十三歳③
初夜以降もフレッドとクレアが床を共にすることは無かった。
(というか、フレ……護国卿閣下は、眠るのかしら)
バルトール王国で『スヘンデルの護国卿』が恐れられていたのは遠い国の噂に派手な尾鰭が生えたせいだと思っていたが、いざ嫁いでみても『恐ろしい』という印象は変わらない。
むしろ近くで見るほど畏怖の念は強まって、クレアは『夫』を『人と異なる理で生きる化け物』かと疑っていた。
だって、そうでなければ、ずるすぎる。
「どうかした? 苦手な食材でも入っていた?」
「っ、すみませんっ! 食べます!」
食卓の向かいのフレッドを眺めてぼうっと考え込んでいるうちに、クレアの手の動きは止まっていたらしい。
我に返って猛然と美食の皿を空けていくクレアを、彼はくすくすと笑いながら見ていた。
護国卿の多忙さは傍で見ているだけでも分かるのに、彼は週に一度は必ず、クレアと夕食をとる機会を設けていた。
彼曰く『妻が自分好みに育っているかの進捗確認』の時間らしい。変態の性癖は理解しがたい。
(それにしても……やっぱり神様は不公平だわ)
白身魚のソテーをナイフとフォークで切り分けているフレッドをクレアは再度ちらりと盗み見た。
彼は裕福な商家の出身だと聞いたが、彼の所作は洗練されていて、見た目やふるまいの優美さは、王族と並んでも見劣りしない。その上、弁が立ち人望もある資産家だ。嗜好や性格に多少問題があるとはいえ大した欠点ではない。
神様に多くを与えられすぎだ、と羨ましく思った。
「今日の君の時間割は、一日中スヘンデル史の講義だったね。どうだった?」
二人きりの晩餐の話題は、たいていクレアが受けている講義の話になる。
フレッドの『どうだった?』は恐ろしい。初めて聞かれた時にクレアが軽率に『たいへん勉強になりました』と答えたら『どの科目のどの分野のどこの箇所がどうしてどのように勉強になったか』を事細かに聞き出された。
話を聞いて完璧に理解したつもりでも、いざ人に伝えようとすると理解の抜け落ちに気づく。
言葉が途切れる沈黙が気まずいから、クレアは先回りして『講義を受けても分からなかったこと』を彼に質問するようにしていた。
「えっと、不思議に思ったことがあるんですけど」
設定されていたスヘンデル史の講義は、建国からたった三年のスヘンデルの歴史よりも、その前身であるスヘンデル王国の説明に重点が置かれていた。
建国王ウィルヘルム・ヴォルフラムに始まり、暴君レオポルト七世に終わるスヘンデル王国の三百年は、バルトールの国王が声高らかに誇る二百年の歴史よりも長い。
歴代十六人のスヘンデル国王の功罪について講義を受けたとき、クレアは微かな引っかかりを覚えた。
「ほとんどの王様は失敗もしたけど、いいこともしていて。いい王様たちもいっぱいいたのに……なんで王国はあっさり滅んでしまったのかなって」
「なるほどね? スヘンデル王国を滅ぼした僕はその答えに一番詳しい。質問する相手にはうってつけだ」
「すっ、すみません!」
「どうして謝るの? 君の見る目を褒めたんだけど」
飄々とした態度を見ると忘れてしまうが、護国卿ハウトシュミットは革命軍を組織してスヘンデル王国を滅ぼしたのだ。
本来『簒奪者』と呼ばれてもおかしくない男なのに、人に警戒させないところが一番恐ろしいのかもしれない。
「『最後の国王が先祖の偉業も打ち消すくらいに愚かな暴君だったから』と説明するのは簡単だ。実際これからは国立機関ではそう教えるようにと僕が指示を出したから、数年後にはそれが『正解』になっているかもしれない」
「指示? 正解になる?」
歴史上起こった出来事は一つしかないはずなのに、どういうことだろう。
まるで『これから正解が決まる』と言わんばかりの言いぶりだ――クレアが首を傾げると、フレッドは笑った。
「『歴史は勝者が作る』と言うけど、あれは正確じゃないよね。敗軍の将にも賞賛を浴びて物語に残る人気者はいる。歴史を作るのは、最後まで生き残った者や後世を生きる者たち。死人は口を利けないから、そうやって作られた物語に反論できないだけで」
「歴史を、つくる……?」
「僕にとって、過去の『偉大なスヘンデル国王』の逸話は都合が良かった。そういう基準で『遺すべき歴史』を選び、僕にとって都合のいい物語を作った」
スヘンデル王国の最後の国王レオポルト七世は『国民共通の敵』だった。けれど、歴代の国王の中には民から愛された者も多かった。
だから王国を滅ぼして新たな国を建てた護国卿は考えたのだ。
――革命によって民の心の拠り所まで奪う必要はない。民の心を支配したいなら王家への素朴な敬愛も全て取り込むべきだ、と。
「『過去の国王と国民は悪くない、暴君とその手下たちだけがこの国を悪くした。スヘンデル新政府は過去の名君の意志を継ぎ王国の腐敗を正す存在だ』という物語を支配に使った」
「嘘をついて、作り話をしたってことですか!?」
「嘘ではないんじゃない? たとえば『賢王』こと第十代国王レオポルト一世は救貧法の制定で知られる名君だけど、知ってる?」
「その人の話も聞きました。有名な『いい王様』なんですよね?」
「ちょうどいいね、講義をきちんと受けていたかのテストだ。レオポルト救貧法の内容を説明せよ」
彼との会話は口頭試問になるから気が抜けない。クレアは必死に講義の内容を思い出して答えた。
「えーっと、貧しいひとを『働ける人』と『働けない人』に分けて『働ける人』には王立作業所での仕事を与えて『働けない人』には無料の食べ物や寝床を与えるっていう……?」
「だいたい正解。ちゃんと聞いてたみたいだね。えらいえらい」
「む……っ、それくらいできます!」
「そう? じゃあ、応用編だ。――レオポルト救貧法の立法目的は?」
「それは『貧しいひとを救うこと』じゃ……?」
法律の名前からして明らかだ。でも、彼がそんな素直な問題を出すわけがないことは、短い付き合いでもわかっている。
今回はどんな引っかけが潜んでいるのかと疑いの視線を返すと、フレッドは歌うように言った。
「たとえば、同年のドーイの乱を起こしたのは数万の食いつめた貧民だった。たとえば、王立作業所は『働ける人』のために作られたはずなのにご親切に寮まで完備されていて外出も許可制、長時間労働の終身雇用が原則だった」
「それって……」
「主目的が『反乱分子の隔離による治安維持』なのは明らかだ。それに聞こえが良い『弱者救済』の皮を被せただけ。おまけに彼が救貧制度に巨費を費やしたせいで財政は悪化し、次代以降の王は収益性の高い土地と労働力を求めて対外戦争路線を取った。……はたして、本当にレオポルト一世は『いい王様』だったのかな」
反乱分子を粛清して強制労働に従事させた冷徹なる支配者。財政難と戦争を招いた愚王。弱者に優しい慈悲深い名君。――どの姿も真実だ。
ならばその中から自分にとって都合がいい像だけを取り出しても『嘘』にはならないはずだと、フレッドは笑った。
「君はどう思う? レオポルト一世は名君か暗君か」
「……わかりません」
「だよね。だけど国民からの人気は高いからさぁ、名前を利用させてもらおうかと――」
「いい王様かはわからないけど、でも、悪いひとじゃなかったと思います」
『わからない』と言いながら『悪い人ではない』と断言したクレアを、フレッドは目を丸くして見つめ返してきた。
「……どうして?」
「だって、新しいことをしようとせずに、決まった通りにやる方が楽だから」
決められた流れに流されることがどれだけ楽で快適なのか、クレアは知っている。
『自分で新しい道を切り開け』と言われた時の不安と絶望だって、先日目の前の男に突きつけられたから、分かる。
「新しいことをするのは怖いもの。しなくても済む苦労をわざわざしてまで、全然楽しくない怖いことをするなんて、悪いひとにはできないわ。だから賢王はきっと良いひとだったんですよ」
そう締め括っても、フレッドはしばらく言葉を発しなかった。不審に思ったクレアが声をかけるまで、ずっと。
「あの……?」
「なるほどね。……そうだといいね」
「どうです、当たってますか?」
「ちなみに僕も正解は知らなーい」
「えっ」
「百年以上前の人だよ? 会ったこともないのに、彼の人となりなんて知るわけないでしょ」
「そうですけど! じゃあっ、なんで聞いたの!?」
「生徒から良い答えが出たらしれっと拝借しようかと」
「騙すなんてずるい!」
「大人はずるいものだよ」
本当にずるい。『大人』の風上にも置けやしない。
クレアがじっとりとした非難の眼差しを向けると、フレッドは爽やかに微笑み返してきた。
「君は騙されやすい。人の心は目に見えないから、外から見える姿にしっかり目を配っておくこと。いいね?」
「……騙してきた人にお説教されても」
「ふふ。痛いところを突いてくるね、僕の妻は」
聞く者をときめかせる甘やかな響きの『僕の妻』にもそろそろ呆れた笑みを返せるようになってきた。
どうせ彼はクレアのことを『近所の子ども』程度にしか思っていないのだから。
「極論を言えば、レオポルト一世が善人か悪人かなんて関係ない。大事なのは『彼が行ったことは善行と評価されるか』だ。相手に伝わらない心は無いのと同じ、というのが僕の持論なんだけど、賢王には詩作の一件があるから」
「詩作ですか?」
「彼は詩作が趣味でね。こっそりと本心を綴った詩が後世まで伝わっている。そういう例もあるから『内心が相手に伝わらない』とは断言できないなって」
「こっそり書いたものなのに、どうしてどんな詩だったか分かるの?」
「良いところに気づいたね。彼の妃のエルネスティーヌ妃は夫のことを深く、病的なほど愛してたんだって。彼の捨てる紙片まで管理するくらいにね」
「急に怖い話をするのはやめてください!」
「やだなあ、当時の宮廷記録にも残ってる実話だよ」
「余計に怖いです!」
にやにや笑いのフレッドは、クレアにひとしきり悲鳴を上げさせて満足したのか、行儀悪く卓に頬杖をついて言った。
「……王都小離宮の図書室に、彼の詩集がある」
「レオポルト一世の、詩集?」
「そう。捨てられた紙片を王妃が集めて写した本。『賢王』なのに詩のセンスは皆無なのが笑えて好きなんだ。時々落ち込んだ時に読むと元気が出る」
「楽しみ方が独特なうえに失礼すぎる!」
「君も見れば分かるって。入室許可証はあげるから、死ぬほど暇な時にでも、読んでみて」
詩を書き散らした紙片をきちんと捨てたのに、病的な愛を向けてくる王妃に勝手に拾い集められて、勝手に詩集の形にまとめられて、百年以上後の人間に虚仮にされているなんて、あまりにも賢王が気の毒だ。
(……たしかに、そう言われると読みたくなるけど)
さっそく明日の予定を思い浮かべて図書室を訪れる算段をつけているクレアからは、賢王も同情されたくないかもしれない。
クレアは顔も知らない昔の名君に、心の中で謝っておいた。
もっとも、その翌日にはもっと切実に賢王に謝りたい気持ちになったのだけれど。
『笑えるから落ち込んだ時に読むと元気が出る』とフレッドは言っていたけれど――。
「嘘ばっかり……また騙されるところだったわ」
クレアが図書室で手に取った本は、古いスヘンデル語で書かれていた。
半年間の婚約期間の付け焼き刃の知識では、百年以上前の古文の文語表現までは分からない。辞書を片手に冒頭を読んだクレアは呟いた。
『僕は国王になるはずじゃなかった。今でも向いているとは思えない。ただ『他に誰もいないから』仕方なく国王を続けている』
そこに記された散文詩は、ある青年の心の現れだ。
『賢王』という堂々たる肩書きが似合わない、繊細で平凡な悩める青年の内心の吐露。そこには、クレアが期待した面白おかしく笑える詩なんて書かれていない。
フレッドに『騙したのね!』と食ってかかるなら、そこで詩集を読むのを止めてもよかった。昔の人の心の中に土足で踏み入ることへの躊躇いがあるなら尚更。
それでも読み進めたのは――詩に込められた気持ちに引き込まれたから。
『逃げてしまいたい。僕みたいな地味な男の頭には、王冠置き場としての価値もない。重い冠さえ脱ぎ捨ててしまえば、田舎の羊飼いにも馴染めるだろう』
後に調べて知ったことには、レオポルト一世は当時のスヘンデル王家の傍系の出身で、戦乱で王位継承権者が死に絶えたことにより王冠を得た王だった。
国王になるための教育も受けていない王家の血を繋ぐだけの種馬だと、周囲に軽んじられた彼は、心の軋みに耐えかねた時に気持ちを紙片に吐き出した。
うまくいかない国策と思わしくない健康と――報われぬ恋を嘆く気持ちを。
『でも、僕が国王でなければ、エルネスティーヌの夫となることはなかったのだ。彼女は『スヘンデル王妃』になるためにこの国に来たのであって、僕の妻になりに来たわけではないのだから』
賢王といえど、件の王妃の本性には気づいていなかったのか、それともこれは王妃が夫を愛する前に書かれた詩なのかもしれない。
元々は従兄の婚約者だった姫君を繰り上げで娶らされた青年は、王妃への罪悪感と劣等感に苦しんでいるようだった。
彼自身が王位を欲して従兄を殺したわけでもなければ、彼自身が妃を不幸にしたわけでもないのに。
『どうせ政略結婚だ、心など望まなければ楽になれるのに。彼女に恋をしてしまった。愛してしまったから、彼女の隣に立つ資格が欲しいんだ。ああ、どうしたら彼女にふさわしい夫になれるだろう』
恋や愛にはそれほど恐ろしい力があるのかしら、と思って。
その一文は、クレアの胸に長く残った。




