かもしれない)人を賢者が保護して、数年という時は過ぎてしまっていた。


暗雲と例えないような不安が賢者の心を満たすが、"たった一人"ではどうにもならない事は分かっている。

人には"推し量れない時間"は、もう動き出していた。

そして大きな不安となる現象は、人には解りにくい程緩やかに進む。

殆どが気がついた時には手遅れか、坂から転がり落ちる石の最後のように、ぶつかり落ちて砕けるまで事態は多分止まらない。

これから起こる出来事を、はっきりと明言する事は出来ないけれど、ただ世相が暗転していくだろうといけは判る。


(だが、"器"が世界に現れる事と、世界が"動き出した事態"とは別物の筈だ)

考えを纏めようにも、まだきっとこの国の誰もが、動き出した事態には気がついてはいないし、情報が少ないと思い至った時、不意にとしてある人達と、かけられた言葉を思い出した。


《あなたが"見てしまった"の物の中に、この世界の成り立ちが仕込まれているそうですから》

(あの二人なら、気がついてはいても可笑しくはないか?)


かつて自分に旅に出るように唆した、美しい軍師とその"盾"を名乗る大剣を持った大男を思い出した。

(水面下で動いていいるという事なんだろうか?)


『旦那様…?』

前のように、魔術の力――特に闇の精霊術の力を使って行われた"読心"が出来なくなってしまっている困憊の少年から声をかけられる。


そして自分の中にあった溢れるような魔力が、本当に微塵もなくなってしまっている事にロックが"怯えて"いるのがピーンにはわかった。


《きっとその内、私とマクガフィンのように貴方も、"外に出なければ出会えなかった大切な方"が現れる事でしょう》

もう1つのかけられた言葉を思い出して、ゆっくりと微笑んだ。


(今は、私にだけ出来る事に向かい合うべきだな)

『ゆっくり休んでから、ロブロウに帰ろう、ロック。

実は私も初めての術だったから、疲れてしまったんだ。

多分、これからは、色々と"大変"だから、今日だけはゆっくりしよう』


『はい、旦那様』

困憊しているのに関わらず、穏やかな笑みを変わらずに浮かべてくれている執事に、心から感謝して、深謀遠慮の賢者ピーン・ビネガーは、そうやって"自由な時間と別れ"を覚悟する。


領地に戻り、礼儀正しく控えめな執事の少年は保守的なロブロウの民には、何ら滞りなく受け入れられた。

ここでピーンにとって意外だったのは、魔術の才能がない事――極めて初心者に近いロックの状態が、領民の好感を抱くきっかけになった事だった。


その頃は見習い執事として、先代のビネガー家の家令(かれい)を務める人物から全ての仕事を教わり、自分に与えられた仕事をこなした上で、出来た余暇の時間にピーンに魔術を教わっていた。

本当なら才能がある幼子がするような、一般的にみたのなら稚拙にも見える魔術の修練を、後数年で成人するという少年が懸命にやっている姿に、心を解されていく。


"命を助けて貰った跡を継いだばかりの領主の恩に報いたいから"という理由があると聞くと、保守的ではあるが義理人情が大好きな領民からは、始めからロブロウにいたようにも、ロックに接し始めていてくれた。


そして"散らかし魔の跡継ぎ"の世話を本当に上手くやいている様子には、屋敷のメイド達からの好感度をしっかりと上げていた。

そうやって短い時間でロックが屋敷や土地に馴染み始めた頃、前々から取り決められていたピーンとカリンの挙式が執り行われる事になる。


この婚儀に関して言えばどちらかと言えば、忙しいのは"花嫁"の方らしく、ピーンは仕事の合間に執事としての役割を果たすロックから、精々婚儀の確認の書類を渡され、サインするぐらいのものだった。

ピーンの領主就任も兼ねた、婚儀は花嫁の緊張を解きほぐそうとピーンがイタズラをして、カリンに尻餅をつかせてしまい、ロックから怒られる以外は、本当に良い挙式となったのだった。





時間は穏やかに過ぎて行き、ピーンも表面上は"何も世情には興味がない"と振る舞いながらも、賢者の資格でもって集まってくる、セリサンセウムという国が傾き始める情報に"深謀遠慮の賢者"は胸を痛める。

それは嘗て肖像画を頼んだ絵描きのカラーから、送られてきた書簡にも表現されていた。

"突然に国の、特に王都での監査が芸術品に関して厳しくなりました。

肖像画を描き上げはしましたが、そちらに送るにあたって検査があるそうです。

個人的に変な胸騒ぎがして、難癖をつけられるといけないので、こちらで保管しておきます。

申し訳ありませんが、御了承ください"


『―――懸命な判断だ、絵描きさん』

(もう、"芸術"にまで縛りを求め始めたか)


集めた情報からも、本当に些細な事から国が国民の"権利"と"自由"をジワリジワリと奪っていくのが分かる。

この"事態"を察し初めてのから、チラホラと目立ち始める白髪がある髪を書斎で掻き上げながら書簡をたたみ、机にしまう。

机上に集めた資料を乱雑に広げて見る限りでも、自分が旅に出た時ぐらいから、国王は最初は理解が少ないが、愛好者がいるものを規制を始めていたのが判る。


理解が少ない分、規制をかけるにしてもするのにしても比較的に労せずに出来たと、報告には載っていた。

国民がそんな事もあったと忘れた頃、同じような規制を僅かに度合いを強めて続けていくのを繰り返している。


(悪い意味で、本当に国民の身動き取れないように奪っていらっしゃりますね、"国王陛下")

代替わりをしたばかりで、ピーン自身は未だに国王の顔を拝謁をしたことがない。


幼い頃に配られた何かの祭りの時に画かれた、束の間にだけ見た国王の肖像で、優しそうな顔の作りながらも、鋭い目元だけは何となく覚えていた。


(絵でも、鋭さと賢さは子供なりにわかったな)

そんな国王がいるらしい王都では、幾らかの賢い"不満分子"も出てきている様子もあるが、動きは鈍いらしい。


真綿でじわじわと締め付けられ、"躾られた"国民には悪政が王都で行われているとは気がつきにくいのかもしれない。


(心的飽和と近いものがあるかもしれないが…国民の生活水準を下げずに、"自由"というなの"自分で考える"という思考だけを上手く手綱を握っているわけか)

不満やストレスが人を動かす原動力となることもある。


しかしある程度の水準を満たされ、"酷く飢える"という体験だけはさせない。

そんな中で、年月をかけた色々な規制で作り上げてしまった事で、単調な日常国民に繰り返させる。

何も悪い事は起きていないが、反復的な日常の状況に対し神経的に不安定になる。

経験的に感情に沸き上がる気持ちはは,"はかどらない”又は“うまくいかない”というような状態を維持し続ける。


それは怒り、遂行能力の低下、又は疲労感,並びに日常において"考える事"に直面した時に逃避傾向を促していた。

厳密にいえば違うのかもしれないが、心的飽和の場合には,活性化の水準は変化しないか、又はかえって上昇するが"否定的な感情"が伴う事を国民に与えてしまう事になる。

それは"良くない事"だとは判るが、宮仕えをしているわけではない立場としては、言い出しづらい事もあった。


(決定的な事が起こらないと、動き出すための"大義名分"には弱いしな)

机に投げ出しているペンを手に取り、器用にグルグルと廻し始める。

ペンの(きっさき)のシュッとした音をたてながら残す残像が、円周の線を浮かべるのを眺めながら賢者は更に考える。


(国民が不安になり落ち着かない日々があり、それが"日常"と見るのはおかしいと"賢者"としてなら、宮仕えをしておらずとも、国王に進言をしてもなんら障りがない。

しかし、ロブロウの領民は賢者である前に、領主である私が"でしゃばる"事は嫌がるだろうなぁ…)

そこまで考えた時に、指が気持ちを汲み取ったよう乱れた。


『あっ』

それまで見事に廻していたペンは、回転の遠心力の勢いに乗って余裕で扉の方に飛んで行ってしまう。


しかし、それなりに広い領主の書斎の中程で止まって、カタリと音を出して落ちてしまった。

落ちたペンを見てから小さく溜め息をついて、白髪のチラホラある頭をくしゃりと上げ、資料が乗ったままの机に突っ伏した。

集めた資料が、カサカサと紙の独特の音を立てて机の上から落ちる。


(―――良い意味でも、悪い意味でも、保守的過ぎるんだよなぁ)

ロブロウという領地は田舎ではあるが、そのお陰で王都から出される規制があったとしても比較的緩い。


しかも領主が自分でもあるので国から布告された規制の網を掻い潜って、領民に余り縛りのない"日常"を与える事が行えていた。


(―――私には精々、ロブロウという小さな"国"を守る事に専念するぐらいが妥当なんだろうな…)

そしてピーン自身も"でしゃばる"事が、好きではない。


("賢者"にならなかったのなら、絵を描いて、それなりに領主してで、時代やらそんな事を考えて今みたいにウジウジしなかったかな?)

その時、ドアがノックもされずに開かれた。


『旦那様、カリン様がお茶を一緒にしましょうとの事です。

それと、旦那様の書斎をみたいという事でお連れしました。

そして相変わらずお仕事は早いですが、散らかっておりますね』

立て続けにそんな事を言う執事の後ろに、黒髪に溶け込むように緑が入った、気の弱そうな自分の妻がいるのが気配で判る。


執事であるロックには、ノックをしないで主の部屋を開ける権限を与えているので、ピーンは資料だらけ机上からもそりと頭を上げる。


『―――お茶は気持ちがスッキリするのがいい。

この前教えてくれて呑ませてくれた、べるがも?って奴をくれ、カリン。

あとペンを落としたから拾ってくれ、ロック』

『ペンは拾っておきますし、机の整頓をしますので、旦那様はカリン様…奥様をエスコートして、お茶を中庭で召し上がってきてください』

ロックが苦笑いしながら言った後に、自分の後ろに隠れている主の妻となるといっても、執事より年上ながらもまだ少女と言っても良いぐらいのカリンに、穏やかで優しい笑みを向けた。


その穏やかな執事の笑みに勇気付けられたカリンは、小さな口を懸命に開いて可愛らしい声を出して"夫"を誘う。


『あの、領主様。マーサが茶菓子も用意してくれるそうです…良かったら、その…』

口は懸命におずおずと開き、可愛らしい声もピーンに届いた。

ただ髪と同じ色をした瞳はとギュッと閉じられて、執事の影に隠れているので、領主と執事は視線を合わせてから笑った。


『そうか、カリンの茶も旨いだろうが、マーサのお菓子も楽しみだな。

じゃあロック、片付けを頼む』

『畏まりました』

入り口で一度恭しく頭を下げると、カリンに断りを入れてからロックは領主の執務室であり書斎である部屋に入る。

丁度ロックがペンを拾った時に、ピーンは椅子から立ち上がり伸びをする。


(確かに国は悪い方に行っているし、ウジウジしている自分は嫌いだが…)

この"時間"は悪くないともピーンは思う。


最近ロブロウにやってきたロックと、嫁いできたカリンは互いに新参者という事もあって気があって"仲良く"やってくれているので、ピーンにもそれは有難く、嬉しい事だった。


ただ召使いでもあるロックと妻であるカリンが仲が良いのを領主が良しとしても、閉鎖的な土地柄でもあるロブロウの一部の民は冷ややかな視線を投げ掛けているところもある。


いくらまだピーンが成人したばかりで、夫人の方は成人に満たない、親同士が決めていた縁組みでの幼い妻とはいえ、同性の使用人のメイド達と仲良くなることもせずに、優秀ではあるが年も近い、異性のロックと行動を共にするのをくちさがない者が、早速変な話を流している事も、引退間際の家令から告げられたが、ピーンは気にしなかった。


その理由は、挙式でロックに叱られ妻に笑われながらも、性懲りもなくイタズラ心を起こして、賢者は同じくイタズラ好きな風の精霊を使い、密かに2人が話している事を聞いてしまったからであった。


そして珍しく赤面させられる。

領主夫人と忠実な執事が互いに話している内容は、"旦那様の好きな所"をそれは楽しそうに語りあっているというものだったから。

賢いかもしれないが、整頓が苦手だし、性格はイタズラ好きだし、だらしない所もあるのも自覚しているピーンは、自分の事で2人の人がこんなにも幸せそうに語り合うとは予想外で、こそばゆい気持ちにさせられて――そしてこれもやはり嬉しい事だった。


(ロックと2人の自由な旅も良かったが、こうやってカリンと睦まじく、3人でいるのも悪くない)

ロックが屈み込んでペンを手にして、ピーンの元へやってきてそれを手渡しながら、耳元でカリンには聞こえない程の小声で主に囁く。


『旦那様、早く奥様の元に行って差し上げてください。

奥様が…カリン様がこのロブロウで一番に慕い、頼りになさっていらっしゃるのは、旦那様なんですから』

全ての魔術の才能を"匣"の中に仕舞ってしまったロックは、未だにテレパシーは使えなかったが、弛まぬ努力の甲斐もあって、簡単な魔術は使えるようにはなっていた。


魔術を使えた頃には、潜めて伝えたい内容は専らテレパシーばかりだったが、言葉でしか意思の疎通が出来なくなってみると、言葉というものの良さに主従して改めて気がつける。

ロックの言葉を聞いてピーンが書斎の入り口を見れば、仲良しの執事が離れてしまった事で、扉の側に身を寄せて佇み、恥ずかしそうに俯く妻の姿がある。


『ほら、旦那様早く』

心の底から友を気遣うようなロックの言い方に、少しだけ賢者はまたイタズラ心を擽られて、ニッと口の端を上げて、自分も小声で執事に囁いた。


『カリンはどうして、ロックの前では普通なのに私の前で恥ずかしがるんだろうな?。

恙無(つつがな)く初夜も終えて、早く跡取りをと毎日閨を共にしているというのに』

『旦那様!』

思わずといった様子で声を出してロックは真っ赤になり、自分の主を睨む。

その様子を見て、ピーンはアハハハと笑って足取り軽く妻の元へと進んだ。


『領主様、ロック、どうしたのですか?』

ロックの怒声に俯いていた顔を上げて、ピーンに肩を抱かれながら、カリンが不思議そうに夫と執事を二人を見比べる。


『後で教えるよ、カリン』

『旦那様!!からかいが過ぎますよ!』

今度は、はっきりとロックから戒めの言葉をかけられて、また驚くカリンの両肩を後ろから押しながら、執事に片付けを任せて、ロブロウ領主夫妻は書斎を後にした。


そんなこんなで領主のピーンにとっては、世相を気かけながらも動けず、白髪を増やし、執事のロックと妻カリンが仲良く過ごす事で、それなりに心穏やかな日々を、ロブロウ領主夫人が"懐妊"するまで続いてくれた。

そしてピーンの血を継いだ子どもが増えるのをまるで待っていたかのように、セリサンセウムという国は、子どもが産まれる度に徐々に荒んでいく。

しかし、あくまでもピーンは表には出ようとはせず、領民の為に、すっかり酷いものになり始めていた布告の掻い潜りばかりを、少しだけ苦労しながら考えていた。

ピーンにとって最後の子どもとなる、6番目の娘が産まれた頃には、国民の不満が弾けて、この国の各地でレジスタンスが結成されていく。


遠望深慮の賢者からしてみれば、"遅い"と感じていたがその中に、"遅くなっても仕方がない"レジスタンスがあった。


短く"決起軍"と名乗るそのレジスタンスは、リーダーは未だに成人に満たない少年だという。

ただ、その少年は"親の馬鹿な政治に、国民を巻き込んだらバカらしい"という大義名分を持つ――数多いとされる、国王の最も若い庶子の1人ということだった。


(末の庶子という事は、あの"ヨルダン"殿の弟というわけか)

冷たくも美しく微笑む"軍師"の女性を思い出し、好奇心旺盛な賢者は、早速"もう2度と会う事はないでしょう"という言葉をいわれながらも、ヨルダンの消息を追っていた。


半ば予想も出来てはいたが、彼女の情報は賢者の力を使っても集める事が出来なかった。

そしてこの国の軍隊から"軍師"という役柄は、抹消もされていた。

軍に問い合わせをすれば、賢者の権限でそれなりに情報に関しては融通が効かない事もないのだが、必ず記録は残ってしまうので、万が一にでも面倒な事になりかねない。


(少しぐらい、軍に恩を売る活動をしておけば良かったかな?。

いや、それよりもこういった事態に備えて軍や正規軍とは別にして"情報を扱う事に特化した"部隊を作る事を考えた方が。

いかん、考えが逸れた)


軌道修正をして今度は、彼女が(れっき)とした"王族"という事なので、そちらから調べる。

すると、ヨルダンという女性が王の庶子の一人といていることは簡単に解ったのだが、彼女が"嫁いだ"という事で王族の籍から抜けている事も解った。


(ああ、それじゃあ、あの大剣を持った"盾"の大男の人と添い遂げたって事かな)

ヨルダンという女性の消息は追えなくはなったが、もしあの綺麗な緑色の瞳で見上げていた、マクガフィンという男性と幸せに、世相を気にせずに暮らしていると考えると、自分が連絡を取り付けようするのが、酷く無粋な事に感じられた。


(そもそも"もう2度と会う事はないでしょう"って、彼女自身が言っていたからな)

その代わりと言っては何だが、ヨルダンの弟で"決起軍"というレジスタンスを起こしているという男ーーというよりは少年を調べた。


("グロリオーサ・サンフラワー"か)

何となく興味を持ってその名前を覚え、自分は領主としての職務をこなし、カリンの子育てを出来る限りの手伝いをする。


夫婦仲は悪くないのだが、子ども達、主に"娘"達がそれとなく不満を抱えているのを父親なりに見てとれた。


(領民も、"男"であるバンばかりに構うからなぁ)

ロブロウの領民達は悪気はないが、どうしても跡取りとなる1人息子となるバンを贔屓をしていて、兄妹の間に軋轢が生じているのをピーンは感じ取れていた。


そして何とも言えないのが、自分が治めるロブロウという地が、セリサンセウムの他の領地に比べると"マシ"な状態であると伝聞で情報が流れてくる。

ピーンの評価は本人が望まぬ状態で上がり、共に息子への期待と繋がり、バンと共に跡継ぎの教育を受ける長女以外の娘達は、更に悪い方に結束していった。

その時期には領主の仕事や、ビネガー家が代々努めている古今東西魔術の収集と編纂に追われて、カリンから相談を持ちかけられて、何とかロックに頼んで返事をしている状態だった。



(3人で、穏やかに茶を飲めていた時間が懐かしいな)

ピーンは国に隠して、報告する必要以上の編纂した魔術研究の結果を出していたが、それを出来るだけ少量ずつ国に出していた。


万が一、妻が産んでくれた多くの子ども達が病気にでもなったのなら、看病ぐらいは手伝いをしたくての研究の"貯蓄"だった。

決して、"跡継ぎだから"とバンだけを贔屓しているわけではない。

そう娘達に伝える為の、ピーンが用意していた準備だったが、生憎としか言い様がないくらい、娘達は健康で、寧ろ息子のバンがよく熱を出したり体調を崩す事が多かった。


『―――昔から、幼い頃は、男の子の方が身体が弱いと言われています。

気になさらないで下さい、領主様』

バンが季節の変わり目にいつものように熱を出した時、"研究の貯蓄"を使って手伝いをしにきた時、カリンから慰められるように言われた。


それならば、健康な娘達が怪我でもしたなら、女性特有の悩みがあった時の為にと、賢者は婦人の医学にも目を向け、序でに産学も学んだ。


勿論、看病はカリンが望むように手伝う。

しかし、看病の手伝いに関しては悉く裏目に出ることになる。

バンが熱を出して臥せり、カリンが世話をして、ピーンが娘達の世話をすれば、

"お母様は、跡継ぎのバンにばかり優しい、バンばかりお母様独り占めにする"

と、口を揃える。


そして看病に忙しいカリンに代わって、いざピーンが娘達お世話をしようと側にいったとしても仕事ばかりで、滅多に関わりを持つ事が出来なかった父親に彼女達は容赦なくよそよそしい態度を取る。

長女を除く娘の1人、1人を見ればそこはカリンの性格を受け継いでいるのか、とても内気で何も言えないような様子である。


しかし、4人で固まり中立を保とうとする長女も半ば無理矢理に引き入れ、父親であるピーンを冷ややかに見ていた。

そして逆にピーンがバンを診て、カリンが娘達の相手をしたならば


"ほら、お父様は跡継ぎのバンの為ならば、研究さえ休んで世話をやく。

やっぱりバンだけは贔屓されている"。


(どうしたら、いいものか)

本当なら叱りつけて、決してバンばかりを贔屓しているわけではないと、感情を大人げなく荒げて伝えるべきだったかもしれないが、それが本当に一番良いことなのか"賢者"にはわからず、出来なかった。


6人の子ども達は、ピーンやカリンに似ているところは窺えれる。

だが似ている所はあるのだろうが、決して親と同じなのではなく"個人"なのであるということは、ピーンにはわかっている。


(親子の血が繋がっているというのは、愛情に関して、遠慮や距離感を考える事を損なうものなのか?)

ほんの少しだけ、ピーンは途方に暮れて白髪の数を増やしていっていた。

また年月を重ねて、本当に久しぶりにカリンとロックと3人で領主邸の中庭で茶を楽しめる時間を持てる。


しかし、話す事は自然と"子供達"についてなっていた。

ロブロウ領主夫妻は互いに俗にいう"一人っ子"であったが、ピーンの方は好奇心の赴くままにの一人での行動が多くて、特に寂しいという気持ちを抱いた事はない。

ピーンが"子どもの時分"、寂しくはなかったと口に出すと、夫人と執事は顔を見合わせてから互いに"ピーン様は、そうでしょうね"という言葉を、想像させる苦笑いを浮かべる。

夫人のカリンにとっての子どもの時分は、兄弟がいないのは寂しいもので、性格も内気になってしまったとピーンとロックに告げ、自覚もしていたと言う。

ロックは天涯孤独だったが、ピーンに引き取られる前に世話になっていた村で、大人数の家族に出逢っていた。

その頃は世話になっている神父に依存をしていて、寂しいう気持ちは持たなかったが、やはり賑やかな家族の雰囲気は羨ましいと感じていたとのことだった。



『そうなのか、大勢がいいこともあるんだな』

娘達の年齢も上がり、露骨に避けられる事が増え始めたピーンは、"大勢の方が良い"という価値観の話を遠い国の話を聞くような気分で耳に入れていた。


『―――父親と娘が、思春期の年嵩(としかさ)にかかる頃には、上手くいかない自体、どんな家庭にもよくあることと、マーサが教えてくれましたよ、旦那様』

ロックが紅茶をティーポットからカップに見事な"滝"を作り注ぎながら、3人が何故だが信頼を置く、肝っ玉が据わった料理人の言葉を言うと、カリンも同調するように静かに首を縦に振って頷いた。


『私でも、ああいった年頃には、故郷にいるお父様と上手くコミュニケーションが取れない時期もございました。

それに、領主様がロブロウを国のどこよりも落ち着かせてくれてはいても、国が落ち着かないのも、あの娘達に悪い影響を与える部分もあると私は思います。

決して、領主様が親として至らないという事はありません』

嫁いできたばかりの頃は、ロックに伝言ばかり頼んでいた内気な妻が、懸命に自分をの口と言葉で、励まそうという気持ちがピーンには嬉しかった。



『じゃあ、他力本願で本当に申し訳ないが、"鬼神のグロリオーサ"が国を落ち着かせてくれるのを待つか…』

『きじん?』

『ぐろりおーさ?』

自分の事を心配してくれる妻と執事のキョトンとした顔を久しぶりに見て、ロブロウ領主は、ちょっとしたイタズラが成功したように、気が晴れた。


そして"闇の精霊達から友人(ロック)を奪った奴が徒労している"というのを、執事の影から見に来ていた"闇の精霊"を、自分でも人の悪い顔をしている思いながら靴底で蹴り、ザッと捻る。


(私が娘とコミュニケーションが取れないくらいで、落ち込みはすれど、傷ついたとでも思ったか?)

妻と執事には、"人"には見せない狂気染みた鋭い"眼光"で、"友"を取り上げたピーンが傷心した姿を見ようとしていた精霊達は、恐れ(おのの)いて、ロックの影から"自分の世界"へと、掻き消えるようにして帰っていった。


『―――?、旦那様、如何しました?』

意味がよく解らない発言に続いて、自分の影を踏みつけるという、又しても意味の解らない"旦那様"の行動に、ロックが思わず質問してきた。


一度手にした技術を全て手放して、一から魔術をから履修して一般的な魔導師ぐらいにまで、ロックは魔術の腕前を取り戻してはいたが、闇の精霊術にだけはノータッチにしておいた。

もし、闇に触れてもいないのに、片鱗を見せたのなら"器"の部分が残っていたことになるので、ロックには申し訳ないが、今一度、"匣"に身に付けた魔術の才能を隠すつもりだった。


しかし、ロックはピーンと闇の精霊のやりとりに全く気が付いた様子もない事に、賢者は安堵する。

("闇"に関して鈍感な事に慣れてきたみたいだから、そろそろもう一度"闇の精霊術"を一般的な形で教えてもいいかな)


『領主様、靴の中にチリでもございましたか?』

カリンにしてみたら、そんな些細な事だとみて、夫の顔を見ていた。



(―――私は、この二人がいて、たまに絵を描けていれば、それでいいんだけどな)

貴族で領主、この世界の成り立ちの片鱗を知っている賢者よりは、知識はあるが絵描きなるには技量と繊細さがたりない器用貧乏な人になれたのなら。


(あっ、でも貧乏だとロックに給金を出してやれないか)

しかし、3人だけの生活を考えたら、それは本当に"安らぎ"に溢れていた。


(でも、もう責任とる場所にきてしまったからなぁ)

領民達からは領主である事に信頼を置かれていて、ピーンが絵描きになりたかった過去があるなんて幼い頃を知っている者以外、いないだろう。


"絵は描くのは構いませんが、ピーン様は領主にならないといけません。

だから、絵描きさんにはなれませんよ"

名前も思い出せない誰かに言われた時、ピーンは不思議とあっさりと、絵描きの夢は諦められた。


そして、その時も考えるだけで穏やかになれる3人での生活――"夢"をあっさりと諦める。


『うん、カリンの言う通りで、靴の中になんかチリでも入っていたみたいだ。

そうだ、折角の3人なんだから、当事者がいる前で久しぶりにロックとカリンの"ピーン自慢"を聞かせてくれないか?』

『領主様!』

『旦那様!そんな10年も近くも前の話を!!』

かつて密かに聞いていた話を蒸し返すと、今度は2人は顔を赤くして、"主人"を見て、それを見てピーンも久しぶりに心から笑った。


そうして、"他力本願"を願い、賢者の権限をこっそりと使い"グロリオーサの活躍"をおっていながら、年月が過ぎて、ロブロウも少しばかり穏やかとはいかなくなった日々が多くなっていた。

そんな時、ピーンが密かに追っていたグロリオーサの消息が"プツリ"と切れる。

"死んだ""負傷した"といった情報は、一切こない。

決起軍の中でも、ただリーダーであるグロリオーサが"急にいなくなった"だけである。


(どうしたのだろう?)

他力本願する賢者としては、鬼神の如く活躍するグロリオーサに早く出てきて、国を落ち着かせて、平定して欲しいだけだった。


その時、ピーン・ビネガーの"他力本願"の状況を粉砕する"存在"がロブロウに近づいて来ているなど、賢者にも予想が出来なかった。

それから半月もしない内に、ロブロウの領地に入り込もうとする賊の集団が現れて、ピーンの策で一層し捕らえるという出来事があった。

"仕事"を終えて、正直余り好きではない、領主の甲冑を領主邸で脱いでいると、不可思議な報告が捕らえた賊の見張り番をする領民からあがってきた。

捕らえた賊がいう事には"たった1人の刀を持った、"鬼みたいに強い奴"がいきなり現れて縄張りを奪われ、()むを得ずロブロウに移ってきた"といった事を言っていたと言うのだ。


(―――まさかな)

"鬼"という言葉に最近消息を絶っているという、決起軍のリーダーを連想したが、白髪が多くなった頭を振って否定した。


(そんな笑い話みたいな事が、早々起きるわけがない)

一瞬自分の頭の中で繰り広げられる、子ども向けのとても強いが間の抜けた少年が主人公の物語である英雄譚の一節が頭に浮かんだが、すぐに笑って打ち消した。


賊を見事に討伐した事は、領民からピーンの領主としての"株"を更にあげた。

いつもはよそよそしい娘達も、それは影響を与えたらしく、ほんの僅かだがピーンに対する態度を軟化させてくれていた。

ただ、今までになかったような"賊がロブロウの領地に押し入る"といった事態に、領民達は皆、これまで考えもしなかった不安を抱えてしまった様子も領主であるピーンには判っていた。


(これからは、こういった"戦う仕事"も増えるだろう。

まあ、与えられた領地を護るのが、そこに胡座をかかせて貰っている貴族の当たり前の仕事なんだがな)


幸か不幸か、ピーンは賢者であるので魔術も得手だが、先祖代々で受け継がれていた舞踊にも見える短剣の技でもっても"武"の方にも自信も実力もあった。

それでも討伐を終えた夜の書斎で、愛用の短剣の手入れをしながら、軽く息を吐く。

ランプの灯りに照らされてよく手入れされた、短剣の刃に白髪が増えた自分の顔が写り混む。

不惑に手が届こうという年の割りにしては白髪の量は多いが、顔には目立ったシワがない。

そのアンバランスな具合にまた溜め息を吐く。


―――早く、国が平定されないものだろうか。



時間は、人の意志に関係なく流れていて、娘達には貴族ではよくある事で、親同士で決める縁談の話もあった。

しかし世相が落ち着かないためもあってか、話はあっても、まだ誰も纏まったものはない。

明らかに不仲な部類に入る娘達との親子関係ではあるが、親心としては嫁いだ先では、平定された落ち着いた状態で幸せになって欲しいとも考えている。


(ただ、嫁いだ先でいつも姉妹で固まっていたのが、個々になった時の不安が残るが)


賢者として国の、

領主としてロブロウの、

父として子供たちの、

それぞれの心配は、ピーン・ビネガーの中でつきなかった。


そしてそんなピーンを、妻と執事が心配そうに入り口の影から覗いてから、互いに顔を見合わせてから頷く。

その明くる日は、とても良い天気で季節もロブロウ自慢の渓谷の紅葉も美しくなる時期でもあった。

寝室の窓から空を見上げれば、仕事を放棄して、渓谷の散策にロックとカリンを誘って、マーサに弁当など拵えて貰えたならと考える。


妻は深夜までいつも趣味と仕事を兼ねた読書をする夫と違って、子どもの世話をやくために規則正しい生活をしているので、朝が一般的より起床の遅い夫とは違って、既に隣には居ない。

ロックがいつものように、ノックもせずに朝食を運んで来て、静かに支度をしてくれる。


『ありがとう、ロック』

そう言葉をかけると、成人をこの屋敷で迎えて数年立つ青年は、恭しく頭を下げて、無言で"旦那様"が読み散らかした、寝台の枕元にある書籍の片付けを始める。


片付けの合間にピーンは朝食を終え、少しだけ眉間に縦シワを刻んだのち、昨日討伐の後始末をするため、領主の甲冑を身に付けようと、再びロックを呼ぶ。

すると部屋の扉が開き、妻が姿を現したので、何かあったのかとカリンを見詰めた。

カリンは何も言わずに背の後ろに何かを隠すようにして、ロックの側に駆け寄るにして近づく。

そして未だに寝台にいるピーンは、今度は驚きの為に瞬きをして、2人を見た。


『一体、どうしたんだ、2人とも?』

ピーンがそう声をかけると、2人は目配せをしてから先ずはロックが口を開く。


『旦那様。あまり考えたくはありませんが、もしかしたら、これからは"討伐"のお仕事が増えるかもしれません。

討伐直後、旦那様に対して評価が高い今の内に、息抜きをなさっては如何でしょうか?』


『今なら、子ども達…娘達も領主様が息抜きをなさっても、何も文句を言わないでしょうから』

そう言うと、ロックとカリンが2人同時に、昼食が入ったバスケットと絵を描くための道具が纏められた鞄を差し出し、ピーンに渡された、というよりは押し付けられた。


『それと、旦那様これも!奥様からです!』

珍しく執事が弾むような楽しそうな声を出して、フワリとした何かがピーンの鞄を抱えた腕の中に入ってくる。


(こいつは!?)

ピーンの瞳には、紅と黒の合わさった色が入ってきていた。


とても懐かしい紅黒い色をした、かつて"旅"に出た時にボロボロになっても気にせずに身に付けていた、あのコートがまるで新品の姿で、ピーンの腕の中に戻ってきた事に、賢者は珍しく心の底から驚いた。

その初めて見たといってもいい、ピーンの大きく驚いた表情に、夫人と執事は顔を見合わせて喜び、揃えて「やった」と思わず声を出す程だった。


『領主様が"ピーン様"だった頃、とてもそのコートを愛用されていたとロックから聴きました。

旅を終えてから、ロックがとても草臥(くたび)れていたのを丁寧に保管しておいてくれたんです。

それを私が、繕わせて頂きました』

『繕った生地の部分は、仕立て屋のスタイナー様のように精霊の加護を完璧にコート生地に定着は出来ませんでしたが、私なりに加護をつけさせて頂きました』

カリンに続いてロックが嬉しそうに経緯を報告してくれる。


『そのコートを纏っていたピーン様は、とても幸せそうだったロックに聴きました。

私もその旅先から頂いていた手紙は、本当にいつも楽しませていただきました。

読んでいるだけで、会ったこともないピーン様とロックと旅をさせて貰っている気分を味わえました』

そんな"暖かい"ばかりの言葉をと共に、大切な人達からの不意打ちのような贈り物に、鼻の奥が熱いような痛いような感覚がみちて、瞳にも熱いものが溜まる。


長い腕に抱えている物も愛しいが、それを贈ってくれた人達の事も愛しい。

そして出来ることならこの2人を、"自分の手で護りたい"と強く思った。

遠望深慮の賢者らしからぬ、自分の気持ちだけを最優先させて、領主の立場や責任感を投げ出して、安らぎを与えてくれる目の前にいる2人だけを護りたい。



『…旦那様、奥様が色々と工夫をなさって、空けてくれた時間がもったいのうございます。

どうぞ、お早めに』

領主の瞳が濡れているのに気がついた執事は、結構照れ屋でもある旦那様の為に、静かに急かした。


『ああ、そうさせて貰おう』

少しだけ鼻を啜り、カリンも夫がそこまで感激してくれている事に気がついた。


『どうぞ、"自由の時間"を楽しんでくださいませ、ピーン様』

この時の年下で優しい引っ込み思案の妻の声は、物凄く頼もしく聞こえ、その声に優しく押し出されるようにして、ピーンは久しぶりに1人きりで、休暇を領地自慢の渓谷が見える場所で過ごす。

ただ用心の為に、いつもしている短剣を装備しておいた。


そしてイーゼルに前にキャンバスを置いて、いざ木炭を握ると何かが渓谷の上から"降りて"きた。


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