護衛者の心労
この大陸が、いくつかの国に分かれていたのは、まだ二十年ほど前の事だ。
大陸中央から南に広がる大森林地帯と、鋭利な刃物のように切り立った険しい渓谷。
魔術を使える人々が多くなってもなお、人間はその大自然に太刀打ち出来はしなかった。
その大自然の周囲に沿う形で、国々が形成されていった。
長い歴史の中で、最も古く、そして最も異質な国が一つ。
北東の『レクイエム』。
隣国との境界に『レクイエムの壁』と呼ばれる長大かつ堅牢な壁を築き、古くから他国と関わらず存在していた、未知の国。
それが破られた事件が、突然起こった。
そしてそれが、大陸中を巻き込む大戦の始まりであった。
最初の出来事は、よくある話だった。
うだつの上がらない記者がスクープを狙い、危ない橋を渡った。
そんな小さな野心からだった。
詳細は明かされていない。
隣国のトロイメライ帝国の一人の記者が、不可侵であるはずの壁を越えてレクイエムに入り込み、
処刑された。
その事実のみトロイメライ側に通達された。
侵犯行為を咎める形で。
そこから先、両国でどのようなやり取りがあったのかは、他国には伝わっていない。
何しろーーー
処刑の通達からわずか数週間後、トロイメライ側の壁付近で大規模な暴動が発生した。
壁の一部が破壊され、暴徒が数名レクイエム国内に侵入。
その際に、レクイエム国の幼い少女が、拉致された末に惨殺されるという事件が起きてしまった。
これが、戦争の始まりだった。
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聞き馴染みのない言葉の後に、チカチカと光ったあの青い火花を、トゥシャルレイは知っていた。
一週間前、妹を探しに首都を飛び出した先でラインに会った時に、何度か見たものと同じだ。
なので、四階建ての建物の屋上まで二人が飛び上がっても、あまり驚かなかった。
それよりも。
「どうして、リンゴの人がラインをあんなふうにするんだろう」
呟くトゥシャルレイに、横に並んだロベルタが眉を寄せる。
コクト・アッシュグレイ。
それがあの壮年の男の名前だ。
そしてクティルナード家で、現在は執事という立場にある、ロベルタが最も敬愛しているナギ・ナイトブルーと同郷である。
トゥシャルレイが屋敷を抜け出し、すでに首都から離れてしまったと知るや否や、先ほどのように突然現れ、刀でナギを容赦なく殴打した。
「……お嬢様は」
ロベルタはやや顔をうつむかせた。
「何故、コクト様よりもあの請負人の男を気に掛けるのでしょう?」
「え?」
トゥシャルレイが振り向く。
リンゴの人。
トゥシャルレイがそう呼ぶほどに、コクトは三月に一度は木箱いっぱいのリンゴを持って来る。
この首都の市場でも見ないほどに、鮮やかに赤く艶やかな、そして甘い果実。
ロベルタが屋敷で働き始めた頃には、コクトは届け続けていた。
言葉を交わす事は少なかった。
軽い挨拶程度。
それでも、毎年何回と顔を合わせてきた。
それなのに、そのコクトよりも、あのライン・ウィスカニアという一介の請負人を気に掛けているように見えるのが、ロベルタには不可思議で仕方ない。
「何故って言われても」
トゥシャルレイは口を曲げて考え込んだ。
「なんとなく?」
「なんとなくって……助けてもらったから、なんてありきたりな理由ですか?」
「それもあるかもしれないけど」
そう言って、トゥシャルレイは上を見た。
降りて来る様子はない。
「じゃじゃ馬だのお転婆だの言われたし、素っ気ない感じもしてるけど……何か……何なのかはわからないけど、何かを気遣ってくれてるって思うの」
「…………」
なんて鋭い。
表情はそのままに、ロベルタはこの少女の感覚の鋭敏さを痛感した。
「……お嬢様、とにかくお屋敷にお戻り下さい」
「え、だってまだ二人とも降りて来ないじゃない」
「コクト様は先に戻るようおっしゃっていました。待つ必要はございません」
「それはロベルタに言ったんでしょ?」
「違います。お嬢様にも、です」
「言われてない!」
どうしてこんなにも頑ななのだろう。
ロベルタは内心焦った。
「待つ必要などございません。先ほど『何もなかった』と言われていたでしょう?」
「それだけしか聞いてない。私はもっと詳しい話が聞きたいの。何が手掛かりになるかわからないじゃない」
ロベルタは苦い顔をして押し黙った。
主人のレイクとナギから、護衛兼お目付け役を仰せつかっているとは言え、一介の使用人に過ぎない。
以前の家出の時のように、明らかひ厳罰を必要としない限り、これ以上強く手を引く事は出来ないのだ。
その押し問答をしている様子を、屋根の上から外套をなびかせながらコクトが見下ろしていた。
指先をパチン、と鳴らし、クツクツと低く笑い、背後のラインを見やる。
「良かったなぁ?お嬢様がお前ともっと話したいんだとさ」
「……何でこの距離の声が聞こえるんだよ」
二階建ての建物ならまだしも、ここは四階建ての屋上だ。
確かにトゥシャルレイの声は少女特有の高さで通りやすい。が、到底、会話内容を聞き取れる距離ではない。
コクトは体ごと振り向き、フン、と鼻を鳴らした。
また指先をパチン、と鳴らす。
『魔術で音の波を届かせてる』
「!」
すぐ耳元でコクトの声がし、ラインはゾワリと体を震わせ、思わずその場から飛び退いた。
自分がいた場所の隣には、誰もいない。
コクトは変わらず、トゥシャルレイたちを見下ろせる屋上の端にいる。
『お前の師匠も独自の魔術を開発してたろ。鍵開けだの何だの。
これは俺と宮廷魔術師だった奴とで開発した、戦略のための補助魔術だ。使う魔力の量も少ないから、魔術師相手にもバレにくい』
「隠密任務か?元近衛兵団長のアンタが?」
移動したと言うのに、コクトの声がまだ耳元で聞こえる。耳を押さえても無駄のようだ。
正直言って不快だったが、対抗策が思いつかない。せいぜい嫌味を言うしかなかった。
しかし、『憤怒』の名を持つ彼には多少の効果はあったようだ。
小馬鹿にした声が一変、苛ついた声になる。
『……斥候部隊が敵陣付近まで接近、この魔術を使って味方本陣に敵軍の正確な距離・配置・状況をリアルタイムで伝達。
本陣の魔術師たちが斥候の情報から、敵陣には認知不可能な遠距離から殲滅用の魔術を一斉にぶち込む。
軍の規模で圧倒的に不利だったレクイエムが、トロイメライだけでなく連合軍まで相手取って大戦末期までもった理由の一つがこれだ』
まくし立てるように言い、コクトは指を鳴らして魔術を切った。
確かに、ごくごく微弱で、違和感程度の魔力しか感知できなかった。意識しなければまずわからないだろう。
コクトは口を真横に結んで、ラインをじっと睨み付けた。
ややあって、憤り混じりのため息をもらす。
「俺の戦友は、その斥候部隊にいたんだ」
「……何度言われても、知らないものは知らない」
「…………クソが」
低く吐き捨て、コクトは手にした刀の鞘のこじりで、地面を小突いた。
瞬時に、コクトの姿が消える。
重力緩和や操作の魔術で去ったのではない。
それは確かなのだが、果たして結局何なのか、それはまだ彼の口から告げられていない。
ラインはふらりと、足を前に出した。
相変わらず、ナギとは異なり圧迫感が凄まじい相手だ。
心持ち体を引きずるようにして、ラインは先ほどコクトが見下ろしていた位置まで来た。
トゥシャルレイはーーーまだ、そこにいた。
帰宅を促すロベルタに、一歩も引き下がらずに食ってかかっている。
その様子に、抑えていた感情が体の奥底で騒ぎ出す。
たったこれだけの事で。
だから『封印』していたと言うのに。
「…………」
深呼吸ひとつ。
ラインは宙に身を投げた。
「帰りますよ、お嬢様!」
「嫌!待つったら!」
もう互いに理由を言い合う余裕もないらしい。
帰る、待つ、の応酬しかしていない。
「……【code: a0d8ef=skB】
「え?」
ラインが重力緩和の呪文を呟くと同時に、トゥシャルレイが顔を上げる。
まん丸に見開いた碧眼。
それを見て、そう言えば、と思い出す。
彼女のあの晴れた夏空のような青い瞳を、しっかりと見たのは、十年も経ってからだった、と。
やや離れた位置に着地する。
すると、トゥシャルレイが駆け寄ってきた。
「ライン!」
名を呼ばれただけ。
感情を『封印』していないだけで、ここまで動揺してしまうのか。情けない。
「ねぇ、ラインはリンゴの人と知り合いだったの?」
「リンゴの人って……」
先ほども一度聞いたが、どうにも信じられずに、ラインは思わずロベルタを見た。
今にも頭を抱えそうなロベルタと目が合う。
彼女は、ラインを苦々しそうに見た後に、渋々と頷いた。
「……いつもお屋敷に来られる都度、木箱いっぱいのリンゴを持って来られるので」
「いつも?」
「ええ。おそらく今日も、お屋敷にすでにあるかと」
トゥシャルレイを見る。
彼女の様子見の口実だろうか?
「ねぇ、知り合いなの?」
「知り合い、と言うか……」
説明が難しい。
彼女の屋敷の執事であるナギとの関係以上に、何と表したら良いのか。
ラインはしばらく考えた。
「俺の師匠の知り合いで…………会うたびにぶん殴られる」
「何それ?」
「これ以上の説明が難しいから、もう無理やり納得してくれ」
投げやりに言うと、トゥシャルレイは疑問顔をさらに深めた。
そしてそのすぐ後、また驚いて目を丸くする。
どうした、と言うより先に、ラインは気付いた。
自分の右手が、トゥシャルレイの栗色の髪の上に乗っている。
ラインも目を剥き、慌てて引っ込める。
「悪い……!」
「うぅん。……ちょっとびっくりしたけど」
トゥシャルレイは、触れられていた頭を自分の手で撫でた。
手を置いていただけなので、乱れてはいないのだが……男に頭を触られるなど、嫌に決まっている。
しまった、と目を逸らす。
その先にいたロベルタが、先ほどよりもさらひ目を据わらせてラインを睨んできていた。
いたたまれず、トゥシャルレイから二歩ほど距離を取る。
トゥシャルレイはまだ、目をパチパチさせながら自分の頭を撫でていた。
「……お嬢様」
ロベルタが口を挟む。
「お屋敷に帰りましょう。コクト様のリンゴもあると思われます」
「またロベルタが剥くの?」
「…………ナギ様がお忙しければ」
バツが悪そうに言うロベルタを見て、ラインは察した。
「俺が何か作ろうか?」
「えっ!」
振り向いたトゥシャルレイの顔は、期待に満ちていた。
「パティシエが作るヤツみたいな、見栄えする華やかなものは出来ないけどな」
「良い!作って!」
即答。
やっぱり、と思ってラインはロベルタを見た。
彼女は今度は、口惜しげに肩を落としていた。




