表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
比翼連理  作者: 美羽
管鮑の交わり
9/22

8*

矜牙視点

期待の新人なのだと柳栄が推してきたその武官は、色々な意味でおかしな女だった。




まず、俺に対して逆らう様子が無い。

普通はどんな者であろうと、様々な事情(・・・・・)を抱える俺を皆侮り、そして侮蔑するものだ。関わりを持たぬ者ならば尚更。

だがあの女にはそれが一切見られない。

そして物事を本当に、額面通りに受け取る。

俺の発する、決して俺自身でさえも褒められたものではないと自覚している言葉の全てを、あの女は殊勝な態度で受け取るのだ。

それは余程演技が上手いからなのか、ただの馬鹿だからなのか、それとも――別の理由があるのか。

分かりはしないが、おかしいと俺が思うには十分な理由だった。


更に悪いことに、女はそれなりの実力を持っている様だった。

今も俺の命で少佐官を四人連続で相手にしているが――全く疲れた様子も見えない。

そもそもそれぞれを数分と経たないうちに倒してしまっているのだ。

これであの女が負ければ、軍師補佐官などというものにみあう実力が無いとして一蹴できるものを。

時間を稼げと指示した、少佐階級で最たる実力を持つ碧羅でさえその役目を果たせるのか怪しい状況なのだからそれも期待できぬ結末なのだろう。


「軍師、碧羅はたぶん一分も経たずに負けますよ?」


じっと会話しているらしい女と碧羅を見ていれば、隣に控える志宇はそう言って眉を寄せた。

俺には全く分からんが、武人だからこそ感じ取るものでもあるというのだろうか。


「何故そう言える?碧羅はもうしばらくすれば中佐に昇進も不可能ではないと、お前も言っていたように思うが。

先程まであれは少佐階級を少なくとも数分はかけて降してきた。それが碧羅になってから覆るなど、おかしな話ではないか?」


「まあそうですけど、軍師さっきあいつに命じたでしょう。

玲湶がこの時間内で勝つことがないように時間を稼げって」


「それがどうした」


志宇の言葉には俺を責めるような響きは無い。これが柳栄であれば相当五月蠅かったことだろう。


「たぶん碧羅はそれを玲湶に話したんでしょうな。

何と言うか……玲湶のやる気がこっちにまで伝わってきてますよ」


「何だそれは」


どう見ても女の表情は全く動いていないし、まあ気になると言えば碧羅の顔色か。

僅かばかり青くなっている気がしはするが――志宇の言うやる気、といったものは感じられない。


「まあ見てれば分かりますって。――始まりますよ」


誰かが出したのだろう合図と共に両者が動く。

いや、動いた―――のだろう。見えたのは碧羅の動きのみ。

振るわれた刃にかすりもせずに女の姿は掻き消え、次の瞬間には碧羅が地に倒れている。

その首筋に天具である槍を突きつける姿だけが気づけば確認できる状態に、正直に言えば絶句した。


数日前柳栄によって騙し討ちのような形でもたらされた顔合わせの機会で、その実力が一般武官を凌ぐものであるらしいことは薄っすらと理解していた。

だがあの女は柳栄に負けたのだ。それは当然の事とは言え、その時点で俺はある程度そんなものなのだと――そう騒ぐほどの強さを持つ者ではないのだと思っていた。

だがそれを志宇の言葉と、何より目の前で行われた結果が覆そうとしている。

参ったと、碧羅の口がそう動くのがこの位置からでも確認できた。

現時刻はまだまだ鍛錬の時を終えるには程遠い。俺の命令通り、あの女は時間内に少佐官を倒したと、そういうことだろう。


「ほら、俺の言った通りでしょう」


「何を威張っている。……しかし、失敗したか」


ならばまた、新たな策を練らねばならないだろう。

補佐官など必要はない。どうにかしてあの女をその地位から外させなければ。

呟いた俺に、志宇はいっそ呆れたような目を向けた。


「まだ認めてないんですか、玲湶のこと。

今朝だって仕事を手伝ってもらったんでしょう」


「それがどうした。あれが勝手にしだした事だ」


「でも使えるんでしょう?

そうじゃなきゃ軍師のことです、すぐに追い出すでしょうし。

それに手伝わせてるから遅れるって、わざわざ俺に天術で通達までしたじゃないですか」


「………無いよりは、マシな手伝いだっただけだ」


そう、ただそれだけ。特に意味などない行為だ。

天術を使ったことも、慌てたように室を去っていく後ろ姿に呆れたから。

そしてその背の持ち主は碧羅を助け起こし、すぐさまこちらに向かってきていた。

恐らく勝利を勝ち誇りでもするのだろう。

女は相変わらずの表情の乏しい顔で俺の前に立ち、小さく頭を下げた。


「矜牙軍師、終了いたしました。

時間をかけてしまい、申し訳ありません」


――本当にこの女は、おかしな思考回路をしている。

どうして謝罪をするのか、今までの試合を見てどこに時間がかかったと言っているのか。

それを口に出しはしないが、それでも俺を惑わせるには十分な言葉だった。


「……ふん、少佐を相手取ることは出来る様だな」


「光栄です。碧羅にも、指示を出されたと聞き及びました」


「それがどうかしたか?」


果たしてこれは俺に対する嫌味なのか。

そうと決まっているはずなのに、そう考える己に嫌気がさす。


「ありがとうございました」


「……どういう意味だ」


そして俺のその疑念を後押しするかのように、こちらにしてみれば頓珍漢な答えを返すこの女にも。


「私が少佐階級を相手に後れを取っていれば、軍師が指示を出されることも無かったはずです。

ですので最低限私の力を認めてくださったのだと捉えさせていただきました。

勝手な判断ではありますが、それでも嬉しく思いましたので」


「……」


波立つ心を抑えつけるために一度目を閉じ、開く。

変わらず目の前の女は静かな菫の瞳で俺を見つめていた。


「まぁ、いい。朝の鍛錬はもう引き上げる。

志宇、俺とこいつは室に戻るぞ」


「分かりました。あぁ玲湶、お前さんは午後の腕試しには来なくていいぞ。

陵亥より大分進んじまったし、中佐二人を相手にするのは夕刻の鍛錬の時間でいいだろ。相手になる二人には俺から伝えておくから」


「承知致しました。お手数おかけして申し訳ありません」


生真面目に志宇にも礼をし、感謝の言葉を述べる女を放って先に進む。

しばらくすればすぐに背後に心もち急いだ足音が響き、俺の斜め後ろでその歩調がゆるんだ。

下官は上官の後ろを歩くもの。ただし真後ろではなく少しの顔の動きで姿を確認できる位置で。

規定通りの、武官の鑑と言えるような行動だろう。ただそれさえも俺の頭を重くする動作でしかない。

この女が出ないのであれば、柳栄に付き合えと言われた俺も腕試しの場に同席せずともいいのだろう。だがその分長く、夕刻までこれと共に過ごさなければならないとは。











しかしその予想は裏切られることになる。

室の来客用の椅子に堂々と居座る男によって。


「………柳栄、貴様は何をしている」


己でも声が地を這うように低く、怒りで震えていることが自覚できる。

俺の肩越しに室内を見たのだろう女も少し驚いた様に身じろいだ。

そしてこちらの反応をものともせずに笑みさえ浮かべるこの男は、どうしてくれようか。


「早かったね二人とも。まだ鍛錬の時間じゃないのかな?」


「はい、腕試しもキリのいい所までいきましたので、少々早く辞させていただきました」


「……おい、何を呑気に受け答えしている」


そこではないだろう。

いくら上官であろうと勤務時間に軍の最高位がこの様な場所で休憩など、不真面目にも程がある。


「あ、申し訳ありません。……その、柳栄将軍は何の御用がおありでこちらに?」


「聞くだけ無駄だ。こいつは何の用もなしにフラフラとそこらをうろつくのだからな。さっさとつまみ出せ、今すぐにだ」


こうしてここへやって来て俺の仕事の邪魔ばかりして去っていくのだから性質が悪い。

それに俺の仕事が多いのも、将軍に回るはずの書類作業がこちらに回ってきていることがその要因の一つに含まれているのだ。

俺に補佐官などをつける前に自分に回される仕事をきっちりやれと言ってやりたいものだが――言ったとして意味がないのだから仕方がない。


「無駄だって。矜牙より俺の方が偉いし玲湶とは親しいからね。

俺を追いだしたりなんかしないよね、玲湶軍師付き補佐官?」


「……」


何を黙っているのだ。

振り返りじろりと見つめれば、女は殆ど動きを見せない表情に迷いと困惑を浮かべていた。

眉をよせ悩むように俺と柳栄を交互に見つめている。

そしてしばしの逡巡の後、紫の瞳は諦めたように一度閉じられ俺を映した。


「……申し訳ありません、矜牙軍師」


「……いい度胸だな」


確かに軍の規定にはそう書いてあるのだろうが、現在の状況から言って間違いなく柳栄は追い出されてしかるべきだろう。

数日前から思っていたことだが、この女はこういった所は頭が固い。

舌打ちして不快感を露にした俺とは対照的に、将軍という責任ある立場を持つことが嘘のような馬鹿者は喜んでその言葉を受け入れた。


「流石玲湶、そう言ってくれると思ったよ。ところで早速だけどお茶を淹れてもらっていいかな?」


「即刻帰れ」


「いいじゃないか、矜牙だって飲むんだろうし一石二鳥でしょ。

折角同じ職場に勤めるようになったんだから、一日一回の玲湶のお茶は役得だよ」


……この馬鹿は、どこまでも馬鹿だ。

既に苛立ちと疲労で目の前の男を締め出したくて堪らない俺の背後で、茶を求められた女はチラチラと俺と奴を見ている。


「その、矜牙軍師。ひとまず席におつきになって下さい。

確かに私としましても何か出させていただく予定でしたから、仕事の前に一度一息入れましょう」


「そうそう、座りなよ矜牙」


「誰の室だと思っているのだ、馬鹿者。

……ハァ、まあいい。出すならさっさとしろ。

今日も俺は仕事が溜まっている。どこぞの馬鹿将軍のせいでな」


何だこの疲労感は。一切運動などしていないと言うのに、そんなものとは比べ物にならない程神経が磨り減る。

こうしてこの女と柳栄に囲まれれば全てが面倒になり最後には勝手にしろと投げてしまうのだから、余程相性が悪いのだろう。

諦めにも似た気持ちでやっと自分に与えられた室に足を踏み入れ椅子に腰掛ければ、斜めの位置からにんまりとした視線を感じた。誰なのかなど考える必要もない。


「……なんだ、柳栄」


「べっつにー」


一々癪に障る奴だ。

再び眉間に皺をよせかけた俺の卓に、小さく音を立てて茶器が置かれた。

指示通り早い。だがそれが気に入らない。

ふわりと立ち上る薫りに、自分でも勝手すぎるものだと言えるそんな思考は掻き消えてしまったが。


「緑牡丹です。……ストレス解消の効果がありますので、是非」


女は困ったように微笑んだ。


「……ふん、そのストレスの根源がここにいるのでは効能は期待できなさそうだがな。

それにどこぞの馬鹿者にはストレスなど無縁なのだから、茶を飲んでも意味は無さそうだ」


「酷い言い草だなぁ。玲湶ありがとう」


「いえ。毒見は済ませてあります。どうぞご賞味ください。

その間に私はこちらを届けて参りますので、ごゆっくり」


言われて口に含む。

それを確認して笑みを消し、女は横に積まれたいくつかの木簡を持ち室を出ていった。


「玲湶のお茶は相変わらず美味しいなぁ。矜牙もそう思うよね?」


「五月蠅い、喚くな。だがまあ、悪くは無い」


あの女の、茶を淹れる技術だけはまあ認めてやってもいい。

俺の室には様々な茶葉が置かれている。

軍師という地位から言っても、俺の持つ事情から言ってもこういった献上品は多いのだ。

女が出す茶はこの数日間どれも違う銘柄で、だがその全てが美味かった。

茶はそれが質のいいものであればある程、淹れた者の力量によって美味くも不味くもなる。


「名門朱家の長姫で皆に傅かれる生活をしている割に、意外ではあるがな」


つい呟いた俺に、柳栄は理解できないものを聞いたとでも言いたそうな顔をした。


「え、何言って…………もしかして」


「何だ?」


「あぁ、いや、うん……成る程ね。そっか……お互い知らないのか、だったらそりゃこうなるのも当然と言えば当然…」


「おい、何を言っている?」


ぶつくさ一人で納得するのではなくちゃんと分かるように聞かせてくればいいものを。

意味が分からず問えば、何かを含んだような笑みが返ってきた。

……こいつがこういう顔をしている時には、大抵碌なことを考えていない。


「秘密。ただ一つ言うなら、玲湶は周囲に傅かれるの全然慣れてないよ。

正直軍内で上官として周りの人間から敬われるのも居心地悪いんじゃないかな」


「は?相手は大貴族の朱家の人間だぞ?」


「本当だって。まあ詳しい事は本人に聞けば?気になるでしょ?」


「……別に、どうでもいい」


「意地っ張り」


こいつはこっちの話を聞こうともしない。

深入りは不要なのだ。俺はあれを、補佐官として認める気はないのだから。


「さて、と。そろそろ玲湶も帰ってきそうだし、俺も仕方ないから仕事するよ。お茶美味しかったよって言っておいて」


「自分で言え。それと、仕事をするのは当然の義務だ馬鹿者」


「はいはい。矜牙も美味しかったって言えるといいね。それじゃ、また昼に来るから」


……おかしな言葉を聞いた気がするのは、俺の気のせいか?


「待て、昼に来ると言うのはどういう意味だ」


「どういう意味って、言葉通りの意味だよ。

やっぱり昼は親友と可愛い部下と、その可愛い部下が淹れてくれたお茶と一緒に楽しむに限るでしょ?」


本当にこいつはどうしようもない。だがそんな奴とはもう腐れ縁なのだ。

付き合うしかないのだと、そしてそれがしばらくは――少なくともあの女が俺の補佐官という名目で傍にいる限りは続くのだろうと、今までの経験が言っている。


「……もう、好きにしろ」


「流石は矜牙、そう言ってくれると思ったよ。じゃあ昼にね」


ため息を吐く俺とは反対に浮かれた足取りで戸に向かう奴の背に、俺が天術を向けたのは致し方が無いことだ。











「矜牙軍師、無事全て運んで参りました。文殿の書簡の類も書庫へ戻し終えてあります」


「……そうか」


あれから数分と経たず戻って来たこの女は、相変わらず無駄のない動きで俺の仕事の補佐をした。

木簡の整理、処理済みのそれの配達、必要と思われる資料の調達。

俺が指示する前に、あるいは指示してから然程時間も置かずになされるそれらは悔しいが確かに助けになって、普段ならば終わらない仕事も既に終わってしまった。

昼間に本人も予告していた通り柳栄がやってきて、かなり長い時間邪魔をしていったにも関わらず。

最後にさせた文殿への木簡配達も十分とかからず済ませてきたこの女はどういう頭と体をしているのか。

この武殿から文殿まで、軽く見積もって三分程の距離がある。

それを往復するのだから六分、しかし文殿は新人官吏の迷宮と呼ばれるほど入り組んだ造りをしている場所だ。

だが女は迷った様子も見せずに短時間で平然とこの室へ戻ってくる。頭に見取り図が入っているのか。

古参の武官でもあの中は迷うと言うのに(まあそこには殆ど文殿に立ち入らないという理由もありはするのだろうが)。


「そろそろ鍛錬だな。広場に行くぞ」


「はい」


褒めもせずに立ち上がる俺に対して、女は不満そうな態度を示すことも無い。

ここで何か反応でも返せばいいものを。

規律を忠実に守りそのままに行動する完璧な武官。それがここまで疎ましく、俺を戸惑わせるものだとは。


「お、早いですね軍師。それに玲湶も」


広場に着けば時間よりも早いと言うのに粗方の火鉾の武官は揃っていた。

人数確認でもしていたらしい志宇が驚いたように近づいてくる。

そう問われると腹立たしい。まるでこの女が補佐についたことで作業能率が上がったと言いたそうだと感じる。志宇にそのような意図はないのだろうが。


「まあな。今日は量も然程なかった。それより皆揃っているのか?」


「はい、仕事がある奴以外は全員いますよ。

それと陵亥ですが、大尉階級は終えてこの時間に少佐階級に入ります。

たぶん初っ端の戒鳶から危ないでしょうが…」


「そうか」


茜陵亥、か。この女と同じく五大家で、武を誇る名家。

その次期当主なのだ、あれの腕もなかなかのものなのだろう。

それでも指折りの実力者ばかりであるこの火鉾ではそう騒ぐほどのものではないが。

俺の背後で控えるこの女がそもそも一番おかしい。


「それで?これの相手をするあの二人はどこにいる?」


少佐を難なく倒したこの女に対して中佐がどこまでやれるのか、武術に疎い俺では予想もつかないが仕方がない。ここはあの二人にどうにかこれを倒して欲しいものだ。


「お呼びですか、矜牙軍師」


「……気配を消すな」


突如として聞こえた声の持ち主はもう分かっている。

火鉾所属中佐官の一人、哨絃(ショウ・ゲン)

この男は気配を消すのが上手く、よくこうして突然声をかけては相手を驚かせるのが趣味の扱いにくい男だ。


「すみません、つい」


「……まあいい。こいつの相手をしろ。お前と、そっちにいる永莉でな」


もう一人の中佐官である明永莉(メイ・エイリ)は向けられた視線に一度頭を垂れこちらに近づいてきた。

最初から最後まで見ていたのなら絃を止めればいいものを、放っておくのだからこいつも性質(タチ)が悪い。

だが永莉の方は少なくともこちらに対しておかしな真似はせずに、程々の距離を保った態度で接してくるのでまだマシな方か。


「お前さんらは昨日仕事でここを空けてたから初対面だな。

こいつは朱玲湶。昨日から軍師付き補佐官として登用された武官だ。

玲湶、こっちの軽そうなのが哨絃、落ち着いてるのが明永莉」


志宇から簡単すぎる説明を受けた女は頷いて二人のうち片方に目を向けた。

それに応じて一人―――永莉が笑みを深め片膝をつく。

最高位の者に対する礼。

俺に対してもしたことのない所作だ。思わず俺も志宇も絃も目を剥く。


「お久しぶりで御座います、玲湶様」


「……久しぶり、永莉。

頼むから顔を上げてくれないだろうか。すごく居た堪れない…」


礼を受けた女は、心底弱り切った顔でそう言った。

そこに永莉の態度に対する困惑は見られない。


「相変わらずのご様子ですね」


「当然だと思う。

矜牙軍師、志宇大佐、そして絃も…お見苦しい所をお見せしました」


目をそらして呟き、けれどすぐに菫の瞳はこちらを見て頭を下げた。それに永莉も続く。


「いや、別に構わないが……二人は顔見知りか?」


状況に同じくついていけないらしい志宇が問えば、永莉から力強い頷きが返ってきた。

この男はあまり自分を主張せず、ただ諾々とこちらの指示に従うような者だったように思うのだが。


「我が明家は朱家門下にございますので、玲湶様とは年に数度顔を合わせる機会を頂いております」


「あぁ、朱家関連か。そういや忘れてたが明は門下だったな」


確かに五大家はそれぞれが数多くの家を門下として置いていて、言われてみれば明家は朱家の傍流だったようにも思う。

確認の意味で俺が視線を向ければ、当人である女も頷いてそれを肯定した。

それにしても仰々しい事だ。五大家はそれぞれが自らの血筋に誇りを持ってはいるが、朱家は中でも相当のものという事だろう。

――何しろ今では過去栄華を誇っていた赤家を落とし、事実上の五大家筆頭となっているのだからそれも無理はない。

つい皮肉な思いが込み上げる。今の俺は緋矜牙で、過去などもう関係のない事だというのに。


「へぇ、貴女が朱家の。初めまして、火鉾中佐官の絃です」


「よろしく。朱玲湶という」


「噂には聞いてましたけど、まさか武官になってしかも軍師付き補佐官ですか」


「俺は一切認めてはいないがな」


物珍しそうに女を上から下までじろじろと眺めた絃は、俺の言葉に首を傾げた。

こいつは言ってはなんだが、あまり頭が良くない。従って一言で全てを察しろと言う方が無理だ。


「柳栄が勝手に決めた人事だ。上官命令という強制力でな。今のこれはまぁ……補佐官見習い、とでも言ったところか」


「へぇ…」


じっと女を見つめ続ける絃に対して、横に並んだ永莉は目線を険しくさせた。


「絃、あまり玲湶様に失礼をはたらく様なら私が貴方を倒しますよ」


「俺何もしてないぞ…」


「見るだけで無礼です。そして噂などしようものなら我が明家の全力で以って潰します」


「何を!?」


「………おい、何を遊んでいる」


全く頭が痛くなる。ここまでで既に鍛錬の時間は迫っており、早く来た意味ももうなくなっていた。

そして苦言を呈してすぐに態度を改めるのなら最初からそうしていろ。


「当然のことで確認する必要もないが一応言っておく。お前達を呼んだのはこれの腕試しだ。わかったならさっさと始めろ。俺は暇ではない」


本当は仕事もすべて終えた今、やることなど何もないが嘘も方便だ。

実力的に最初に女の相手をするのは絃だろう。そちらに目配せして(それで察するとは一切思っていないが)、次いで黙ったままの女を見つめる。


「命令だ、二人をこの時間内に倒せ。出来なければ朝も言った通り、俺はお前を認めん」


傲慢とも言えるそれにも女は嫌な顔一つせず、むしろ嬉しそうに微笑んだ。


「御意に」


――本当に腹立たしい、おかしな女だ。









少し離れた場所で女と絃が互いに一礼し武器を構える。

それを意識の隅に置きつつ、俺は隣を一瞥し口を開いた。


「何か言いたそうだな、永莉」


黙って女と絃の戦いを目に映していた永莉は意味深に微笑む。

志宇は陵亥の方を担当しているので既に立ち去った後。従ってこいつの話を聞くのは必然的に俺だけになる。

永莉は先程から話の最中、じっと俺を見つめていた。恐らく機会を窺っていたのだろう。


「――無礼とは存じておりますが、ひとつだけ申し上げたいことが御座います。

私は軍師の率いる火鉾の中佐位をいただく身ですが、それ以前に朱家門下の一族です」


「……」


黙ったまま沈黙で先を促す。そうすれば永莉は伏せていた目蓋を上げ、挑戦的な光までそこに宿しつつ慇懃に告げた。


「――玲湶様は外の者が何を言おうと間違いなく我らが朱家の長姫。あまり、侮られませんよう」


その言葉に微かな違和感を抱いた。だがそれを口にする前に永莉が言葉を続ける。


「そしてこれは私からの忠告でもございますが、我ら朱家一同は誇り高く血による絆を至上とし、ゆえに一門を大切に思う者ばかり。

玲湶様が軍師を自らが仕える方であると認識しそれを偽りなく表していればこそ、現状我等は貴方様に対しまして何を言うでもございませんが――それでも、思うところはございます。どうか朱家の逆鱗に触れることのないようにと、私は願っております」


「ほう?思うところがあるというのはお前もか?」


それには答えず、永莉は深く頭を垂れた。


「差し出がましい事を申しました。ご気分を害されたのなら謝罪いたしますが、これが朱家の総意であることもお忘れなきよう。

――では、絃が降りましたので私もこちらを辞させて頂きます」


その言葉にチラリとそちらを見れば、疲れた様子も見せずに立つ女の足元で絃が確かに膝をついていた。俺達が話している僅かの間に勝敗が決してしまったのだろう。

凪いだ瞳がこちらを捉え、少し伏せられる。

遠い距離にいたとして、あれは俺の視線を感じ取る。

すぐに視線をそらした俺に小さく笑い、永莉はもう一度頭を下げ女のもとへと向かった。




恐らく、永莉とて倒されてしまうのだろう。それは本家である朱家の者に対する遠慮でも何でもなく、ただ実力のみで。

そして明日の朝にはあの女は志宇と戦うことになる。

それで勝つことが出来るにせよ負けてしまうにせよ、あれは志宇よりも下の位階だ。どちらにせよ武術に関することであれを拒むことは出来なくなってしまう。

そしてそうなればあれは俺の補佐官として傍に侍るのだろう。


有能な武官。高い実力、深い知性。貴い血筋。随所に渡る心遣いに、真っ直ぐな性根。

――だが、その全てが俺を戸惑わせ恐れさせ苛立たせる。

どんなに優秀だとしてあれも紅国の貴族、それも五大家の出身だ。ならば俺の事情を知らぬはずはなく。

菫の瞳が裏では俺を嘲っているようで。その表情の奥で虎視眈々と隙を窺っているようで。

弱い己。忌避するべき思考だ。けれど同時にそうしなければ、俺はこの場所で生きていくことなど出来はしない。


だから、俺は朱玲湶を拒む。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ