薄氷はいともたやすく その一
これは変な雲行きだぞと僕は思った。ミズハが座ったまま、体をうんとこちらに寄せ、声のトーンを落として言った。
「ねえ、これって高い店なんじゃないの。私、そんなに持ち合わせてないわよ」
「ご心配いりませんよ」
聞こえていたのかと、ミズハはばつが悪そうな顔をしたが、男は相変わらずにこにこしている。
「当店ではドリンク二百円、その他三百円で提供させていただいております。十分、納得いただける設定かと思います」
「そりゃ安いな」
「メニューがないと、どうもね。本日のおすすめだなんて、お任せできはしないのかしら?」
「申し訳ありませんが、こちらでメニューを決めることは出来かねます」
どうあっても、自分たちで注文する品を決めなくてはいけないらしい。
僕たちは困ってしまった。僕、ユウ、ミズハは飾有で育った。住人特有の、実際に見ないとないも同じ、という精神は僕たちにもあった。それでも、噂を確かめるには脚を動かせばよかった。ほとんどの住人はそれをしないが、やる気にさえなれば誰でもできる。しかし、存在しないものから注文する方法はわからなかったのだ。
「具体的には、どうやって注文したらいいんですか」
僕がそう尋ねると、店員の表情が少し変わった気がした。しかし、それは一瞬のことで、男が話し始めたときには、元の人あたりのいい雰囲気に戻っていた。
「簡単なことです。想像してください。あなたの手元に理想のメニューブックがあると思ってごらんなさい。それを開けば、あなたの想像した通りの品がずらりと並んでいるのです。その中からお好きなものを選んでいただければ、それと相違なく、すぐにお持ちします」
うやうやしく一礼した。
僕たちは空想、妄想というものと縁がなかった。これらも存在しないものだからだ。本や映画を見て、フィクションの世界を受動的に楽しむことはある。ゲームもする。だが、そこから一歩踏み込んで、自分だけの物語や登場人物を考えはしなかった。自分だけのメニューを想像するなんて、これが初めての経験だった。
「とにかくやってみるか。じゃあミズハ、ドリンクともう一つ注文するけどいいか?」
「あの値段じゃそうなるわよね。いいわよ。うーん、私は何にしようかしら。なんでもいいと言われると困るわよね」
「迷っちゃうね。何がいいかなあ」
「よーし、俺は大体決まってきたぞ」
「ユウは決断力だけはあるものね」
「引っかかる言い方だな。まあいいや。もう一品はなににするかなあ」
僕らが空想のメニューと格闘し始めた様子を見て、ごゆっくりどうぞと言い残し、男は奥へ消えた。
想像のメニューを考えるのは、なかなかに新鮮な体験だった。ないものをあるように振る舞わせ、そこから情報を引き出す。つまるところ、それは自分の知識や経験に基づくのだが、思い出すのとはまったく異なった。思い出すのなら、そっくりそのままとり出せればいいが、想像は、その取り出したものに別の知識や経験がごてごてと飛びつき、全く別のものに作り変わっていくのだった。僕はこれを楽しいと、純粋にただそう思った。
メニューには僕の知る、ありとあらゆる料理が整然と並び、簡単な説明が添えられている。値段は三百円。飲み物は二百円だ。この中のどれを選んでもいいのだから、目移りするのは不可抗力だろう。
僕は悩んだ末、想像のメニューからチーズケーキとアイスティーを選ぶことにした。
ミズハはまだ難しい顔をしていたが、ユウを見ると注文が決まったらしく、悩むしぐさをしていなかったので、僕は店員を呼ぶことにした。
「すみません。注文いいですか」
すぐに奥から店員がが現れた。しかし、僕たちの前に立ち、顔をちらりと見ただけで注文も聞かずに奥に引っこんでしまった。
「あれ、注文……」
「忘れ物かな。おっと、戻ってくるみたいだぞ」
店員は数秒で戻って来た。手には銀色のトレイを乗せている。注文をメモするものを忘れて、それを取りに戻ったのだろうと思った。だが、トレイの上にあるのはメモ帳ではなく、もっとしっかりした、複数のものだった。
「ご注文のチーズケーキとアイスティーでございます。こちらの方はホットケーキとアイスコーヒーですね」
僕の前に注文しようとした品そのものが置かれ、ユウの前にはホットケーキとアイスコーヒーが置かれた。
当然、僕は注文に関して一言も発していないし、それはユウも同じだった。僕らがあっけにとられるのを見て、男はにっこりとほほ笑んだ。
「驚かれましたか? これが当店のサービスでございます」
もしかすると、高度な探偵術か何かで注文を推理し、事前に用意するというパフォーマンスなのかもしれない。的中率は不明だが、僕に運ばれてきた品は合っているし、待ち時間も短いので、これには文句のつけようがなかった。
品物が合っているだけでなく、その詳細も思っていたとおりだった。僕は上面が茶色くてゼラチンで薄くコーティングしてあるチーズケーキを想像したのだが、そのままの物が目の前に運ばれてきたのだ。
「もう一人のお客様も注文が決まったようですね。それではお待ちを」
男は再び奥へ引っこんでいく。
男の姿が見えなくなったのを確認して、ミズハがこちらに乗り出すようにして話しかけてきた。
「これどういうことなの? あんたたち、めちゃくちゃなもの押しつけられたんじゃないでしょうね。だったら文句つけて出て行きましょ」
「それがさ、合ってるんだ」
「俺のも合ってる。思ったとおりのが来たんだ」
「ええっ。それ本当なの?」
「嘘ついてどうする」
「疑いたくもなるわよ。そんなことあり得るのかしら」
「可能性はゼロじゃないと思うが、難しいだろうね」
僕らの頭の中は疑問符でいっぱいになっていた。
「ミズハは注文、決まってたのか?」
「決まってたというか、あのとき丁度決まったのよ。店員が言ったときにね。偶然だと思っていたんだけど、心を読まれてるみたいで、なんだか不気味ね」
「ちなみに何を注文したんだ?」
「混乱するから注文したって言わないでよ。何も言ってないんだから。……私が思ったのはアイスコーヒーとおしるこのアイス乗せ」
「まてまて、後半のは何なんだ」
「そのままよ。おしるこにアイスが乗っているの」
「そんなの喫茶店で見たことないし、家でも食べたことないぞ」
「あら、おいしいのにもったいない」
「でも、これは外れるだろうね。どう考えても予測できないよ」
僕がそう言い終わったとき、男がトレイを持って戻ってきた。手には例のごとくトレイがのっている。
驚かされた仕返しではないが、推理を外した男の顔が見てみたいと思った。あの張り付いたような笑顔が消え、慌てふためくのだろうか。僕は意地悪くそんなことを考えてしまった。
「お待たせしました。アイスコーヒーと、おしるこアイスでございます」
ミズハの前に品物が置かれた。彼女はこちらを見て素早く二度うなずいた。慌てたのは僕たちの方だった。
周りの温度がさーっと下がっていく気がした。これは探偵術とか勘がいいとかそういう次元じゃない。心を読まなければできない芸当だ。
だが、直前の彼の台詞に引っかかるものがあった。心を読んでいるとすると違和感があった。しかし、それははっきりしないまま、綿ぼこりのように心の隅に押しやられてしまう。
ここは少し変わった店程度ではなく、なにかまずいことになっている。そんな予感がした。




