07話 マイク・ローレン博士
…ギシィ…ギシィ…ギシィ…
「……」
…ギシィ…ギシィ…ギシィ…
「……はぁ」
静まり返った夜更けの部屋に、木踏み板の軋む音が扉越しから響く。
深夜に響く、不気味で不快な木の擦れる音。
これがホラー映画の一幕でもあれば、震え上がる演出になることは間違いないだろう。
だが、そんな何者かが徘徊する恐怖の演出にも、真衣が動じることは無い。
――いや、何者かなどではない。ジジィだ。
おおかた饅頭の件を少しずつ反省し始め、気になって寝付けなくなりでもしたのだろう。
悩みに悩んだ末に――人差し指をチョンチョン突合せでもしながら、部屋前を徘徊しているに違いない。
全くもって安眠妨害。勘弁して頂きたいものだ。
(あのバカは…一体今何時だと思ってんのよ)
もう一度床へ就こうにも、気になり始めてしまった徘徊音のせいで、寝付くことは難しいだろう。
手櫛で少し身なりを整えている合間にも、徘徊音は一定のリズムを保ちながら飽きる事なく続く。
その様子にもう一度軽くため息をつきながら、真衣は重い身体を持ち上げてベッドから出ることにした。
扉を開けると、そこにはイメージ通りの『人差し指チョンチョン』をしながら少し前傾姿勢となっている白髪のジジィがいた。
その目は真衣を捉えると――まるで明朝の太陽から照らされた花のように元気を取り戻し、パッと咲き誇った満開の笑みを見せた。
「おはようジミィ君!今日もお日柄でいい天――」
「まだ夜中の2時です」
バッサリ言葉尻を両断する。花は一気に萎れた。
まるで逆再生でもするかのように、もう一度前傾姿勢と指チョンチョンモードへと戻ってゆく。
そんな草臥れた花は、そのままか細い声でぼそぼそと話し始めた。
「いやぁ…ちょっとした出来心だったとはいえ、今回は本当に申し訳なかったと思ってるんだ。あんなに真衣が怒るとは思わなかったもので…ほんとにごめんよぉ。それに――」
ヘナヘナになりながらも話し続けるその老人は、過剰な程反省をしたようだった。
というかもはや、饅頭一つでそこまで尾を引く話しですらない。そんなに激昂しているように見えたのだろうか。
とはいえ、こうしてきちんと謝罪しに来たというのも事実。真衣はその誠意に少しばかり、歩み寄ってやることにした。
「…はぁ。ここで立ち話じゃなんです。アキラも起きてしまうかもしれませんし、リビングでコーヒーでも飲みながらにしましょう」
萎れた花はまたも、水を得たかのように元気を取り戻す。感情の忙しいジジィである。
「うん、うんうん!そうだね、そうしよう!それじゃ、先にコーヒーでも入れておくよ!」
華麗なターンを決めた老体は、そのまま軽やかなスキップをしながら遠ざかる。
見た目にはそぐわぬ、浮かれた子供かのような足取りだ。
(ちょっと、許すの早まったかなぁ…?)
浮足立った背中を見送った真衣は、頭を搔きながら少し後悔する――が、それも後の祭り。
寝巻のまま出るのも癪なので、開けてしまった扉は一度閉めることにした。
――――――――――
リビングに降りると、鼻唄交じりでコーヒーメーカーの湯を沸かす博士の姿があった。
ささやかな嫌がらせとして、少々無駄な時間をかけたつもりだったのだが――全く意に介していた様子もなく、計画は失敗したようだ。
「もう少しで湯が沸くところさ。まぁ座って待ってなさい」
博士の言葉には「ん」という鼻濁音を返答とし、入口手前左側の定位置へと着く。
頬杖を突きながらぼんやりしていると、横目にはキッチンで少しばかり楽しそうな博士。その様子を顔は動かさず、視界に収めておく。
そうしていると、暇になった頭の片隅にはフワフワと、雑多な思考が舞い降りてきた。
それは博士と初めて出会った時の――古く、懐かしい記憶だった。
――――――――――
――マイク・ローレン博士。
博士との出会いは、今から十四年前にも遡る。
七歳の真衣が目を開けると、病室ベッドの隣には心配そうな顔をした、白髪のおじいさんがいた。
知らない人が目の前にいる状況に驚きもしたが――その目は慈愛に満ちており、妙な安心感があったことを今でも覚えている。
真衣にはそれ以前の記憶がない。のちに博士から聞いたことだが、『衝撃性の記憶喪失』だと言われた。
(病室で起きた時、外傷みたいな処置痕はなかったと思うんだけどなぁ…)
とはいえ、原因となった事すらも記憶にないのだ。博士がそう言うのであれば、そうなのだろう。
真衣は両親や親族の記憶すらも失っていた。身寄りがない七歳の子供はそのまま、博士に引き取ってもらうことになった。
真衣は初め、感情に乏しい女の子だったらしい。
今思えば、記憶も何もなくなっていたのだ。感情の起伏が小さかったのも、仕方のないことだろう。
だが、その様子を見た博士からは――
「う~ん。君、全然笑わないねぇ。なんか地味だし、君のあだ名はジミィ君に決定!」
――というノンデリ発言をされた。
あれは記憶にある中で初めて怒りを感じた瞬間だった。
そのまま回し蹴りを脛に噛ましてやったことを覚えている。
博士の行動や発言には今でも、喜怒哀楽の”怒”が大きく刺激されることは困ったものだが…
そんなこんなで感情豊かな博士につられ、真衣も次第に感情豊かな女の子へと成長することができた。
(博士はほんと、身寄りも記憶もない私に良くしてくれたなぁ)
真衣は頬を緩めながら博士との思い出に浸る。
住まう家と温かな食事を用意してくれた。
年齢を感じさせない遊び相手になってくれた。
時には造詣深い学問の知識を披露し、知的好奇心すらも満たしてくれた。
そして何より、かけがえのない家族として――何も無かった真衣を迎え入れてくれた。
真衣はマイク・ローレン博士という一人の人格者に対し、深い尊敬と大きな恩を抱いている。
それは今でも返し切れていないし、だからこそ忙しい博士を支えたいと思い――反対されながらも、同じ脳裏清掃員として働くことを決めた。
真衣にとって、このどうしようもなくふざけた爺は、それでも一人の恩人だった。
ユーモア溢れる友達だった。
かけがえのない、無償の愛を抱き続けてくれた”父親”だった。
真衣はそんな優しい博士の助けになりたいと、今でも強く思い続けているのだ。
――――――――――
カチャンというティーカップが置かれる音を機に、真衣の思考は現実に引き戻される。
博士の声がそれに合わせて聞こえ始める。真衣が全く返事をしない間にも、一人で何事か喋り続けていたようだ。
思考の渦で見た博士と、全く変わらない。
そんないつも通りな博士の姿に――真衣は余韻を感じた心のままに、いつもならしない話題を口にしていた。
「私が博士に拾われてから、もう十四年にもなりますね」
向かい側の席に着こうとした博士は、話し続けていた言葉と動きを一瞬止める。
そして懐かしむような、あるいは慈しむような表情を浮かべながら――ゆっくりと腰を降ろした。
「そうか…そうだね。もうそんなに経つのか――」
遠い目をしながら、まるで昔をその瞳に移すかのように。
コーヒーの液面を眺める博士はしばらくの間、そうしていた。
長くも短くもない微妙な沈黙が続き、博士は少しだけそのコーヒーを口に運ぶ。
「君が目を覚ました時は、まだ七歳の頃だったか。あの時は今みたいに話してもくれなかったし、無口なことが多かったなぁ」
「博士のおかげですよ、こうして感情豊かになったのは。私に初めて”怒り”ってものを教えてくれましたから」
「はっ…ハハッ…あの時のジミィ君も、言うようになったじゃあないか。脛の痛みに耐えた甲斐があったってものかな?」
「ハッキリ言って、それは自業自得ですからね。年頃の女の子にそんな無粋なあだ名をつけるなんて。大人げない通り越して人の心もなかったんじゃないですか?」
真衣の一方的な応酬に対し、博士は静かな笑いと共に「これは手厳しいな…」と降参の意を見せる。逃げの姿勢に入り始めた博士はもう一度、口元を隠すようにコーヒーへと手をかけた。
真衣はそんないつも通りの情けない博士の姿に、少しばかり笑みがこぼれる。そうして諦観の意を返すように『やれやれ』と、ため息を軽く乗せながら、同じようにコーヒーへと手をかけた。
「博士は…どうして私を拾ってくれたんですか?」
予想だにしていなかった質問に、博士はキョトンとした表情を浮かべる。
「いや、まぁそりゃ――あんな状態の子を放っておくわけにもいかんじゃろ…」
「でも、血縁があるわけでもないですよね?そのまま孤児院に連れていくことだってできたはずです。今時、親無し子なんて珍しいものでもない」
人々の”蒸発”が増加して以降、当然のように親がいない子供の割合は多くなっている。
そんな子供達を受け入れるため、全国的にも――世界的にも、孤児院は珍しいものではなくなってしまった。
真衣はそんなありふれた不幸な子供の一人に過ぎなかったはずなのだ。
「荷物を背負うのに、忙しい博士の立場は難しいものだったんじゃないんですか?」
「真衣。私は君のことを一度だって、荷物だなんて思ったことはないよ」
「茶化さないでください。私が聞きたいのは、そんな陳腐ななぐさめではないです」
言葉を重ねるにつれ、今まで気にしないよう蓋をしていた疑問が溢れ出し始めた。
初めは幼心に唯一の支えである、”父親”の答えを聞くのが怖かったから。
成長するにつれて――忙しそうに駆け回る博士の重荷となりたくなかったから。
そうして避けていた疑問が段々と溢れ出してくる。
――知りたかった
自分が何故”ありふれた不幸な子供”とならず、血縁すらもない恩人に救い出されたのか。
――助けになりたかった
今の自分であれば理由を聞いた上で、博士に恩返しすることもできるだろうから。
そんな真衣の覚悟が見えたのか、博士は今まで見たことがないような困り顔をしていた。
「今日は…やけに積極的だね。真衣?」
「今までにその機会がなかっただけです。私は博士に拾われた時から、同じ疑問を感じ続けていました」
その答えを聞き、博士はゆっくりと目を閉じ、口元で手を組み始めた。
博士は沈黙し続ける。その様子は、何事かを思案しているようだった。
真衣は目を閉じた博士を黙って見つめ、自ら話し始めることを待つ。
――沈黙は、それほど長くなかった。
だが、先を知りたい真衣にとってはこの上なく、焦れるような時間が流れていった。
そうして決心したのであろう博士はゆっくりと――少しの哀愁を漂わせながら瞼をあけ、ポツリポツリと話し始めた。
「君の…君の母親との、約束だったからさ…」
「約束?私の母親と――ですか?」
「あぁ、そうさ」
初めてだった。
今までも何度か、それとなく自分の両親について尋ねてみたことがあった。
だが、博士は頑なにそのことを話してはくれなかった。いつだって茶化され、答えを避けられていた。
次第に真衣も答えが得られないと知り、質問することがなくなっていった。
「真衣は脳裏世界について、どんな認識でいるかな?」
「脳裏世界ですか?そう、ですね…十五年前の”窓”開発によって認知され、『脳裏インターネット融合論』によって厄災となった。といったところでしょうか」
「うん、そうだね。公にはそう言われてる。でもね?脳裏世界というのは認知されたから現れたんじゃない。古来より私たちと表裏一体に有り続けていた、希薄な世界なのさ」
続く博士の言葉に、真衣は驚きを隠せなかった。
それは、どんな文献にも載っていない――まるで御伽噺のようなものだったから。
「神隠し。神隐。Spirited Away。言い方は違えど、それらが指すものは皆同じ。古来より人が忽然といなくなることは、”神の仕業”だなんて言われていたものさ」
博士はそこで一拍、語り部のように呼吸を挟む。
「だけど、それら不可解な失踪のほとんどは、神の仕業なんかじゃあない。以前から人が脳裏世界に引き摺り込まれることで、起こってしまったものなのさ」
「そんな…でも、初めてその事象が確認されたのって、十五年前だったんじゃないんですか?」
「脳裏インターネット融合論によって、希薄だった脳裏世界が影響力を強めたのは確かだよ。これまでにはない程にね。それによって世間一般の人々にも、その事象が認知されるようになったさ。ただ、それはきっかけの一つに過ぎないんだよ」
あまりの情報量に真衣の思考はうまく纏まらず、続く言葉を失っていた。
その間にも、博士は言葉を紡ぐ――
「君の母親、鹿野望結君とは昔からの仕事仲間でね――」
博士はそう言いながら、机上のティーカップへと沈む視線を落としていた。
「我々は世界に認知される前からの脳裏清掃員。物質世界への影響を抑えるため、世界の裏で奔走する『世界均衡を保つ者』だったんだよ」
語り部の口は止まらない。
まるで、堰を切ったかのように。
「だが十八年前に事故が起きた。突如想定以上の成長を始めた脳裏世界に対応しきれず、我々が”渡り”に使っていた”窓枠”が壊れてしまってね。現在で言うパブリックネットワークに研究所全体が飲み込まれてしまった」
懺悔を告解するかのように――
「その時、研究所で望結君を待っていた四歳の君も、一度脳裏世界に入っている。まだ幼かった君は、精神が未熟だったんだろうね。脳裏世界に入ってすぐに気を失い、私と共に脱出するまでの三年間と少しの間、意識を取り戻さなかった」
博士は口元に運んでいた手をテーブルの上へと降ろす。
「でも、それはある意味で幸運だったんだ。生命維持は一緒に取り込まれた研究所の設備でなんとかできたし、精神が摩耗することもなかったのだから」
その両の指は堅く、絡まったままだった。
「――だが、君の母君。望結君はそうではなかった」
博士の手に一段と力が入る。
「元々はサポートのオペレーターでしかない望結君は、三年もの月日を脳裏世界で耐えられる程、強い精神力は持ち合わせていなかった。その他多くの研究者と同じく、次第に”自我崩壊”を避けられなくなっていったんだ」
博士はそこで初めて視線を上げ、優しい眼差しを真衣に合わせる。
「君はね。そんな自我崩壊する最中に望結君が私に託した、最後の思いだったんだよ」
――――――――――
初めて聞かされた母親の話し。初めて聞く博士の過去。
飄々としている博士の姿からは考えもしなかった――重いその過去。
博士の言葉が、過去が。次第に胸の奥深く、深くへと沈んでいく。
真衣の心にはそれを受け止められる程の準備が――まだできていなかった。
「私は…私と博士は、どうやって帰ってくることができたのでしょうか」
「三年後――今からだと丁度十五年前。奇しくも我々しか持ちえないはずの技術だった”窓”が、世界に公表されてしまった。そして脳裏インターネットが融合することにより、”窓枠”がなくとも物質世界と脳裏世界の渡りができる程に、脳裏世界の影響力は強くなってしまった。私は偶然にも見つけたそれを通って、君や少数の仲間達と共に、帰ってきただけなんだよ」
「”窓”というものは…それほど簡単に獲得できるような技術だったんですか?」
「いや、あり得ない。特異点とすら呼ばれた代物だ。我々の関係者でもなければ技術の再現、ましてや同じ名称になる可能性など全くない」
「それって、つまり――」
博士は静かに目を閉じた。
その続きが綴られることを拒むように。
明確な答えがこの世界に放たれることを、恐れているかのように。
「私はね…『世界均衡を保つ者』として。そして何より三年で散っていった望結君のような仲間達のため。この歪みの根源を…確かめなければならないんだよ」
博士が目を開いた時、そこには覚悟を持った一人の戦士がいた。
今までに一度も見たことがない――鋭く、強い眼光。
だが、真衣にはそれがボロボロになりながらも孤軍奮闘し続け、自分の痛みにすらも気付けなくなってしまった者の――亡者のような危うい眼光に思えた。
恩人が身を削るそんな姿に、真衣の心は決意に満ちてゆく。
「博士。私にもその責務の一端を、手伝わせてください」
「…ダメだ」
「どうしてですか!」
「危険すぎる」
「私は!」
明確な拒絶。有無を言わさぬ否定。
そんな博士の態度に我慢できず、声を荒げながら立ち上がってしまう。
「――私は!…もう、守られるだけの存在なんかじゃありません」
「分かってくれ、真衣。これは君にとって関係のない、私の責務なんだ」
「いいえ!分かりません!私にとって、博士は家族です。家族の責務であれば、私にもそれを背負う義務があります!」
「君をこれ以上危険に晒すことは!…望結君との――君の母親との約束を、裏切ってしまうことになる」
博士が紡ぐ、そんな血の滲むような言葉を前に――真衣の続く言葉は失われてゆく。
(ズルい…)
こんな時に限って、母親を言い訳にする。
(今まで一度だって、話してくれたことすら無かったくせに…)
その事実に、真衣のやるせない怒りは限界を超えてしまう。
そう、思ってもいないことを口走ってしまう程に――
「顔も知らない親の言うことなんて!私には関係ありません!」
ハッとしたその瞬間、博士の顔には悲痛な表情が浮かんでいた。
博士は何も言わない。何も言い返してくれない。
ただ黙って、その悲痛な表情を浮かべたまま――罪人のように俯いていた。
(なんで…何も言ってくれないの?)
結局、守られるだけの存在だったのだろうか。
(どうして…私を頼ってくれないの?)
博士の重荷となってしまうのだろうか。
真衣はその沈黙に耐えられず、気付けば部屋を飛び出していた。
部屋に戻り、布団を頭深くまで被っても、モヤモヤとした気持ちは心を焦がし続けた。
その日、真衣が寝付くことはなかった。




