十三歳④
こんな綺麗な人がいるなんて、世界は思った以上に広いらしい。
美女だと評判の姉ナーディアの美貌なら見慣れていたのに、その女性を前にした時に、クレアは思わず惚けてしまった。
「はじめまして、エフェリーネと申します。今日からクラウディア様の礼儀作法の教師を務めさせていただきますわ」
貴婦人がクレアを完璧なカーテシーで出迎えた。
バルトールでは見かけない珍しい白銀色の髪といい、どこか人間離れした雰囲気と繊細な美貌の美女だ。
彼女は『エフェリーネ』としか名乗らなかったが、クレアはもっと詳しく彼女について知っている。
彼女は、護国卿の腹心であるリーフェフット卿の妻、レディ・エフェリーネ。そして――革命により滅ぼされたスヘンデル王家の元王女でもある。
『彼女なら礼儀作法や刺繍、詩作、楽器の演奏、その他もろもろ、貴婦人の嗜みなら何でもござれだ。君の先生にはちょうどいいかと思って頼んでおいた』
『私はいいですけど、それでいいんですか!?』
『えっ、何が?』
『いや……そのう、レディ・エフェリーネの気持ちとか……』
さすがに『革命で全てを奪われたお姫様に護国卿個人の用事まで押しつけるなんて、どんな太い神経してるんですか』とは言えなかった。
(でも……護国卿に対して思うところがあるわけじゃなさそう……?)
リーフェフット邸の応接間で、淑やかな笑みを湛えたエフェリーネから今後の講義予定について説明を受けていると、部屋に飛び込んでくる影があった。
「おかしゃま! いたぁ!」
闖入者は幼児特有の高い声で呼びかけてきた。
声の発生源を探して、椅子の座面にも満たない背丈の幼児を捉え、クレアはほうっと感嘆の息をついた。
(なにこの子、妖精!? すごくかわいいっ!)
幼女は肩までの細い白銀の髪をさらさらと揺らしている。
泣いた後なのか、潤んでいる大きな瞳は銀色だ。
「侍女に任せておいたのだけれど、振り切ったのね。娘のリリアンネです。仲良くしてくださると嬉しいわ」
「娘!? あっ、『おかしゃま』って『お母さま』のこと!?」
妖精めいた容姿のエフェリーネに子どもがいることに驚いたが、彼女は人妻なのだ。
むしろ、エフェリーネをそのまま小さくしたような幼女が彼女の娘だというのは、至極当然のことに思える。
バルトール国王は艶福家で、クレアの兄姉は山ほどいたが、末っ子のクレアが年下の子どもと関わる機会は無かった。
『弟妹』持ちに憧れる者として、愛らしい幼女と親公認で仲良くしていいなんて、願ったり叶ったりである。
「よろしくお願いしますね、リリアンネ様」
「ちあう、りり! りり、って、ゆって!」
「リリ様? ……あっ、ごめんなさい、泣かないで! よろしくね、リリ!」
「うん。りり、ね。ちあうの、やあよ」
満足げな笑みを浮かべたリリアンネは、とことこと彼女の母親に駆け寄ってスカートに抱きついた。
「よかったわね、リリ。でも、きちんとご挨拶して。お客様なんだから」
「おきゃくちゃ? おねしゃま、だあれ?」
「私はクラウディア。クラウディア・ハウトシュミットです」
「くあう……うう……」
「ああ、えっと! 『クレア』です!」
「くれあちゃん! りり、よ! またね!」
名乗った『クラウディア』の形に舌が回らず、くしゃりと顔をゆがめたリリアンネを見て、クレアは慌てて愛称を教えた。
うまく発音できたリリアンネはにこにこと上機嫌に笑ったまま、駆けつけた侍女に回収されていった。
「ごめんなさい。ご迷惑でしたでしょう?」
「いいえ、ちっとも! それに『クレア』は母が私を呼ぶときの名前だったので、『クラウディア』より馴染みがあるんです」
気遣いのための嘘ではなく、本当の話だった。
洗濯女だった母には学が無く、娘が生まれた際に、国王から建国以来の由緒のある『クラウディア』という名前を賜っても『なんだか仰々しい名前』としか思えなかったらしい。
母が王宮を辞してからは、クレアに用がある者は『王女殿下』や『薄茶色の』と言えば済んだのだから、名前を呼ばれる機会自体がほとんど無かった。
だから、クレアにとって『クラウディア』は他人の名前のように思える。
(ああ、でも、レオカディア姉様だけは『クラウディア』と呼んでいたわ)
クレアがバルトール王国での話をすると、エフェリーネは得心がいったような顔で言い出した。
「わたくしも『クレア』と呼んでいいかしら? あなたのお母様に取って代わるつもりはないけれど、この国で過ごす上で頼れる小母くらいになりたいの」
「エフェリーネ様にそんなっ、畏れ多い……!」
「わたくしのことも『エフィ』と呼んで?」
絶世の美女にそっと手を握られ、懇願されて、逆らえる者がいるだろうか。
眩しい光の前で目を細めるように、美貌から必死に顔を逸らしつつ、クレアは喉奥から声を絞り出した。
「うぐっ……エフィ姉様、で。これ以上は無理です!」
彼女の頼みは断れないが、クレアの『小母』にしては、エフェリーネは若く美しすぎる。
捻り出した折衷案を聞いて、彼女は嬉しそうに表情を綻ばせた。
「ありがとう、クレア。あなたを歓迎するわ」
☆
「それでっ、午後は庭でお茶会をして。テーブルマナーを間違えてしまいましたけど、楽しかったです!」
晩餐の席で、クレアは興奮もあらわにその日の出来事を報告した。
「良かったね。レディ・エフェリーネは君みたいな子ども相手には甘くて優しいだろうし、良い気分転換になったんじゃない?」
「うん? エフィ姉様は甘くないですよ。茶器の持ち方から菓子を手に取るタイミングまで、笑顔で何度も『やり直し』って言われてしまいました」
「……そうなの?」
流麗な手さばきで細切れにした肉片を口に運ぶ合間に相槌を打っていたフレッドは、ぴたりと動きを止めると、クレアの顔をまじまじと見返した。
「ビシバシ叱られました」
「へえ、意外だな」
「なんでそうなったかって言うと……あっ、そうだ! エフィ姉様からの伝言があったの、忘れてました。ええと、まず……『あなたには感謝しているけれど、好きか嫌いかの二択だと嫌いよ』と」
「ゲホッ!」
クレアは、紳士らしくなくむせたフレッドには頓着しなかった。記憶を手繰って伝言を思い出すことに集中していたからだ。
「『あなたに不満を持つのはわたくしだけではないわ。あなたは敵を作りすぎる。少しは自分を大事にして、自分のために、付け込まれる隙は無くしなさい』だそうです。……隙だらけの妻は、あなたの弱みになるとも言われました」
だから、クレアがフレッドのことを妻として支えたいと思うなら、隙のない貴婦人にならねばならない、と言われた。
『もっとも、ハウトシュミット卿の意向による結婚なのだから、あなたが彼の都合に付き合う義理もないけれど』
投げ出したいなら無理強いはしないとエフェリーネは言っていたが、クレアにも『幸せになる』という目標がある。
『隙のない貴婦人』なら悪人にも舐められにくいだろうから、貴婦人修行はクレア自身のためにもなるはずだ。
そう考えて、クレアが『遠慮なくビシバシ厳しく鍛えてください!』と言うと、エフェリーネの目を丸くさせてしまった。
「……そうか。彼女くらいは君を甘やかしてくれるかと思ったんだけどな」
クレアが貴婦人らしくなれば、クレアのためにもフレッドのためにもなるはずだ。
彼はてっきり喜ぶと思っていたのに、何故だか浮かない顔をしていた。
「君は、僕のことまで気負わなくていい。僕が頼んで君にこの国に来てもらったんだし」
「私が『自分好みの幼い少女だから』ですか? それだけで充分だと?」
「……そうだね」
「だったら、手間をかけて私を育てようとするのはなぜですか? エフィ姉様は『護国卿は自分にとって得にならないことはしない』と言っていました」
「会った初日にどんな話をしてるの、君たち!?」
「話題も本番のお茶会想定だったので。『貴婦人のお茶会で飛び交うのは国家機密か下世話な話のどちらかよ』とのことでした」
「嘘でしょ!? もっとこう、ふわふわで可愛い話をしてよ!」
焦っているフレッドを見るのは初めてだった。
彼はいつも余裕綽々で、底知れない大人に見えていたのに、今の彼はなんだか可愛い。
今日、フレッドが見せた反応――驚きも困惑も落胆も、意外な一面だった。
いや『意外』も何も、これまでのクレアの中には『フレッドとはこういう人だ』という像自体が無かったかもしれない。
「夫婦とは、いかなる時も愛し敬い慰め助ける関係なのでしょう? 私はあなたの妻だもの、あなたのことを知りたいわ」
彼を知りたい。学んで賢くなること、知識を得ることは素晴らしいことだとフレッド自身が言ったのに、どうして彼はクレアに『彼自身』を教えてくれないのだろう。
それもこれもクレアが子どもだからだろうか。
エフェリーネのような大人の女性が相手なら、彼は『可愛い』部分を見せてくれるのだろうか。――クレアの考えを裏付けるように、フレッドは深いため息とともに言った。
「……夫婦夫婦と言うけど、子どもは知らなくていいこともある」
「あなたが、子ども相手に『幼い少年少女が好み』と言って結婚したくせに――」
「だいたい、君は僕のことを『偉い人』程度にしか思ってないんじゃないの? いつまでも『フレッド』って呼ばないし。『夫婦』なら普通名前で呼ぶよね」
「それは……っ」
話を露骨に逸らされたのは分かったが、彼に話す気が無いのならこれ以上は追及できない。
特に、彼から課された『名前で呼ぶ』という課題を果たせていないと責められている今は。
「さっきからレディ・エフェリーネを『エフィ姉様』と呼んでるし、君も彼女に『クレア』と呼ばれてるんだって?」
「なんで知ってるの!?」
「他からも報告は受けてる。君に危険思想を吹き込む輩が教師陣に紛れ込んでいたらまずいからね」
「それって……?」
「初めて会った女性とは親しく名前を呼び合った。それで? 僕は君の『夫』なんだけど?」
彼は美しく押しの強い笑みを浮かべて、正面からクレアを見つめて囁いた。何をそんなに躊躇うのかと、決断を唆す悪魔のように。
「ほら、呼んで?」
「フ……フレ、フレデリック様」
「ぱっと呼ぶには長いでしょ」
「フレッド兄様」
「なんかそれはダメな気がするから却下」
「フレッド様」
「呼び捨てでいいって」
「……フレッド!」
やけくそになって、クレアは彼の名を叫んだ。
頰がじわりと熱いのが分かる。きっと真っ赤になってしまっているだろう。
「何だい、クレア」
蕩けるような笑みと甘い声を向けられて、クレアの小さな心臓はどきどきと飛び跳ねた。
彼が見た目通りの麗しの貴公子でないことはさすがに理解して、思いきり警戒していたのに、それでもときめかせてくるのだから――ずるい。
「……美形ってずるいです」
「愛らしい君に言われるなんて光栄だな」
「ちょっと! ぞわぞわするから、その声で言うのはやめてください!」
「なんのこと? 僕の声は嫌い?」
「分かってやってるでしょ!」
わざとらしく作った『貴公子の声』でからかわれて、クレアが全身の毛を逆立てる勢いで嫌がってみせると、フレッドはおかしそうに笑う。
喧噪にまみれた晩餐は珍しく難問も出題されず居心地が良いだけで、だからこそクレアの心には疑問が残った。
エフェリーネはこうも言っていたのだ。――『護国卿は無駄なことはしない。彼の行動には必ず意味がある』と。
(……報告は私以外の人からも受けているなら、フレッドは何のために私と一緒にごはんを食べてるの? こんな『意味のないおしゃべり』までして)
彼曰く『この晩餐は進捗確認のため』だったのに。
つかみかけた答えが、指先からするりと逃げていく心地がした。




