誰かの物語では私は悪役
ドアを3回ノックする。
これもうちの部署にある暗黙のルールである。ドアを2回ノックするのはお手洗いに入ってますか?という意味があるため、失礼であるという、嘘か本当かわからない、本当であっても対して誰も気にしていないであろうルールに則りノックをした。
どうぞという声が聞こえたため、恐る恐る部屋の中に入る。
『失礼します』
「桜井さん、こっちに来て」
足を踏み入れた瞬間震えるような違和感を感じた。
理由は明白である。いつもは止まったら死ぬのかと思うぐらい、テキパキと働いている部長がコーヒーを飲みながらにこやかに手招きをしているからだ。
『お呼びでしょうか』
怯んでいても仕方がないため、なるべく感情を表情に出さないように笑顔の仮面を貼り付け部長の横へ向かう。
「こちらが先程お話しさせていただいた桜井でございます。私が大変信用している部下であり、この企画でもお役に立てると思います。是非この桜井も交えてもう一度ご検討いただけませんか」
部長は私のことを手の平で指し示し、正面に座る取引先であろう男性に向かって、大好きな人の話をするかのように紹介した。
嘘しかない私の紹介文に若干の嫌気がさしたが、社会人のルールを守り名刺を取り出す。
『はじめまして、お世話になります。私、企画部企画担当をしております、桜井と申します。』
「桜井さん、お世話になります。この度カワイイ研究室担当となりました、私、藤川と申します。こちらこそよろしくお願い致します」
とてもにこやかに私の名刺を受け取った男性は、ピンクまみれの可愛らしい名刺を差し出してきた。
『頂戴致します』
受け取った名刺には、藤川さんの名前と同じくらい大きく、カワイイ研究室と書かれており、裏面にはアプリのQRコードとカワイイキャラクターが印刷されている。
『カワイイ…研究室…』
確か、藤川さんは化粧品メーカーの営業だったはずなのに…研究室…?
頭に大きなハテナが浮かぶ。
「ご存知ありませんか」
急な問いかけに、心臓が軽く跳ね上がる。藤川さんの眼鏡越しから伝わる値踏みするような視線により言葉が詰まった。
「いえ、そんなことはありません。カワイイ研究室は大学生から働く女性の間で爆発的な人気ですし、ファッションだけではなく、メイク、DIY、旅行など女性の関心が強いジャンルに絞り、30秒動画でしたり、コラムを配信している話題のアプリですので社員一同存じ上げております、ねぇ桜井さん」
食い気味に入ってきた部長のフォローは、アプリの概要ページを読み上げたかのような説明口調で、普段であれば思わず吹き出しそうになるような、"ねぇ桜井さん"という念押しの威圧があまりにも強く、笑いを堪えることに成功した。
『はい、あまりにも人気アプリですので驚いてしまい言葉が詰まってしまいました、申し訳ありません』
「左様でございましたか、もしかしてご存知ないのかと思いご説明させていただこうかと思ったのですが、必要ないみたいですね。」
眼鏡に光が反射し、全く表情は読み取ることはできないが、口角の上がり方からみて、私のハッタリすら見透かされ確実に馬鹿にされていることは伝わった。
「もしご興味ありましたら、私の名刺のQRコードからご覧いただけますので。必要ないかもしれませんが」
この瞬間、私と藤川さんはビジネス上、対等ではなくなったのだ。
営業時代に得た交渉スキルを一つも活かすことができなかったばかりか、この短期間で全て私が部長の築き上げた対等なビジネスを殺してしまった。
にっこり笑顔で牽制してきた藤川さんは時計をチラチラ覗き込む。
そして、空白の時間が流れる。
壁掛け時計の音と、会社の外を走る救急車のサイレンだけがこの部屋を支配する。
1分にも満たない永遠とも感じられる空白は、部長の咳払いによって時を進めた。
「桜井さん、我が社とカワイイ研究室様とのコラボ企画を今話し合っていたところなんだけど」
『はい』
「鈴木さんを担当者にしたいから、今お茶淹れてくれてるのかな、変わってきてもらってもいいかな」
『…はい』
藤川さんの鼻で笑う音が聞こえた気がした。気のせいかもしれないけど。
別にいいんだ。なにもおかしくない。
なにより、鈴木さんの方が先輩だし、私はこの一瞬の駆け引きに負けてしまったのだ。
私を切り捨てて、先輩を入れる方が相手に期待感と安心感を与えられるため、藤川さんの目の前で、この瞬間に私を下ろす発言をすることに意味があるのだろう。
部長の判断は間違っていない。
『少々お待ちくださいね、お呼びいたします』
私、上手に笑えてるかな。踵を返してドアと向かい合う。
トントントンと呪いのようなノックが聞こえた。
「どうぞ」
部長が返事をし、立ち上がる。
「失礼します」
中に入ってきたのは、やっぱり意地悪な鈴木さんである。
「大変お待たせして申し訳ありません。藤川様、お砂糖はこちらでよろしいでしょうか。部長はブラックですよね。」
媚びるような笑顔で机にコーヒーを置いていく。
「空のコーヒーカップは下げときますね」
語尾にハートが見えるような喋り方は正直鼻につくし、私が用意した砂糖なのにとか、いちいち行動を口に出すなとか思うことは沢山あったが、この際どうでもよかった。
「ありがとう、鈴木さん。ちょっとこっちにきてくれる?」
とぼけた顔をして近づく鈴木さんを、ただただ眺めることしかできない。
そうか、これが悔しいということなのか。とどこか他人事に考えている。
「桜井さん」
笑顔の部長が私に近づき、肩を叩く。
「申し訳ないんだけど、このコーヒーカップとか片付けてもらってもいいかな」
もしかして…と思った自分が恥ずかしい。鈴木さんからカップをたくさん乗せたトレーを受け取る。
『かしこまりました、失礼致します』
笑顔で返事をし、頭を下げる。
「ありがとう」
と言った部長は私にだけ聞こえる声で囁いた。
「あなたって本当に面白くない人間ね」
私はにっこり微笑み、部屋を後にした。