第91話 閑話 帳簿の読めない王
※この話は番外編(閑話)です。本編の時間軸の途中、リリアーナが辺境を立て直しているころの、王都側からの一場面を、王太子アルベルトの視点で描いています。
その朝も、私の机には書類が積まれていた。
王太子アルベルトの執務室。窓は南向きで、光はよく入る。だが、机の上だけは、いつも灰色をしていた。
財政局からの報告。監査院からの覚書。地方領からの陳情。どれも紙の端が揃っていて、文字は丁寧で、香まで焚きしめてある。けれど、その丁寧さの中身を、私は半分も読めない。
数字が、並んでいる。
収支。備蓄。輸送費。前年比。私はそれを目で追い、追いきれずに、適当なところで顔を上げる。そういう朝を、もう何度繰り返しただろう。
「殿下。北部の麦の件、ご裁可を」
文官が言う。私は頷く。中身は分からない。だが、頷くのが王太子の仕事だと、誰かが教えてくれた気がする。
――かつて私の隣には、これを一目で読む者がいた。
リリアーナ・フォン・グレイス。
私はその名を、もう一年近く口にしていない。口にする理由がない、と自分に言い聞かせている。彼女は冷たく、人の心が分からず、数字でしか国を見なかった。だから私は婚約を破棄した。あの判断は正しかった。何度でもそう思う。
思うのに。
なぜ、机の上の灰色は、彼女がいなくなってから濃くなったのだろう。
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昼過ぎ、宰相グレゴールが書面を一枚持って入ってきた。
「殿下。喜ばしい報告です」
「申せ」
「財政局が、新しい備蓄の方式をまとめ上げました。倉庫の在庫を数で管理し、配る順番をあらかじめ決めておく。これにより、飢えを出さずに冬を越せると」
私は紙を受け取った。図と表が並んでいる。線で引かれた順番。受け入れの上限。台帳の写し。
どこかで見た形だ、と思った。
「これは……誰が考えた」
「財政局の総意でございます。王都の英知の結晶かと」
宰相の声は滑らかだった。滑らかすぎた。私は紙の隅に、小さな署名のようなものを見つけた。引用元、と書かれた行。そこには、北部辺境の事例、とだけある。
北部辺境。
私が、彼女を捨てた場所だ。
「グレゴール」
「は」
「これは、辺境の真似ではないのか」
「……参考に、いたしました。ですが、すでに王都の制度として整えております。誰のものでもありません」
誰のものでもない。
そう言われると、確かにそうだった。倉庫は王都のもの。麦は民のもの。順番は、誰のものでもない。
ただ、それを最初に書いた手が、この国のどこかにあるはずだった。その手の名前を、誰も口にしようとしない。
私もまた、口にできなかった。
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夕刻、聖女セシリアが祈りを終えて庁舎を訪れた。
白いローブの裾を揃え、彼女は静かに椅子に座る。平民から聖女になった少女は、この一年でずいぶん言葉を選ぶようになった。
「殿下。今日も、病の者が三人、癒えました」
「ご苦労だった。民は、君に感謝している」
「ええ。……感謝は、いただいています」
彼女は微笑んだ。けれど、その微笑みの底に、薄い影があった。
「殿下。ひとつだけ、伺ってもよろしいですか」
「申せ」
「祈りで、人の熱は下げられます。痛みも、和らげられます。けれど――」
彼女は膝の上で手を組んだ。
「倉庫の麦は、増やせません。私には、どうしても」
私は答えなかった。答えようがなかった。
「あの方なら」とセシリアは言いかけて、やめた。言いかけた名前を、彼女も飲み込んだ。
「……いえ。差し出がましいことを申しました」
あの方なら。
その先を、私は知っている。あの方なら、祈らずに麦を増やした。神に頼らず、奇跡に頼らず、ただ帳簿を開いて、数を数えて、順番を決めて。冷たいやり方で、誰も飢えさせなかった。
私はあれを、冷たいと呼んだ。民の心に寄り添わないと、責めた。
いま、王都の倉庫を守っているのは、その「冷たいやり方」の写しだった。
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夜、私は一人で執務室に残った。
机の上の灰色を、もう一度ひろげる。財政局がまとめた、新しい備蓄の方式。順番の図。受け入れの上限。
私は、それを読もうとした。
最初の数字で、つまずいた。次の表で、迷った。線の意味が分からず、私は指で何度も同じ場所をなぞった。
――殿下に帳簿の読み方をお教えできなかったこと。
彼女が去り際に言った言葉が、不意に耳の奥で鳴った。あのとき私は、それを負け惜しみだと笑った。貴族たちも笑った。
いまは、笑えない。
私は王だ。いずれこの国を背負う。その私が、国を支える紙の一枚を、読めずにいる。
誰も、私を罰しはしなかった。婚約破棄は記録に残り、彼女は遠い辺境にいる。私の地位は揺らいでいない。聖女は祈り、民は笑い、宰相は滑らかに報告を上げる。
ただ、机の上の灰色だけが、私を責め続けていた。
声を上げずに。順番を守るように。静かに。
私は紙を閉じた。閉じて、しばらく動けなかった。
窓の外に、冬の気配があった。あの女が追放されていった、北の方角の空だ。
手紙を、書こうかと思った。
帳簿の読み方を、教えてくれ、と。たった一行、そう書けばいい。
羽根ペンを取り、インクに浸し、白い紙に向かう。けれど、最初の一字が、どうしても下りてこなかった。
私は、まだ「正しかった」と思っていたいのだ。あの判断を、間違いだったと認めるには、私はまだ、王太子でありすぎた。
ペンを置く。インクの滴が、紙の端に小さな染みを作った。数字のかたちにも見えた。
灰色の机の上で、その一点だけが、夜より黒かった。
……いつか。
いつか、この染みの意味を、私は読めるようになるだろうか。
答えは出ない。
私は灯りを消した。
最後までお読みいただきありがとうございます。
本編では一度しか姿を見せなかった王都側――婚約を破棄した王太子のその後を、静かな一場面として書きました。
派手な制裁ではなく、自分の手で捨てたものの重さに、声もなく気づいていく。そんな「控えめなざまぁ」を意図しています。
本編の結末を変えるものではありません。リリアーナの物語は、本編で完結しています。
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