薄氷はいともたやすく その二
注文通りの物が滞りなく出てきたのだから、そのまま談笑しながら食事することもできた。だが、それ以上に起こった現象が不可解すぎたのだ。思い返すと注文を的中されただけでなく、準備が異様に早かった。カウンターの奥は仕切られて部屋になっているが、そこに別のスタッフがいるのだろうか。そして、数人がかりで短時間に全てを準備した? いや、いくら熟練していても早すぎる。不可能だ。
誰ひとり食べ物に手をつけようとしなかった。
からんころん。
ドアベルが鳴った。新しく誰かが入ってきたのだ。ドアが閉まるとき、妙な音がした。
そのせいもあり、食べ物を前に固まっていた僕らは、いっせいにそちらを見た。
少し日に焼けた、体格のいい男性だった。眼光鋭く、顔つきは引き締まっているのだが、無精ひげのせいか、コートがよれているせいか、あるいは靴が泥で汚れているせいか、だらしない印象が先行した。コートで見えないが、腰のあたりでなにかがジャラジャラとぶつかり合う音を立てていた。
その男は真っ直ぐカウンターに向かってくる。
じろじろ見るのも失礼なので、僕らはまた食べ物と向き合った。改めて見ても、とてもおいしそうで、しかも食べたいと思っていたものだから、唾液が出てきてしまう。それでも、やはり手をつけられなかった。飲み物のグラスは汗をかき始めていた。
男はカウンターには座らず、それに手をつき、やや前のめりになった。そして店員にこう言った。
「間違いないか」
店の男はうなずきながら、ええ、とだけ言う。
変なやりとりだ。注文でも顔なじみの挨拶でもない。心臓が警鐘を鳴らすように早くなった。
男は僕の隣に腰を下ろした。しかも、僕らをじろじろと順番に見まわした。店の男は相変わらずにこにことしている。
「君たち」
不意に男が口を開いた。音量が大きかったわけではないが、少しかすれた迫力のある声だった。
「仮面を外したな」
心臓が止まりそうだった。なぜ、この男がそれを知っているのだろう。ユウとミズハは傍から見てもわかるぐらいびくっと反応していた。かまかけだったとしても、これでは答えを教えてしまったようなものだ。
飾有町のルールが持つ強制力。この男がそうなのではないか。どう見ても警察ではないが、規則を破ったものを懲罰させるための特別な人員がいてもおかしくない。
おかしなことだが、僕は逃げるよりも先に、隣に座ったこの男について考察した。
この町で生活していて、ルールを破った者がいるとは一度も耳にしていない。だが、僕らのようにルールを破った者が他にいないというのも考えにくい。仮面のルールの異様さに気づいてしまいさえすれば、それはもうルールを破る寸前だからだ。憶測に過ぎないが、無視できない数の違反者が出ているのではないだろうか。つまり、違反は誰にも気づかれないうちに、なかったことにされている。それを請け負っているのが、このコートの男なのではないか。
僕が感じたのは具体的なものではなく、理解できないための恐怖だった。まるで、自分がこの世に最初からいなかったとされるような、孤独や疎外に似た恐怖だった。
捕まってはいけない。
ここで初めて、逃走を考えた。仲間と思われる店の男はカウンターの中だ。僕は後から来た男に隣り合っているが、店の出口との間に障害はない。最悪、僕が捕まれば二人は逃げられる。
男が普通ではないと二人も感じていたようで、僕がうなずくと、それを合図に二人は入口に向かって駆け出した。僕はわざとたっぷり一拍置いて二人を追った。
男につかみかかられるのを想定していたが、意外にも彼は座ったままだ。コートの男は、今ゆっくりと腰を上げた。
これなら全員で逃げられるかもしれない。
だが、ユウとミズハはドアの前に立ち尽くし、店を出て行こうとしない。僕を待っている様子でもなかった。
僕が速度を落としながらドアまで来ると、ユウがドアに半ば体当たりをするようにぶつかっていった。
「なんで開かないんだ!」
「どうなってるのよ!」
ユウと代わり、僕も試してみた。
パニックになると慣れないドアが開けられないことがある。僕は無理に冷静になって考えた。来たときは押して入った。間違いない。だから引けば開く。
そのはずだった。引いた瞬間に僕の腕、そして体全体に力が返ってきた。
「アキヒロ、違うんだわ。引いてもだめだから押したのよ!」
鍵がかかっているのとは感触が違う。押しても引いてもドアは少しも動かない。よく見ると、ドアの蝶番が溶接されたように一本の棒になってしまっている。
なんだ、これは。
背後からジャラジャラと音が近づいてきた。
だめだ、どうやっても開かない。
「素晴らしい行動力だ。だが逃げられたら困るからな。予め固定させてもらった」
この男がやったというのだろうか。男はどう見ても手ぶらだ。
「君たちは幸運なんだ。だから二つ、選択肢を用意してやれる。俺がいいと思う方を選んでやってもいいが、こういうのは公平さが必要だからな」
これのどこが幸運なのだろう。それに選択肢とは。
「あなたは、何なんですか」
僕は恐る恐る尋ねた。
「その質問は難しいな。君たちがどちらを選択するか、それによって俺の立ち位置は変化するものだからね。今はさしずめ何者でもない。君たちの選択によっては、そのまま何者でもないままだ」
「意味がわからないぜ」
すぐさま暴力で解決しようとする気配が男にはなかったので、ユウもミズハも口をきけるようになっていた。
「今にわかる。君たちが判断できるよう、材料はきちんと示すつもりだ」
「私たち、どうなるのよ?」
ミズハが不安そうに聞いた。
「それは選択次第だ」
コートの男は僕たちを見た。第一印象ではだらしがないと思えたが、こう対峙してみると言い得ぬ迫力があった。
「さて、これから君たちに情報を与える。しかし、頭の働く君たちは、これを逃げるチャンスと捉えるかもしれない。だからこのデモンストレーションをしておく。イナリくん、頼む」
イナリと呼ばれたその男はカウンターから出て、笑顔のままこちらにやってきた。彼が上を指差すので、僕らは天井を見上げた。
イナリは、男のすぐ後ろにまで歩み寄ると手を伸ばし、何もない宙をつかんだ。その手をぱっと広げると、何かを放り投げるような動作をした。
すると僕らの真上に一抱えもありそうな大きな肉の塊が現れた。あまりに突然のことで僕は動けない。ユウとミズハも唖然としていた。
それは重力のまま落下し始めた。
激しく、そして奇妙な金属音がした。ぴかりと何かがきらめき、肉塊を通過した。二つに分かれた肉が僕らを挟むようにして、どさっと脇に落ちた。
顔を正面に戻すと、男の手にはギラギラとした刀が握られていた。
「……選択肢は二つと言ったが、それ以外にこうした結末もあり得る」
複雑な金属音とともに刀は消えた。
逃げる気はとっくに失せていた。理解の範疇を越えている。
何もないところに肉を出現させたのにも驚いたが、突然出現した刀と、それを扱う男の手際には恐怖を覚えた。あの技を前にして逃れられる術が思い浮かばない。ユウとミズハも従うほかないという顔をしていた。
「わかってくれて何よりだ。一つ目の選択肢へ行くとしよう」
男がドアに手をかけると、金属が擦れ、またぶつかり合うような音がした。
からんころん。
何をしても開かなかったドアが、何事もなかったように開いた。
僕たちはいよいよ恐ろしくなって、顔を見合わせた。僕を含め、ユウもミズハもこの窮地を脱する答えを持っていない。そういう顔だった。
「さあ、遅れるなよ。今日のうちに決めてもらいたいからな」
店の外から声がかかる。僕らにどうしようもなく、男の後について歩き始めた。イナリがにこにこ顔で、いってらっしゃい、と店内から見送った。




