表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

6/6

第六章:可変式スライドジョイント機構保守および新校舎基礎着工事案

【起案日】 令和〇+一年 一〇月二四日

【宛 先】 市役所 都市整備部 施設課 神林洋平 殿

【差出人】 市立見晴台中学校長 権藤泰造(※文責:理科教諭 御子柴哲)

【件 名】 校舎・体育館間連絡通路における「可変式スライドジョイント機構」の月次保守点検、および特殊潤滑油の購入枠拡張に関する稟議

【要 旨】

本校主校舎の継続的な北側水平スライド現象に伴い、体育館との乖離距離は本日時点で五メートルを超過した。

現在稼働中の「レール式スライド延長渡り廊下」は、本校校務技術員による毎朝の引き出し(アジャスト)作業により、生徒の通行安全基準を維持している。しかしながら、総延長の増加に伴い、躯体を支えるH鋼レールおよび大型ベアリング部にかかる摩擦応力が当初の設計想定を上回りつつある。

つきましては、金属疲労およびキシミ音の低減、ならびに機構の円滑な動作を担保するため、高粘度工業用潤滑グリスの月間購入枠の倍増、および施工元である地元鉄工所による定期強度診断費用の追加計上を要請する。


【添付資料:校舎基礎部変位観測記録】

・観測日数:五二三日

・累積移動距離:五二三・〇〇センチメートル

十月下旬。秋の冷気が肌を刺し始めた見晴台中学校に、重機の整備工場でしか聞けないような重厚な金属音が響き渡っていた。


「ガキィン……ッ! ギィ、ギギギ……」


始業チャイムが鳴る四十分前。校舎と体育館を繋ぐ渡り廊下のド真ん中で、作業着姿の校務技術員、茂木健吉が、身の丈の半分ほどもある巨大なトルクレンチに体重をかけ、額に汗を浮かべていた。


「よし、ベアリングよし。ジョイントの噛み合わせ……よし。今日も延長完了だ!」


茂木はレンチを肩に担ぎ、満足げに足元の鉄板をドンと踏み鳴らした。彼の立つ場所は、もはや一般的な中学校の「廊下」という概念からは完全に逸脱している。異常移動の発覚から約一年半。校舎は崖に向かって五メートル以上も後退している。コンクリートとリノリウムでできていた旧来の渡り廊下はとうの昔に分断され、崩落の危機にあった。


そこで茂木が、市役所の神林を通じて強引に捻出させた予算を握りしめ、地元の職人気質な鉄工所の親父と図面を引き合い、連日徹夜で溶接して作り上げたのが、この『無限スライド延長機構付き・蛇腹式渡り廊下』である。外観は、電車の連結部分にあるような分厚い全天候型のほろで覆われている。そして床下には、戦車の橋でも架けるのかと見紛うほどの極太のH鋼レールと、特大の工業用ベアリングが仕込まれていた。


茂木は毎朝出勤すると、このレールのロック機構を外し、巨大なレンチのギアを回す。するとテコの原理により、伸び切った鉄の橋が、校舎の移動分だけズズズ……と音を立てて滑り出し、見事に隙間を埋めるのだ。


「茂木さーん、おはようございまーす!」「おっ、今日の廊下、昨日よりちょっと長くなりました?」


登校してきた生徒たちが、工業用グリスの匂いが漂う鉄の橋を渡りながら、呑気に挨拶をしていく。


「おう、おはよう! 足元に気をつけろよ。継ぎ目の段差、また少し削って平らにしといたからな!」茂木が笑顔で手を振り返す。


「やべえ、体育館までの距離がまた伸びたわ。移動教室のダッシュのタイム測ろうぜ!」「えー、これ私たちが卒業する頃には十メートルくらいいくんじゃない? マジでウケるんですけどー」


生徒たちは、足元の鉄板が鳴る音を面白がりながら、軽快に駆け抜けていく。彼らは、自分たちの校舎が原因不明のバグにより崖に向かって絶賛巡航中であるという恐ろしい事実を、完全に『日常のルーティン』として受け入れていた。プロパンガスの外壁ぶら下げやグラウンドのバイオトイレといったインフラの激変を、「地盤沈下に伴う大規模改修」というもっともらしいパッケージで隠蔽し続けているおかげで、生徒たちにとってこの異常事態は、単なる「うちの学校のちょっと不便で面白いギミック」程度にしか認識されていないのだ。


「人間の適応能力というのは、時に熱力学第二法則すら凌駕するらしいな。エントロピーが増大しているのは校舎の隙間ではなく、彼らの図太さだ」


白衣姿の御子柴哲が、冷めたコーヒーの入った紙コップを片手に、渡り廊下の入り口からその光景を眺めていた。ポケットの中のスマートフォンが震え、画面には市役所の神林からの着信が表示されていた。通話ボタンを押すと、鼓膜を劈くような怒鳴り声が漏れ出す。


『五百二十三日で五百二十三センチ! 毎日一センチなんだから日数が分かれば距離は小学生でも計算できるって、五百回は言ってるだろうがクソが!!』「おはよう神林。血圧の高さを確認する朝の挨拶は済んだか。潤滑グリスの追加予算はいつ下りる」


もはや様式美と化した同級生からの罵倒をBGM程度に聞き流し、御子柴は本題に入った。この一年半、二人は互いの精神を削り合いながら、行政と物理法則の隙間を埋める不毛な実務をこなしてきた。最初の頃の驚きや混乱はとうに摩耗し、今やある種の諦念を伴う「作業」へと変質している。


『うるせえ、今それどころじゃないんだよ! グリス代くらい俺のポケットマネーで払ってやるから、お前もさっさとグラウンドの南側に来い!』「現場でトラブルか」『ゼネコンの所長が、工期圧縮のしわ寄せで完全にキレてんだよ! こっちの胃壁はもうコンクリートミキサーで撹拌されてるみたいにボロボロだ!』


御子柴は通話を切り、窓の外――グラウンドの南側へ視線を向けた。強固な岩盤で構成され、変位が観測されていない「安全地帯」。そこに、総工費数十億円を投じた『見晴台中学校 新校舎』の巨大な建設現場が広がっていた。


神林が教育委員会を脅迫し、国から予算をもぎ取ってから数ヶ月。設計と施工を一括発注し、同時並行で進める「DBデザインビルド方式」という劇薬を打ち込み、さらに工場で製造したコンクリート部材を現場で組み立てる「PCaプレキャスト工法」を採用することで、通常六年かかる工程を無理やり一年七ヶ月圧縮し、着工に漕ぎ着けていた。


御子柴が現場へ赴くと、安全ヘルメットを被った神林が、分厚い図面を丸めて握りしめ、作業着姿の現場監督と唾を飛ばし合っていた。


「だから! この工程表じゃ、養生期間が全く足りねえって言ってんだよ! いくらPCa工法で部材を工場から持ってくるっつっても、土台になる『ベタ基礎』だけは現場で生コン打たなきゃならねえんだぞ!」現場監督がヘルメットを脱ぎ捨てて怒鳴る。「N値五十の岩盤に直接基礎を打つのはいい。だがな、生コンを一気に流し込んで、もし『ジャンカ(充填不良)』が出たらどうすんだ! 接合部の強度が落ちて、後から積むPCaの柱が傾くぞ!」


「ジャンカが出ないようにバイブレーターで死ぬ気で締め固めろと言ってるんだ! やり直してる時間は一秒もない!」神林も負けじと吠え返す。「こっちは何十億もの予算を『災害復旧と同義』だと言い張って、議会と教育委員会を騙くらかしてんだ! 納期が一日でも遅れれば、市長の首と一緒に俺の首も飛ぶ! いいから今日の午後、予定通り基礎の生コンを打て!」


「無茶苦茶言いやがって……役所の人間は現場の苦労を知らねえんだ!」監督は吐き捨てるように言い残し、重機の方へ歩き去っていった。


神林は肩で息をしながら、フラフラと歩み寄り、パイプ製の仮設足場に寄りかかった。「……おい、御子柴。俺はもうすぐ死ぬから後は頼むぞ。」


「現場の職人の怒りはもっともだ。だが、お前の強引なスケジュール管理のおかげで、タイムリミットには間に合う公算が高い」御子柴は、掘り下げられた岩盤の上に張り巡らされた、巨大な鉄筋の網目を見下ろした。パイルを打つ工程を丸ごとカットし、岩盤に直接基礎を置く。理系の視点から見ても、地盤の支持力は十分であり、極めて合理的なショートカットだ。


「……なぁ、御子柴。本当に大丈夫なんだろうな」神林が、憔悴しきった顔で尋ねた。「旧校舎は杭がなかったからこそ、岩盤の上を摩擦を無視して『滑って』動いているんだろう? 新校舎も同じベタ基礎にして、もし万が一、新校舎まで動き出したら……」


「無意味な仮定だ」御子柴は、冷徹に切り捨てた。「グラウンドの南側は、旧校舎が乗っている断層のラインから完全に外れている。これまでの五百二十三日間、あそこに設置したバイオトイレも、プレハブ小屋も、ズレは観測されていない。データが安全を証明している。お前はただ、目の前のコンクリート打設に集中しろ」


「……わかったよ。データは嘘をつかないからな」神林は自分に言い聞かせるように頷き、再びヘルメットの顎紐を締めた。


   *


神林をデスマーチの現場に残し、御子柴は職員室へと戻った。彼の学内政治(ヘイト管理)の業務は、毎日のように新しい火種を生み出し、その対応で精神を削り取られている。


「御子柴先生! ちょっとどういうことですか!」デスクに座るなり、体育教師の大門が怒り肩で迫ってきた。


「渡り廊下が五メートルも伸びて、体育館への移動に異常に時間がかかるようになっているじゃないですか! これじゃあ、着替えの時間を引いたら、実技の時間が削られてしまいますよ!」


御子柴は、パソコンの画面から目を離さずに、極めて事務的に返した。「大門先生。その熱量を生徒の指導に使ってください。五メートル余分に歩いただけで文句が出るなら、体育の授業が心配ですね」


「なっ……! そういう問題じゃないだろう!」大門が顔を真っ赤にして反論する。


「むしろ、ウォーミングアップの距離が伸びたと考えれば、アキレス腱のケガの予防に繋がります。教育的観点から見ればプラスしかない。どうしても時間が足りないと言うなら、歩幅を五ミリ広げるか、教室の出発を三十秒早めるかの二択です」「屁理屈を言うな! だいたい、あの廊下の金属音もうるさくて……」


「御子柴先生、私も言わせてもらいますけどね」今度は学年主任の長谷川が、眉間に皺を寄せて参戦してきた。「最近、校舎の外壁にぶら下がっているあのプロパンガスの業者の出入りが激しすぎます。授業中にガチャンガチャンとボンベを交換する音が響いて、生徒の集中力が削がれるんですよ。どうにかなりませんか」


御子柴は、ため息を一つ飲み込み、冷徹な視線を長谷川に向けた。「長谷川先生。あのプロパンガスは、給食室のIH化によって行き場を失った理科の実験と、これからの時期のストーブの命綱です。業者の搬入を止めるということは、生徒たちに極寒の教室で震えながら授業を受けさせろという意味ですか」「極論を言わないでください! 私はただ、配慮が足りないと言っているんです!」


「配慮でインフラは稼働しません。不満があるなら、対策本部長である校長に直訴してください。権藤校長が、責任を持って『前向きに検討』してくれるはずです」


御子柴の完璧な責任転嫁パスに、二人の教員はぐぬぬと唸り、「もういいです!」と捨て台詞を残して去っていった。御子柴は、誰にも見えない角度で、白衣の上から胃の辺りをそっと押さえた。御子柴は、デスクの引き出しにしまってある小さなメモ帳を開いた。「今月の学内調整」という見出しの下に、正の字が並んでいる。今日でまた一本増えた。


大人たちの実務的攻防は、極限の綱渡りのまま、なんとか均衡を保っていた。午後三時。窓の外から、生コンクリートを積んだミキサー車の巨大なドラムが回転する音が聞こえてきた。いよいよ新校舎の巨大なベタ基礎となる数千トンのコンクリートが、強固な岩盤の上へと一気に流し込まれる。


「すべては計算通りだ。データは完璧だ」御子柴は、自分自身に言い聞かせるように小さく呟いた。


それが、関係者全員の精神を完全に破壊し、彼らに行政と法律の根幹をハッキングさせる最大のトリガー(引き金)になるとは、この時の冷徹な理科教師には、知る由もなかったのである。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ